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第2章 氷の王子と消えた託宣

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     ◇
 目まぐるしい一日の終わりは、王族だけで囲む晩餐で締めくくられる。普段は王たちと食事をとることは滅多にないものの、アンネマリーを王家に迎えるにあたって頻繁に顔を合わせる日々が続いていた。

 ハインリヒにしてみれば、年に数度とは言え子供の頃から繰り返されている日常だ。だが、アンネマリーはいつも緊張した面持ちで食事をとっている。その姿すら愛おしく感じてしまう。
 形のいい唇の中に、ゆっくりと食べ物が運ばれていく。時折見える赤い舌の動きを、ハインリヒは無意識に目で追っていた。

 食事中は基本しゃべることはない。フルコースのデザートが済んで、食後の紅茶が出てくる頃に短い時間会話するくらいのことだったが、アンネマリーが加わってからは、以前より会話に花が咲くようになった。

「宰相から聞いたわ。アンネマリーは政務においてもなかなかの才覚を持っているとか。ジルケの娘だけはあるわね」
「そんな……恐れ多いですわ、王妃殿下」

 王妃の言葉にアンネマリーが恐縮した様子で答えた。

「イジドーラとお呼びなさい。アンネマリーはもうわたくしの娘となるのだから」

「そうよ、お兄様と結婚するのだからアンネマリーはもう王家の一員よ。これからはずっと王城にいてくれるのよね?」

 食事中行儀よく座っていたピッパ王女が、前のめりに瞳を輝かせた。

「ええ、もちろんですわ、ピッパ様」
「様はいらないわ。だってアンネマリーはもうわたくしのお姉様だもの。ねえ、お兄様、わたくしの言った通りだったでしょう? アンネマリーはふわふわで柔らかくて、お兄様は絶対に好きになるって思ってたから!」
「ああ、本当にピッパの言う通りだ」

 ハインリヒが心から頷くと、アンネマリーは頬を染めて恥ずかしそうにうつむいてしまった。
 ここが晩餐の席でなければ思わず抱きしめてしまうほどの可愛さだ。ハインリヒは身もだえしそうになるのを必死にこらえて、なんとか平静を装った。

「ではわたくしたちはそろそろ戻るとするわ」

 王妃の合図とともに晩餐が終わりを迎える。このタイミングでアンネマリーは、いつも王妃と共に離宮へ帰ってしまう。

 別れ際にその頬に口づける。離れがたく思えて、その柔らかい体を抱き寄せた。アンネマリーも遠慮がちにハインリヒを抱きしめ返してくる。しかし、王や王妃の手前、この時間はいつもごくわずかだ。

「今夜はゆっくり休んでくださいね。ご無理をしないわけにはいかないとわかっておりますが、ハインリヒ様がお体を壊したりしないかわたくし心配で……」

 気づかわし気にアンネマリーが見上げてくる。その顔を見ているだけで、疲れなど吹き飛んでしまう。今すぐ唇の感触を確かめたい。昼間のアンネマリーからの口づけを思い出して、ハインリヒの体に熱が集まった。

(ああ、アンネマリー……その唇もこの柔らかな体も、すべて、すべてわたしのものだ……)

 服の上から触っても柔らかくあたたかなこの肢体に、直接触れたらどうなってしまうだろう。ドレスの下に隠されている姿を想像すると、いてもたってもいられなくなる。

(託宣の間でのアンネマリーはものすごく可愛かった……)

 深く口づけながらその背中をなぞると、吐息と共に小さく甘やかな声がもれた。思わず声が出てしまったというようなアンネマリーの反応が、いまだに頭の中で繰り返し再生される。

 あのままカイが止めに入らなければ――
 肩口にある大きなリボンをほどいて、華奢きゃしゃな肩をあらわにして、白く細い首筋を唇でついばみながら、覗く胸の谷間に手を伸ばして……。

「ハインリヒ様?」

 はっと意識を戻すと、目の前でアンネマリーが不思議そうな顔をしていた。少し不安げな瞳で、ハインリヒをじっと見上げている。

「い、いや、なんでもないんだ!」

(本人を目の前にして、わたしは何という想像を……!)

 ひとり動揺しているハインリヒに、アンネマリーは再び悲し気な視線を送った。

「では、ディートリヒ王、御前失礼いたします」

 アンネマリーは優雅な礼を取る。王妃に促され離宮へと戻っていくアンネマリーの背を、名残惜しそうにハインリヒはいつまでも見送った。

     ◇
「その様子ではまだのようね?」

 星読みの間に戻ってくるなり言われたイジドーラの言葉に、アンネマリーは小さく首をかしげた。

「まあ、いいわ。ルイーズ、あれを」

 控えていた女官のルイーズに目配せを送ると、ルイーズは白い箱をアンネマリーに差し出してきた。

「開けてごらんなさい」
「イジドーラ様、これは……?」

 促され蓋を開けると、純白のシルクのようなやわらかい布地が現れた。

「そちらは王妃様が立ち上げたブランドの寝巻にございます」
「試作品なのよ。アンネマリーに着心地を確かめてもらおうと思って」
「これが寝巻……?」

 手にしたものは手触りはいいが、そのすべらかな生地は冬の寝巻に向きそうもなかった。肩ひもは細くなんとも心もとない。持ち上げてみると、前と背中を合わせても、向こうの景色が透けて見えるほどの生地の薄さだ。

「今夜はそれを着て過ごしてちょうだい」
「……わかりましたわ、イジドーラ様」

 王妃の言葉にいなの選択肢はない。この上から厚手のガウンを羽織れば問題ないだろう。そう結論付けて、アンネマリーは素直に頷いた。

「今着てみてほしいのだけれど」
「え? 今ですか?」

 戸惑いながらもルイーズと共にクローゼットへと向かう。手伝われながら、着ていたドレスを脱いでいく。しかし、さすがにこれを身につけたところを見られるのは恥ずかしく思えて、アンネマリーはルイーズにひとまず衣裳部屋から出て行ってもらった。

 大きな姿見の前に立ち、自分の姿をまじまじと眺める。言われるがまま袖を通してみたものの、とてもではないが人様の前に出られるような格好ではない。細い肩ひもに膝上丈のこれは、寝巻というよりもキャミソールだ。

(これは……いわゆるベビードールというやつなのかしら……?)

 裾には繊細なレースが施されており、その仕立ては一級品だとひと目でわかる。だが、あまりにも防御力が低すぎる。透ける布地は体のラインがはっきりとわかる上に、自分の大きすぎる胸も丸見えだった。

「どうかしら着心地は?」

 扉の向こうから声をかけられ、アンネマリーはあわててガウンを羽織った。長く厚手のそれを着ると、ほっと人心地がする。念入りに腰ひもを結んでいると、そのままでいいから来るように言われて、アンネマリーはガウン姿で居間へと戻った。

「一晩着てみて、今度着心地を教えてちょうだい」

 妖し気に笑みをくイジドーラに、アンネマリーは素直に頷いた。王妃ブランドは特に既婚者たちから人気が高い。夫人同士のお茶会で、そんな話題がよく上っていた。それは大人向けなラインナップのせいなのだと理解して、アンネマリーは赤面せずにはいられなかった。

「ときにアンネマリー。ハインリヒとはうまくやっていて?」
「はい、ハインリヒ様はいつでもおやさしくて……。格好良くて素敵で頼りになって……」

 ポーっとした表情でアンネマリーが言う。アンネマリーはいつもハインリヒの端正な横顔に見とれてしまっていた。ずっと見ていて飽きないほどのきりりとしたその姿に、ついついため息が漏れてしまう。

 しかし公務中にそんな態度をとるわけにはいかないので、アンネマリーは顔を引き締めるのにいつも苦労している。しかし、ふいに昼間のハインリヒの疲れた顔を思い出して、アンネマリーはその表情を曇らせた。

「ですが、ここ数日は特にお疲れの様子で……。わたくしハインリヒ様が心配ですわ」
「アンネマリー、よくお聞きなさい」

 イジドーラの真剣な声音にアンネマリーははっと居住まいを正した。

「この国の王は、その王冠を降ろすまで人たり得なくなる……のしかかる重圧は誰ひとりとして理解できないものよ。その孤独を癒すのがわたくしたち王妃の務め。――アンネマリー、ハインリヒのこと、よろしく頼むわね」

「……はい、イジドーラ様」

 頬に手を添えられ、妖艶にほほ笑まれる。魅入られたようにイジドーラの瞳を見つめ、アンネマリーは小さく頷いた。
 イジドーラは満足そうに頷き返すと、さらに妖しげな笑みを向けて来る。

「それで、アンネマリー。今すぐにでもハインリヒに会いたいとは思わなくて?」
「会いたいです! わたくし、いつだってハインリヒ様に会いたいですわ」

 焦がれるようなその返事に、イジドーラの蠱惑こわくの唇が再び妖艶に弧を描いた。
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