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4 それは三か月前のことだった

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 白銀色の満月が輝く夜だった。

 公爵家の敷地には大きな湖を隠すように林が茂っている場所がある。
 めったに人の来ないこの地は、歴代公爵たちの能力で見張られていると専らの噂だった。
 何か隠されているのかもしれない。そう誰もが思っていたが口には出さない。
 公爵家の秘密を知ることは、この世での生を諦めることになるからだ。

 そんな林へ伸びる道を侍女の制服を着た女が一人歩いて行く。
 深夜、誰もが寝静まった頃、月が雲に隠れた僅かな隙に彼女は館を抜け出し湖を目指した。
 雲間から差し込む光が湖を浮かび上がらせている。
 幼い頃一度だけここに来たことがある。例えようもない畏怖を感じ、この湖にはそれ以来訪れたことはない。
 けれど、この場所以外に思いつかなかった。
 得体の知れない畏怖はもう感じず、胸奥を占めるのは、この世界から消えてなくなりたい。そんな思いだけだ。

 十八歳になったダリアは笑うことが出来なくなっていた。
 父のような無表情は難しい。笑顔を作る方が簡単だ。
 自分の容姿は見る者を魅了する類のものだと自覚している。笑えば相手も油断する。
 それなのに、今は笑うことさえ難しい。

 ダリアは靴を脱いだ。
 湖に一歩足を踏み入れると突き刺さるような冷たさを感じる。

 今晩の職務は精神的に堪えた。
 公爵と影の職務を共にするようになって三年。
 王家に反逆しようとする貴族は少なくない。その一族や支持する者たちを秘密裏に消していくのは、ペンタス公爵家の特殊能力を持つ者の責務だ。
 しかし、ここ数年その対象者が増えていた。
 父の能力は無尽蔵だ。やろうと思えば一度に多くの命を奪えるが、それでは痕跡が残ってしまう。

 だから彼は、ダリアが十五になった歳から、娘を同行させるようになった。
 父も同じ年齢から前公爵の手伝いをしていた。
 当然の至りだった。
 けれどダリアの仮面は崩れ落ちそうになっている。

 今日殺した貴族の中には小さい子供もいた。自分にも家族がいるように、彼らにも家族がいて、どれほど王家にとって悪人であろうと、彼らも誰かにとっての大事な人。
 我が子を守ろうとする姿が眼裏に張り付いて消えてくれない。

 ダリアは足首を湖の水に浸したまま、己の掌に不可視の力を込めた。そして自分の胸に向かって放つ。
 しかし白い光は粒となり、霧散して消えた。
 何度やっても結果は同じだ。この力は自分自身には使えない。

「はあ…………」

 長く深い溜息をついて、ダリアはその場にしゃがみ込む。スカートは水の中に浸り広がった。
 この能力で己を殺せないのなら、他の方法で殺すしかない。
 耳に残る子供の悲鳴が背中を押しているようだ。

 ペンタス公爵家に伝わる能力は、相手に苦痛をもたらすもの。
 逆に王家は癒しの能力を受け継いでいる。
 彼らが聖ならばペンタス公爵家は闇や悪だ。

 苦しめる事なく、一思いに殺してしまえるならばそうしていた。
 溢れる罪の意識はダリアを日々苦しめる。
 ダリアは湖の中をもう一歩進んだ。冷たい水の中でなら、死ねるかもしれない。

 王家はダリアの成人を機に婚約を打診してきた。
 この血を強固なものとして、この先も続かせていきたい。そんな意図があっての婚約。
 何故、こんな力をずっと継いでいくのだろう。
 貴族は特権を与えられている以上、その特権を、守るべき民に使わなくてはいけない。
 ダリアは父からそう教えられてきた。

 常に無表情な父だが、彼は過去にダリアと同じ疑問を抱かなかったのだろうか。
 抱いていたから、心を閉じ込めてしまったのだろうか。
 父の深奥は触れることも叶わない。
 同じ能力を持っているのに、この世界にダリアは独りぼっちのような気がした。

 ダリアは溢れる涙を拭うこともせず、もう一歩踏み出した。
 ぱしゃぱしゃと水が跳ねる音がする。
 耳の奥に膜が張っているようで、全ての音が遠く聞こえる。
 そんな音すらどうでもよく、何かを考えることすら億劫だ。
 腕を力強く引かれ、ダリアは唐突に我に返った。

「危ない!」

 慌てた声が響き、誰かに引き寄せられる。
 冷え切った足はすぐには反応できず、ふらついてしまう。
 あれよと言う間に抱きかかえられ、湖から引き上げられてしまった。その人は上着を脱いでダリアの肩にかけてくれる。

「貴方は、誰……?」

 月が雲に隠れ、暗くて顔がよく見えない。

「あ、えっと、俺はバレリアン。苗字はないんだ。君は侍女の制服を着ているから、どこか貴族家の出身だったりするのかな」

 あははと彼はわざとらしく笑っているが、内心は凄く焦っているようだ。
 湖の中心を目指し歩いていた侍女の姿を見て、自死以外思い浮かばなかっただろう。
 何をどう話そうか、脳内が忙しく動いていそうだ。

「俺は初めてここに来たんだけど、月が出ないと暗いし、湖にも気付かないよね! 危ないから二度と来ない方がいいと思う!」

 二度と、を強調したのはわざとだろうか。

「貴方、初めてここに来たの?」
「う、うん。あの、規則を破っているのは自覚してる……けど、出来たら内緒にして欲しいな」

 また彼は誤魔化すように笑う。

「本当は満月が見たかったんだ。低木や障害物が月に被らない位置で見たいと思って、空を見ながら歩いてたら、公爵家の庭は広いから迷った」

 恥ずかしそうに笑う姿は、青年の容姿を幼く感じさせる。
 そうしている間に雲が揺らぎ大きな月が姿を現し始めた。湖にその姿を映し、眩い光が湖面に反射して、その場を輝かせていく。
 一気に湖周辺が明るい場所に変化してしまった。

 バレリアンは湖の縁に靴が脱ぎ捨ててあるのに気付いた。小走りで靴を取りに行き、すぐに戻ってくる。

「どうして……」

 ダリアの言葉尻は消えてしまう。どうしてもそれ以上が続けられなかった。
 涙が溢れて止まらなくなってしまったのだ。
 どうして助けたの。どうして止めるの。どうして必死になるの。

「ねえ、君は何が好き?」
「え?」
「俺はほら、犬が好き」

 彼は唐突にハンカチを取り出し広げて見せた。そのハンカチの端には可愛らしい犬が刺繍されている。

「はい、どうぞ」

 バレリアンはダリアの頬を伝う涙を拭き、ハンカチを手渡してくる。
 つい受け取ってしまったが、どうしたらいいのだろう。困惑していると、彼は頬を緩めて笑った。

「食べ物は何が好き? ペンタス公爵家って、使用人への食事がとてつもなく美味しいと思わない? 俺、貴族の家で働くのは初めてなんだけど、こんなに待遇がいいとは思わなかった」
「……そ、そうなんだ」
「で、何が好き? 甘いものは?」
「えっと、パンケーキにリンゴが挟んであるデザートが美味しかったわ」
「そうなんだ! 果物は高いのに、公爵家は凄いなぁ」

 バレリアンはそれ以降も次々と質問を重ねていく。何十問か答えて、ようやく彼がダリアを楽しませようとしていることに気が付いた。
 ダリアは胸の奥にじんわりとした温もりを感じて、そっと胸元を抑える。

「どうしたの?」

 バレリアンは不思議そうに首を傾げている。彼のそんな仕草一つ一つが、何故だか気になってしまう。

(不思議ね。目が離せない……)

 不意にダリアの脳裏に鋼を打ち鳴らすような感覚が伝わった。ダリアは慌てて館を振り返り、意識を研ぎ澄ませる。
 どうやら父が能力を使っているようだ。
 何かを捜すように、公爵家の敷地全体に広がっていく気配。彼はダリアを捜している。

「もう戻るわ」

 ダリアは立ち上がり、バレリアンに上着を返した。
 突然の動きに彼は驚き狼狽えている。

「貴方も早く戻った方がいいわ。見つかったら罰を受けてしまうから」
「う、うん。でも」

 彼はまだダリアを心配しているようだ。
 初対面かつ得体の知れない人間を、そこまで心配出来るなんて。
 ダリアは自分にはない感覚だと心の中で苦笑する。

「次に会う時は貴方の好きなものを教えて。今夜は私の話ばかりしてしまったわ」
「……うん! もちろん!」

 ダリアはバレリアンと別れ、館を目指し駆けていく。
 ふと、手にハンカチを握りしめていることに気が付いた。しかし彼の元に戻っている暇などない。

 父がダリアの居場所を把握した以上、側にバレリアンがいたことにも気付いたはずだ。
 ペンタス公爵家は使用人の行動を厳しく管理している。
 彼が咎められることは避けたい。

 ダリアは姿を消すローブを羽織り、自室を目指した。
 音を立てないように扉を開くと、キーラが落ち着きなく部屋の中を歩き回っている。

「キーラ、何をしているの……?」

 ダリアは大好きな侍女の行動理由が分からず、ローブを外しながら問う。
 キーラには、ダリアが靄の中から姿を現したように見えただろう。彼女は突然姿を現した主人を見て、目を丸くし眉を下げた。

「ああ! お嬢様!」

 とても侍女がやる行為ではない。
 キーラは感極まった様子で泣きながらダリアに抱き着いた。
 ぎゅうっと強い力で抱きしめられる。

「心配したのですよ……!」

 キーラは言葉を詰まらせてしまった。そして彼女はダリアの穿いているスカートから、水が滴っていることに気付いた。
 キーラはダリアがどうして館を出たのか察してしまったようだ。
 みるみるうちに顔が歪んでいく。

「わたくし死のうと思ったの。でも、死ねなかった……」
「ううっ、お嬢様、そんな! そんなことを」
「助けられたの。助けられちゃったの!」

 二人とも涙が溢れて止まらない。
 信頼する侍女に何を伝えるべきか分からず、事実を端的に述べることしか出来ない。

「キーラ、わたくし、死ななくてよかった」
「ええ、ええ! 本当によかった……!」

 その夜キーラは、ダリアの行方を捜すため父の元に走ったそうだ。そして父は能力を使い、湖付近にダリアの気配がすると告げた。
 すぐにキーラは向かおうと動くが、父は彼女に暫し様子を見るよう命じた。
 家長の命令は絶対だ。
 キーラはダリアの部屋でやきもきしていたところ、ダリアが戻り、ようやく人心地つけたらしい。
 父の真意は分からない。
 ただ、あの夜のことを父は一度も問いかけてこなかった。


 数日後。
 眩しい太陽の下、庭師たちが庭園の手入れをしている。
 ダリアは窓の外を茫洋とした瞳で眺めていたが、ふと視線が一点で止まり動かせなくなる。

「お嬢様? どうされましたか?」

 キーラはダリアが熱心に見ている視線の先を見やった。
 数人の使用人たちが忙しなく庭園を整えている。ちらりとダリアを見て、キーラは再び視線を外に向ける。
 キーラにはその他大勢にしか見えないが、おそらく彼を見ているのだろうと検討をつけた人物を目で追う。
 
「もしかして、ダリアお嬢様をお救いになったのは彼ですか?」
「……ねえキーラ。使用人たちのデザートに、リンゴが挟んであるパンケーキを出すよう手配してくれない?」
「デザートですか?」

 ダリアは面映ゆそうに、はにかむ。

「ええ。わたくし、それがとても美味しかったと彼に話したの」
「畏まりました。きっと皆、喜びますね」

 他愛のない会話の中で触れたメニューなど彼は気にも留めていないだろう。
 たとえ記憶していたとしても、使用人のデザートに中々出てこないなぁと思うくらいかもしれない。
 それでもダリアはその美味しさを間接的に彼に伝えたいと思った。

 小さな共有を持ちたいと、願った瞬間だった。
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