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疲労は確実にシエルに蓄積されていた。顔は浮腫み、寝不足で頭は重く、腕がパンパンになっている。錆びついた頭でナヴィットからの追及をどうにか逃れてきていた。そして、やっと裁判3日前。


「どうして本館に居たのか」というお決まりの質問に「図書室へ本の整理をしに」と答えた後、ナヴィットが小さな花束を差し出してきた。


「そんな警戒されると悲しいねぇ。お嬢ちゃんの誕生日が近いってきいたんでね、受け取ってくれるかい?」


花とナヴィットを見比べて、恐る恐る受け取る。淡い橙色の八重咲きの花と、かすみ草だった。橙色の花はどこかで見た気がするが、名前は分からない。


「いいえ、誕生日は近くありませんが、有難くちょうだい致しますわ」
「おや、そうかい?ちなみに誕生日はいつなんだい?


もうすぐ死罪になるであろう自分に誕生日を尋ねるナヴィットを怪訝な表情で見つめながら応えた。このことを次の日に後悔する事になるとは、この時は露ほども思っていなかった。



そして、裁判2日前。背中が軋むように痛く、頭もぼんやりとしていた。ナヴィットが尋ねてきた頃には、朝よりも頭がハッキリしてきていたが、吐き気が込み上げてきていた。堪えながら、どうにか質問に答えていく。


「お嬢ちゃん、今日は少し上の空だな。裁判を前にして怖気付いたか?それとも、何か助けが来るあてでもあるのかな?」


顔を上げると、目を細めたナヴィットが不気味に笑っていた。たらりと額を汗が流れる。もう口を開くのも億劫だ。


「それは本気で言っているの?私を助けようなんて物好きがいるわけないでしょう」
「あぁ。調べたが、お嬢ちゃんは貴族社会には存在しないことになっている。妾の子、つまり庶民だ。だが、俺はずっと気になっていたんだ。なぜ妾の子をあのドレーンの旦那が婚約者の代わりとしようとしているのか。そしてこんな裁判沙汰になってもその考えを捨てもせず、かといって、お嬢ちゃんを助けもせず、たた放置しているだけなのか」


ナヴィットと目が合う。心臓はバクバクと音を立てている。シエルは焦点のぼやけた意識をどうにか集中させてナヴィットの言葉の続きを待つ。


「奇妙だろう?しかし、もっと奇妙な噂を耳にしたんだ。ドレーン伯爵家の娘はだったと。ナハル令嬢の誕生日は、直ぐに分かったが、お嬢ちゃんの誕生日は、貴族の誰に尋ねても「知らない」という。ドレーン伯爵も教えてくれない。昨日お嬢ちゃんが教えてくれた誕生日はいつだったかな?」
「た、たんじょうび?」


頭がぐらんぐらんと揺れている。ナヴィットの声が遠く、変な風に聞こえる。音が意味をもたず、耳からすり抜けて言ってしまう。身体を支えきれず、床に倒れ込んだ。


たんじょうび、誕生日か。だれの誕生日の、はなしかしら。きみ?君って、わたし?き、きのうこたえたはずよ。え、えぇ。そうよ。


自分が何を話しているかわからない。恍惚境に入り込んだ意識が溶けていった。





 



その夜。目を覚ますと、ナヴィット達の姿は消えていた。床に倒れ込んでいたらしく、頬にざらついた砂が食いこんでいる。手で払いながら起き上がると、頭が傷んだ。気休め程度にぐりぐりと頭のツボを押す。


周囲を見回すと、バスケットが置かれていた。中を見ると、いつも通りパンと豆のスープだった。干し肉があるだけ今日はマシだった。お腹は空いていたが、胃がムカムカしているから、豆のスープだけ流し込んだ。


明日が脱走の決行日。ここで手を止める訳にはいかない。ただ脱走することだけを一心に作業を開始した。ポタッポチャッ。水滴が落ちる音だけが、静けさを遮る。月明かりが入らなくなり真っ暗になったところで、薪を組み火をつけた。そして、すぐに作業に戻る。


薪の火が弱まり、燻っているだけになった。そして空が白みはじめた時、やっと終わりが見えた。手が震え、目が霞むなかで、最後のひと針を通す。


「出来たわ!やっと完成したわ。これで自由になれる!」


ぎゅっと布を胸に抱く。夜通し縫い続けた甲斐あって予想より1鐘分近く早く終わらせることが出来た。広げると、大人が寝転がれる大きさの絨毯のようだった。地面に置いて刺繍の模様を確認する。ここで少しでもミスがあれば、台無しだ。


シエルは、浮く布を研究の正式用語としてPalast Holzfaden baumと名付けることにした。つまり、空飛ぶ絨毯(魔木製)だ。


今回は、以前作った植物紙と違い、浮く魔術式は省いた。時間短縮の意図もあるが、糸自体が浮く性質を持っていることと、浮く魔術式が糸とどう作用し合うか分からないからだ。移動先の情報も不要にした代わりに、移動する魔術式に改良を施した。空間移動の魔道具は、移動先が固定しているため、目的地へ向かって効率よく移動するように魔術式を組んである。つまり、決められた目的地へ最短経路を行く。


が、今回作った魔道具ではどのくらい移動できるか、どこへ向かうか、そもそも人を乗せてちゃんと浮くか、全てにおいて賭けである。だから、速さと向きを自分で変えられるようにした。速さは魔力の流れを抑制することで調節出来る。流れを抑制するために、魔術式を複数用意して操作して切り替えられるよう改良を施した。


ただ、問題は「向き」だった。風の影響があるから細かく操作する必要がある。魔道具は本来同じ動作を繰り返すための道具だ。大勢の人が簡単に使える必要がある上に、簡単な繰り返し動作でなければ、魔法使い以外には扱えないからだ。これをどう解決するか。


時間との兼ね合いを考慮すると、4方向へと魔力を流し、その流れる魔力の量を調整できるようにするのが精一杯だった。サミュエルに頼んで、風の魔導具を何でもいいから手に入れてもらうことにした。


風の魔導具には、枯葉を集めたり家を掃除したりするための弱い巻き風が出るスクパ、温風、冷風を出せるセルモ、乾いた強風がでるオラノなど用途に合わせて色々ある。



今回は、高品質のスクパが望ましいが、手に入っただろうか。染みが広がるように不安がどんどん広がっていく。もしサミュエルが風の魔導具を手に入れられなかったら、サミュエルが門番に見つかってしまったら・・・・・・。考えれば考えるほど、不確定要素が多く穴だらけの計画だと明らかに分かる。無謀だが、立ち止まる訳にはいかない。


シエルは、サミュエルが来るまでの間に、準備を終わらせておくことにした。

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