砂漠の女王が愛した星【完結】

藤沢はなび

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プロローグ

ただの少女として

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 私は、異国からシェバに嫁いできた優しい母、王妃ミハーサと、厳しくも愛情を絶えなく注いでくれるシェバ国の偉大な王、父タハルとの間のたった1人の娘としてこのシェバの地に生を受けた。

 この国では、性別関係無く王として認められるのは長子のみ。
 その為、シェバ国王の唯一の直系の後継者であった私は、勉学や語学に勤しみ、武術や剣術にも懸命に取り組み、次期女王としての自覚と品格を育てられ、(自称)麗しい王女としてシェバ国内外から絶大な人気を誇っていた。


「民の幸せが、この国の豊かさが、父の幸せなのだ。そしてセイルやミハーサの笑顔も父の最上の幸せだ」
 そう言って満面の笑みで私を抱きしめる父。
 シェバは強国で、父はその国王であったが、忙しい仕事の合間を縫って、1日に1回は必ず私に会いに来てくれた。
 もちろん褒められる日ばかりでもないが、父が私に愛情を注いでくれている事は身に染みて感じていた。


 尊敬している両親の期待通りに私は成長し、10歳を迎えた頃。
 地位や責任という言葉の本当の意味さえ知らず、好奇心旺盛で何事にも興味津々な "ただの少女" として生きていた頃。

 とある暖かい日の昼過ぎ、街で流行りの適当な服をまとい、一人の女官、イフラスを連れて城の裏口から街へと抜け出……視察へと繰り出した。

「わぁ……! 今日はひときわ賑わってるわ」
 ここが先代が築いてきた豊かな国シェバだ。
 私は煌々と目を輝かせた。

 果物や宝石、衣服、色とりどりの品物の出店が並び、首都は大変賑わっていて、ここが世界の中心と言われても信じてしまいそうなほど煌びやかな街。

 幼かった私は冒険に出る直前の勇者のように胸が高鳴り、この街を国をとても誇らしく感じた。
 少し目線を遠くに移せば首都を見渡すことのできる塔や、シェバの王が神に祈る儀式をする美しい神殿、偉大な歴代王の墓などが砂漠の中優雅に佇む。

 ああ、なんと素敵で豊かな国であろうか!

「イフラス! ね、行こう!」
 胸躍る景色を前に興奮を隠すこともしなかった私はイフラスの手を強く引き、乾いた風の中、足の動くまま思いっきり駆けた。
「あぁお待ちください!」




 シェバ国一の美女と呼ばれる母ミハーサは毎晩私の部屋に訪れ、ベッドに横になった小さな私の頭を優しく撫でながら、様々な物語を聞かせてくれる。

 昨晩、母は川沿いに咲く花の話を聞かせてくれた。
 とある青年が呪いをかけられた少女の為に、川沿いに咲く花を探しに行く話だった。
 青年は長い年月をかけ様々な冒険を経て、やっと見つけた花を少女に届けると、大人になった少女は涙を流しこう言った。
「ありがとう。あなたがこうして無事に戻ってきてくれた事が1番の贈り物よ」と。
 無事呪いも解け、青年は少女に想いを伝え、いつまでも2人で過ごしました。という幸せな結末。
 有り触れた物語だったが、私は一瞬にして母が語る話に惹き込まれた。

「そういえば、セイルが生まれるずっと前に高熱で倒れた時があってね。その時父上が毎日花を届けてくださったのよ」と微笑んだ母。

 10歳なんて何事にも興味が湧く年頃だ。
 その物語は、長い年月をかけて冒険する勇気も無いのに、川沿いに咲く花を何としても見たい気持ちにさせた。

 そしてその 川沿いに咲く鼻の物語 をイフラスに嬉々として聞かせたところ、城から歩いて行ける距離に川があることをイフラスがうっかり漏らし、私は怪しい笑みを浮かべた。
 ーーそして今に至る。



「……セ、セイル様! 少し、お休みになりましょう! ね?」
 イフラスは私の走るペースについていけずに息を切らしていた。
 でもその川には20分ほど歩かないと辿り着かないのだ。
 長々と歩いて城に帰る時間が遅くなってしまえば、父に酷く叱られてしまう。

 そこで私はある悪巧みを思いついた。

「ふふ、じゃあ、私だけ先に行ってるね! 川で待ち合わせしよう!」
「はっ!? ちょっと……!?」

 こんなチャンスは滅多にないと思った。
 幼き私は、この国の平民として何にも縛られず自由に生きるとはどういう事なのかとても興味があった。

 高鳴る胸と共に駆ける足は徐々に速くなっていく。

 首都の賑わう通りを抜け、一歩駆けるごとに人も疎らになり、寒々とした景色へと変わっていった。
 他の人なら物悲しく感じる情景でさえ私には新鮮で心躍る材料となり、その頬は緩むばかりだった。

 だがそんな時、小さな不幸と人生を変えるほどの奇跡が起こる。

「えっ……! うわあっ」
 順調に駆けていたその足が突然絡まり、私はドスンと硬い地面の上に倒れ込んでしまった。

「え痛い……」

 膝からは出血し、足首も捻ってしまったようだ。
 ジワジワとやってくる鈍い痛みと、我に返ったように襲ってくる寂しさが心を覆い尽くし、瞳には涙が溜まっていく。

 そしてーー転んだその場所も、環境も悪かった。
 痛みと心細さで動けずにうずくまっていると、1人の下賎な中年の男が私に近づいてくる。

「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」

 歯は抜けおち、捨てる間際の箒の穂先のような黒髪、使い古した雑巾のような衣服。
 満足に生活することが叶わない、とても貧しい人だと見てすぐに分かった。

 当時無邪気な少女といえども、この国の王女としての自覚が完全に無かった訳では無い。
 憐れみからか、民に心配させてはならないと私は今にも涙が出そうなくらい痛い足を必死に隠し、ゆっくりと立ち上がる。
「あ、ありがとう。でも、大丈夫よ」

「そうかい。良かった」
 今まで朗らかに笑っていた男性はそう言い終わると、突然真顔になり、
「助けたんだから。金」と低い声で言い放つ。

「えっ?」

 男性は私を舐めまわすように見ると、獲物を見つけたようにまたニヤリと笑う。
「あんた良いところのお嬢様だろ? ほら、その首飾りも腕飾りも指輪もとても平民が付けられるものじゃない」
 父からもらった金の首飾りを乱暴につまむ男性。
「いや、でも……これは父が……」
 恐怖を感じた私は男から即座に一歩引いたのち、そのまま口ごもった。
 すると、男性が徐々に苛立っていくのが分かった。
「あんたさー! 人質に取ってもいいんだよ?」
「え、ひと、じち?」

 ーーあ、人質のことーー

 腑抜けた声と共に正気に返る私がいた。

 人質、それはまずい。かなりまずい。
 私ではなく、このおじさんがだ。

 私はこの国のただ1人の王女。
 このおじさんそんな事をすれば、父から即死刑を言い渡されるだろう。
 私を人質に取るという行為は、私よりもおじさんの方がよっぽど危険なのだ。
 自分が抜け出……視察に出たせいでおじさんが死んでしまうなんて、そんなことはあってはならない。
 ただ、だからと言って王女という身分を明かせば大好きな父に酷く叱られてしまうという事を考えると、自然と口数は減っていく。

「ねぇー! なんか喋らないの?」

 苛立ちをあらわにする男に焦る気持ちは高まり、早くイフラスが見つけてくれないかと強く目を閉じ祈った。
 するとーー

「ねぇ! 君!」

 身なりの良い、歳も背も私とそれほど変わらない綺麗な黒髪を持つ少年が突然目の前に現れて私の手を強く引いた。

「あ痛っ……」
 足首の痛みに思わずうずくまると、
「え、怪我してるの……!? せ、背中、乗って!」
 少年は酷く驚いている様子だったが、すぐにしゃがみ込んで私に背中を向けた。

「え、でも……」
「いいから乗って!」
 少年の強い口調に、中途半端に王女である自覚を持っていた私は眉をひそめながらも、恐る恐るその背中に乗った。
 そして、その途端少年はすぐに走り出した。

「おい! 待てよ!」

 男は追いかけてくるが、足は若い少年の方が遥かに速かった。

 突然のことに困惑していたが、恐怖に苛まれたこの状況で颯爽と現れ、手を引いてくれた少年に、当時この時点で少しばかり惹かれてしまったのはまぎれもない事実だった。

 背中を押すような追い風を感じながら、少年の背中の温もりと、優しさと、勇敢さと、少しの無礼さが、今何者であるかを忘れさせてくれている事に気付いた時、私は無意識に少年の首に回す両腕に力を込めていた。
 胸は締め付けられていくのに不思議と不快感はない。
 むしろそれは酷く郷愁をそそり、心地よいとさえ感じていた。

 大人になった私はその情景や感情を恨んだ時期もあったが、結局一生を終える時まで、この時の感覚を忘れることはなかった。



「ここまで来れば大丈夫だよ」
 少年は川沿いに1番近い比較的賑やかな通り沿いにある、石のベンチの上に私を下ろした。
 そして心配の色を瞳に映しながら私の顔を覗き込み
「だ、大丈夫?」と恐る恐る頭を優しく撫でる。

 おじさんは悪くない。生きる為に考えた末の行動であった。
 そもそも転んだ私が悪いのだ。
 それは理解している。
 でも、先程までの恐怖と、この少年の優しさとの差異から、感情の波が堰を切ったように涙が溢れ出てきた。

「ありが、とう……っ」
 王女という自覚も忘れ、泣きじゃくった最後の出来事だ。

「あっごめん。泣かないで」
 少年は突然の号泣に焦る様子を見せたが、すぐに私の隣に腰かけ背中を優しくさすってくれる。
 そして、私が泣き終わるまで待つと「……どうしてあんな場所に一人でいたの?」と静かに口を開いたあと、微笑んだ。

「……川沿いに咲く花を見たかったの! ……付いてきてくれた人が、居たんだけど、早く見たくて……つい、走って、しまって」
 言葉を紡ぐ度にその声の大きさはは段々と小さくなっていき、話せば話すほど自業自得だと思い知るばかりで途端に恥ずかしくなった。

「そっか。君のその怪我してる足じゃ、心配で川沿いまで連れて行けない。ごめんね。……家まで、送ろうか?」
 少年はそう言って、眉をひそめ申し訳なさそうに私の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫よ! 多分ここに居れば、その人が見つけてくれるから!」
 王女という身分が少年の知る所となってしまう可能性に酷く焦った私は、勢いよく首を横に振った。

 身分を明かし礼を伝える事も出来ただろう。
 むしろその方が少年にとっては良かったかもしれない。
 だが、この単純で優しい態度が変わるのが怖かった。
 何故怖くなるのかまでは当時の私には想像もつかなかった。

「……そっか。そうしたら、それまで一緒に話そうか」
 少年は焦る私を見てクスッと微笑んだが、それ以上追求することはしない様子で私はほっと胸をなで下ろす。


 そして私は少年に、昨晩母から聞いた川沿いに咲く花の物語を聞かせた。

「それでね。その男の人がね……花をね」
 少年は所々「それって、こういう事?」と質問を挟みながらも、笑って私の話を聞いてくれる。

 その話が終わった後も、絶えず会話は続いた。
 政治や語学の話ではない、作られた会話でもない、何でもない他愛のない日常の話を少年と目を合わせ、笑い合いながら話す時間が、こんなにも幸せだということを知った。

 そして私の話が終わり少年の話になった時、自らが中流貴族の出だということを彼は教えてくれた。
 確かに彼が着ている衣服が良い素材を使用している事は分かる。が、なら何故私と歳も変わらない幼い少年が付き添いも無く一人で居たのだろうか、と疑問が浮かんだ心を読んだかのように、

「僕、私生児なんだ。だから一人でいる。今日も家を抜け出してしまってね……」
 と少年は苦笑いを浮かべたが、すぐハッとして、
「あ、でも君は一人でいちゃダメだよ! シェバは豊かな国だけれど、貧しく飢える人も一定数居る。そしてよからぬ事を考える人もいるんだ。君が無事で良かったよ」と話すと、軽く息をつくように笑った。

 その少年の笑みに若干の違和感を抱きながらも、ここでひとつ私は少年にずっと気になっていた事を聞いた。

「……なんで、私を助けてくれたの?」

「あの。なんて言えばいいんだろう。……自分でもよく分からない。なぜか助けなきゃって、必死に思って」
 少年は照れくさそうに頬をかき、俯いた。
 そんな少年を見て私も何故か頬が赤くなるのだった。

 2人だけの空間で、身分や名前を明かすこと無く、魂だけで会話をするような安心感と懐かしさ。
 妙に離れ難いこの気持ち。
 それは長らく触れていなかった大切なものに触れた時と似たような感覚を持っていた。


 そしてそれは私の人生の中の一番の奇跡であり、一瞬の出来事であり、そう長くは続いてくれなかった。



「おまえ! こんな所にいたのか!」

 突然の威圧的な怒鳴り声にビクッと肩を震わせ、恐る恐る視線を上げると、少年と似た顔立ちの男性が、私たち2人の目の前で仁王立ちをしていた。

 朗らかで温かい雰囲気から一転、緊迫した空気が辺りを張りつめさせる。
 すぐさま私を男性から隠すように立ち上がる少年の表情はどこか強ばっていて、私の胸には不穏な予感が渦巻きはじめた。

「申し訳ございません」

 男性は顎で私を指し「誰だ、その小娘は」と嘲り笑う。

「父上には、関係の無い事です」

 恐らく自らの父であろう男性に対し酷く他人行儀で感情のこもっていない、虚ろな声。
 そんな態度の少年を目にして、多分そうする事で込み上げる恐怖を隠しているのではないかと、幼いながら私は感じた。

「お前な、庶子の分際で生意気な!」
 男性はその姿の少年を見て、酷く怒りをあらわにし……勢いよく手を上げる。

 どうしよう! と、考えるより先に、ぎゅっと目を瞑る少年の姿に私は足の痛みも忘れ、少年をその男性から守るように立ちはだかっていた。

「あ?」
「えっと……!」
 自分でも何がなんだか分からない、咄嗟の行動だった。

 男は酷く驚いた表情で、私の頭上で手を止めている。
 その隙に、私は勢いに任せて言葉を捲し立てた。
「じ、自分の子どもに手を上げるなんてどういう事ですか! この人は私を助けてくれたのよ。話も聞かないで手を上げるなんて酷いわ!」
 その言葉を聞いて徐々に怒りに震えていく男の表情はとても恐ろしく、幼い私にはまるで悪魔のように思えた。


 男は私の身なりをジロジロと確認すると、格上の手を出してはいけない相手だと判断したのか
「チッ。偉そうに。いくぞ」と、私の後ろにいる少年の腕を乱暴に掴み大股で歩き出す。

 しかし少年はその手を「やめてください」と振り払うと、見惚れてしまいそうなほど真剣な面持ちで私と向き合った。

「あの、ありがとう。最後まで一緒に居れなくて本当にごめんね。……怪我が、早く治りますように」
 あまりにも優しい笑みを浮かべ、私の肩をそっと撫でるその少年に私は初めての感情を覚えて、呆然としてしまった。

 小さな胸がまたギュッと締め付けられていく。
 寂しい、悲しい。違う。
 そんな単純な感情ではない。自分でもこの心をどう説明すればいいか分からず、涙さえ込み上げてきそうだった。
 それほどまでに難解な感情だった。

 なんと答えれば、伝えれば良いのか分からず、私は少年の目さえも見れずに俯く。
「……じゃあ」
 少年の悲しそうな声が聞こえた途端、私は無意識のうちに少年の腕を掴んで引き止めていた。
「ーーごめん待って」


 もうこれっきりでこの少年と二度と会えないのかと思ったら、美しく豊かで誇らしく感じた鮮やかな景色達が、無機質なモノクロの景色へと変わり、この世の終わりのような虚しさを感じたのだ。


「こちらこそありがとう……! あの、このベンチ! の裏に、小さな? 箱を置いておくから。……もしこの場所にまた来る事があれば、中を見てほしいの。せめてお礼の手紙くらい書かせてちょうだい」
 必死に早口に、懸命に言葉を紡ぐ幼い私は、果たして少年の目にどう映ったのだろうか。

 少年は何も答えず困ったように微笑むと、私に背中を向け男と一緒に街の中へと溶け込んで行った。

 遠くなっていく少年の背中を見つめれば見つめるほど、苦しさにも似た難解な感情が生まれては私を支配しようとしてくる事に気付いた。
 それでも視線を逸らすことなくその背中が見えなくなるまで見つめ続ける事を選んだのは、何故だろうか。
 私はその謎を一生をかけて解くことになるとも知らずに、ただただ感情に溺れていた。


 その後無事イフラスに見つけてもらったが、彼女は酷く焦っており、私を見つけるや否や抱きついてワンワンと子供のように泣き出した。
 私は少年が私の背中を撫でてくれたのと同じように彼女の背中を優しく撫でた。

 怪我をしてしまった事から、私の抜け出……街の視察は父に伝わり、もうそれはそれはこの世のものでは無い程こっぴどく叱られ、あの日以降護衛の騎士と女官が最低でも3人ずつ付いていないと外出出来ないようにされてしまった。

 それでも私はあの時の幸せな時間が忘れられず、高まる思いと共に自室の机に向かい手紙をしたためた。
 それが私の、セイルの人生の始まりだった。
 街の視察にいく際は、少年と話した街に必ず寄るようにして、人目を盗んでは小箱に手紙を忍ばせた。

 書くことは楽しかったし、返事が来ることが嬉しかったし、何より孤独ではないという安心感を傍に置くことが私の支えとなった。


 しかし、何年も手紙を交わしていくうちに彼の抱える悲しみや苦しみに寄り添えない、隣にいる事が出来ない自分に嫌気がさす事も増えていった。

 シェバ国の王族は神の分霊わけみたまと崇められ、私も14.5歳を過ぎた頃から国民の期待を一心に集め、王女としての務めも果たすようになっていった。
 父や母が居たから心細くは無かったものの、シェバ国のたった一人の後継者ゆえに友人を作ることさえ制限され、沢山の人に囲まれる中孤独を覚えていった。

 それゆえか、彼に対する情が深いものになっていくごとに、もしも自由だったら……と私は自らの責任から目を逸らしたいと思うようにもなっていたのだ。
 たった一人の為に全てを投げ出す人生を何度も想像した。


 そして、私が17歳になった年のとある日の夜中、大地震がシェバを襲った。
 被害は甚大で、死者の数も想像の遥か上をいくものであった。

 それなのに私はガタンと大きく揺れ倒れていく書棚を見つめながら、真っ先に私は……民よりも彼の心配をしたのだ。

 涙を流す私に女官たちは「怖かったですね」と声を掛け抱きしめる。
 違う。怖いから涙しているのではない。

 せめて彼のいる場所だけは揺れていない事を願ってしまった。
 彼の心と体が無事であることを何よりも真っ先に願ってしまった。
 心細くはないか、寂しい家庭の中で一人でいないか、孤独ではないか、どうかどうか無事であるようにと長い揺れの中、神に祈った。祈り続けた。


 我に返ったとき最低だと自らを責めた。
 壊れた街の景色を見て罪悪感さえ湧いた。
 父や母、民や国を差し置いて、ただ1度だけ会った、励ましの言葉をくれるただの少年の身を案じた自分が恐ろしかった。

 その後は体を壊すことさえ厭わずに、王女として神殿で死者を弔い、被害が出た街の復興の為不眠不休で尽力を尽くした。

 私に私情や自由は許されないことを知った。
 想いに気付きながらも、強い意志と覚悟で蓋をした。
 いつか会いたいと願いながらも、私から会いたいとは言わなかった。
 そのたった四文字でさえ、私が言葉にすれば多大な責任が伴い、奇跡は簡単に消え失せてしまうと気付いたからだ。

 縛り付けたくはない。
 そして、私もずっとただの少女のままでいたい。
 少年と交わす手紙を手に取っている時だけは私はただの少女でいることができた。この関係を壊したくはなかった。

 政治や語学の話ではない、他愛のない日常の話を少年と目を合わせ、笑い合いながら話した時間が。
 身分や名前を明かすこと無く、魂だけで会話をするような安心感と懐かしさが。
 あの日からずっと耐えず光り続けている。

 心の隅にそんな光を置きながらも、私は懸命に愛する国の為、民の為に尽くし続けるのだった。


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