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第1部
えれこっちゃ、宮崎へ(酒盛り編)
しおりを挟むその日の夜――というより、まだ明るい午後六時ごろから、今宵の宴会は始まった。
古くて大きな平屋建ての母屋の、襖を取り払っただだっ広い八畳二間にて、葵たち三兄妹弟は出されたビールグラスを片手に、料理が所狭しに並ぶ大きな座卓に座らされていた。
清武町にある母の実家岩切家は、母の父母ともに亡くなっているため、今現在伯父(母の兄)の岩切武雄と妻の千恵子が住んでいて、両親の家業を継ぎ、花の栽培・出荷を生業としている。
今では地元でも有数の花栽培農家として知られていて、県内はもちろん県外にも出荷するほどの盛況ぶりらしい。
母は隣の宮崎市内にある、古くからの友人が経営するガーデニングショップにパートで勤務する傍ら、花の最盛期を迎える季節は兄夫婦の仕事も手伝ったりして、忙しくも充実した毎日を送っているようだった。
幼い頃から、葵たちが宮崎に来る時はたいていこの岩切家にお世話になっており、今回も部屋だけは余っているからぜひ泊まってけ、という伯父たちの好意に甘えることになった。
今日、岩切家に集まったのは、宮崎市内に住んでいる伯母(母の姉)の里美と、響介のかつての友人の長友という壮年の男性だ。
上座に座る当主の武雄は上機嫌で瓶ビールを空けており、自分も台所を手伝おうと立ち上がりかける葵を、何度も「よかよか!」と引き留める。
「しっかし、葵ちゃんは会うたんびに別嬪さんになりよるが。こげな田舎町にゃ見かけん別嬪さんじゃっかい」
「朋美によう似てきたわ~。響介さんの面影もあるっちゃけんど、笑ろうた顔は朋美そっくりじゃ~」
座卓に小皿や醤油さしを並べながら、伯母の里美が言えば、武雄や長友も「じゃ~じゃ~」と同調する。
「まあ、岩切の血がよう出ちょるのは萩じゃあな。響介さんの男ぶりを引き継いだんは蓮くんじゃっかい、萩じゃなか」
「そげなごつないじゃろぅ? 萩くんはいい男じゃ~。東京でいう “いけめん” っちゅうこっちゃじ」
父響介の友人であった長友の、おどけたようなフォローで賑やかな笑い声が一斉に上がる。
大体、萩は無愛想なくせに甘え上手な末っ子気質が大人心をくすぐるのか、昔から容赦なく話のネタにされてからかわれるのだ。
当の本人萩は、幾分憮然とした表情で寿司桶の握り寿司を黙々と頬張っている。そんなところも、みんなに弄られる所以なのだろう。
母と二人で台所と広間を行き来していた武雄の妻、千恵子が、ようやく座卓に落ち着いたかと思えば、そこでも、これ食べーあれ食べー、と世話を焼きつつ、葵に近況を尋ねてきた。
「仕事休めて良かったなぁ。葵ちゃんのお仕事はレストランなんじゃろ? てげ高級なレストランじゃーて?」
「そんなことないです。サラリーマンや家族連れのお客様も来ますし、値段も良心的なんですよ。味は最高級に美味しいんですけど」
悪戯っぽく葵が笑えば、千恵子も、そらまぁ、と大げさに目を丸めた。
「この辺はぁ洒落たレストランもないじゃろ。こげな間に合わせ料理ですまんねぇ」
おっとりとした口調で話す千恵子は、葵たちが宮崎に訪れるたびにこうして甲斐甲斐しくもてなしてくれる。特に葵は、男ばかりの従兄弟たちの中で唯一の女の子だったからか、それこそ娘のように可愛がってもらった。
誰よりも真っ赤な顔をした長友は、そんなにアルコールに強い体質ではないらしく、既にビールから烏龍茶へと移行している。
彼は父響介の中学高校時代の後輩だという。東京で執り行った響介の葬式に参列できず、三回忌法事の時も運悪く身内の弔事と重なり、出席できなかったことをしきりに詫びていた。そして、こうして響介の忘れ形見の三人と酒を酌み交わせたことがよほど嬉しいのか、三人の姿形に亡き先輩の面影を見出すかのように、時々眩しそうに目を細めていた。
「葵ちゃんはいい人、おらんけ? 結婚は?」
長友の問いかけに葵が返事をする間もなく、すかさず武雄が声高に遮る。
「いぃや、まだ早いじゃろが。響介くんが生きちょったら絶対嫁には出さんはずじゃ。まぁだ行かんでもええ」
そんな武雄の形相に、伯母の里美が「まぁた頑固親父みたいなこと」と言いつつ身を乗り出してきた。
「じゃけんど、子ぉは早いうちに産んだ方が楽やじ? うちン息子の嫁の佳奈さんも高齢出産やったが、子育てキツイて、もっと若いうちに産んどくんじゃったぁーて、よぉゆうちょるが。葵ちゃんも、若いうちに産んじょった方がええよ?」
――他意のない言葉、屈託ない笑顔。
目の端で、蓮と萩が素早く目線を交わしたのがわかった。
葵は口元で止まってしまったビールのグラスをゆっくりと下ろし、口内に注ぎ込まれたほろ苦い液体をごくりと嚥下する。
「そうですね」と葵が小さく微笑むと同時に、千恵子が「じゃっかい、早いーて」と、苦笑いで里美をたしなめた。
「佳奈ちゃんは三十二歳やったっちゃろ? 葵ちゃんはまだ二十四歳やが。二十代なんて、今の子ぉはまだまだやりたいことがあるがぁよ、ねぇ?」
優しげに肩をポンポンと叩いてくれる千恵子の手のひらが、重い。
「あー……俺、」と言いかけた蓮の言葉に、赤ら顔を自らの手でするりと撫で下ろした長友の言葉が重なる。
「葵ちゃんの子ぉなら、てげもぞらしやろね。響介さん、見たかったじゃろなぁ」
――ドクン、と痛みを感じるほどに、ひと際大きく収縮する心臓――
――とその時、ガチャンと食器のぶつかる音がして、その場のみんなの視線がパッと集まる。
「……あー悪い、手が滑った」
卓上と指先を醤油まみれにしている萩が、きまり悪げに詫びた。
「あららー」「布巾布巾」と立ち上がる伯母たち。
「こぉら、萩ー、余所見しちょったんか~」と揶揄る伯父たち。
「――お待たせー! できたよー!」
そこへ、母の明るい声が響いた。
葵は咄嗟に両手の指先を座卓の下に隠し、ぎゅっと握りしめる。
「あ! もも焼きじゃん! 美味そー! 昼、食えなかったんだよねーこれ」
伯母たちに、子供のように手を取られ拭かれながら萩が叫ぶと、母はにっこり笑って手に持った大皿を座卓に置いた。
「長友さんがね、『ひだかや』さんで買ってきてくれたの。ここのは美味しいんだから~。ちゃんとレンジじゃなくてオーブンで温めたから、固くなってないと思うよ~」
「んじゃさっそく」
素早く箸を伸ばす萩に、「お前……食い過ぎじゃないか?」と呆れる蓮。
「千恵子、ビール」「はいはい」「長友さん、取りましょか」と、他のみんなもそれぞれに動き出す中、「ほら、葵もお食べ?」と、母が小皿に取ってくれる。
「……ありがと」
受け取るために出した葵の手の指先は――ほんの少しだけ、震えていた。
* * * * *
充血した眼をしばしばさせた長友が、迎えに来た車で帰途につき、場がお開きになったのは夜九時過ぎた頃だった。
葵は後片付けを軽く手伝った後、蓮と萩に続いて風呂に入らせてもらい、出てきた時には既に客間の片隅に布団が三組、並べて敷いてあった。
葵と同じく、Tシャツにハーフパンツ姿の蓮が、一人ノートパソコンを開いている。
「あれ? 何で三組だけ? 母さんは泊まって行かないの?」
「ああ、明日の朝早いからアパートに帰るってさ。萩が送っていった」
母は昨年の末頃から世話になっていた伯父の家を出て、国道沿いの集落地にある小さなアパートで独り暮らしをしているのだ。
「歩いて?」
「いや、千恵子小母さんの軽で」
「うそ、だって萩、飲んだでしょ」
「ほとんど飲んでなかったぞ。その分ガッツガツ食ってたからみんな気づかなかったみたいだけどな。母さんを送って行きたかったんだろ」
「そっか……」
萩は幼い頃から母っ子だ。母が宮崎に移住した後、一番寂しそうに落ち込んでいたのは末っ子の萩だった。
葵は敷かれた布団の上にごろんと寝転ぶ。
大の字になると、古い天井の色濃く浮かぶ木目が目に入り、そう言えば小さい頃ここに泊まるたび、この木目が人の顔に見えたりしてちょっと怖かったよなぁー、と思い出す。
隅に寄せた座卓の上で、ノートパソコンに向かって軽快な音をたてていた蓮が、動かす手をそのままに、ふと「なぁ、葵」と呼びかけた。
「朝の話だけど……お前、ホントに今の仕事きつくないのか? いくら店長だからって、夜中二時帰宅はないだろ?」
来たなその話、と内心げんなりしつつも、寝転がったまま答える。
「きつくないよ全然。だってその分、出勤時間は普通の会社より遅いもん。それに昨日はたまたま遅くなっただけで、いつもはもっと早く帰れるんだってば」
「それでも、女が一人で真夜中帰るなんて危ないだろ。何かあったらどうするんだ?」
「何もないって。自転車で五分だよ? あの辺は治安もいいし、心配することないよ」
葵は一笑に付すが、蓮の追及はやまない。
「治安がいいなんて誰が言った? ああいう静閑とした高級住宅街こそ危ないんだぞ。単身者用のアパートなんてセキュリティも何もないようなもんだし、いつ狙われてもおかしくない。せめて終電で帰れる時間帯の勤務にしてもらえよ」
「んー、難しいよそれ。だってお店閉まるの二十三時だもん。クローズ時間過ぎても長居するお客さまだっているしさ、お店閉めてからだって何だかんだと雑用が……」
「お前さ……マンションに帰ってくる気、ないか?」
葵は思わず半身を起こす。
座卓に向かっていた蓮は、いつの間にかこちらに向き直り、複雑な感情が混じった眼を真っ直ぐ葵に向けていた。
「え? ……どうしたの、突然」
「通えない範囲じゃないんだし、現に一年目はうちから通ってたんだ。遅くなる日は俺か萩が店まで迎えに行ってやるから……」
「無理だよそんなの。蓮兄、仕事忙しいでしょ? ヘタしたら私より遅くなるじゃん。萩だって学校やバイトがあるのにいちいち慧徳まで迎えに来るなんて非効率すぎる。何度も言うようだけど、アパートから店まで自転車で五分だよ? 今のままで全然平気だってば」
「だからって、このままずっとあそこで暮らすつもりか?」
「ずっとって……そんなのわかんないよ、異動になれば引っ越すかもしれないし。……ねぇ、一体どうしたの? 今までそんなこと言わなかったのに――、」
「状況が、変わったんだ」
「状況、って?」
「それは……色々、だ」
「色々って、」
珍しくはっきりしない言い方の蓮に、訳がわからず問いただそうとした時、シャッと襖があいた。
「――葵、もうマンションに戻ってこいよ。妙光台からだって十分通えんだろ?」
驚いた二人の視線を受けつつ、どかどかと部屋に入ってきた弟の萩が、まるで今までの会話を聞いていたかのように、会話に加わる。
「あー疲れた。この辺、街灯ねんだもん」とか言いながら、葵の側にどさっと座り込み、手にしたペットボトルのミネラルウォーターをぐびぐび飲み干す弟を、葵は呆れ半分で見つめる。
「……お帰り」
「ただいま。……で? 戻ってくる気になった? 何ならオレ、毎日迎えに行ってやるし?」
「結構です。ていうか今更だよ。どうしたの二人とも。今更そんなこと言われて……――あ! もしかして、蓮兄、結婚っ?」
葵は身を乗り出した。
蓮には付き合っている彼女がいたはずだ。はずだ、というのもおかしいが、水奈瀬兄妹弟はほとんどお互いの恋愛話をしないこともあり、兄の交際状況は詳しくない。だが、別れていなければ四年か五年ほどの長い付き合いになると思う。兄もいい歳なのに、結婚の二文字がとんと出てこないなー、とは思っていたのだ。
仕事が忙しすぎてなかなか踏み切れないのか、まだ学生の萩を一人放ってはおけないと思っているのか……それなら合点がいく。
「やっと? それで、萩が一人になっちゃうからってこと? それならそうと……」
嬉々として身を乗り出した葵だったが、ほんの僅かな瞬間に、蓮と萩の間で交わされたアイコンタクトは見逃さなかった。
「何、違うの? ……二人とも、何? 変だよ?」
交互に兄弟を見やって、葵は訝しげに眉を寄せる。そんな葵に、萩は若干イラつきを見せた。
「何もねーよ。そう、結婚だよ、結婚。蓮兄だっていい歳なんだから結婚したっておかしくねーだろ。だからさ、葵に帰って来てもらった方が、何かと楽なわけ。オレも蓮兄も」
「萩」
葵と目を合わせない弟、小さな声で窘める兄……絶対、何かある。
「じゃあ、萩がうちのアパートに越してくればいいでしょ。一階の端っこ、今は空室みたいだよ。専門学校からは少し遠くなるかも知れないけど」
「やだね、だいぶ遠くなる」
「それにしちゃあよくうちのアパートに泊まるよねっ? それでそのまま学校まで行くよねっ? バイクあるんだからたいして変わんないでしょ!」
「あそこの街道、すげー渋滞するし」
「知らないよ、そんなこと!」
「やめろ、二人とも」
静かな、それでいて有無を言わせない蓮の声音で、二人は不承不承にも口をつぐむ。
小さな溜息をついて、蓮は口を開いた。
「……結婚、のことはとりあえずいい。少なくとも、萩が学校を卒業して進むべき道が決まるまで、俺はあのマンションを出るつもりはないから、その辺は心配しなくてもいい。ただ俺は、お前にもっと自分の心配をして欲しいんだよ。お前の仕事を卑下するつもりはないが、夜中の二時帰宅は行き過ぎだと思うぞ? もし万が一のことがあったらどうする? どんなに安全な土地でも絶対、ってことはない。何かあってからじゃ遅いんだ……これ以上お前に、何かあったら……言ってる意味、わかるだろ?」
「蓮兄……」
言っている意味……わかるだけに、葵は何も言い返せない。
結局、そこなんだな……と、葵の胸の内は重くなる。
やっぱり蓮も萩も、いまだに葵を心配している。……それはもう、かなり執拗に。
気づまりな空気を換えるように、葵は大きく息を吐きだして、努めて明るい声を出した。
「やだな蓮兄、私は大丈夫だよ? 今、すごく充実してる。毎日が楽しいの。仕事はやりがいがあるし、仲間にも恵まれてる。ご飯も美味しいし、夜だってぐっすり眠れてる。もう四年前のことはとっくに忘れてるよ? 蓮兄や萩が私のことに責任を感じる必要はないんだよ。たくさん迷惑かけたし心配させたし、悪かったと思ってる。でも、」
「――あんな顔して、『大丈夫』とか言うな」
「……え?」
萩の唸るような声に、葵は顔を上げる。
「さっきの、里美伯母さんや長友さんの話……動揺してただろ。オレらが気づかないとでも思ってんのかよ。あんな顔して、何が大丈夫なんだよ! 葵はいつだってそうだ、大丈夫大丈夫って……それでオレらがどんだけ――」
「萩!」
蓮の一喝に、萩はぐっと押し黙る。盛大な舌打ちをかました後、そのまま立ち上がり、「もっかい風呂入ってくる」と言い残して、部屋から出て行ってしまう。
スパンッとしまった襖を見やり、残された葵と蓮は、どちらからともなく息を吐いた。
「……母さん、気づいてない、よね……?」
蚊の鳴くような葵の呟きに、蓮はゆっくりと頭を振って否定する。
「……ああ。母さんは……何も知らない……知るわけがない……」
まるで自身に言い聞かせるかのような声に、葵は引っかかりを覚えたが、蓮を見ればその表情は柔らかかった。
「心配するな。もし知ってるなら……母さんはあんな顔しない。だろ?」
蓮の言葉に、母の屈託ない笑顔が浮かぶ。
……久しぶりに会えた三人の我が子に向ける、隠しきれない喜びを湛える笑顔。
「そう……だね。……ごめんね……」
「謝るな。謝るくらいなら、これ以上心配させるな」
「蓮兄……」
「萩の言うことは……まぁ、お前のことを心配するあまりのことだ……気にするな。あと、アパートのことだが……今すぐとは言わない。でも考えておけ。マンションに帰って来ること……いいな?」
そう言って、蓮は再び座卓のノートパソコンに向かう。
その広い背中をしばし見つめ、葵はこっそり唇を噛んだ。
―― “大丈夫” ……そう思っていたのは、自分だけ?
いや、違う。
宴会の場で、図らずも動揺してしまったことは否定しない。でも心の準備がなかっただけだ……それに、父さんの名前が出たからビックリしただけ。まさか、あの場所で、あんな話題になるとは思わなかっただけ。
――そう、私は大丈夫なんだってば。
口に出せない反論を心で叫び、葵は再び布団の上に寝転がる。キーが打ちこまれるリズミカルな音を聞きながら、再び天井の木目を目線でなぞった。
さっき蓮に言ったことは葵の本心で、嘘偽りはない。
仕事は確かに体力気力を使うし、厳しい事態に直面することもある。でも、遣り甲斐があって楽しいし仲間にも恵まれている。来店してくれる客との交流は三年目にしてようやく板についてきた。常連客と交わす会話も、少しずつ増えていく顧客の顔を覚えていくのも、何とも言えない楽しさがあることに気づいた。体力勝負な面はあるがその分、夜は良く眠れるし嫌な夢も見ない。毎日出る賄いはいつだって最高に美味しく食欲不振に陥ることもない。
健全な身体に健全な魂宿る――と言うが、本当にその通りだと思う。
今、葵は毎日が充実しているのだ。
――だから、私は、大丈夫。
心の中で、葵は何度も唱える。
――ダイジョウブ、ダイジョウブ……ワタシハ、ダイジョウブ。
逆に、蓮兄や萩こそ、何か、変だ。
心配してくれているのは身に沁みてわかっている……今までも二人揃って何やかやと過保護な心配はしてくれていた。けれど、一人暮らしだって認めてもらっていたし、ここまで仕事に口出しするようなことはなかった。
実家のマンションに帰ってこい……?
そんなの無理だ。店長である自分が、終電を気にして仕事をおろそかにするわけにはいかない。だから、一人暮らしを始めたんじゃないか。
そもそも、慧徳学園前店は社員が佐々木チーフと葵の二人しかいない。
佐々木には厨房関連の発注や棚卸全般をやってもらっているし、料理に関する一切の取り決めも彼一人に任せてしまっているので、結局、残りの店全体に関する事務処理はすべて、葵がやらなければならないのだ。
もし、ここで葵の仕事を中途半端にするようなことがあれば、そのしわ寄せはチーフの佐々木か、担当マネージャーに負荷されることになってしまう。それは絶対に避けたい。
――黒河さんだって、忙しい身なのに……
クロカワフーズのマネージャー陣は今、『紫櫻庵』オープンに向けて、想像以上に多忙な毎日を送っているらしい。また、『紫櫻庵』に人員を引き抜かれてしまった他の店舗でも、人員不足から超過勤務を強いられているスタッフは少なからずいるようだ。
超過勤務で頑張っているのは葵だけでない。むしろ上司に比べれば、自分の勤労時間など可愛いもんである。大体、葵はこれくらい忙しい方が性にあっているのだ。辛いとはこれっぽっちも思わない。
――やっぱり、どう考えてもマンションに帰るなんてできない……
ごろんと寝返りを打って、うつぶせになってみる。
軽快なキータッチ音は止まないまま。ちらりと目だけで兄の背中を見やり、葵は客用枕に鼻先まで埋まる。
――おかしい……何であんなこと急に……うちの近所で何か事件でもあったっけ? ……ううん、そんな話聞いたことないし……女が一人で夜中に……って仕方ないじゃない、私がお店のセキュリティかけなきゃなんないし……送ってくれる人なんか……
――と、そこで一人、思い浮かぶ人物。
そっか、送ってくれる人、いないわけじゃなかったな……
実はつい何日か前まで(毎日ではなく時々だが)葵が出てくるのを店の裏で待っている人がいた……遼平だ。
今月はGW明けてからも何かと忙しく、遅くなりがちな葵のことを気にかけてくれたのだろう。いつかの夜、一度送ってくれた時以来、何も言わずとも待っていることがあった。
もちろん葵は、大丈夫だよ、送らなくていいよ、とその都度やんわり断っているのだが、遼平はまるで忠犬のように店裏の駐輪場で待っている。
だから、それが何度か続いたある晩、「待たれても困るの! さっさと帰りなさい!」と、つい強い口調で叱ってしまった。
送られるのが嫌なわけじゃない、むしろ心配してくれたことはかなり嬉しかったのだ。でも、遼平の身体のことを考えると、それに甘んじることはできなかった。
遼平は調理専門学校へ行っているため平日の朝は早い。その上、土日祝日であれば必ず朝からシフトに入っているので、これまた朝は早い(厨房メンバーは仕込みのためフロアメンバーよりも数時間早く出勤する)――結局、彼は休みなしなのだ。
だからこそ、仕事が終わったらすぐに帰って少しでも身体を休めて欲しかった。……そんな思いから、遼平の好意を突っぱねたのだが。
ともすれば、迷惑だ、的なニュアンスを含ませたあの言い方は、やはりマズかったかな、と少々反省している。
その後、遼平が待つことはなくなった。
その代わり、あれから葵に対して妙に余所余所しく、避けているように感じるのだ。
『敦房』の頃から長く付きあってきた分、葵も遼平に対しては姉のような心情で接していたし、逆に彼も葵に対しては、無口で無愛想ながらも彼なりに懐いてくれていると思っていた。その分、この微妙な態度の変化には一抹の寂しさを感じる。
――そんなに、頼りないかなー……私……
この遼平の件にしろ、先ほどの蓮と萩にしろ、周りが葵を心配してくれているのはわかるが、それは自分の未熟さゆえなのだろうか……と、さすがに自信をなくす。
どんなに頑張っても、なりふり構わず心血注いでも、自分はまだまだ、若くて未熟で実績も経験も伴わないヒヨっ子店長――なかなか一人前には程遠いようだ。
ずぶずぶと沈んでいく思考とともに、じんわりとした睡魔が葵の身体を包み込む。
寝心地のいい身体の向きを探し寝返り薄ら開けた半目に、部屋の隅に置いてある紙袋が映った。中身は、昼間に寄った土産物屋で買った菓子箱と、芋焼酎二本だ。
前回お正月に宮崎へ来た時、宮崎産芋焼酎を佐々木のお土産として買ったのだが、思った以上に喜んでくれたので、また今日購入した。
そしてその時、不意に担当マネージャーの顔が浮かび、つい同じものをもう一本買ってしまった。
彼がお酒を飲むのか、焼酎を好むか、葵はその辺りまったく知らないことに気づいたが……まぁ、まさかお酒が飲めないってことはないだろう。こないだ『兆京』のビフカツをご馳走になったお礼だ……変な顔をされたら、そう言えばいい。
――でも……焼酎……しかも “芋” は好き嫌いがあるしな……食べ物の方がよかったかな……お菓子……? 黒河さんに……? マンゴーキャラメルとか……イメージじゃない……
ゆるりとした気だるさがより濃く身体全体を蝕んでいく。
うつらうつら、とりとめもなく脳内を交差する、雑多な色と形、曖昧な映像。
その中でひと際色濃く浮かぶ人のような形が、ゆらゆらと滲んでいく。
……水底の奥深くに潜んでいるようなおぼろげな姿は、いったい誰なのだろうか。
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