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第2章 氷の王子と消えた託宣

第9話 ふいの交わり

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【前回のあらすじ】
 ジークヴァルトのスキンシップが戻ったことに安堵するも、その回数が増えているようでならないリーゼロッテは、エーミールとヨハンのでこぼこコンビに護られながらダーミッシュ領への帰路につきます。
 道中、侍女のベッティがリーゼロッテの力にあてられたり、知らないうち龍の目隠しにあったりと、何かとハプニングがありつつも、住み慣れた我が家へと帰りつくのでした。




「できたわ!」
「素晴らしいです、お嬢様!」

 最後の糸をぱちりと切って、リーゼロッテは刺繍ししゅうわくからはずしたハンカチを広げて見せた。そのとなりに座るエラが、涙ぐみながらがことのようによろこんでいる。

「お忙しい中、本当に頑張られましたね」
「これもエラの助けがあってこそよ。自分一人ではここまでのものはできなかったもの」
「とんでもございません! リーゼロッテお嬢様が、お心を込めて刺繍を施されたからこそです。きっと公爵様もおよろこびになられます」

 ジークヴァルトのために作った刺繍入りのハンカチは、全部で三枚となった。

 一枚目はジークヴァルトが子供の頃に可愛がっていたという黒い馬をモチーフにした。
 これは出来栄えもよく、かなりの大作となった。だが、刺繍の途中でハンカチとしてはあまり実用性がないことに気づき、急遽きゅうきょほかのハンカチにも刺繍を施すことにしたのだ。

 二枚目はフーゲンベルク家の家紋とジークヴァルトのイニシャルを入れただけのシンプルなものだ。これなら人前で使っても恥ずかしくないだろうし、普段使いしやすいこと間違いなしだ。

 三枚目は黒馬と白馬が並んで走るさまを刺繍した。小さな馬影だが、なかなか躍動感やくどうかんが出ている。刺繍自体も小さいため、こちらも普段使いできるハンカチとなった。

 最後まで難航したのが、今日完成した一枚目のハンカチだった。大作すぎて、思った以上に時間がかかってしまった。力が入りすぎてゴテゴテの刺繍になったが、芸術的に言うとかなりのハイクオリティだと自画自賛する出来栄できばえである。

 黒馬はジークヴァルトの子供の頃の肖像画をそのまま模写したので、これを見たジークヴァルトがどんな反応をするか今からドキドキしてしまう。

(直接手渡すのは勇気がいるから、ダーミッシュ領にいるうちに公爵家に届けてもらおうかしら……)

 いざ渡すとなると不安になってくる。考えてみれば手製の刺繍のハンカチなど、重い女だと思われないだろうか。手編みのセーターでドン引きされるなどはよく聞く話だ。

(ひと針ひと針思いをめた刺繍のハンカチ……。字面じづらだけだと、なんだが怨念おんねんがそこにおんねん的な感じがするわ……)

 針で指を刺してしまった時は、布に血がつかないよう細心の注意を払っていたので、まだましだろうか。怨念が染みついた上、血塗ちぬられたハンカチとあっては、オカルト度が上昇しまくりだ。

「……でも、本当によろこんでいただけるかしら」

 かえって迷惑になるのではと、急にリーゼロッテが意気いき消沈しょうちんしだしたので、エラが驚いたようにその手を取った。

「もちろんでございます! 公爵様は以前に贈られたハンカチも大事に使ってくださっていましたし、お嬢様が公爵様をお思いなってほどされた刺繍をおよろこびにならないはずはございません!」

 その言葉にリーゼロッテははっとした。
(そうよ! 前のハンカチを返してもらうために新しく作っていたんだったわ)

 以前贈った刺繍のハンカチは、ジークフリートのために作ったものだった。それがなぜだかジークヴァルトの手に渡り、大事に使われ続けていると思うと、リーゼロッテの良心がちくちくと痛んでしまう。

(前のハンカチを返してもらうには、手渡ししないとダメよね、きっと)
 手紙で伝えるのもどうだろうと思うし、それに一体何と言ってハンカチを取り戻そう。

(以前のハンカチは出来栄えが悪くて恥ずかしいから、これと交換で返してほしいと言うしかないかしら……)

 手紙でお願いすると、問題ないとの一言で片づけられかねないので、ここはやはり直接交渉するしかないだろう。

「でもお渡しするのは、白の夜会以降になってしまうわね」
「そうですね。夜会でお渡しするわけにはいきませんからね。……お嬢様はデビューがお済みなったら、また公爵家へ行かれるご予定ですか?」
「ええ、きっとそうなると思うわ」

 リーゼロッテは未だ力の制御がうまくできないでいる。少しずつコントロールができるようにはなってきているが、突発的な事態に対応できるほど安定はしていない。

「エラは、お母様のご容態もあるだろうから、ここに残ってもいいのよ……?」
「いいえ! どうか、次はわたしも一緒にお供させてください! 母は少し過労がたたっただけで、今はもう心配はありません。ご迷惑をおかけした分、今まで以上にお嬢様にお仕えさせてください!」
「迷惑だなんて思っていないわ。エラの大事なご家族のことですもの。……思えばエラはずっと家に帰っていなかったものね。エラがいてくれることが当たり前になってしまって、わたくしエラに甘えすぎていたわ」
「どうか、そのようにおっしゃらないでください……わたしはお嬢様にお仕えすることに誇りを持っております。お嬢様がわたしなどいらないとおっしゃられるその日まで、ずっとおそばにおいてほしいのです」

 エラは必死だった。最近リーゼロッテとの距離が、物理的にも精神的にも以前よりも遠くなったように感じられてならない。

 ずっと深窓しんそうの令嬢生活を続けてきたリーゼロッテだ。それは病気のせいでいられてきたことなのだから、公爵家でエマニュエルたちと楽しそうに会話するリーゼロッテを見て、エラは心からよろこばしいと思っていた。だがその半面、一抹いちまつの寂しさを感じていたのも事実だった。

「エラがいらなくなる日なんて絶対に来ないわ。ありがとう……エラの気持ち、とてもうれしい。でもね、ひとつだけ、エラに約束してほしいことがあるの」

 エラの目をまっすぐ見るリーゼロッテは、以前よりも大人びたと思う。新しい環境がそうさせたのか、知らないうちにどんどんお嬢様が離れていってしまうようで、エラは不安で仕方がなかった。

「エラには自分のしあわせを最優先にしてほしいの。わたくしはエラとずっと一緒にいたいと思っているわ。でも、それはエラがしあわせでないと意味がないの。だからもし、エラが別の人生を選びたいと思う時が来たら、きちんとわたくしに話すと約束してちょうだい」
「お嬢様! わたしはお嬢様のもとを離れるなど、考えたこともございません!」
「ええ、わかっているわ。でもねエラ。先のことはどうなるかなんて、誰にもわからないでしょう? 生涯を共にしたいと思う人に、エラが出会うことだってあるだろうし……エラにはわたくしのせいで、しあわせをあきらめたりしてほしくないの……」

 リーゼロッテの瞳が悲し気に揺らめいている。それを見たエラは、はっとして顔を上げた。

「もしかしてお嬢様……ペーターとのことをお聞きになられたのですか……?」

 伏せられた緑の瞳は肯定をあらわしていた。リーゼロッテは何かを言いかけて、言葉にならないままその唇を小さくかんだ。

 ペーターはダーミッシュ家の庭師のひとりだ。そのペーターとエラは付き合っていたのだが、最近ふたりは別れてしまったらしい。そんな使用人のおしゃべりを、偶然リーゼロッテは聞いてしまった。

 エラはリーゼロッテの王城や公爵家の滞在に、長い間ずっと付き添っていた。恋人とのすれ違いが生じたのなら、そのせいだと考えるのが妥当だとうだろう。

「ごめんなさい……みなが話しているのを偶然聞いてしまって……」
「違います! あれは決してお嬢様のせいでは……!」

 確かにペーターに交際を申し込まれた直後に王城滞在に突入した。だが、一か月後にはダーミッシュ領に戻ってきたし、その後、公爵領で過ごしている間も手紙でのやり取りはずっとしていたのだ。

 しかし、今回エラの母親が倒れて予定外でダーミッシュ領に戻ってきてみれば、ペーターと別の女性の間に子供ができていた。しかもその女性はもう臨月だというから驚きだ。
 その女性と別れた後に妊娠が発覚したならまだしも、ペーターはエラとその女性と同時進行だったらしい。

 こうなればエラの方が浮気相手だったとみるしかないだろう。しかしエラとペーターは、ダーミッシュ家の使用人たち公認で付き合っていたため、エラに同情の声が集まっているというのが今の状況だ。

 そんな下世話げせわな話をリーゼロッテの耳に入れることはない。エラはそう思っていたのだが、偶然とはいえ口をすべらせた誰かに怒りを覚えてしまう。

「お嬢様……正直申し上げて、ペーターとのことはあまり気にんでおりません。……ひどい話ですが、わたしはそこまで彼のことを思っていなかったのだと思います」

 これはうそいつわりのない正直な気持ちだ。エラにとってはペーターの仕打ちよりも、リーゼロッテと離れてしまうことの方がよほど一大事だった。

「そう……エラが傷ついていないのならいいのだけれど……でも、いつかエラの運命の人があらわれたら、わたくしにきちんと教えると約束してくれる?」
「はい、お嬢様……そのときは、必ずお伝えいたします」

 力強くうなずいたエラだったが、その胸中は全く違うものだった。

(お嬢様のおそばを離れるくらいなら……わたしは一生、絶対、結婚などしない)

 ペーターとは気の合う友人の延長のような感覚で、あまり深く考えることなく付き合っていた。だが、付き合いのその先に結婚が待っているとしたら、今後は考えを改めなければならないだろう。結婚して家庭に入ったら、下手をしたらリーゼロッテの元を去らなくてはならなくなる。

 女として生まれてきたからには、子供が欲しいと思わないでもない。だが将来、リーゼロッテの子供の成長を見守っていけるなら、それで十分ではないか。
 エラはそう結論付けて、リーゼロッテに生涯尽くそうと改めて心に誓った。
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