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プロローグ

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 ぱちゅん、ぱちゅんと粘着質で卑猥な水音が響いている。
 静かな空間に肌を打ち付ける音が響き、男女の荒い息遣いが耳に届く。

 大きな栗色の瞳が彼らの営みを見始めて数秒。
 湧き起こる黒い感情は、みるみる内に胸を占めていった。
 今まさに、頭に血が上るという言葉を体感している。
 鼓動は忙しなく早鐘を打ち、喉の奥が締め付けられているように苦しい。

 そっと重厚な木の扉を押し開けた。二人は後方で開いた扉に気付かない。
 行為に夢中なのだろう。
 臀部をつき出した女に、男は後ろから腰を振りたくる。女は嬌声を堪えて口を手で覆う。

 ああ、憎たらしい。

 足元に届く長さのケープローブを外し、栗色の長い髪がパサリと背に落ちた。

 衣擦れの音に気が付いた二人は、ようやっとこちらを見た。
 そして驚愕の瞳をこちらに向けて固まっている。
 情事を誰かに目撃されると思ってもいなかったのだろうか。

 驚いた女が身じろいだ瞬間、男は「うっ……」と小さく呻き顔を顰めた。
 彼は女の中で果てたようだ。

「この館は使用人同士の男女交際が禁止されていたはずだけど?」

 腕を組み、蔑むように彼らを見つめる。
 女は慌てて長いスカートを整えた。男は女を背に隠しながら、己の昂ぶりを下衣の中に仕舞う。

「も、申し訳ありません! どうかお許しを」

 男の前に突然現れた横柄な態度の女。
 自分よりも立場が上の人間だと瞬時に理解したようだ。
 男は女を庇いつつ、頭を下げる。

 ここは、この国で二番手の権力を持つ貴族の館。
 ペンタス公爵家の使用人エリア。
 館の裏側にあたる勝手口の一つである。狭い通路のため、使用人は別の勝手口を使うことが多い。

 周囲を照らす明かりは少なく、その頼りない明かりと月の光を頼りに情事に励んでいたようだ。

「許すか否かは貴方が判断することではないのよ。貴方如きが赦しを乞うなんて傲慢ね」

 にっこりと微笑むと男は訝しげな瞳を返してくる。

「それに……あの女は謝罪をしていないわ」

 男の背に隠れていた女はびくりと身を震わせた。慌てて彼の一歩後ろから頭を下げる。

「ねえ、謝罪は誰かの影に隠れてするものなのかしら?」

「も、もうしわけっ」

 鋭い視線に震え上がり、言葉が出てこないようだ。
 男は庇うように再び彼女を背に隠した。そして睨むようにこちらを見やる。

「そういう態度は嫌いじゃないけれど、相手を見てやった方がいいわよ」

 ドンと足元が下から突き上げられるように震えた。
 男の体は宙に浮かび、そのまま館の石壁に叩きつけられる。

「きゃあ!」

 女の悲鳴が大きく響いた。

 ようやっと館の中にいた誰かが事態に気付いたようだ。複数の足音が近づき、先ほど開けた扉から使用人たちが姿を現す。
 そして皆一様にその動きを止めた。

 ケープローブを纏い、長い髪を揺らす美貌の女。
 壁際には膝をついて身を起こせない男と、縋りつき泣いている別の女。
 状況が飲み込めないのも無理はない。

「ダ、ダリアお嬢様!」

 使用人の間をかき分け、一人の侍女が走り寄る。
 その言葉に目を瞠ったのは情事に耽っていた二人だった。
 この公爵家にはたくさんの使用人が働いている。
 主人の顔を見たことがなく、その姿を知らない者は少なくない。

 見慣れた侍女を視界に捉え、ダリアと呼ばれた令嬢は壁際の二人を指差した。

「キーラ。この二人を牢に捕えなさい。この場で情事に励んでいたわ。使用人のレベルが落ちているのかしら。お父様にご報告する前に、きちんと皆に周知しなくてはね。規則を破ると罰を受けなくてはならないこと」

 ダリアは集まった使用人をぐるりと見渡す。
 彼女の冷たい眼差しに彼らは震え、頭を下げて壁に並ぶように寄った。

 栗色の長い髪はふうわりと翻り、髪と同じ色の瞳は長い睫毛に縁どられ秀麗。
 男はダリアを瞳に映したまま、壁に叩きつけられた痛みを堪え立ち上がる。
 彼はダリアを高位の侍女か何かだと勘違いしていた。
 遠慮のない男の視線にダリアは眉を寄せる。そして、ダリアの視線は情事の相手である女に向いた。

 彼の脇を支えるように立ち、高位令嬢の視線に怯えているのか、女は視線を伏せたままだ。
 ダリアの視線はついと下がり、女のスカートから覗く足に向いた。
 白濁とした汁が一筋伝っている。
 男とダリアの手が動いたのは同時だった。

 ばしりとダリアは女の頬を打った。
 その力強さに女は転倒し、身体は叩きつけられるように大地に伏せる。

「この女は謝罪がないのだもの。貴方たちは今すぐにでも、罰を受けるべきね」

 ダリアはにっこりと微笑み、女を庇いそこねた男の頬も強くぶった。男の体は宙を舞い大地に落ちる。
 周囲の使用人たちは息を飲む。
 
「早く連れて行きなさい」

 ダリアの苛立った声音を耳にして、ようやく使用人たちは我に返った。慌てて動き始めた使用人たちの間隙を縫って、ダリア専属の侍女キーラは、気遣わしげな表情で彼女の隣に立つ。

「お嬢様、お部屋に戻りましょう」

 ダリアは首肯を返し、その場を後にした。
 その後、情事に耽っていた男女は二人別々に投獄されたのだった。
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