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第5章 森の魔女と託宣の誓い

番外編 その先のひかり

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※第4章第17話「時、満ちて」直後のアルベルト目線のお話です






 何の感慨も湧いてこなかった。
 こんな日が来ることは分かっていたはずなのに、やけに遠くに思える自分の手を、アルベルトはじっと見つめていた。

 とむらいのかね鈍色にびいろの空に響いていく。
 ひと筋立ち昇る白い煙は、王女が荼毘だびに付されたしるしだ。あの美しい髪も肌も瞳も。炎に焼かれ、すでに灰になっただろうか。

 その背を追いかけることもない。こちらを振り向き、すみれ色の瞳が細められることもない。ひとを小馬鹿にしたような、たのしげな笑い声も耳に届かない。あの唇が、自分の名を呼ぶことも二度とない。

 永遠に失われてしまった。自分だけの気高い王女――

 護衛の任を解かれ、正式にはまだ貴族の籍を授かっていないこの身だ。葬儀に参列することも許されず、与えられた一室で時間だけが過ぎていく。

 今日もあの鐘が鳴らされる。ろくに食べず、飲まず、眠ることもできなくて、何の意味も持たない手のひらを、遥か遠くの何かのようにただ見つめ続けた。

 自分は何者なのだろうか。なぜここにいるのだろうか。糸の切れたたこのように、どこにも行けない精神こころがあてどもなく彷徨さまよった。
 テーブルに置かれた果物ナイフが目に入る。あの銀の刃を首に押し当てひと掻きすれば、それですべてが終わるだろう。

 扉を叩く音がした。薄暗い部屋でじっとしている自分を薄気味悪がって、城仕えの者はほとんど寄りつかない。乱暴な足取りで誰かが入ってくる。手入れも忘れた無精ひげを見て、その男は不愉快そうに顔を歪ませた。

「おい、アルベルト。お前、ちょっとつらぁ貸せ」

 やってきたのは大公バルバナスだった。引き連れていた王城騎士に半ば連行されるように、どこか一室に通された。

「こいつに見覚えがあんだろう? なぜこれを手放した」

 包む白い布が広げられる。目の前に置かれていたのは、あの日、自分が王城の廊下に打ち捨てた剣だった。ナイトの称号を得たときに、王女から賜った騎士の誇りだ。だがもはや何の意味もない。
 何も答えずに剣を見ていると、バルバナスが焦れたように舌打ちをした。

「クリスティーナは殺された。それなのに、どうしてそんなに抜けていられる?」

 この男は託宣の事実を知らないでいる。先王の嫡子ちゃくしに生まれながら、まったくの部外者だ。王女は誇りにかけて、龍の託宣を果たした。事の顛末てんまつはそれだけだ。

「……お前もだんまりを決め込むのか。どいつもこいつも龍の言いなりだ。クリスティーナの死をいたむ奴など、誰ひとりいやしねぇ」
「国のため、王女殿下は立派に責務を果たされました」

 無感情にそう告げる。わずらわしくて、早くひとりにして欲しかった。

「てめぇ、本気でそんなこと抜かしてんのか?」
「もちろんです」

 何もかもが終わってしまった。今さら何をどうする意味など、どこにあるというのか。

「クリスティーナはこの剣によって殺害された。そう聞いてもまだ同じことが言えんのか、ああ?」

 ドスのきいた声に、はっとそれを見やった。
 手入れを怠ることなく鏡のように輝いていた剣は、今は見る影もない。刃こぼれをおこし、所々どす黒くこびりつくのは、時間が経った血のりに見えた。

「この剣で、クリスティーナ様が……」
「胸をひと突きだったそうだ。どうしてこれが神官の小僧の手に渡ったんだ。アルベルト、お前と言えど理由如何いかんによってはただでは済まさねぇ」
「クリスティーナ様が……この剣で……」
「だからそう言っている! オレの質問に答えねぇか!」

 胸ぐらをつかまれ乱暴に持ち上げられる。憤怒ふんぬの形相のバルバナスを見つめ、アルベルトは乾いた笑いを口元に浮かべた。

「何が可笑おかしい?」
「……この剣でクリスティーナ様が……はっ、はは、ははは……!」

 この剣に貫かれ、王女はった。王女を守るため、日々己が磨き上げてきたこの剣でーー

 そう思うと笑いが止まらなかった。王女は最期さいごまでともにった。死するその瞬間に、自分はクリスティーナとともに在れたのだ。

 笑いながら、頬に熱い雫がとめどなく流れた。王女の背を見送ったあの日から、初めて流した涙だった。

「ちっ、話にならねぇ」

 いつまでも泣きながら笑っているアルベルトから、バルバナスは乱暴に手を離した。打ち付けられた体もそのままに、床に転がり狂ったように笑い続ける。
 舌打ちをしてバルバナスが出て行ったあとも、アルベルトは天井を見上げ薄ら笑っていた。騎士に引きずられ、元いた部屋へと戻される。

 そこでもこらえきれずに笑いを漏らした。薄暗い部屋で片膝を抱えるその様に、給仕にきた女官が悲鳴を上げる。
 逃げるように女官が去ると、食事のにおいが鼻をついた。そうだ、自分は生きなければならない。最後にクリスティーナから受けためいを、この名にかけて守ると誓ったのだから。

 アルベルトは湯気の上がる料理をむさぼり食べた。久しぶりのまともな食事に、弱った胃が悲鳴を上げる。吐きそうになっても無理やり飲み込んだ。まだやらねばならないことがある。ただその一心で。

 湯を浴び、身なりを整えた。次いで託された一通の手紙を手に、あの令嬢の元へと向かう。ヘッダと違い、あの令嬢に恨み言はなかった。彼女もまた宿命を背負わされた、哀れな人間のひとりに過ぎない。
 王女の手紙を手渡すと、令嬢は予想通りに大粒の涙をこぼした。こんなふうに素直に泣けたなら、どんなに楽だったろうか。そんなことを思いながら、アルベルトはバルテン領へと旅立った。

 ひとりきりで馬車に揺られる。正式に貴族籍を賜り、ハインリヒ王のめいによりバルテン家に婿養子に入ることになった。これも王女が望んでのことだ。

 元々病弱なヘッダだ。王女という支えを失くして、彼女もそう長くはもたないだろう。先に王女の元へ逝けるヘッダが羨ましいとすら感じる自分がいた。
 ヘッダが逝ったあと、どれほどの時間を過ごすのだろうか。クリスティーナのことだけを思い、ただ終わりの時を待つ。

 窓の外、雪の道に日の光が反射した。新月の夜に生まれたというクリスティーナは、ずっと日陰の王女だった。そんな王女は日の出の時刻がいちばん好きだと言った。早朝の庭で、新しく生まれいずる光に包まれる王女の背中は、いつだってまぶしく美しかった。

 バルテン子爵は実に人のよさそうな人物だった。王命で押し付けられた婿養子にも、いやな顔ひとつ見せずに出迎えられる。どのみちヘッダと子をなすことはない。彼女が旅立ったのちには、ここを去るのが最良の道だ。

 バルテン家に着くなりヘッダの寝室へ通された。足に怪我を負い、伏せる日が多いとのことだった。
 掛けられた天蓋の向こう、寝台の上で彼女は体を起こしているようだ。かける言葉など何もない。王女の最後の言葉を守るため、互いにそばにいる必要があるだけだ。そのことはヘッダもよく分かっているだろう。

 少しだけ開けられた窓で、レースのカーテンが風に舞い躍る。やわらかな日が差し込む部屋の寝台へ、義務感だけで近づいていった。

「アルベルト」

 見上げてくる菫色の瞳に、息が止まった。光の中、そこにいたのは、クリスティーナの姿だった。

「なぜ……?」

 かすれた声で問う。自分はとっくに正気を手放していたのだろうか。

「さぁ、なぜかしら? わたくしにも分からないのよ。ねぇ、アルベルト。これが夢ではないと、わたくしにきちんと教えてちょうだい」
「クリス……ティーナ様……」

 差し伸べられた白い手を取る。そこにいつもあったハンドチェーンの飾りはなく、龍のあざも見られなかった。
 夢ならば永遠に醒めないで欲しかった。その肢体を、逃さないようにとかき抱く。

「痛いわ、アルベルト。わたくし、怪我をしていてよ?」

 はっと体を離す。そこを引き留めるように、クリスティーナの手がこの背に回された。

「痛むのは足だけよ。もっと上手に抱きしめなさい」
「クリスティーナ……」

 すべらかな頬に指を滑らせ、確かめるように口づける。軽く触れただけの唇は、やわらかくとてもあたたかかった。
 頬に添えた手の表面を、ふいに何かが滑り落ちた。クリスティーナの瞳から、大粒の涙が零れ落ちていく。

「アルベルト……あなたがちゃんと来てくれてよかった。わたくしの言いつけを破って、死を選んだのではないのかと……ずっとそればかりを心配していたから」
「わたしがあなたの言葉にそむけるはずもないでしょう?」
「そう、ならよかったわ。でなかったらわたくしはいずれ、ヘッダとしてアルベルト以外の男を伴侶に迎えていたもの」
「そんなことは絶対にさせない、永遠にあなたはわたしのものだ……!」

 震える声のまま強く抱きしめる。アルベルトの頬にも涙が伝っては、クリスティーナの首筋を濡らしていった。

「いいわ、アルベルトのものになってあげる。そのかわりアルベルトもずっとわたくしのものよ?」
「はじめからわたしはあなたのものだ。もう二度と、離れない」


 新たに芽生えた息吹に声が詰まった。
 ともに歩いていける。その先にある、ひかりに向かって。
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