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彼女の幸福
しおりを挟む――ローマン・ノックス。ローマン・メザード……。
それが、僕がこれまでの人生で授かった二つの名前だ。
メザードの姓で暮らしていたころ、僕には同じ歳の姉がいた。
僕の人生の途中でできた、わがままで意地悪で、最悪のきょうだい。
十五になったとき、進学校に通うという口実で家を出てからも、彼女の悪名は、ずっと僕の耳に届き続けていた。
(一生こうして、悪名を広めながら生きていくんだろうな……)
そんな諦めの境地にいたある日、毛色の異なる噂が流れてきた。
エミリーが階段から落ち、大勢の前でスカートの中をさらしたという。突き飛ばしたのは、婚約者のブランだとも、いじめられていた平民の少女だとも囁かれていた。
それは悲惨な話ではあったが、無傷だったこともあり、世間は冷たく、『メザード嬢の自業自得だ』と切り捨てた。
(……悔しいだろうな。はやく立ち直って、やり返してやればいい)
負けん気の強い人だったから、心配はしていなかった。
けれど予想に反して……彼女は、たった一度のその失敗で、追い詰められてしまった。
人の失敗を笑うような悪い人だったのに。何も食べられず、何も飲めず。あっという間にベッドから起き上がれなくなった。
久しぶりに帰省した僕がエミリーに会ったのは、彼女の人生に終わりの影が差した後で……粗末な部屋に追いやられ、ベッドのそばに立った僕の気配を感じ取った彼女は、汚れた天井を見上げながら、かすかに瞳を開いた。
風の音にも消されそうな、かぼそい声で告げたのは、すでに人生を諦めた願いだった。
「私、猫になるわ……。わがままで、つんとして、綺麗で可愛い猫になる。だから甘やかして、優しくして……。今度は私を、愛してね……」
「うん」
僕は泣いていた。
酷い思い出ばかりで。でも外見だけは美しかった姉の、あまりの姿に。
「大事にするよ。今度は僕も、いい弟になる」
エミリーは良い姉じゃなかった。けれど、僕も良い弟ではなかったのだ。
思春期の僕にとって、日に日にエスカレートする血の繋がらない姉のいやがらせは拷問に近く、逃げるように学校の寮へと入った。
悪巧みをしながらも、無意識に温もりを求めていた彼女が寂しいことは、わかっていたのに。
政略結婚で結ばれた両親に愛されず、跡継ぎになれない女児だからと、使用人からも粗末に扱われていたエミリー。彼女は、着飾ることで愛されているふりをして、少しでも人より優位に立とうと躍起になっていた。
(そんな人だったのにな……)
けれど、今の彼女はどうだ?
柔らかなグレーの髪をシーツの上に広げ、隣で眠る美しい生き物。
身体を縛り付けることのない、ふわりとした衣服をまとい、ときには裸足で家の中を飛び回る。
人間だったころには見せたことのない、輝く笑顔を浮かべて、エミリーは、猫としての人生を謳歌していた。
『ローマン、行かないで。寂しいわ。そばにいてほしいの』
人間として生きていたときも、今ほど素直で可愛かったなら、愛されただろう。恋人にも友だちにも恵まれて、大事にされていたはずだ。
けれど――そうはなれなかったのだ。
傍目には愚かしいほどのプライドが、彼女が人として生きる術だった。
猫になれたと信じて、ようやく伸び伸びと息をしているエミリー。
よく食べ、よく遊び、よく笑う彼女は、以前とは別人のように輝かしい女性へと変わっていた。
僕が彼女を引き取ると言ったときには一言もなかった彼女の両親や元婚約者は、今になって彼女を欲しがっている。
『エミリーの名誉をこれ以上汚さないために、はやく家に戻せ』
そう言う彼らの言葉は、あたかも姉さんのためのように聞こえても、結局はすべて、自分たちのための戯言だ。
そんな話を、僕は決して聞き入れない。
エミリーは、猫になったのだ。
僕は実家に頭を下げて戸籍を元に戻し、一足先に弁護士となった実兄を手本にして生計を立てた。
今度こそ逃げたりしないで、毎日楽しそうに笑う、幸福の中で生きる彼女の側にいるために。
僕は良い飼い主で、良い弟で――
彼女を愛した、たった一人の男だったから。
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