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第2部
義理か情けか、池谷夏輝
しおりを挟む正午はとうに過ぎた長閑な午後のひと時。
水曜日の今日はバイト先の店も定休のため、四限目に専門課程の講義を入れている。少し早めに大学へ着いた池谷夏輝は、いくつかの提出しなければならない課題を片付けようと思い、人気の少ない構内のカフェテリアにぶらりと入りこんだ。
――と、フロア奥の隅っこのテーブルに、一人ぽつねんと座る見知った背中。肩を落として俯き加減で、何をするわけでもなくぼんやりしている様が、遠目でもよくわかる。
池谷は内心溜息を吐きつつも、まずは販売機に向かった。
「――サボリか」
「……池さん」
突然目の前に現れた先輩の姿に、斉藤亜美は一瞬驚いた様子で瞳を見開いたが、すぐにその目から生気が失われていく。
コーヒーのカップを持ったまま亜美の向かいに腰を下ろし、池谷は容赦なく無慈悲な視線を浴びせてやった。
テーブルには教本やノート、筆記用具が出されているが、勉学に勤しんでいたわけじゃないだろう。項垂れていた亜美は、捨てられた子猫のような目で池谷を見上げて、そして再びシュンと俯いてしまう。
……恋に悩める乙女、ってヤツか。……っとに、バカだなこいつも。
はっきり言って、面倒臭い匂いしかしない。うんざり感を見せつけるように、池谷は腕と脚を大仰に組んだ。
実は池谷、こう見えて今、かなり忙しい身なのである。
卒業・渡米を控え、諸々の手続きや準備は予想以上に多い。大学での単位はギリギリ取得できそうだが、提出する課題はいくつか残っている状態だ。今更、成績の優劣などどうでもいいが、卒業できないのは少々困る。
さらに、渡米経費やその後の生活資金を少しでも蓄えておきたいため、空いた時間はバイトに入って稼ぎたい。
よって、ミジミジと女々しくイジけている女に構っている暇はないのだ……けれど。
「……それで? あからさまにシフト入りを減らしてる理由は? バイト、辞めんの?」
無視できない自分に苛立ち、その苛々を冷たさに変換して遠慮なくぶつけてやる。途端、じわっとわかりやすく滲む大きな瞳。
ちっ、と舌打ちの音も盛大に、池谷はその美麗な顔を大きく顰めた。
――マジでめんどくせぇ。
池谷は、煩わしいことや面倒くさいことが大嫌いである。特に、他人との関わりにおいては常に、浅く薄く、が基本だ。
友人とは適当に当り障りなくつき合えればいいし、さらに女に関しては後腐れなくその場その時を楽しめればいい。深くて濃くて複雑に絡み合う人間関係など疲れるだけ。人に依存せず期待もしなければ、裏切られることも失望することもない。
こういったある種の諦観は、もしかしたら、池谷以上に美麗な顔を持ちながら、現実をしっかり見据えることができず長いこと不遇にあった母を、ずっと間近で見てきた反動なのかもしれない。
厄介なのは御免だ。ややこしくなりそうな予感がした時は、近寄らないことが肝心なのだ。
グズ、と鼻を啜って「池さぁん……あたし、もう、ダメかも……」と涙声を醸し出す目の前の女など無視するに限る。不毛で無意味でまったく理解できない女に構わず、今すぐ立ち上がって背を向ければいい。
「んなの、最初からわかってたろ? いい加減気づけよ」
――なのにさ、なーんで毎回毎度、自分からどっぷり浸かりにいっちゃってんの、俺。
「……ふぇ……だ、だってぇ……」
くしゃ、とその顔を歪ませるのは、彼女なりに精一杯、悲しさと切なさをアピールしているのだ。故意に演じているとは思わないが、陶酔してんな、と思う。
顰めた顔のまま、池谷は紙コップの縁に歯を立てた。
例えば、この女のことが好きだとかいう事実があるのならば、まだ納得できるのかもしれない。
だがあいにく、池谷は誰かに対して本気の恋愛感情を持ったことがない。にもかかわらず、こうして面倒なことに向き合ってしまうのが、どうしようもなく不本意で仕方ない。
知らぬ間に厄介事へ巻き込まれている時、それはいつも “店絡み” だ。見て見ぬふりができぬ時、いつもそこに “バイト仲間” がいる。
自分は繋がれてしまっているのだろうか、それとも、自らフックを引っ掛けて繋いでしまったのだろうか。
――煩わしくて面倒くさくて、温くて居心地のいい『アーコレード』という店に。
* * * * *
――その求人募集を見つけたのは、慧徳大学の入学試験日だった。
受かろうが受かるまいがどうでもいいと思いながら受けた大学だった。
金持ち連中の子息子女がエスカレーター式で上がることができる一貫教育の総合学園。
一応、学科や専科コースは充実しており、教材設備・施設等もかなりハイレベルなものがそろっているらしいが、偏差値で言えば全国平均よりやや下のランク――俗にいうボンボン大学だ。
元々受験するつもりはなく、高校卒業後は働こうと決めていた池谷が進学の道を選んだのは、母の再婚ゆえだった。
池谷が思春期真っ只中の頃、母は再婚した。相手の男は金持ちだった。そして、いけ好かないヤツだった。だから、進学を決めた。
家を出て遠方の大学へ行くことを目論んだが母に猛反対され、やむなく自宅から通える近場で選ぶ羽目になった。結果、目をつけたのは慧徳大学。割と興味のあったCGやデジタルアートを扱う学科があり、受験科目は少なく自宅から通えて、尚且つ、学費がべらぼうに高い。
金のことは心配しなくていい、と新しい父親は言った。
――父親の義務を果たさせることが、息子の義務なんだろう?
半ば当てつけのつもりで、池谷は受験した。
――よく晴れた二月の試験当日。
手ごたえも落胆も特に感じないまま試験を終えて、ざわつく校舎をさっさと出てきた。
二日前に降った雪が、陽光の死角でしつこく名残惜しく凍てついている。吐き出される自分の白い息を冷めた目で追いながら、池谷は気怠い足取りで駅に向かっていた。
その道すがら、一枚の貼り紙が目に留まった。一軒の店舗らしい建物の窓ガラス面に貼ってあったのだ。
《 アルバイト募集 》
職種:レストラン接客・厨房調理
高校生不可 時間応相談
三月新規オープンのため、オープニングスタッフを募集中
一歩下がって池谷はふぅん、と見上げた。
煉瓦と木材を組み合わせた明るい洋風の外観は、この高級住宅街にあっても違和感のないセンスの良さが感じられる。ただ、まだ内装が工事中らしく、店の中からくぐもったドリルの音が聞こえており、店の外にも資材やブルーシートが無造作に散乱していた。
池谷の足を止めたのは、貼り紙に記載されたその時給だ。
――かなりいい。
母子家庭で育った池谷は、早いうちからアルバイトをしてきた。高校生という身分をもって少しでも割のいい仕事にありつくため、ずいぶん無茶をした経験もある。よって、この界隈におけるアルバイト時給の相場は把握しているつもりだ。
だが、目の前にかかれている数字は、レストラン給仕系のバイトにしてはずいぶんと破格のお値段であった。外観からはいかがわしさなど感じないが……ホントにフツーのレストランか?と、つい疑わしい目を向けてしまう。
この偶然止まった足が、運命を変えたのだろうか。
しばらく佇んで店の外観を眺めていた池谷の前に、一人の男がひょっこり現れた。
「――あれー、君、慧徳の子じゃないねー。なのに、この時間この辺りにいるってことは……今日、入学試験だったのかなー?」
どこから現れたのか、スーツ姿のその男はニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべて、馴れ馴れしいほど砕けた口調で語りかけてくる。
――うさんくせー。……それがこの男に対する池谷の第一印象だ。
不審感丸出しで見やる池谷の視線を、その男は全く気にしない様子で言った。
「ねーねー、合格したんならうちでバイトしなーい? ここ、今度オープンする洋食レストランなんだー。条件としては結構いい方だと思うんだけどねー?」
「……合格発表、来週なんすけど」
「んー? 大丈夫大丈夫。君ならまんまと合格するさー」
一人アハハーと笑う怪しさ満点のその男に促されるまま、店の裏側の事務室なるスペースに連れ込まれてしまったのは、ほんのわずかなりともこの店に興味を持ってしまったからなのだろうか。
建材の匂いが仄かに漂う雑然とした小部屋で、杉浦と名乗ったその男はどうでもいい世間話を一人でしゃべくり倒し、「気が向いたら来てよ、採用するからさー」と名刺を強引に押し付け、その後ようやく池谷を解放した。
一歩間違えれば(間違えなくとも?)犯罪的な勧誘である。
怪しすぎるあの男は “クロカワフーズ” という飲食店経営会社のマネージャーという肩書を持っているらしい。それにしては若く軽薄で適当な感じに見えたのが、やっぱり怪しい。
少なくとも、新しくオープンするというこの店は真っ当な洋食レストラン、のようだが……つーか、 “洋食” ってナニ? フレンチやイタリアンとは違うの?
首を傾げつつも、池谷は何となく、もらったその名刺を捨てられなかった。
池谷は決して運命論者ではない。けれど今思えば、この時すでに自分の人生の台本には、その洋食レストラン『アーコレード』でアルバイトをする筋書きが、克明に記されていた気がしてならない。
それから一週間ほど経ったある夜、池谷は都内のとある小洒落たレストラン内で、一人の女に罵倒されていた。
つき合っていたとも言えない、何となく数回ほど関係を持っただけの年上の女が、池谷の薄っぺらい愛情表現に業を煮やした、といったところだ。
こんな若造相手に本気になるアンタが悪い……内心のうんざり感を持て余しつつ、池谷はどうにかして穏便に手を切りたかったのだが、ボルテージが上がる一方の女は池谷の言葉など聞いちゃいない。
ここは日を改めるか……と諦めかけた時、あの軽~い声音が耳に届いたのだ。
「あっれー、池谷くんじゃーん? どーしたのこんなトコでー」
数人いる連れを先に行かせ、笑みを浮かべながらこちらに近づいてくるのは、先日会ったばかりの杉浦という男。
仕事帰りなのか、先日と同じくスーツ姿で手にはビジネスバッグがある。
ただ、その笑みが “ニコニコ” ではなく “ニンマリ” であったのが、非常に不愉快であった。
「おやおやー? お取込みちゅー? 池谷くんも隅におけないねー。大学の合格発表、まだでしょー? それまではもうちょっと身を慎んでおかないと、運が逃げちゃうよー?」
わざとらしく聞こえよがしのその言葉に、「えっ?」と反応したのが、さっきまでうるさく喚いていた連れの女だ。
「っていうか、高校の卒業式もまだなんでしょー? 羽を伸ばすのはまだ早すぎるんじゃないのー?」
ニヤニヤとチェシャ猫のように笑う杉浦を、池谷はさらに眉根を寄せて睨み上げた。
――こいつ、未成年だとバラしやがった。
女には大学生だと偽っている。どの女にもそう言っている。さすがに現役高校生を夜の相手に選ぶまともな女はいない。
だがこの男、ますます人の悪い笑みを深めると、不意に屈んで唖然とする女の耳元に、何かを囁いた。
どんなマジックフレーズだったのか(まぁ、想像はつくが)、杉浦の囁きに女はハッとして、ぐぅっと池谷を睨みつけ、ギリリと歯ぎしりして、ガバッと立ち上がり、フンッと言って(本当に声に出して言った)、外に出て行った。
「……アリガトウゴザイマシタ」
「あははー、素晴らしき棒読みだね。しっかし年齢詐称もほどほどにしとかないとー。連れの方、捕まっちゃうよー? ねぇイケちゃん」
……イケちゃん?
聞き捨てならない呼称を使い、女が去った後の椅子に当然の顔をして座った杉浦は、手を伸ばしてグラスを持ち上げた。池谷が飲んでいたワイングラスだ。
半分ほど残った紅い液体を、意外なほど繊細な手つきで回して、杉浦は言ったのだ。
「ねー、イケちゃん。うちでバイトしなよ。これより美味しいワイン、教えてあげるからさー」
決して強要されたわけではない。恩を感じたわけでもないし、あの男に興味を持ったわけでもない。
だが結局、その数日後に慧徳大学への合格は確定し、池谷は『アーコレード』慧徳学園前店のオープニングスタッフとして働くこととなった。当初は確か、適当にやって適当に辞めてしまえ、と思っていたはずだ。
ところが、あれから三年と八か月。池谷はまだ『アーコレード』にいる。むしろ、今までの累計勤務時間は断トツで最多だろう。
ちなみに、この杉浦という喰えないマネージャーは、どういうわけかずいぶん池谷を気に入った様子で、何かと怪しげな雑用に使われたりもしたが、その後も密かに続いた池谷の不純異性交遊なるものは、見て見ぬふりをしてくれた。
そうして、生温く味気なく思えた健全なアルバイトは、いつしか日常になった。
大学に近いので通うのが苦でなかった……接客仕様の巨大な猫を被ることは意外に面白かった……試飲と称して飲ませてもらったワインは極上のものばかりだった……賄いが最高に旨かった……
辞めない理由は、いくつも出てきた。
それより何より、『アーコレード』という店は、池谷のような陳ねた可愛げのない人間でも腕を広げて迎え入れる懐の深さがあった。そこにいる人間たちは誰も、池谷に対して寛大で煩わしくて柔らかくて厳しくて温かかった。
人や物事に決して深入りしない、依存しないと決めている池谷が、ほとんど無意識に引き寄せられるほど、その場所は心地よかったのだ。
* * * * *
涙声でグチグチと聞かされた亜美の “苦しい胸の内” とやらは、思った通りの内容であった。
何でも、先日衝撃的瞬間を見てしまった、とか何とか……曰く、遼平が今にも店長を抱きしめようとしていた、らしい。
……あんな遼平くん、見るのが辛い……あたしがいるの知っててあんなことするなんてヒドイよ……店長だってあたしの気持ち、知ってるんでしょう?……二人であたしのこと嘲笑っているのかなぁ……もうバイト入るのも苦しい……辞めた方がいいのかなぁ……
――へぇ、そーなんだ。
池谷は経験上、話半分……いや八割引きで聞くこととする。
亜美が同じ店の厨房アルバイト、矢沢遼平に想いを寄せていることは、店の人間なら誰もが知っていることだ。若干一名、かなり遅ればせで気づいた者もいるが、池谷など亜美が新入アルバイトとして初出勤したその日にわかってしまったくらいだ。いわゆる、一目惚れ、というやつだろう。
一方、その矢沢遼平が誰を見ているのか、これも聡い人間なら簡単にわかる。無口で捉え難い人物なのだが、その眼は真っ直ぐブレることがない。
お気の毒だな、としか言えない、見事な三角関係である。
ところが、亜美はそれにめげることなく果敢に立ち向かっていった。その前向きな姿勢に池谷も内心感心したものだ。
多少姑息な(池谷から見れば失笑ものの稚拙さで)手回しをしつつも、明るさと天真爛漫さを武器に、必死に健気に好き好きオーラを出しまくる彼女。ある意味、ポジティブ過ぎて引くが、周りが遠巻きに見守ってやれるくらいの好感はあった。
池谷でさえ、玉砕した時はみんなで飲みに行って慰めてやるよ、くらいには思っていた。そこまで形振り構わないのなら、一回ぶつかって砕けてみれば?という優しさの欠片もない激励を送ったこともある。
そんなピチピチのバウンド感だけが取り柄の亜美に不安げな陰りが生じたのは、今年の夏前……ゴールデンウィーク明け頃、からか。
四月の中頃、『アーコレード』担当のマネージャーが、杉浦から黒河侑司という男に変わった。
杉浦とは真逆の、まるで感情など持ち合わせていないような鉄面皮の男だ。
“Tのつくサイボーグ男” とは杉浦の言葉だが、言い得て妙、ドンピシャだと思った。
楽しかった店の雰囲気が、これでしばらく味気ないものになるかもな、といささか鼻白んだのもつかの間、平穏和やかな日常に次々と波風が立ち上がり始めた。
担当が変わってしばらく後、店長である水奈瀬葵にある種の変化が表れ始めた。そんな彼女を真っ直ぐ見つめる遼平にも動揺が見え始めた。そしてそれを目の当たりにする亜美が焦り始めた。水面にさざ波が波紋を描き、広がっていくような変化だった。
しかし亜美は、店長が抱えた深い傷痕を知らない。そんな店長を、『アーコレード』がオープンする前から見てきた遼平の想いの深さもわかっていなかった。わからないまま、そこに分け入ろうと躍起になったのが仇になったのかもしれない。
梅雨明けした夏の初め、亜美はこっぴどく遼平に拒絶された。おそらく誰かにあそこまで激昂されたのは、彼女の人生の中で初めてのことだっただろう。
さすがに、あの時の彼女は見ていてイタイものがあった。可哀想だと同情もした。
だから、池谷なりに慰めの言葉をかけてやったりもした。……それが裏目に出た。
あれはあり得なかった。人生における “思い出したくない出来事” ワースト5入りの事件だ。
事もあろうに、自分と亜美が恋仲だと勘違いされたのだ。見知らぬ少年に。
それまでの自分の素行が悪い方へと転がったせいもあるが、それにしても驚くべき思い込みの激しさだ。それほどまで誰かを強く想ったことがない池谷にとって、少年の無謀で一途な行動は苦々しいくらい胸中を乱した。
結果、誤解は解けて事態は収拾されたが、店や仲間にはずいぶん迷惑をかけてしまった自覚がある。
池谷はあの時、改めて悟った。そして己に言い聞かせた。
――もう金輪際、厄介事に近づくのはやめだ。面倒事になりそうなものは、今後一切ことごとく無視してやる。たとえ、店絡みでも、バイト仲間絡みでも。
そんな風に自戒したはずなのだが、池谷はまた、こうやって亜美の話を聞いている。
首を突っ込めばろくなことにならない……何度も経験済みなのに。
……俺ってそんなに学習能力なかったか?
「……池さぁん……あたし、もう諦めた方がいいのかなぁ……」
……ぐすぐす、スン、ぐずず、ぐず。
鼻をすすりながら赤い瞳を瞬かせる亜美は、決してモテないわけではないだろうと思う。
容姿も悪くないし(池谷の好みではないが)、明るく元気で朗らかなのはこの女の本性で、両親に愛されすくすくと真っ直ぐ育ってきた素直さも本物だ。少々甘やかされ慣れた自分本位さはあるが、不遜さや傲慢さはなく、他者への気遣いや世渡り上手な面もあり、友達も多いし同性異性関わらず上手くやっていくタイプだと思う。
ただ、愛され与えられてきたが故に、手に入らぬものを諦める覚悟と折り合いが上手くつけられずにいるのだ。
母が再婚するまで長く母子家庭で育った池谷に言わせれば、さっさと現実を受け入れろ、と言いたい。人生は諦めと妥協で成り立っていることを早々に学ぶべきだ。
「――諦めれば? しつこい女はそれだけでブサイク度五割増しだ」
「……ヒ、ヒドイッ……池さん、優しくない……っ!」
「あ? 俺にンなもの求めんな」
「うぅ……っ……」
目だけでなく鼻の頭まで真っ赤にして、これじゃホントにブサイク丸出しじゃねーか。
「大体、あいつにぶつかってみたのか? 好きだってコクってもねーのにグジグジ悩むから諦められねーんだろ? さっさと当たって砕けちまえよ」
「もう、当たったもんっ! 当たって砕けたもんっ!」
「へ? うそ、そーなの? いつ?」
「……あの、警察とか……色々あった日……遼平くんに、送ってもらった夜……」
「ああ、あの日か……」
思い出した。思い出したくなかったが。
亜美に懸想した少年が店長にケガを負わせて、警察沙汰にまでなったあの夜だ。確か、佐々木チーフに命じられて、遼平は亜美を送っていったのだった。
「す、好きなの、ってちゃんと言った……遼平くんが誰のこと好きでも、あたしは遼平くんのこと好きなの、って……でも、遼平くん、ゴメン、って謝って……ぅっ……謝ってなんか、欲しくないのに……ぅぅっ……ゴメン、って……」
うわーん、と、ついに亜美はテーブルに突っ伏した。
池谷は再び舌打ちし、周囲に視線を走らせる。完全なデジャヴだ。
あれは学園前にある小さな公園だった。つい出来心で話を聞いてやったあの夜も、この女は感情のままに泣いていた。そのせいで、根も葉も種さえもない馬鹿げた勘違いをされる羽目になったのだ。
「亜美……別にお前がこの先、無様にシッポ巻いてバイトを辞めようが、鬱陶しくあいつを想い続けようが、俺の知ったことじゃない。勝手にしろ。でも、店長を逆恨みすんのはやめろ。聞いていて気分が悪い。浅ましい。この上なく見苦しい」
「ヒ、ヒドイよ! そこまで言うことないでしょ! な、なによ、みんなして店長、店長って……! 池さんも店長の味方なんだね!」
「バカかお前。だから女の嫉妬って最悪なんだよ。……お前、周り見えてねーだろ。自分のことしか頭にねーからそんな能無し発言かますんだよ。嫉妬に八つ当たりに空気も読めねーって、人間として終わってんな」
「……も、もうっ池さん嫌いっ! どうしてそんなこと言われなきゃいけないのっ? あたし、何も悪いことしてないじゃないっ! 傷ついて苦しんでるのはあたしの方なのにっ、どーしてあたしばっかり責められなきゃならないのっ? だいたいっ、空気読めないのは店長じゃないっ! 自分ばっかりちやほやされて、あたしが悩んでることなんかぜんっぜん気づかないで、男に興味ありませんーって顔しながら、いっつも遼平くんと仲がいいこと平気で見せつけて――」
――ガタッ、と大げさな音を立てて、池谷は立ち上がった。
見上げた亜美は、そこで初めて池谷の表情に気づいたのか、怯えたようにサッと蒼褪める。
そんな様相すべてが、腹立たしかった。
「……お前、マジで見損なったわ……」
飲みかけの紙コップを掴み、呆然と見上げる亜美に侮蔑の一瞥をくれてテーブルを離れた。まばらに集まる視線を断ち切りながら、早足にカフェテリアの出口に向かう。背後で亜美がどんな顔をしているのか、見たくもなかった。
不愉快極まりない……心無い台詞を吐き出した亜美にムカつき、こんなに熱く激昂する自分にイラついた。
冷めやらぬ怒りを持て余しながら池谷はカフェテリアを出た。講義を受ける気など完全に失せてしまっている。いっそこのまま憂さ晴らしに出るか。
紙コップを怒りに任せて外のくず入れに突っ込んだところで、ジャケットのポケットに入れたスマホが鳴った。
――画面には “シノ” ……同じバイト仲間の篠崎だ。今や希少な “親友” とも言える人物。
しかし、彼から携帯に着信が入るのは非常に珍しいことだ。バイト先で会えることが多いので改まって電話をする必要がない。特に、こんな昼最中では。
怪訝な顔で池谷が画面をタップすれば、珍しく焦った声音が耳に響く。
『――池? 今どこ?』
「あ? ……第2校舎前。……何?」
『今そっちに行く! そこにいて!』
鎮まり切らない怒りに何事だという困惑が加わった。
ナンなんだよ、いったい……と誰にともなく悪態を吐いていれば、ほどなくして遠くから走ってくる篠崎の姿。切れた通話から一分も経っていない。
池谷より数倍真面目で、しかもゼミや講義がぎっちり詰まっているはずの工学部の篠崎が、この時間に何の用なのか。大体、芸術学部と工学部の校舎は広大な大学敷地内の端と端にあって、学校内で二人が会うのはほとんどないことだ。
何事かと問う前に、篠崎は池谷の腕を引っ張って校舎脇に点在するベンチの一つに座らせた。
小脇に抱えていたタブレット端末をささっと操作して、「ここ、見て」と言う。
訝しげに目を落とした池谷は、数秒後「……んだよ、これ……」と声を震わせた。
画面に開かれたのは池谷も知っているグルメ紹介サイトだった。利用者の口コミ情報を主体とした飲食店紹介サイトで、その規模は全国区にわたり、同系統のサイトの中では最も大きく有名なものの一つだ。
そこに『アーコレード』慧徳学園前店が載っていた。
――事実に反する悪質極まりない酷評とともに。
先々週の異物混入事件が、本社にクレームとして上がったことは池谷も篠崎も知っている。
その翌日、元・前・新マネージャー三人揃いで慧徳にやってきて、アルバイトである池谷たちにも事の詳細をきちんと濁すことなく説明してくれたからだ。
誰もが事実無根だと憤った内容が、そっくりそのまま投稿者の口コミとして掲載されていた。
「……っざけんなっ……!」
「落ち着いて、池。……実は僕もさっきゼミの友達に教えてもらった時は同じような反応しちゃったけどね」
愕然と画面を凝視する池谷を宥めるように、篠崎は早口で説明し出す。
「この記事が投稿されたのは昨日の夜らしいんだ。内容は、本社宛てに送られた苦情メールとほとんど同じだと思う。この投稿者の投稿記事は、後にも先にもこれしかない……ってことは、もしかしたら、この記事を投稿するために、アカウント登録をした可能性は高いよね。……とにかく、これについてはさっき “違反投稿” を報告しておいた。利用規約も見たんだけど、この投稿内容は明らかにこのサイトの趣旨に外れているし、信憑性もまったくないからね。ただ、こういった削除申請には対応されるのに時間がかかるらしいんだ……この記事が削除されるまでどれくらいかかるのかは、わからない」
そこまで言って、篠崎は穏やかなクマ顔を曇らせた。
池谷の脳裏に、バイト先の女店長の顔が浮かぶ。――あの夜、池谷や篠崎の接客にはまったく問題がなかったとはっきり証言し、ひいては厨房の面々……特に仕込みを担当した遼平に関しても、その無実を頑なに主張していた彼女。
そのせいで、彼女は黒河マネージャーに辛辣なダメ出しを喰らったという。
「……店長、今日会議だって言ってたよな」
「本社の上の人たちが、どう思うか……だね。クロカワフーズって、こういうメディアへの露出を極端に嫌うって聞いたことがあるんだ。まさかとは思うけど、店長の責任問題を問われたりしたら……」
沈痛な面持ちの篠崎の声を聞きながら、池谷は、冗談じゃない、と思った。
居心地のいい安息の場所に突然部外者が土足で乱入してきて、大切にしている何かを次々に損壊していく……そんな錯覚さえ覚える。
――面倒くさくて煩わしくて、心をかき乱すのは、いつだって店絡みだ――
黙り込んだ池谷を、ふと篠崎が覗き込んだ。
「池……この投稿記事の文面、……なんか、おかしいって思わないか?」
「あ? おかしいも何も、全部丸ごとガセじゃねーか」
「いや、そういうことじゃなくて……、池もあのカップル客のこと、覚えているだろう?」
問われて池谷は苦々しく頷く。忘れるわけがない。
待っている間中、むっつりと押し黙っていたキャップを被った男と長い茶髪の女。……ほんの少し荒んだ気配が漂う妙な客。池谷は、あのカップル客が店の中に入ってきた時から、ザワリとした不快な印象を受けていた。
だけどそれがナンだよ、と言いかけた池谷に、篠崎は端末画面を部分拡大した。
「この投稿記事……文体が妙に硬い気がするんだよね……ほら、最後のこの部分……『クロカワフーズという会社の本質も疑う』……これとか、なんとなくあの客のイメージとそぐわない感じがするんだ。……この記事、本当にあの客が書き込んだのかな……」
困惑した表情を貼り付けたまま、篠崎は考え込むように言う。
確かにそう言われれば違和感を覚えなくもないが、あの客じゃなければ誰がこんな悪質な記事を投稿するんだよ、と思う。
「とにかく、この先どうなるのかは、明日店に行かなきゃわからないね。……ああそうだ、亜美は今日、大学に来てるかな。一応、知らせておこうか」
スマホを取り出した篠崎の傍ら、池谷は無意識に爪を噛んだ。
今日は、厄日なのだ。苛々させる忌々しい出来事が次から次へと雪崩れ込んでくる、そんな日なのだ、と思った。
――今日は? 今日だけ、なのか……?
突如湧き上がった不穏な予感を振り払うように、池谷は吐き捨てた。
「……放っておけ。あいつは今、それどころじゃねーよ」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ 未成年の飲酒は法律で固く禁じられています。二十歳になるまでひたすら我慢しましょう。
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この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
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