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第2部
祟り目かな、月会議(十一月度)
しおりを挟む通常、第三水曜日に行われることの多いクロカワフーズの月定例会議であるが、第三木曜日にボジョレーヌーボーの解禁日が控えている十一月は第二週水曜に行われる。
会議当日の朝、葵が本社ビルに足を踏み入れるや否や、ツーポイントフレームを鋭く光らせた柏木が目の前に現れた。
「――事態はさらに悪化です、水奈瀬さん」
そう言って小会議室に連れ込まれた葵は、そこに統括部長とマネージャー陣全員が揃っているのを見て思わず息を呑む。まもなく、次いで呼ばれたらしい諸岡と牧野女史も入室し、そこで明かされた最悪の事態に、葵は唖然とするほかなかった。
例の異物混入クレーム事件――なんとネットに投稿されたという。
それも、本社に届いた苦情メールの内容が、そっくりそのまま転記されたような投稿記事らしい。
投稿されたのは、葵も知っている有名なグルメ紹介サイトだ。口コミ投稿が主流で、紹介される飲食店のカテゴリーも多岐にわたっており、投稿数は同系のサイトでも最大級であろう。
いくらメディア取材一切お断りのクロカワフーズであっても、このようなサイトへの露出までは規制できないのが現実である。サイト内には『櫻華亭』、『アーコレード』、『プルナス』はもちろん、つい最近展開したばかりの『紫櫻庵』まで載っていて、世間様の口コミの力は侮れない。
それでも、少なくともこのサイト内においては、どの店舗もすべて高レベルな評点をいただいているのだ。クロカワフーズとしては当然の評価であろうが、食の嗜好は千差万別であることを鑑みれば、誇るべき評価であり感謝すべき結果であると、葵は思う。
だからこそ、この一投稿はその異質性をもって強く際立って見えた。……滲み一つない真っ新なクロスに落ちた、一滴の墨汁のように。
愕然と棒立ちになる葵の前で、徳永GMが厳しい表情のまま説明していく。
この投稿が発覚したのは昨夜未明……例の苦情メールが本社に送られてからというもの、これだけでは終わらず何かある、と警戒していたマネージャー陣の勘が当たった。
よって本社の対応は素早かった。この投稿記事を発見するや否や、すぐに違反通告を打ち込むともに、このサイト運営会社へ投稿記事の削除を直談判したという。
しかしながら、未だサイト側の対応は見られず、現在詳細調査中であるとのこと。公平性を期すため、低い評価に異論があっても原則としては削除できない、特に店側からの削除申請には、慎重な調査を要するため時間がかかる……というのがサイト側の主張であった。
今こうしている間にも、あのような事実無根の記事を目にする人はいて、否応なく店や会社に悪いイメージを持ってしまうことになる……そう考えるだけで、葵は居ても立っても居られない。
思わず唇を噛み切りそうになる葵を、牧野女史は「大丈夫だから」と宥めた。けれど彼女も諸岡も、そして居並ぶマネージャーの面々全員も、その表情は厳しく険しかった。
徳永GMが『アーコレード』の各店長に対し、今後外部からの問い合わせ等があっても、冷静な判断を第一に、軽率な言動は慎むように、と重々しく言い渡した後、一行は大会議室へ移動した。
そして、午前の総会議が始まった。
* * * * *
誰もいない小会議室に、葵の重い吐息が落ちる。
強張った首をぐるりと回して、机上に散らばった書類を物憂げに眺めた。
午後の店舗会議が終わり、葵は誰もいない小会議室に一人残っている。報告書に書き直さなければならない事項が数か所あったことも理由の一つだが、それよりも一人になって気持ちの整理をつけたかったというのが大きい。
心配そうに葵を気遣っていた牧野と諸岡には先に帰ってもらうようお願いした。葵を一人残していくことにどこか後ろ髪を引かれるような顔の二人に反し、過剰なほどうるさくまとわりついて、飲みに誘ってきたのは小野寺双子兄弟だ。きっと、彼らなりに葵を元気づけたかったのだと思う。
牧野と諸岡は、葵から双子兄弟を引き剥がすことが最良策だと判断したようで、結局、みんな連れだって部屋を出て行った。
それからずいぶん時間がたった。報告書は早々に直し終えているが、気持ちの整理はなかなかつかない。
自店に降りかかった災いは風に煽られた火のごとく広がり、もはや葵一人の手には余り過ぎる様相となっていた。
午前の総会議へ出席するにあたり、葵には相当の覚悟が必要であった。
以前、『櫻華亭』赤坂店で本部クレームが発生した際、支配人とアテンドは役職者全員の前で、始末書ともとれる報告書を読み上げ、頭を下げて謝罪した。結果的に丸く収まったものの、社内全体に蔓延した赤坂店に対する不信感は、決して小さくなかったはずだ。
よって今回、本部クレームを出してしまい、挙句にクロカワフーズの信用問題に関わる重大な事態を引き起こすことになった慧徳店の店長である自分は、もしかしたら、謝罪どころの話では済まされないかもしれないと思った。最悪の場合、何らかの処罰もあり得ると。
だが結果として葵は、謝罪する機会さえ与えられなかった。
社長と顧問二人以外の役職者は全員出席の大会議室。いつもの光景なのに、その空気は異様な重々しさに包まれていた。今回の本部クレームについて、ほとんどの人間がすでに大なり小なり耳にしていたのだろう。
しかし、そこから始まった会議の内容こそが、ある意味異質なものであった。
まず初めに、徳永GMが今回の本部クレームについて簡単な状況説明をする際、客が訴えてきた異物混入は虚言であるとはっきり断定した。いかなる時も顧客第一を信条とするクロカワフーズとしては、異例の判断だと言える。
次いで、黒河・柏木両マネージャーが経緯の詳細を報告し、今回の虚偽クレームとネットへの投稿を実行した人物を追及するため、外部機関の手を借りることも視野に入れていると述べた。
最後に、玲瓏な面持ちで前へ出た黒河沙紀絵統括部長が、毅然とした口振りで各店舗における危機管理意識の徹底を促し、本社としては全力でこの事態に対抗し、名誉棄損で訴えることも辞さない構えであると告げた。――まるで一国を統率する女王のように。
つまりクロカワフーズは、長年培ってきた伝統と格式、信用を大いに踏み躙り傷つけた今回の災禍に対し、公然と戦う旨を宣言したのだ。それはあたかも、今この場にいないはずのあのカップル客に向けて、高らかに宣戦布告しているようにも聞こえた。
そして驚くことに、それだけであった。
葵に対する責任追及や処罰は一切ない。皆の前で謝罪はおろか、報告書を読み上げることさえ命じられなかった。
それについて疑問を抱いたのは葵だけではなかったのだろう。事実、統括部長の話が終わり、議題がボジョレーヌーヴォーのイベントへ移ろうとした時、ひと悶着が起きた。
『櫻華亭』日比谷店の豊島支配人が、声高に待ったをかけたのだ。
彼は、今回の前代未聞ともいえる不祥事の責任の所在を明らかにすべきだ、とこれ見よがしに訴えた。その目を真っ直ぐ葵へ向けて。
張り詰めていた空気がざわりと揺れて、いくつもの視線が葵に集まる。その時、「時間の無駄だ」と一蹴する濁声が上がった――『櫻華亭』本店の国武料理長だった。それに追随するように、松濤の綿貫料理長が「やらせにどう責任取るってんだ」と凄む。
こうなると、豊島支配人の発言は社内の料理人全員を敵に回すことと同義になってしまう。
厨房には厨房独自の流儀と社会性がある。本店の料理長に異を唱えるなど、たとえ赤坂店や日比谷店の料理長でもしない。ましてや今回のクレームは、丹精込めた料理の中に、故意に異物が混入させられるという、料理人の誇りと尊厳を冒すものであった。となれば、料理人の心情は本部クレームを出した慧徳に対する不信感よりも、 “やらせ” に対する嫌悪感の方が強い。
そして少なくとも豊島以外の支配人やアテンドは、そんな料理人の心情をくみ取れるくらいの思慮深さは持ち合わせている。当然、慧徳店を責めることをしない。
つまり、豊島支配人に味方する人間は、誰一人としていなかった。
孤立無援となった彼はそれでも、会議室の後方で腕を組み黙って目を閉じている佐々木料理長に素早く視線を走らせ、「し、しかし」と尚も続けようとする。
止めを刺したのは統括部長だ。
「――豊島支配人、あとが詰まっているのよ。無益な発言は控えて頂戴」
豊島支配人は、真っ赤になった憤怒の顔のまま、黙り込むしかなかった。
そして葵は、血の気が引いたような心地で、一言も発せないまま硬直していた。
庇われた、という気はまったくしなかった。むしろ自分は、完全に蚊帳の外に追いやられていると感じた。あるいは、小さな石ころにでも変じてしまった気がした。
――それほどまでに自分は、未熟で頼りなく、取るに足らない存在なのだと。
かさりと音を立てた書類に目を落とせば、そこに綴られた異物混入クレームの顛末。
何度も読み直したそこから、つい先ほど消した名前がある。――遼平と片倉の名だ。
どちらも、今回の一連の騒動を記述するに欠かせない人物なのだが、徳永GMは彼らの名を報告書に直接記載しないよう葵に命じた。
だから書面の中で、問題の客と店長の間に割って入ったのは “隣のテーブルのお客様” であり、その日の仕込み担当者は “学生アルバイト” という表記になっている。実は総会議でも、彼らの名前は一度たりとも出てこなかった。
理由は説明されなかった。おそらく、外部の人間である二人に対する配慮なのかなとは思うが、正直よくわからない。もしかしたら、葵の知らない……知る必要のない理由が、そこにあるのかもしれない。
陰鬱な気分で “学生アルバイト” の文字をなぞる。
……こういう事態を、泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目というのだろうか。
落ち込んだ葵をさらに深く落とすように、もう一つ、今日初めて知ったショックな事実があった。
総会議を終えて昼食休憩後、午後の店舗会議に移動する途中のことだった。本社ビルのエントランスロビーで、佐々木チーフと国武チーフの二人に行き会った。
その時、国武が葵に声をかけた。
「――よぉ、シケた顔してんじゃねぇぞ? オメェんとこの若造にも言っとけぇ。グジグジ悩んでねぇでさっさと本店に来いってなぁ」
濁声の後半部分の意味がよくわからず、つい隣の佐々木に窺うような目を向けた。すると佐々木は、珍しく気まずげな顔をした。
「隠していたわけじゃねぇぞ」の言葉から始まった彼の説明は、驚きよりも暗澹とした憂鬱が葵を襲った。
遼平に、本店への引き抜き話が来ているという。
元々、遼平はクロカワフーズへの就職を前提として、帝都調理師学校に通っている。限られた人間しか知らないことなのだが、実はクロカワフーズから幾許かの奨学金が出ているのだ。
一応建前は有望な人材育成支援であり、卒業後、仮にクロカワフーズへ就職しなかった場合でも、咎められることはなく返済金額が変わることもない、とされている。
ただ、葵の感触から言えば、遼平は以前からクロカワフーズに就職したがっているようだった。佐々木料理長という一流のコックを、いつも間近で目にしている影響が大きいのだろうと思う。
だからこそ、今回の話はとても喜ばしく光栄な話なのだ。
遼平は、素人の葵が見てもアルバイト以上の腕があると思う。本人も相当努力しているのだ。きっと、クロカワフーズでも通用する立派な料理人になれるだろう。
『アーコレード』のレベルが格別低いとは思っていないが、もっと大きく広い世界で勉強できるならそれに越したことはない。
あと一年以上、学校に通わなければならず、通学しながら本店でアルバイトとなれば時間的に下宿することを勧められるは必須で、遼平はまだ悩んでいるような様子だそうだが、葵としては是非頑張っておいで、と背中を押して上げたかった――相談してくれたならば。
佐々木は「あいつ自身に、決めさせたかったんだよ」と言った。わかっている。佐々木や遼平を責めてはいない。たとえ今日知ることがなくても、いずれ遼平は自分に話してくれただろうと思う。……いや、いつかの彼は、自分に何かを打ち明けようとしていたではないか。
――でも。
午前の総会議において自分の存在意義を見失ってしまった葵は、 “知らなかった” という事実に途方もない疎外感を覚えて仕方なかった。
頼りない店長だから……相談したところで何ができる……そう思われていたから知らされなかった――ネガティブな考えは尽きることなく湧き出てくる。
その後、報告書の訂正を命じられた時、葵はさらに浮き上がる仄暗い考えを振り払えなかった。
――本店に引き抜こうとしている若者の名を、虚言とはいえ、異物混入クレームの報告書に上げたくはなかったのではないか。遼平の将来を守ると同時に、クロカワフーズの体裁も守りたかったのではないだろうか――
ふと我に返り、会議室の掛け時計を見れば時刻はすでに六時過ぎ。
もう何度目になるのか、葵は尽きることなく湧き出てくる暗鬱な思考を、溜息とともに吐き出した。嘆息で重い心が軽くなれば世話はないのだけれど。
帰る気力も萎えているが、いつまでもここにいるわけにはいかない。重い身体を立ち上げて書類と荷物をまとめた。
訂正した報告書の提出は後日で構わないと言われている。が、葵は帰りがけに提出してしまおうと、営業事業部室に向かった。やれることは迅速に……今の葵にできるのはそれくらいのことしかない。誰も残っていなければ、そのまま持ち帰ればいい。
エレベーターを降りれば、五階は人気がなく静まり返っている。元々本社ビルはいつも閑散としているのだけれど、あまり足を運ぶことのないフロアはどこか余所余所しく、寒々しい。
営業事業部室の前に立ち、まだ誰か残っているかな……と、ドアをノックしようと手を上げかけた時、突然、中からドアが開いて葵は仰け反った。
「――こんなところで何してる」
「……く、黒河さん……、ビックリしました……」
いきなり出てきたのが侑司だと分かって、葵はホッと力を抜く。が、その咎めるような眼に見下ろされてシュンと俯いた。
「すみません……報告書を書き直したので提出してから帰ろうと思いまして……」
侑司が最後で、ちょうど帰るところだったのだろう。ビジネスバッグ片手に真っ暗な部屋のドアを閉めた侑司は、葵の手にある書類に視線を落とす。
「後日でいいと言われなかったか? 柏木に渡せばいいだろう」
「……そう、ですね、はい……すみません」
ダメージだ。今はこんな些細な言葉も一撃となる。葵は何だか泣きたくなる心地で顔を背けた。
「では、柏木さんに渡します……失礼します」
一礼して踵を返そうとした葵の腕を、侑司がグイッと引いた。
「……く、黒河さ」
振り仰いだ葵の視線が、侑司のそれと交わる。
強い光を宿した、鋭くも無機質なその双眸――けれどそこに、いつかの海岸で見た苦しげな色が見えた気がして、葵の胸はズキリと痛い。
すると、侑司はハッとしたように葵の腕を掴んでいた手を緩めた。
「……あ、いや……悪い……ああそうだ、お前……嫌がらせの電話は、どうなった?」
「……嫌がらせの、電話……?」
問い返した葵は、あ!と気づく。
公衆電話からの不在着信のことか。ということは――、
「諸岡さんから聞いたんですか?」
侑司が知っているのなら、情報元は諸岡しかいない。彼にしか言っていないのだから。
もう、どうして喋っちゃうかな~……と歯噛みした葵は、何故かムッとしたような侑司の様子に、あれ?と首を傾げる。
――が、その時、廊下の角を曲がってくる人の気配がした。
振り向いて葵の身体がギクリと強張った。
こちらに向かってくるのは、ホテル店舗の役職者五人だ。赤坂、日比谷、汐留の支配人三人と、その後ろに赤坂と日比谷のアテンド二人がついてきている。
向こうもこちらの存在に気づいたのか、微妙な緊張感があたりを支配した。
こんな時間までホテル店舗の人達が何を……?と訝しんだのもつかの間、先頭を切って歩く豊島の視線がどう見ても好意的ではないことに気づく。
「こんなところで何をしているんですかねぇ、黒河マネージャー」
案の定、ねっとりとした口調で問うてきたのは豊島だ。
明らかに規定より長いだろう黒髪をスタイリング剤で後ろに流して誤魔化すあたり、どこか気取った風が目立つ男である。給仕人としての仕事ぶりはそう悪くもないが、店舗管理能力は低く事務処理にもミスが多い、と噂で聞いたこともある。
「居残りしでまでの “密会” ですか? 大変ですねぇ、我が社トップの伸び率を誇る店の店長さんは、大切にお守りしないといけませんからねぇ」
年下の上司に対する慇懃無礼な口調、含みのある言葉に揶揄する目つき。
赤坂の支配人蜂谷は、何の感情も見せずじっとこちらを注視しているが、日比谷のアテンド鷺宮と汐留の支配人野々村はそろって目を泳がせ、最も後方にいる赤坂のアテンド木戸穂菜美は完全に俯いてしまっていた。
侮蔑を隠そうともしない豊島の視線が、葵に向いた。
「ラッキーだったじゃないか、水奈瀬店長。あれだけの不祥事にまさかのお咎めなしだ。当社のマネージャー御一行は、よほど君のことがお気に入りだと見える」
弱者を狙う肉食獣のような相貌を見て葵は、腹いせだ、と思った。午前の総会議で、葵の責任を追及できなかったから。
豊島はニヤリと不快な笑みを浮かべる。
「――それとも……特別なご奉仕による、特別待遇なのかい?」
卑俗なその言葉に、葵は肩を震わせ、侑司が半歩足を出した。
――が、一瞬を先んじて制したのは、蜂谷支配人だ。
「失礼ですよ、豊島支配人。……行きましょう」
静かな声で窘められた豊島は、鼻白んだ顔で眉を上げたが、侑司と目が合うなり、グ、と詰まったような音を出した。
それでもすぐに小さく肩を揺すって、先に歩き出した蜂谷に続く。他の面々も慌てたようにその後に続いた。
「……気にするな。ただのやっかみだ」
低く唸るように告げた侑司の身体から、ビリビリとした攻撃性オーラが発せられている。
去っていく五人の気配を背に感じながら、葵は無意識に腕をさすった。スーツ越しでも、肌がざわりと粟立っているのがわかる。
すれ違いざまに、誰かのあからさまな敵意が、葵の横顔をなぞっていった気がした。
* * * * *
「送っていく」「いえ、大丈夫です」と押し問答しながら、二人は階下まで下りた。
もう帰るところだったのだ、と言われれば、尚更送ってもらうわけにはいかない。ここから慧徳へ行き、再び目黒に帰ってくる所要時間は馬鹿にならない。
電車で来たのだから電車で帰るのに何の支障もない。第一、今二人きりで侑司の車に乗りたくないのだ。どん底に落ちたまま必死に体裁を保とうとする自分の中の何かが、一気にボロボロと崩れてしまいそうで。
頑なに突っぱね、逃げるように背を向ければ、また腕を取られた。本日二回目だ。
痛いくらいに掴まれる手を振りほどこうとした時、またしても二人の間に割り込んだのは――、
「あー! いたー! あおーいちゃーん!」
エントランスホールに気持ち良いほどの美声が響いて、カツカツと靴音が鳴った。
侑司に掴まれたまま、葵はあんぐり口を開けて固まる。
かけていたサングラスを外し、弾むように駆け寄ってくる美麗な姿――どうしてこんなところに――なんと、女優橘ちひろだ。
腕を掴み掴まれの二人の前にスタンと到着した彼女は、交互に侑司と葵を見比べて、その小さな頭をひょいと傾げた。
「やだ、侑ったらセクハラー。小母さんに言いつけちゃお」
「……何でここにいる」
葵の腕を静かに離し、不機嫌丸出しの声で問う侑司に、彼女は「葵ちゃんに会いに来たに決まってるじゃない?」と、どこか挑戦的な目をする。そしてニッコリと葵に向いた。
「ヤッホー葵ちゃん、久しぶりだねー……っていうか葵ちゃん、携帯の電源入ってないでしょ? 何度も電話したんだけど」
「え……っ? あ、携帯? すみません……っ!」
慌てて鞄の中から取り出した携帯は確かに電源オフ状態。会議が始まる前に電源を切ったまま入れ忘れていた。
あわあわと携帯を操作する葵を見て、橘ちひろはアハハ、と耳触りのいい音で笑った。
「ウソよ。本当は小母さんに用があったから来たの。でもすれ違っちゃったみたい。また日を改めるわ。……で、運よく葵ちゃんを見つけちゃったから予定変更。――葵ちゃん、ご飯食べに行きましょ? 前から約束していたでしょう?」
さりげなく侑司と葵の間に割り込み、彼女は葵の腕に自分の腕を絡ませる。
胸まで伸びた長い黒髪が揺れて、何だかいい香りがふわりと鼻をくすぐって、葵はクラクラしながら、あれ?こないだ会った時は茶髪のショートカットじゃなかったでしたっけ?……と、どうでもいいことを思った。
「――撮影の件か」
うんざりしたような声音の侑司に、橘ちひろは葵の腕に絡まったまま「そうよ」と悪びれもなく返す。
「こっちが必死に交渉してるっていうのに全然聞く耳持たないんだもの。 “当社は全店舗一切の取材・撮影をお断りしておりますので……” って、頭固すぎ。だから小母さんに直接、私が交渉しに来たの。いい宣伝になって売り上げアップにもつながるのに断るなんてナンセンスだわ。大体、今の時代に全メディアを拒否るなんて不可能でしょ? 時代に乗り遅れる企業はそのうち潰れるんだから。ねぇ、そう思わない? 葵ちゃん」
「は、はぁ……」
――と言われても、彼女の滑舌の良さと耳にすっと入る声質に聞きほれて、その内容がさっぱり頭に入ってこない。早口なのに澱みない台詞回しは、さすが女優様というべきか。
一方の侑司は、憮然とした冷ややかな視線で抗戦していた。
「……別に世のメディア全てを遮断しているわけじゃない。闇雲に露出させるのは社訓に反する、というだけだ。こちらとしては “選る” 権利がある」
「ふん、どーせ、私絡みだから断っているんでしょ! “身内” には全然優しくないものね!」
「 “身内” だから何でも話が通ると思われるのは甚だ迷惑だ」
「その “身内” に助けられたのはどちら様? ダブルブッキングの尻拭いをしてあげたのは “身内” の人間じゃなかったかしら?」
「あれは “身内” に請うたわけじゃない。 “顧客” に “交渉” した結果だ」
「……ったく、あーいえばこーいう……っ! もういいわよ、石頭に用はないの! 見てなさい! 直接 “統括部長様” に交渉して絶対に許可してもらうんだから! さ、行きましょ、葵ちゃん。葵ちゃんのお店と同じくらい美味し~いお店に連れていってあげる」
「え、でも、あの……っ」
「おい――、」
強引に葵を連れ出そうと引っ張っていく彼女に、葵も侑司も面喰って制止の手を上げかけた。……が。
――チーン。
という少々間の抜けた場違いな音が、その場に鳴った。
葵の腕を拘束していた橘ちひろが、その美しい顔にそぐわない盛大な舌打ちをかまし、柔らかそうな生地のコートから薄型端末を取り出す。
――チーン、チーン、チーン……
まさかの着信音に葵は目が点となる。……これは仏壇にある “お鈴” の音だろうか?
女優は携帯端末を操作して耳に当てた。
「――何よ……はぁっ? ……なんで……いやよ絶対にいや……だってせっかく……っ、……わかったわよ、行くわよっ! ……じゃあ途中、慧徳学園前に寄って。寄らないんなら行かない、ゼッタイ。……ふん、そんなのどーでもいいわ……はいはい……、じゃあ戻るから」
通話を終えたらしい女優様は、仏頂面から麗しい笑顔へ、すっと面を取り換えるがごとく変化して葵に向き直った。
「残念、葵ちゃん。仕事が入っちゃった。でも慧徳まで送っていってあげる。ちょうど通り道なの。車、外に待たせてるから行きましょ? あ、侑は仕事に戻っていいわよ。私が責任を持って送るから」
しっし、と手の平を振って、再び葵の腕をガッシと捕えた橘ちひろは、上機嫌で葵をずんずん引っ張っていく。
引っ張られながら葵はギョッとした――何か言いたそうな顔で見送る侑司に、なんとこの美しい麗人――中指を立てた。
……とんだ女優様、である。
そして葵は、侑司にろくな挨拶もできぬまま、本社ビル脇に停めてあった大きな黒のミニバンへ乗りこむ(拉致られる)こととなった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ 話中の “グルメサイト” は架空のものです。実在するどのグルメサイト様とも、まったく関係がございません。何卒、ご了承くださいませ。
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