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松穂

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第2部

猛走する弟、水奈瀬萩

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 ――時刻は少しさかのぼる。
 ……水奈瀬蓮が、ラグジュアリー感溢れるホテル最上階のエレベーターホールに足を降ろした、ちょうどその頃――

「――ぇい、お待ちぃっ! 中生、中生、ウーロンちゃぁ!」
 ドンドンドンッ、と威勢よくテーブルに置かれた二つのジョッキと一つのグラス。
 水奈瀬萩は真っ先にビールジョッキ一つを引っ掴み、おざなりタッチで他の二つに軽く当てるとキンキンに冷えたそれを勢いよく喉に流し込む。
 斜め向かいに座る、男にしては線の細い美形顔――池谷夏輝が呆れたように眉を上げ、隣に座る寡黙な青年――矢沢遼平は、黙って烏龍茶を手元に引き寄せた。

 収容客数と安価が売りの大衆居酒屋にて。場所は、萩が住む妙光台の一つ隣の駅前である。そこは私鉄線とJR線が乗り入れる駅のため、利用する人口は多く夜も賑やかだ。よって、今いるような大衆居酒屋の数も多い。
 半分ほど一気にビールを飲み干した萩は、さっそく居酒屋メニューに手を伸ばした。
 もうすぐ日付が変わろうとする時刻だけれど、店内はずいぶん騒がしい。ざっと見るだけでも、くたびれたサラリーマンや大学生らしきグループ、若いスーツ姿の男女カップルもあれば、ギターケースを脇に黙々と杯を重ねる怪しげな客など……多種多様な人々が酒に顔を上気させている。
 萩たちのいるテーブル席エリアの奥には座敷の席もあるようだが、この賑やかさからみて、大体八~九割がたが埋まっているのではないだろうか。平日の夜だと言うのに大した繁盛ぶりである。

「――で? 今更だけど、なんでアンタら二人がこんなとこにいるの? 遼平ってここを通る電車、使ってたっけ?」
 一口だけビールを嚥下した池谷は、わずかにキュッと顔をしかめて言った。
 隣の遼平が「萩と約束してたから」と短く答えれば、「へぇ」とどうでもいいような返し。萩はつい仏頂面になる。
「そっちこそ、さっきのオネーさん、あのまんまでいいのかよ」
 どうも、この池谷という青年は自分と馬が合わない。というか、常に挑発されているような気分になる。……例えるなら、いちいち尾毛を逆なでされるような、危うい苛々感。
 だが、そんな萩の密やかな唸りもどこ吹く風の池谷は、涼しい顔で「いいんじゃん? もう会うことないし」と口端を上げる。
「もっとあっさり別れるはずだったんだけどさ、なーんかあっちだけ盛り上がっちゃってて。困んだよね、あーゆーの」
 頬杖をついて気怠く指でジョッキをなぞる池谷に、思わず萩は鼻を鳴らしてしまった。
 ちらりと目だけを上げた池谷が薄くわらう。
「……ナニ? じゃあアンタは、期待されても返せない女に情けかけんの?」
 挑むような言い方に、またもやイラッときた。
 ――だってあのオネーさん、泣き叫んでたじゃねーかよ。


 顔を合わすたびにムッとさせられる池谷という青年――姉の店の学生アルバイト。彼とこうして同じテーブルで酒を飲む羽目になったのは、おそらく、萩に起こった予想外のアクシデントが発端なのだろう。
 先ほど遼平が言った通り、萩と遼平は今夜お互いのバイトが終わった後、会う約束をしていた。急ぐ用件があったわけではないが、臨床実習でしばし東京を離れる前に一度メシでも食いに行こうぜ、と萩が誘ったのだ。何となく、遼平とサシで話がしたかったのもある。
 だが、予定が狂った。――萩のバイクが故障した。
 元々、萩が慧徳学園前に行くつもりだったので、バイクの故障は非常に痛い。自分でいじって応急処置できるならするのだが、どうも重症らしい。バイク屋に持って行って診てもらおうにも、既に夜は更けて開いているバイク屋などなく、遼平との約束の時間も迫っている。
 仕方なくバイクはとりあえず放っておいて、「電車で行くから少し遅れる」と遼平に電話したのだが、何とそこで遼平が「じゃあ俺がそっちに行く」と言ってくれたのだ。彼は明日、学校も休みで『アーコレード』も水曜定休で休みだから、遅くなっても構わないと言う。
「お前ってホントいいやつだな!」と感激した萩が、嬉々としてそれに甘えることにしたのは言うまでもない。
 待ち合わせを妙光台の隣町にしたのは、単に隣町の方が栄えているという理由だけだ。駅前で遼平と落ち合った萩は、原付でやって来た遼平のために、飲まなくてもメシが旨い店に連れて行ってやろうと張り切って駅前の繁華街へ踏み出した。しかし、五十メートルも歩かないうちに背後から声をかけられた。
「こんなところで、ナニしてんの?」――それが、池谷夏輝だった。
 お前こそなんでこんなところに――と、驚きの声を上げる間もなく、池谷はいきなり萩と遼平の間に割って入り、意外に強い力で二人の腕を引っ張っていく。そのまま繁華街をずんずん進んでいこうとする彼に、萩が抗議しようとしたその時。
 またもや背後から、「――なつきぃっ! 待ってぇぇっ、なつきぃぃぃっ!」という、女性の金切り声が聞こえた。
 思わず振り返った萩の目に飛び込んできたのは、髪を振り乱し化粧も泣き崩れた若い女性。ブーツの踵を叩き鳴らしながら必死の形相で向かってくるではないか。
「――やばいっ! 逃げろっ! 早くっ!」
 切羽詰まった池谷の叫び声と、泣き喚きながら迫ってくるヒステリックな女。
 ワケの分からないまま一緒になって逃げてしまった萩と遼平に、責任はないと思う。
 人波をかいくぐり入り組んだ裏通りを何度も曲がり、それでもしつこく追ってくる女はもはやホラーでしかない。背後から迫る金切り声に本気で恐怖を感じ、全力で逃げてしまった萩と遼平に、やっぱり罪はないと思う。
 通行人を避けるため電柱に激突した萩と、道路の縁石につまづいて足をひねった遼平が、うのていで池谷に導かれ、「早くっ、こっちっ!」と言われるがまま飛び込んだのは、わらわらと人が入り乱れる一軒の居酒屋。
 出入り口にたむろする酔っぱらった一団の陰から、追手をけたかどうかこっそりうかがう三人にかかったのは「ぃらっしゃいませぇぇぃっ! 三名様ごあんなぁぁぃっ!」という野太い店員の叫び声。もはやコントネタだ。
 かくして、萩と遼平、池谷も交えて、この大衆居酒屋に腰を落ち着ける羽目になった、というわけである。

 しかしこの池谷夏輝、女みたいに綺麗な顔をしているくせして、口にする言葉はトゲトゲだ。
「――アンタだって、けっこうまとわりつかれるタイプだろ? 世話を焼かれて尽くされて、アンタはそれがうっとおしい」
 池谷の切れ長の瞳が、からかうように覗き込んでくる。萩が苦手な種類の眼だ。
「それに、追ってくる女にも萎えるだろ。自分が行く分にはいいけど、グイグイ来られると逃げたくなる。縛られるのは真っ平御免、って感じだもんな」
 図星を突かれて萩は完全に詰まった。
 まったく仰る通りで、萩に言い寄ってくる女は、何故か大抵、尽くしたがる世話好きタイプ、もしくは、いつでもどこでもカマッテちゃんが多い。
 自由を愛する萩としては、こういった束縛したがる女と上手くいくはずもなく、結局、気楽で遠慮がいらない男友達とつるむ方を優先させるので、彼女ができても長続きした試しはない。

 ――悪かったな、彼女いない歴もうすぐ一年で。ほっとけよ。
 心の声はふて腐れた顔となり、こちらを見透かすような眼を避けるようにして、萩は憤然とジップアップパーカーを脱いでTシャツ一枚になった。
 真冬の屋外とは正反対に、店内は暖房と人いきれで上気している。むしろ暑い。
 ……ったく、バイクは壊れるし、いきなり走らされるし、汗かくし喉は乾くし腹は減るし。
 先ほど電柱にぶつかった痛みはすでに引いているが、左肩から二の腕はおそらく青痣まみれだ。……つくづく、今日はツイてないぜ。
 萩が仏頂面で居酒屋メニューをめくり、その場が微妙に鼻白んだ空気となった時、烏龍茶を少しだけ口にした遼平が、池谷を見てぽつりと言った。
「……清算、してまわってるんだろ?」
「ん? せいさん?」
 ぱちくりと瞬いた萩をよそに、池谷はその美麗な顔を不快そうに顰(しか)める。 
「……そんな大層なもんじゃねーよ」
 鼻につく気取った感が急に消えた。きょとんとする萩に、遼平が静かな口調でぽつぽつと説明してくれる。
 曰く、池谷がもうすぐ渡米する予定であること、そしてここ最近、夜のバイトを少しだけ減らして、その時間を身辺整理にてていること。ちなみに遼平は、その辺の事情を同じアルバイトの篠崎という青年から聞いたそうだ。
 ……へぇ、渡米ねぇ……スゲーじゃん。しかもキチンと身辺整理とか……意外とマメじゃね?
 さっきまでのイライラは少しだけ薄れて、興味深げな視線をまじまじと向ける萩に、今度は池谷の方が苛立ったような声を上げた。
「……だから、そんなんじゃねーって。……だいたい、遼平だって人のこと言ってられねーだろ。本店への返事、どーすんの? まさか断るつもりじゃねーよなぁ?」
 反撃とばかりに挑発的な物言いが遼平に向かう。当の遼平は目に見えてグッと口元を引き結び、沈痛ともいえる表情でテーブルを睨んだ。
「遼平、断るつもりなのか?」
 メニューから目を上げてつい口を挟むと、遼平はちょっと驚いたような顔をした。
「……なんで、萩が知ってるんだよ」
「ああ、ほらこないだ、クロカワフーズの本社へ行ったことがあっただろ。そん時、杉浦サンから聞いた」
 姉が悪質な中傷FAXの件で本社に呼び出されたと聞き、萩が単身クロカワフーズ本社へ突撃した時だ。昨年の十二月だったか。
「なんか、杉浦サンも褒めてたぜ? クロカワフーズじゃ滅多にない快挙だって。スゲーことじゃん」
 萩の言葉に、遼平は再び思い悩む表情で視線を落とす。
「……いい話だっていうのはわかってるんだ。……でも、どうしても踏ん切りがつかない。……行きたい気持ちはあるけど……異物混入の件とか、あのFAXのこととか、完全に解決したわけじゃないだろ? 自分のことだけ考えて、今、慧徳を離れてしまっていいのかって……それに……」
 言いかけて、遼平は黙ってしまった。何かに葛藤しているような、痛みを堪えるような顔。
 萩はフムと小さく唸る。
「――いいんじゃねーの? それで」
 手書き風のお品書きを目でなぞりながら言えば、隣の遼平が萩に向く気配。
「……オレはさ、思い立ったらすぐ動きたくなっちまうから、よく周りに叱られるけどさ、人生の分かれ道、ってやつ? そういう時って、メチャクチャ悩んでいいと思うぜ? まだ最終決定まで期限あんだろ? だったら、ギリギリまで悩めばいいじゃん」
 斜め向かいの池谷が、黙ってジョッキに口をつける。
 遼平は再び視線をテーブルに移し、やがて覇気のない声で呟いた。
「……萩は、卒業したらあっちに行くのか?」
「ああ、たぶんな。なんか、そんな気がする。そういう風に事が運ぶ気がするんだよな」
「――あっちって?」
 池谷が向かいの二人を交互に見た。
 そこで簡潔に、臨床実習で宮崎に行くことや、向こうに母親や親戚がいて、就職先も宮崎で探すつもりであることなどを、遼平が池谷に向かって説明する。
 その間に萩はお品書きとにらめっこだ。鹿児島産の焼酎を水割りでもらうことに決めて、次いで手っ取り早く腹が満たされる肴を真剣に吟味する。
 一方、大体の事情を掴んだ池谷はくつくつと喉奥で笑った。
「……いや、アンタらしいな、と思ってさ。アンタみたいに、すべての行動を直感で決定できる奴ってなかなかいないよ」
「……悪かったな、直感だけで生きてるよ」
 ブスッくれたものの、萩の眼はお品書きから離れない。
 ……ちっ、白飯がねぇじゃん……雑炊なんかじゃ腹の足しになんねーな…… “山賊むすび” と “鉄板焼きそば” いくかな…… “豚キムチ” も食いてーし……
 よっしゃと、テーブルの端にある店員呼び出しボタンを元気よく押せば、そんな萩を横目で見つつ、池谷が気怠い調子で続けた。

「……テンチョーはさ、遼平に行ってもらいたいんじゃねーの? 本店に行けば、一流コックとしての道は約束されたようなもんじゃん? ……それにこの先、あの人、、、戦う、、つもりがあるなら、せめて同じ土俵に上がっておいた方が勝算率も上がると思うけどね」
 ……あの人?
 またしても萩がパチクリと瞬いた時、「ぉまたせしやしたぁ! おうかがいしまぁすっ!」と威勢のいい声が割り込む。
 独断で選び抜いた品を素早く注文し、焼酎水割りもしっかり頼んで店員が下がった後、萩はメニューを畳み、おもむろに遼平を見た。

「……遼平は、葵のことが好きなのか?」
 その途端、池谷が信じられないものを見るような眼をする。
「ナンだよ、オレだって何となく気づいてたぜ? ちょっと “確認” してみただけだろーが」
「デリカシーって言葉、知らねーだろ……」
 これ見よがしに溜息を吐かれて、萩は「知ってるね。オレにはソレがないんだろ」と胸を張ってやる。
「アンタって、絶対余計なトラブルを引き寄せるタイプだな」
「ナンだよ、さっきからタイプタイプってうるせーな」
 遼平そっちのけで言い合えば、黙っていた遼平がぽつりと呟いた。
「……ダメなんだ」
 萩と池谷はピタリと口を噤む。
「俺じゃ、ダメなんだ。葵は、黒河さんのことが好きだから」
「あ、まぁ……そう、だな」
 萩と池谷は図らずも同時にジョッキに手を伸ばし、同時にちびりと飲んだ。
 当の本人にそうはっきり言い切られては、デリカシーも何もないだろう。

 実は萩が今日、遼平と話をしたかったメインテーマはこれだ。
 姉に対する遼平の恋心はさすがの萩も気づいてはいるが、だからと言って遼平を推せるかと言えばそうでもない。
 萩としては、辛いところである。遼平は人間としても友人としても信頼に足る良い男だが、姉の相手として黒河侑司を知ってしまった以上、萩は遼平を応援することができない。
 姉の葵と黒河侑司の仲が今現在どうなっているのか、今後どうなるのか、萩はちっともわからないけれど、上手くいくいかないは別なのだ。葵を託せるのは黒河侑司しか考えられない。理屈じゃなく、感覚でそう思う。
 もちろん、遼平に対して諦めろと言うつもりはないが、どこまで姉のことを好きなのか、まさかそれが理由で本店への引き抜き話に腰が引けているのか……その辺を遼平本人に聞いてみたかった。
 しかし遼平の、こうまで沈痛な表情を見てしまえばやはり突っ込みづらい。
 言葉が出てこない萩の心を読んだかのように、遼平は小さく笑った。

「……いいんだ。俺は。……葵が幸せになれるなら、俺じゃなくても、いい。……たぶん、俺じゃ、葵を守ってやれない。……だから、戦うつもりなんてない。ないんだ……」
「……りょうへ――」
「――ぉ待たせしやしたぁっ! “いっこもん” 水割りぃ! 豚キムチに羽根つき餃子ぁっ!」
 しんみりとしたその場を、容赦なくブッタ切る声。
 お待ちかねの焼酎水割りがドンと置かれ、次いでジュージュー音を立てる鉄板付き皿と取り分け用の小皿がドドンと置かれる。
 早速割り箸を割って、ポンポン小皿に餃子を投げ入れれば、池谷から冷ややかな視線を浴びた。
 ……なんだよ、ちゃんと残してるだろ?

「――そういや黒河サンってさ、もう『アーコレード』の担当じゃないんだってな。全然、慧徳に顔は出さないのか?」
 瞬く間に餃子を平らげ、焼酎で軽く喉を潤し、次のターゲットに箸を伸ばしながら聞けば、遼平は頷きながらようやく割り箸を割った。
「……今は『櫻華亭』のホテル店舗の担当なんだ。……あの人今、休みを削って何かの調査をしているって聞いた。柏木さんと佐々木チーフの話をちょっと聞いただけだから、俺も詳しいことはよくわからないけど」
「ふぅん……調査ねぇ……そういえば、杉浦サンもそんなこと言ってたような……」
 とはいえ、今の萩は小難しい話へ意識が向かない状態にある。
 豆板醤の効いた豚キムチ炒めをモリッと口に押し込んで、ああ……白飯食いてー、と感慨に浸ったところで、何かを考えていたような池谷がおもむろに口を開いた。
「――もしかしたら……あとは証拠さえ見つかれば、って段階に来ているのかもな……」
「……証拠?」
 怪訝に聞き返したのは遼平だ。萩の口には豚キムチがパンパンに入っている。
 池谷は料理に手をつけることなく、たいして美味しくもなさそうにビールを少しだけ飲んだ。
「それに、犯人は一人だけじゃないのかもしれない」
「……犯人、って……うちの店に色々仕掛けてきた犯人ってことか……?」
「そう。今までのアレコレを引き起こした犯人。……けど、異物混入のやらせにネットへの投稿、リカーの不正横領、中傷FAX、亜美を呼び出し……これだけのことすべてを裏で操った黒幕がいる、って考えるとさ、イマイチ上手くハマらないつーか……」
「斎藤の、呼び出しって……?」
 遼平が首を傾げる。萩もようやく嚥下して、次にいく前に一言挟む。
「リカーってなに? 酒のこと?」
 池谷は「説明するのもメンドクサイ」と言った顔で、大げさに溜息を吐いた。
「なーんか、色々あり過ぎてワケわかんなくなってきたんだよなー……、俺は初め、テンチョーと黒河さんの仲を嫉妬する、女社員の仕業かと思ってたんだけど」
「オンナ……、それって――、」
 萩の脳裏に、数か月前の記憶がポンと浮かび上がった時、またまた野太い声が割り込んだ。
「――ぉ待ちぃっ! 山賊むすびぃ! 鉄板焼きそばぁっ!」

 テーブルの上が皿でいっぱいになってきた。
 手際よく取り分けたり、空いた皿を重ねたりするのは池谷だ。面倒臭そうな顔の割に、手際よくマメに手を動かしている。
 レストラン給仕をやっているやつは違うねぇ……と内心感心しつつも、萩は待望の、黒光りする海苔で隙間なく包まれた大きな握り飯を一つ、手に取った。

「なぁ、その女社員ってどんなヤツ?」
「どんなって……え、知ってんの?」
「いや知らねーけど。……なんつーか、不倫したがってるセレブの人妻だったりして……とか?」
「はぁ? 人妻? 何それ、どういうこと?」
「いや、違うならいい」
 そうだよな、あるわけないよな、と一人納得しておむすびにかぶりつこうとすれば、池谷が畳み掛けてくる。
「ちょっと待てって、スゲー気になるじゃん。そんな女が黒河さんの近くにいんの?」
「いや、だからいないだろ?」
「は? ワケわかんねー。ちゃんと説明しろって」
 手に持ったおむすびをなかなか口に入れることができず、萩がもどかしく「だから――」と声を荒げようとした時――
 ――叫び声がした。
 三人は一瞬顔を見合わせ、揃って身体をひねって乗り出し、同じ方向を覗き込む。
 おそらく店内奥にある座敷席の方だ。他の客たちも耳にしたのか、店内の喧騒がトーンダウンしたざわめきに変わる。萩たちのように、何だ何だ?と覗き込む客もいた。
 しかし、萩たちのいるテーブル席からは、立ち上がったところで座敷席の方はよく見えない。
 ――酔っぱらいの喧嘩か?と思いつつ、とりあえず持ったままのおむすびにがっつこうとした時、通路側から覗き込んでいた池谷が「……杉浦さんっ?」と叫ぶや否や、弾かれたように席を立って行ってしまった。困惑した目で萩をちらと見た遼平も、すぐに池谷の後を追ってしまう。
「え……おい……!」
 置いて行かれた萩は、行ってしまった二人と手の中の山賊結びをコンマ数秒天秤にかけ、断腸の思いでそれを皿に置いて、二人の後を追った。


「――え? なんで?」
 その場を見た萩の第一声だ。
 何とも意外な人物が、意外な組み合わせで、そこにいた。
 座敷席エリアに上がる上がり框の一角に、店員の数名と客らしき男が数名立っており、皆が揃って座敷内を注視している。――が、驚くことに萩の知っている顔が三人、いた。
 細身の黒色ステンカラーコートを着た杉浦崇宏、ファー付きフードのモッズコートは青柳伸悟、オリーブ色のダウンジャケットを着たのが、確か片倉という男……萩が本社に出向いて杉浦と話をしたあの日、自販機コーナーに現れた男だ。
 杉浦と片倉はわかるとしても、そこに伸悟が加わっているのが何とも不可思議だ。ナニつながり?と問いたくなる取り合わせ。

「……げ、萩まで! お前、何してんだよ、こんなトコで……!」
 駆けつけた萩を見るなり伸悟がひそめた小声で叫び、杉浦は「あーららー」と苦笑し、片倉という浅黒い顔の男は、すっとその鋭い目を細めた。
「……それ、オレが聞きたいんだけど。なに、どーしたの」
 池谷と遼平の背後から、そこに集まる人だかりの奥を覗き込むと、また怒鳴り声がする。
「――だから、本当に入ってたんだよ! ふざっけんなっ! やめろっ、触んなよ……っ!」

 座敷エリアの一番奥、掘り炬燵ごたつ式の座卓に四人の男女が座っている。男二人女二人の四名は、どれも三十代半ば、といったところか。一様に茶髪で派手な恰好、女はケバい化粧である。
 そのうちの一人、金に近い茶髪男を挟み込むように、二人の男性がしゃがみこんでいた。それぞれベージュとグレーのコートを着た、ずいぶんいかめしい顔をした二人の壮年男性は、その金茶髪男の暴言などものともせず、冷静な態度で何か話しかけている。
 いまや座敷エリアのみならず周囲は騒然となり、その一角に視線が集中していた。杉浦・伸悟・片倉の三人も、萩たちの出現で驚きはしたものの、まずは座敷奥で繰り広げられる光景に意識を集中したいらしい。そして遼平と池谷までもが、緊迫した表情で奥の一角を黙って見据えている。
「……アレなに? なんか “逮捕の瞬間” みたいじゃね?」
 遼平に囁いたのは半分冗談だった。コートを着た二人の男性の風貌と物腰、雰囲気が、よくテレビでやっている “密着○○警察二十四時!” に出てくる刑事みたいだな、と何となく思っただけだ。けれど遼平は神妙な顔で頷いた。
「……うん……あれ、たぶん刑事だ……」
 すると、池谷も苦々しい顔で萩を振り返り、小さな声で吐き捨てた。
「……あの男、うちの店で異物混入を騒ぎ立てた男だよ」
「……マジかっ……!」
 萩は唾液が危うく器官に逆流しそうになった。
 ――クレーム男に、刑事……? いったいどういうことだよ……
 萩がさらに身を乗り出した時、金茶髪の男の両腕を、いつの間に駆けつけた大柄の店員(後から知ったがここの店長だそうだ)とグレーの刑事が両側から引き上げた。
「……っだよっ! 触んな……! 離せってっ!」
 暴れる金茶髪男が引っ立てられるその傍で、ベージュの刑事が、連れの三人の男女に何やら話している。その男女は、蒼ざめた顔を引きつらせていたが、特に抵抗する様子もなくのろのろと立ち上がった。

「……ぉらっ! 来いっ!」
「……離せ……っ!」
 座敷の奥からもがく金茶髪男が連行されてくる。座敷の手前に集まり興味津々で見守る萩たち一団は、その進路を空けようとそれぞれが少しずつ動いた。
 ちょうどそのタイミングで、遼平がピクンと何かに反応した。デニムのポケットを探り、取り出した携帯端末を見るなり、ハッとした様子でその人だかりを離れる。
 少し離れた場所に後退し通話し始めた遼平を気にしつつ、萩が再び、暴れながらこちらに近づいてくる金茶髪男に意識を戻しかけたその時――、
 ――色々なことが一遍に起きた。

「――萩っ! お、俺、行かなきゃ……っ!」
 今まで聞いたことのないような遼平の切羽詰まった叫び声。――え?と振り返れば真っ青な顔をした遼平が身をひるがえし走っていく。それに気を取られた萩は避けられなかった――拘束する二人分の腕を振り切った金茶髪男が、出口に向かって――すなわち萩に向かって突進してくるのを。
 萩より小柄とはいえ、成人男性の真っ向タックルを不意打ちで喰らえば、さすがの萩も持ち堪えられない。ズッダーンッ!と金茶髪男もろともひっくり返った萩は、それでも目の端で、遼平がダウンジャケットも着ずに店から飛び出していくのを捉えた。
 店内に悲鳴が上がり怒号が飛び交う。
「……ちょ……りょうへ……っ」
 倒れた萩と金茶髪男に何人もの人間が殺到し、叫ぶ声は声にならず、形振なりふり構わず暴れる金茶髪男の足が萩の鳩尾に入ったところで、萩のリミッターが切れた。
「――っのやろぉっ……」
 萩が繰り出した右手の拳が、金茶髪男ではない誰かに入った。いてぇっ!と包囲網の一部が緩んだその隙に、金茶髪男がつんのめりながらもみくちゃの塊を抜け出す。怯む店員を跳ね散らし、靴下のまま店の出入り口から逃走する金茶髪男を、萩が猛獣の目で捕え誰よりも早く反射的にスタートを切る。
「――萩っっ!」
 背後で誰かが叫んだが萩の耳には入らない。Tシャツ一枚で店を飛び出し、真冬の夜の繁華街を狩猟本能が赴くまま爆走する。
「――待てこらぁぁっっ!」
「……ひ、ひぃぃぃっっ!」
 逃げつつ振り返った金茶髪男は、化け物を見たかのようにさらにスピードを上げた。
 その差を猛然と縮めていく萩は、野生獣の本能に染まった頭のほんの隅っこで、遼平のことと、食べ損ねた山賊結びのことを、ちらっと思う。

 ――だがしかし残念ながら。
 いつかの初夏の夜、これと似たような状況からとんでもない騒動に発展してしまった記憶には、ひとかすりも思い及ばなかった。




 
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