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第1部
Tボーグ、黒河侑司のお仕事(前編)
しおりを挟む「――五メートル! ……四、……三、……二――、」
ピーッ、と鋭く響く笛の音と、ザンッ、と跳ね上がる水音。
ぐん、と身体をひねって脚を蹴りだし、水を割ってうねり進む。
『――今日はサンキュ。休みだったのか?』
「……いや」
『ふ……葵から聞いてるが、お前も大概ワーカホリックだな。……でも、店を貸してくれたのはありがたかった。本当は別の場所を考えていたんだろう? 無理言って悪かったな』
「……構わない。かえって手間が省けた」
『なぁ……お前は、その手間を惜しんでいたのか?』
思わず詰まったその向こうで、電話の相手がくつくつと喉奥で笑ったのが聞きとれた。
『……まぁ、いいけどな。とりあえず、妹はまだ病み上がりだ。兄としては自分の意志で立ち上がり前に進んでもらいたい。強引に引っ張り上げるのだけはやめてくれ』
「……何の話だ」
憮然とした声音をどう捉えたのか、水奈瀬蓮は静かに言った。
『加えてあいつは、キズものだ。無理に押しつけるつもりはないさ。だがな黒河……だからこそ……覚悟がない奴は、いらないんだ』
――ゴゴッ、と水が鳴る。
大きく掻く腕がいつもより重い。
ザンッ、ゴゴッ、――身体にまとわりつく水が、重い。
昨夜遅く、自宅に着くと同時に入った携帯端末の着信――相手は水奈瀬蓮。短い会話の後、こちらの神経を逆撫でするような不快感を残して通話は切れた。
なるほど、これがこの男のやり方なんだな、とすぐに悟った。
――衝くべきポイントを瞬時に見抜き、絶妙な言葉回しで心理的に追い込んで、退路を断つ。
あの “盗聴器” も、おそらくその手法で “ターゲット” に自ら仕掛けさせたのだろう。
そもそも、慧徳の店を使わせてくれないか、と言ってきたのは水奈瀬蓮だ。
あの納涼会の翌日いきなり電話してきた彼は、『アウェーよりホームの方が、精神的に楽だと思わないか?』と、どこか面白がるような口調で言う。
水奈瀬兄の、ある意味異常な過保護ぶりに呆れながらも、侑司は了承した。まだここだと決めていた場所があったわけではない。
盲点だったな、と苦笑が漏れた。確かに、彼女にとっては “ホーム” だ。
ピ、ピ、ピーッ、とホイッスルの音がもう一度鳴る。
ラストワンターン。
水音がくぐもり視界が狭まる。
――元恋人と、四年ぶりの対面を果たした、水奈瀬葵。
自分には関係のない事だ。首を突っ込む謂れはない。
それならば、何故昨日、自分はあの店へ出向いたのだろう。次々と足音を忍ばせて裏口から入ってきたあの四人を笑う資格もない。
事務室のパソコンに向かい、侑司は努めて、フロアの方から意識を逸らし続けていた。
定休日に私用目的で店を開けるのだ……何かあった時の責任は自分にある……だからここにいるのは妥当だ……そんなことを繰り返し考えていた。
――長い一日、だった気がする。
ここ数年、一日が長く感じることなど一度だってなかったのに。
果たして、話し合いは上手くいったのか。
伊沢尚樹という男は、今月中に勤めている百貨店を退職し、実家のある金沢へ帰るという。
水奈瀬葵に全てを話して許しを請い、さぞや気持ちよく帰って行くのかと思っていたが、予想に反して水奈瀬蓮に向けたあの男の笑みは、遠目に見てもわかるほどに物憂げで泣きそうに見えた。
――だが、どうでもいいことだ。
悲哀感漂う後ろ姿を一瞥した後、侑司はあの男に関する思考を断ち切った。
もう二度と、あの男が水奈瀬葵の前に現れることはないはずで、自分は金輪際関わることのない人間だ。
考えるだけ時間の無駄であり、労力の無駄である。しかも、考えるほどに澱んだ不快な感情が生まれてくるのだから、忌々しい。
“話がしたい” だの “謝りたい” などという言葉が、妙に耳触りで仕方なかった。謝罪され誤解を解かれたところで、過去に受けた傷が癒えるわけでも、消えるわけでもない。
なのに結果として、 “彼女” と “彼” の対面を促すような真似をしたのは、他でもない自分だ。
――やはり、考えるほどに、忌々しい。
「――今日は調子悪そうですね。お仕事、詰まってました?」
水から上がりゴーグルとキャップを外したところで、年若いインストラクターがやってくる。侑司より年下でも世界選手権レベルの元選手だ。見る目は鋭い。
爽やかな笑顔に、侑司は曖昧な笑みを返した。
ここ数年でようやく “気晴らし” にまで昇華させた “水泳” だが、今日は全く逆効果だったようだ。
いつも以上に重力を感じる身体でプールサイドを抜け、更衣室に向かう。
都心にある某スポーツクラブ。割と有名で評判もいいクラブだが、平日の午前中とだけあって、さすがに利用者も少ない。
ここを出たその足で本社へ行くつもりの侑司はスーツ姿で来ている。ワイシャツを着こんだ時、ふと肩口に手が伸びた。
左肩のその箇所は、昨日、しっとりと濡れた部分。
同じシャツのはずもないのに、柔らかく仄かな甘い香りが、未だ残っているような錯覚。
――何を、莫迦な。
振り払うように頭を振って、侑司は手早くスーツを身にまとった。
* * * * *
九月最初のマネージャー会議は、いつものように営業事業部室の中で行われた。その内容は主に、年度後期に行われる各イベントについてのプラン日程や企画予算の練り上げだ。
特に後期はボージョレーヌーボー解禁から、クリスマス、年末年始にバレンタインデー、ホワイトデー等々、とかくイベント事が多く、忘年会や送別会シーズンも重なることから大型宴会(パーティー)が入ることも多い。
季節ごとの企画ものは毎年『櫻華亭』と『アーコレード』共通のコンセプトのもと、各店舗それぞれが独自のイベント特別メニューを、期間限定で出す。しかし、その中でもホテル店舗はホテル自体が催すイベントやフェアを優先させなければならず、また今年は『紫櫻庵』が加わったこともあって、特別メニューひとつを組み立てるのもかなり難儀しそうだ。
各店舗の料理長らが、なるべく制約や負担を感じずに限定メニューを考案できるよう、経営陣はあらゆる場合を想定しながら企画を練るため神経を使う。
だから、ようやくの会議終了後、さらにうんざりするような声をかけないで欲しいのだが――、
「ユージっくーん、おっつかれー。ねーねー、ご飯食べに行かなーい? 語り合いたいこともたっくさんあるしさー」
台詞だけ見ればどこの女が誘ってくるんだと思うが、声の主はれっきとした男で、しかも同じ営業事業部の先輩なのだから、その軽さに溜息を吐きたくなる。
が、そこはTのつくサイボーグと呼ばれている黒河侑司である。うんざり感は微塵も出さずにさらりと受け流す。
「これから赤坂で打ち合わせです。来週、大口の宴会が入ったので」
ビジネスバッグに書類を詰めながら言えば、隣の先輩、杉浦崇宏は「えー」とそれは大人げなく口を尖らせた。
「そんなの蜂谷にやらせりゃいいじゃーん、支配人なんだしー。ああ、今田顧問にお任せしちゃえばー? アナタの好きなパーティーですよーって」
好き勝手なことを言い放つ杉浦に、ちらりと一瞥くれてやれば、「あ、でも、めちゃくちゃになりそーだねー、あははー」と一人で笑っている。
今、侑司が受け持っているのは『アーコレード』の三店舗なのだが、加えて『櫻華亭』ホテル店舗の三つもフォローしなければならない現状となっており、それはもはや社内の中で暗黙の了解事項だ。
それでも『紫櫻庵』が正規オープンして一か月ほど経った今は、だいぶ楽になった方だ。
徳永GMや鶴岡マネージャーが『紫櫻庵』からひとまず手を引き、さらに『紫櫻庵』オープンのために『櫻華亭』や『アーコレード』各店舗から引き抜いた穴が、ようやく均され馴染んできたというのもある。
そして何より、度々問題を引き起こす今田顧問が、ここしばらくはあちこち闇雲に手を出すこともなく、現場を混乱させるような事態が起きていない。
よって、夏前の不眠不休状態に比べれば、今の忙しさなど侑司にとっては通常業務の範疇だ。
黙々と帰り支度を続ける侑司の傍らで、杉浦は「残念だなー、色々聞きたいことがあったのになー」などと、まだしつこく言っている。
そして、不意に身体をぐいと近づけて、ひそめた声で侑司の耳元に囁いた。
「……アオイちゃんの “認知行動療法” ……的な話、とか?」
侑司の眉根が僅かに寄った。
一体、この先輩はどこから情報を仕入れてくるのか。その鼻の利き具合は、時おり侑司でさえ目を見張るものがある。
杉浦は、室内に残ってまだ話をしている徳永GMや鶴岡マネージャーにちらりと目を向け、いそいそとさらにその身をすり寄せてきた。
「別に興味本位なわけじゃないよ? ……あー、まぁ、それもちょこっとあるのは否定しないけど。俺はさー、アオイちゃんのトラウマが少しでも改善されればいいなーって思ってるわけさー。彼女だってずっとあの店に居続けるわけにはいかないだろー? 有能な人材は、無理強いしてでも引き上げたいのが “上” の本音だし。となれば、アオイちゃんはいずれ必ず、あそこから出される……もっと広い世界でやってくには、過去のトラウマなんて邪魔なだけなんだよ」
珍しくも真剣な面持ちで、杉浦は言う。
「――世の中……慧徳みたいに、いいヤツばっかりじゃない……だろ?」
侑司の手が一瞬止まったのを、杉浦は逃さず目に留めたのだろう。
もう一度素早く周りに視線を走らせ、コソコソと、そして嬉々とした色を滲ませた声で続ける。
「――で? 何があったのー? 知らないふりしても無駄だよー。ユージくんてば、昨日の日付で慧徳の休日解錠申請出してたでしょー? バッカだねー、黙っときゃわからないのに律義に申請出したりするから、この杉さんにチェックされちゃうわけよー? あ、だいじょぶだいじょぶ、ダーレにもバラしたりしないからさー。ボクは品格と教養と人徳を兼ね備えた華麗なるジェントルマン、なわけだしー」
――うっとおしい。
それでなくともここ最近、侑司の周りは余計なことで騒がしく、肉体的よりも精神的疲労度が高い。
侑司はそういった心的感情が表に出にくい性質なのだが、やはりそれを察知する人間はいる。つい一昨日も、母であり上司である黒河統括部長に、「近寄るなオーラが半端ないわね」と言って鼻で笑われたばかりだ。そこで、「大丈夫?」の一言もないのが黒河沙紀絵という人間なのだが。
つまるところ、ここでこのチャラけた先輩につき合い無駄なエネルギーを消耗したくはないのである。
なおもしつこくすり寄る先輩を悉く無視し、スーツのジャケットを羽織ったところで、「侑司くん」と声がかかった。
営業事業部のマネージャーの一人、『プルナス』担当の西條だ。
さっきまで部屋の隅で電話をしていた彼は、薄型端末を胸にしまいながら、その日本人離れした顔に優しい微笑みを浮かべてこちらにやって来た。
「例の件ですが……遠慮なく採用させていただきましたよ。早速先週から、週二、三日を目処に入ってもらっています。本人も楽しそうに仕込みをされていらっしゃるようで。本当はメインで腕を振っていただきたいのですが……すげなく断られました。今のところはもっぱら裏方専門、です」
「そうですか……ありがとうございます。無理を言ってすみませんでした」
「いえいえ、お礼を言うべきはこちらですよ。腕の立つ料理人を埋もれたままにしておくのはもったいないですから。彼ほどのシェフならいくらでもお引き受けしたいものです」
「……シェフ……腕の立つ料理人……?」
二人の会話をじっと聞いていた杉浦が、耳聡く片眉を上げる。
西條はそんな杉浦を面白そうに眺めて、そして侑司に向いて、にこやかに笑った。
「面接した時に君の話が出ました。懐かしい話もね。今度店にいらっしゃい。彼もきっと喜びます……ああ、予約は二名からですので、あしからず」
清んだ色が複雑に混じり合う瞳で片目配せすると、西條は「じゃあ、僕はこれで」と他の面々にも挨拶しつつ、部屋を出て行った。
その後ろ姿を見送る侑司の隣で、杉浦が「ふぅん」と呟きニヤリと笑う。
「店、ねぇ……『メランジール』のことー? で、西條さんが直々に面接…… “腕の立つ” と言わしめる料理人……ねぇ、それってもしかして……濱野さん?」
横目で問われるが、すでに杉浦の中では確信事項なのだろう。侑司が何も言わずとも、「なるほどなるほどー」と、一人納得している。
「……お先に」
侑司は低く唸って、徳永と鶴岡に挨拶し、営業事業部室を出た。
え~ユージくんつれなーい、などという戯言は背後に残して。
* * * * *
濱野哲矢――水奈瀬葵が学生の頃から世話になり、多大な恩を感じているその人は、実は、侑司にとっても恩師にして恩人でもある人だ。
彼と侑司とのつながりを知っている者は、クロカワフーズの中でもよほど古株の人間に限るだろう。(杉浦という例外はある)
彼は数年前、それまで営んできた『敦房』という洋食レストランを畳んだ。長年大事に守ってきた店を閉めたその理由は、その身に患った病気にある。侑司もその病名を知っているからこそ、彼が断腸の念で起こした決意を思い止まらせることは出来なかった。
店を閉めた後、ほどなくして大きな手術を受け、成功した後も入退院を繰り返していたようだが、今は通院しながら自宅療養に専念し、ずいぶん体調も落ち着いているらしい。
侑司はつい先月、久しぶりに濱野哲矢と会った。
侑司の祖母が通う病院にたまたま迎え役を仰せつかって出向いたのだが、偶然彼も同じ病院に通院していたのだ。
記憶の中の濱野氏より幾分痩せて、髪も口髭も白いものが交じるようになっていたが、我が子を見るような慈愛に満ちた眼差しや、その中にきらりと光る悪戯っぽい輝きは昔のままだった。
「療養中の身とはいえ元々が貧乏性でね、身体を動かさないとカビが生えそうだよ」
冗談ぽく笑った彼に、侑司はあることを提案した。
それが、西條マネージャーが独自で経営している『メランジール(Mélanger)』というレストランでの仕事だ。前に西條から、『メランジール』で料理人の人員が不足していると聞いていたので、それを思い出したのだ。何よりこの店は少々特殊で、濱野のような病気持ちの人間にも融通の利く雇用条件が提示できる。
侑司の話を聞いた濱野は、目を見開いて驚いた後、大きく噴き出して笑った。なにせ、かつて二人の間でやり取りしたまったく逆のことが、再びここで繰り返されたのだから。
「考えておくよ」と笑うだけで、その時ははっきりした返事をもらえなかったのだが、先ほどの西條の話からすると、どうやら侑司の勧めを受けてくれたらしい。
料理が好きで人が好きで、もてなすことが好きだった濱野哲矢氏。
思えば、最初に彼と出会った時から侑司は、その惜しみない “もてなし” の心に敬服し続けてきたのかもしれない。
――濱野哲矢と侑司の出会いは、かれこれ二十数年前にさかのぼる。
とある文教地区の一角に構えた洋食レストラン『敦房』へ、侑司が初めて訪れたのは五歳になる少し前だったか。珍しくも、父黒河紀生が一緒であった。
その頃、父は既に先代から総料理長と社長の座を譲り受け、毎日繁忙極まりなかった。休みはおろか、一家揃って食事をすることもなかったほどだ。
一方で母は、クロカワフーズの経営に携わる中、僅かな暇を見つけては和史と侑司の二人を連れ、様々なジャンルにおける高級飲食店を巡っていた。それこそ子供心ながらにうんざりするほど。母にしてみれば、息子二人に一端のマナーはもちろんのこと、一流の味やサービスを、早いうちから叩き込みたかったのだろう。
そんなある日、唐突に父が侑司を連れ出した。母も兄もおらず、父と二人だけで出かけたのは後にも先にもこの一度きりだ。だから、よく覚えている。
その店に入るなり、「おおー、来てくれたのか」と、コック着姿の男性が満面の笑みを湛えて出迎えてくれた。この口髭の男性が濱野哲矢だった。同じく満面に優しげな笑みを浮かべた女性が彼の妻、美津子だ。彼女に案内され、父子は狭いカウンター席に並んで座った。
どうやら父は、この店の人と知り合いらしい、ということはわかった。
しかし、侑司は初めて見る人だ。初めて会ったのに、口髭の柔和な小父さんはやたらと懐かしそうに侑司を見る。
「おっきくなったなー、侑司くん。何が食べたい? ああ、そうだ、特別メニューにするか? オジさんがスゴイの作ってやるぞ?」
その瞳は、素晴らしいマジックを思いついたかのように、キラキラと楽しげに光っていた。
ほどなくして出てきた一皿は、一生忘れられないだろう。
ハンバーグとチキンライス、エビフライとポテトサラダ、ナポリタンスパゲティーまで、それぞれが少しずつ色鮮やかに盛られた “お子様ランチ” 。
真ん中にちょこんと鎮座する、ミニトマトとマッシュポテトで作られた小さな小人が、驚く侑司を見上げていた。
唖然としたままじっとお皿を見つめる侑司に、濱野が慌てて「こういうのあまり好きじゃなかったか?」と聞いてきた。「珍しいんだろう。たぶん初めてだと思う」と父が苦笑したのも、侑司はおぼろげに覚えている。
そう、本当に初めてであった。
ずらりと並べられたカトラリーではなく、フォークとスプーンの二本だけを使って食べた。
どれから食べようかと迷うのが楽しく、あちこちフォークが彷徨っても叱られなかった。
折れそうな背の高いワイングラスに入ったミネラルウォーターではなく、ファンシーな絵柄の取っ手のついたコップでオレンジジュースを飲んだ。
何から何まで新鮮で、心の底から美味しい、と思った。
夢中で “特製お子様ランチ” を平らげる傍ら耳に入る父たちの会話から、この口髭の小父さんと父は侑司が生まれる前からの友人で、彼の奥さんもまた侑司の母と仲良くしていたことを何となく知った。
“目指す道” だとか、 “抱えていくもの” だとか、難しい話はよくわからなかったが、有名老舗洋食屋の総料理長という立場にいる父は、この小さくて庶民的な店を心から称賛していたように感じた。
ナポリタンのトマトソースで汚れてしまった口元を、奥さんにかいがいしく拭いてもらいながら侑司も、この店は好きだな、と思った。
「またおいで」
そう言われたのに、その日から数年、侑司が『敦房』へ行くことはなかった。
父はますます忙しく、幼い侑司が一人で行けるはずもなく、母は相変わらず侑司と兄を高級レストランに連れ歩いた。
慧徳学園の小学部から中等部へ進み、行動範囲が広がるにつれて、線路を挟んで学園の反対側にある小さな洋食屋が、昔行った『敦房』だということに気づいた。
だが、侑司が立ち寄ることはなかった。
その頃はもう、お子様ランチを食べる年齢ではなかったから。
そんな侑司が濱野哲矢と再会したのは、高校二年の夏前のことだ。
とある事件がきっかけで、それまで一心に続けていた競泳部を辞めざるを得なくなり、当時の侑司は失意と虚無感に苛まされていた。そんな時偶然、駅の周辺で「おお、侑司くんじゃないか!」と声をかけてきたのが濱野哲矢だった。
その頃の慧徳学園高等部は、校則でアルバイトの禁止が明記されていなかったこともあり、侑司は誘われるまま『敦房』で調理補助のアルバイトを始めた。そしてそれは三年の卒業間近まで続いた。
今思えばその奇遇の裏には、もしかしたら父の介入があったのかもしれない。
稀代の料理人と称された祖父と、洋食界におけるカリスマ的存在の父、そしてそのDNAを確実に受け継いだ兄――反して、黒河家の次男でありながら天賦の才に恵まれなかった自分。
侑司は早いうちから己の身の程を悟っており、父や兄をもてはやしがちな周囲に一線を引いて壁を作るようになっていた。一方で父は、そんな次男の劣等意識を察していながら、フォローする時間もきっかけもなかったのだろうと思う。
そんな父子の微妙なすれ違いを知ってか知らずか、侑司の閉塞した思考に風穴を開けてくれたのが濱野哲矢だ。
料理人としてのセンスはなくとも、侑司が持つ冷静で鋭い観察眼、合理的効率的に物事を見極める洞察力や判断力を、彼は見出してくれた。そして、レストランという世界には “料理人” の他にも必要とされる重要な仕事が多くあることを教えてくれたのだ。
その時初めて侑司は、混迷した己の将来設計に、薄らとした一本の道筋を見出すことができた気がした。
濱野哲矢に出会わなければ、今の侑司はなかった――決して過言ではない。
高校卒業後の進路を、兄が行った某有名調理師専門学校ではなく、一般大学進学と決めた侑司に、濱野は一軒のレストランを紹介してくれた。アルバイト先にどうだ、と言って。
それが、西條マネージャー(当時はマネージャーではない)が経営する『メランジール』という店だ。
――少し変わった店だが、絶対勉強になるぞ。
そう言って、彼は侑司を送りだした。
侑司は大学生活の四年間、その『メランジール』でかなり鍛えられたと思う。コックとしてではない。主に、マネジメント全般において、だ。
先日、彼が大きく笑った理由は、おそらくそれだろう。
数年ぶりに再会した元雇い子に勧められた店は、昔自分が紹介してやった店。
弟子に誂えた修行先を、その弟子から勧められるとはな――、と。
決して同情心で勧めたのではない。ただ侑司は、生粋の料理人で厨房に立つことを生き甲斐としていた濱野氏に、病を理由に引きこもって欲しくなかった……それだけだ。
――ああ、侑司くんの気持ちは充分わかってるさ、気にするな。
そう言ってまた、楽しげに笑ってくれるだろうか。
* * * * *
グランド・シングラー赤坂の最上階に構える『櫻華亭』。
ホテル店舗三つの中でも一番初めにできた店で、オープン当初から十数年は黒河紀生が料理長を務めたことでも有名である。
ホテルの最上階フロアには他に二軒、レストランが入っているが、ディナーオープンまでまだ時間があり、周辺は閑散としていた。
店の表エントランスから入れば、レジカウンターに二人の人物。何やら声を潜めて話をしているようだが、決して楽しい話ではないだろうことは一見してわかる。
侑司の姿に気づいた二人はハッとしたように顔を上げるも、そのうちの一人がすぐに、人を食ったような不敵な笑みを浮かべた。
「――お疲れさまです、黒河マネージャー」
ここに居るはずのない人物――『櫻華亭』シングラーホテル日比谷店の支配人、豊島だ。
そろそろ四十歳になるらしいが、その外見は侑司と同年代と言われてもおかしくないほど若い。長めの黒髪を品良く撫でつけ、身のこなしや喋り方も洗練されている。が、あくまでも人為的に作られたような外面だ。
「いや、日比谷に入った大口宴会のプランが、ゲストの都合で変更になってね。まったく参っちゃうよ、飲み放題のリカーの種類を増やせって、急に言い出されても発注が間に合うわけないじゃない? だから急遽、赤坂に借りに来たのさ」
こちらが何も訊かないうちに、豊島は大げさな身振りでおもねるように言う。
その傍にいるもう一人――赤坂の支配人蜂谷は、否定も肯定もせず無表情のまま黙々とメニューの差し替えをしている。
――またか、と思った。
「急を要する場合、食材の過不足は本店、リカーの過不足は『プルナス』を通して調整する、と決められていますが」
侑司の言葉に豊島はグッと詰まった。が、すぐさまふてぶてしい笑みを浮かべ言い返してくる。
「大した量じゃないんだ、『プルナス』さんを煩わせるまでもないと思ったんだよ」
鼻で嗤う見下した物言い。年下の上司に敬意を払うことはすなわち、人生における最大の屈辱とでも思っているに違いない。
この豊島という男は、自尊心の塊でできているような人間だ。大方 “客の都合で” というのは言い訳で、発注し忘れ、もしくは発注本数のミス、といったところだろう。以前にも何度かあったことだ。その度にこうして赤坂に助けを求める。
侑司は内心嘆息する。豊島の事務処理能力は役職にあるまじき低レベルだ。
「貸し借りの分は必ず帳票で計上して下さい」
豊島と蜂谷、両者に告げれば、蜂谷が「はい」と返す傍で、豊島は小さく舌打ちを返してきた。
侑司は構わず、その場を離れフロア奥の事務室へ向かう。
その時、フロアのバックカウンターからアテンドの木戸穂菜美が走り出てきたが、侑司は「お疲れ」とだけ言って目も合わせず通り過ぎた。
『――ああいうタイプって思い込みが激しいんだよねー。キッチリ線引きしとかなきゃ、後々やっかいだよー?』
いつだか杉浦が意味ありげな忠告をよこしたことがある。
ああいうタイプ――侑司から見れば、世の中の女性というものは二極化されており、その大半が “ああいうタイプ” だ。
相談事、と称して泣き言や愚痴を聞かされるのは時間の浪費でしかない。金輪際、願い下げだ。
ここへ来るたび味わう羽目になる、諸々の不快感を習い性で抑え込み、侑司は事務室のパソコンを起動させた。
それからしばらくして、事務室のドアがノックされた。
「――黒河マネージャー、青楠女子大OG会の方がお見えです」
声をかけたのは、赤坂の蜂谷支配人だ。
高めの滑らかな声質と小さすぎる黒目が爬虫類を思わせる外見だが、豊島とは真逆というべきか、事務処理などの手際はおそろしく几帳面で、神経質なほどに万全を期するタイプである。
杉浦と同い年なので、彼にとっても侑司は年下の上司となるのだが、少なくとも先ほどの豊島とは違い、表面上は礼を弁え、楯突いてくることもあからさまに敵視されることもない。
ただ彼は、豊島以上に、今田顧問のお気に入りだ。
「わかりました」
答えて立ちあがった。
青楠女子大OG会とは、来週赤坂に予約が入っている大口宴会の客だ。
こういった宴会予約は、通常その店の支配人と打ち合わせをするものだが、この幹事はどういうわけか侑司を担当者に指名してきている。
奇妙な感じはしたが、本店の支配人をしていた頃に懇意となった顧客が口コミで紹介してくれたのかもしれない。そう考えて、特に怪しむことなく請け負った。
ディナータイム前のフロアに出て、木戸穂菜美が寄越すまとわりつくような視線を無視し、侑司はフロアの一角に設えられたVIPゾーンと呼ばれる隔離スペースに入った。
「――お待たせいたしました。マネージャーの黒河です」
一礼してその客を視界に入れても、侑司は気づかなかった。
「……黒河くん」
四つのテーブルを配したその一つに、たった一人、座るその女性。
名を呼ばれても、侑司はまだ、わからなかった。
しかし、普通の客ならば侑司を “黒河くん” とは呼ばない。
「久しぶり、だね……黒河くん……」
顎下のあたりで大きくカールした髪が、傾げた首の動きに合わせて揺れた。
そこで、ようやく、思い出した。
「……富田」
――富田遥香。
高校時代の一時期、つき合ったことのある女。
――競泳が続けられなくなった一因を、作った女。
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