8 / 28
8
しおりを挟む「わあ……」
朝食後、気分転換を兼ねて庭を散歩していた私は、眼前に広がる光景に感嘆の息を漏らした。
うさぎや犬、牛、馬……。
ちょうど飼育小屋の清掃時刻だったようで、何匹もの動物が、柵に囲われた放し飼いのスペースに放たれている。
「お、奥様!?」
「見ているだけだから、気にしないで作業を続けてちょうだい」
私の姿に気付いた使用人たちが、ざわついてしまった。申し訳なく思いつつ、動物を囲う柵に手を置いて、中へと視線を傾けた。
ぬくぬくとした日差しに照らされた犬が、桃色のお腹を丸出しにして大地に背中をこすりつけている。
「か、可愛い……」
猟犬のような見た目の厳つい犬から、もふもふとした長毛種まで様々だ。
牛や馬は静かに草を食んでいて、別の柵に囲われた中には、うさぎが寛いでいる。
「ここは天国かしら」
私のつぶやきを近くにいた使用人が拾った。人の良さそうな笑みを浮かべて、こちらに寄ってくる。
「奥様は動物がお好きですか?」
「ええ。お父様たちの目を盗んで、馬の世話をしたこともあるわ」
「それは素晴らしい!」
年嵩のいった男性は目尻の皺を深くして笑う。
「いいものをお見せしましょう」
ちょいちょいと手招きをしながら彼は犬舎のほうへと進む。
そのまま小屋の中へ通されると、そこには女性の使用人がいた。
「っ!?」
彼女は私の姿を見て驚きの声を上げそうになるが、どうにか堪える。何かに気を遣っているようだ。
「奥様、こちらをご覧ください」
祖父くらいの年齢の使用人に促されて大きめの木箱の中を覗くと、柔らかい敷布の上に産まれて間もない子犬が数匹入っていた。よく見れば、近くに母犬らしき姿もある。
「可愛い……っ」
私は手を口に当てて、興奮した声を殺すように告げる。
「でしょう。あちらには別の母犬が数週間前に産んだ子犬もいます」
「出産シーズンなのね」
根拠のない感想を伝えると、彼は「ははっ」と楽しそうに笑う。そして、扉を開けて別室へと通してくれる。そこでは別の使用人が犬舎内を清掃している最中だった。
足元には走り回る子犬たち。先ほど見た子犬たちよりも大きくて、ずんぐりむっくりして、手足も短い。
「わぁ……、か、可愛い……」
あまりにも可愛い存在を前にして、語彙の低下を感じる。
「抱いてみますか?」
「ぜ、ぜひ!」
彼は比較的おとなしそうな子犬を一匹抱き寄せて、そして、私に差し出す。
「抱き方は分かりますか?」
「はい、もちろんです」
ぬいぐるみのような白い子犬を抱くと、ずっしりとした重さと温もりが伝わってくる。
「可愛い……」
つい顔を寄せて頬ずりすると、子犬は四肢をばたつかせた。
「おっと、奥様。気をつけてくださいね」
「どうしてこんなにたくさんの犬がいるの?」
「このお屋敷は建物よりも庭のほうが広いので、警備の目的で訓練しております。まあ、それだけではないですが……」
人の良さそうな初老の使用人は困ったように笑って誤魔化した。
彼からは悪意を感じないので、耳に入れるような情報でもないと思われたのだろう。
「何か色々な用途があるのね」
実家にも私設の騎士団と共に、屋敷の敷地内を巡回する訓練された犬がいた。けれど、あまり犬舎へは行かせてもらえなかったから、何匹くらい飼っていたのか具体的には知らない。
公爵邸の敷地は広く、自由に歩き回るような雰囲気でもなかった。
(このくらいの大きさのほうが、住みやすくていいわね)
犬舎の窓から見えるヒュドル邸を眺めながら、私は嫌味にとられそうなことを思う。
ぼうっとしていたら、腕の中の子犬が足をばたつかせた瞬間、顎に小さな痛みが走った。
「奥様!」
彼は驚いた表情で私の抱く子犬を引き取ろうと手を伸ばす。
「え、まだ抱いていたいわ。だめかしら?」
赤子をあやすように腕を揺らすと、犬舎にいた別の使用人たちが怖々とこちらに目を向けている。
「奥様、顎を引っかかれています。痛くありませんか?」
「平気よ。子犬の爪は細くて加減もできないから、少し戯れただけで傷になるのよね」
腕の中で、ぱたぱたと尻尾を振りながら、元気よく動く子犬を大地に下ろす。
「みんな、そんな顔をしなくていいのに。よくあることでしょう?」
「儂らはそうですが……」
突然、犬舎の扉がノックされて開いた。ぎょっとした表情のアーファ様が顔を覗かせる。
「ペレーネ、探しましたよ!」
彼は足下から子犬が抜け出そうとしたのに気づいて、慌てて扉を閉める。
「こんなところで何をしていたのですか」
「散歩です」
「できれば、侍女を連れて散歩して頂けますか? 僕を含め、皆が貴女を捜していました」
「それは大変申し訳ありません」
抑揚のない口調で謝罪を告げると、一気に犬舎内の雰囲気が悪くなってしまった。
「ペレーネ。ここはどうしたのですか?」
彼は自身の顎を指さした。
「顎が痒くて掻いていたら、爪が引っかかってしまいました」
「痛くありませんか?」
「平気です」
さきほども同じ台詞を使用人から言われた。それなのに、どうして相手がアーファ様に変わると腹立たしく感じるのだろう。
私は戸惑う使用人たちに声をかける。
「お邪魔をしてごめんなさい。子犬を見せてくれてありがとう」
礼を伝え、私は犬が抜け出さないように気を付けながら、犬舎の外へ出た。
(せっかく楽しい気分だったのに台無しだわ……)
屋敷へと続く石畳の小道を歩いていくと、後ろからアーファ様が追いつき横に並んだ。
「犬が好きですか?」
つい無視したくなるけれど、そんな理由もないので、私は前を向いたまま答える。
「動物はどれも好ましいです」
「そうなのですね。馬にも慣れていたので、もしかしたらと思っていました」
「…………何かご用でしたか?」
「あ、そうでした!」
アーファ様は歩みを止め、私のほうへ身体ごと向き直った。
「採掘現場の責任者を選抜するために、公爵家から選定員が派遣されることになっていたのですが、ご存じでしたか?」
「はい。現地の状況や領地内で雇う人員を視察して、誰が適任か決める方ですよね?」
「その選定員の方が王都からお見えになりました」
「それは初耳です」
こういうときは事前に手紙などで連絡がくるはずだ。しかし、そんな話は聞いていない。
どうやらアーファ様も少々戸惑っているようで、眉を下げて頷く。
「予定ではもう少し先に訪れるはずだったのですが、他の予定が早々に済んだらしく、そのままこちらに移動されたそうです」
「多忙な方なのですね……」
アーファ様は再び歩き始め、屋敷の正面玄関側に向かう。私は客人が使用する馬車停めを見て、見覚えのある馬車に息を呑んだ。
「まさか!」
思わず駆け出し、玄関扉の前に立つ人物を視認する。相手も私に気が付いたようで、振り返り片手を上げた。
「おにいさま!」
出迎えの者や、彼が伴ってきた部下の横を通り過ぎて駆け寄る。
「ペレーネ。結婚したのだから、もう少し淑女らしい行動を心がけなさい」
「だって! まさか、おにいさまが来るなんて思いもしなかったから!」
呆れた表情の青年は、私の突然の動きに追いついたアーファ様へ目を向けた。
「伯爵。ペレーネを探してきてくれてありがとう。どうやら迷惑をかけていそうだね」
「いえ……、そんなことはありません」
アーファ様は訝しげな眼差しで私を見た。
「どうして、おにいさまとお呼びするのですか?」
「彼は従兄ですが、兄の親しい友人なのです。幼い頃から、よく我が家に遊びに来ていました。だから私にとっては、もう一人の兄のような存在です」
「幼い頃からそう呼んでいたのですか?」
「はい」
「呼び方を直すように伝えているのに、直らないんだよなぁ……」
従兄は軽口を叩きながら私の頭を撫でる。
彼の名はルイ゠ジリアス。国王陛下の上の弟、ジリアス公爵の三人目の息子だ。
「だって、お兄様よりも、おにいさまのほうが私に優しくしてくれるんですもの」
「調子がいいな」
彼は私の顔を見ながら苦笑し、ふと一点に視線を縫い止めた。私の顎に長い指が触れて顔を上向かせる。
「これはどうした?」
「子犬に頬ずりしていたら引っかかれました」
「相変わらずだな……」
おにいさまは笑いを噛み殺し、上着のポケットから小さな瓶を取り出した。切り傷などに塗る薬用の軟膏を差し出す。
「これでも塗っておけ」
素直に受け取ると、彼はぐるりと屋敷内を見回した。
「で、ヒュドル伯爵。どこで話をする?」
「あ……、失礼いたしました」
アーファ様は侍女に応接室へ通すように伝え、おにいさまは微笑みを残して去っていく。
その背を見送っていると、アーファ様は私をちらりと見やった。
「ペレーネ。服を着替えてきてください。……犬の毛が付いています」
「犬の毛?」
そう言われて、自分自身を見下ろすと、短毛種の白い毛がたくさん服に付着している。絶対に従兄は内心で笑っていただろう。
「僕はジリアス公爵令息にお渡しする書類を用意してきます。貴女は彼の対応をお願いいたします」
「かしこまりました。おにいさまは晩餐もこちらで?」
「はい。予定していた滞在先がまだ整っていません。今、急ぎ準備をさせています」
「おにいさまったら、伝令の一つくらい寄越せなかったのかしら……」
几帳面なはずなのに、いい加減な面もある。そんな性格を思い出して思わず頬がほころんだ。
「一晩、当家に宿泊され、翌朝に用意した屋敷へ移動されるそうです」
「だから皆、忙しそうなのですね」
突然の訪問客に屋敷内はてんやわんやしている。
相手の素性も王族に連なる血筋であるがゆえ高位だ。もてなす経験も少ないのかもしれない。
私は近くにいた侍女に、思いつく限りの従兄が好む食事を伝えた。
毎日美味しい食事を提供してくれる料理長のことだ。限りある中でも、きっと場に相応しい食事を用意してくれるだろう。
「ペレーネ」
なぜかアーファ様は少しだけ不愉快そうだ。
「どうして、その傷が犬に傷つけられたものだと教えてくれなかったのですか?」
一瞬なんのことか分からなかったが、顎の引っかき傷について言われているらしい。
「あの場にいた者を咎められたり、犬舎に行くのを禁じられたりしたら嫌だと思ったのです」
「僕はそんなことしません……」
「そうですか。では、次からは素直に答えます」
私は適当な返事をして頭を下げる。
腑に落ちない表情を浮かべるアーファ様と目が合ったけれど、訊ねるのも面倒で、私は着替えるために自室へ急いだ。
287
あなたにおすすめの小説
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました
kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」
王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる