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第2部
いざ、決戦の場へ
しおりを挟む一月第四水曜日、午前九時十分前――
昨夜眠れぬ夜を過ごした葵は、緊張で強張る顔を毅然と上げて、本社の正面エントランスに足を踏み入れた。
本来ならば、今日は月定例会議が行われる日である。しかし、今日の会議は午後からという事前通達があり、この時間エントランスロビーには人気がない。
では何故、葵が午前も早くから本社ビルに来たかというと、呼び出されたからである。
『――明日の午前九時に、社長執務室へいらして下さい。慧徳の店と貴女自身の今後のために、重要な話があります』
――いよいよ、陰で蠢いていた首謀者との真っ向対峙だ。
予期していたことだった。警告も受けていた。そのおかげで先の見えない恐怖感はないが、それでも緊張のためか鼓動は高鳴り、四肢には余計な力が入ってしまう。
エレベーターで五階まで上がった葵は、目的の部屋へ続く静かな廊下を、急がずたゆまず真っ直ぐ進んだ。
……落ち着いて慎重に……嘘はつかず正直に……余計なことを口走らないよう冷静に……
事前に言い聞かされたいくつかの留意点を何度も胸の内で繰り返し、廊下の最奥にある社長執務室の前に立つ。
この部屋のドアをノックするのはこれで何度目だろうか。思えば昨年末から、葵は図らずもこの社長執務室に何度か足を運んだ。それらは主として統括部長に会うためだったが、今回は違う。今、中で待ち構えているのは――、
ノックをしようとして、上げた手が宙で止まった。
「……まったく、かなわんよ。……それで、豊島君はどうしたのかね……、連絡がつかない? ……なんと呆れた奴だ。……この大事な時期に……日比谷はどうなんだね……そろそろあそこの人事も考え直さねばならんな……」
閉まったドアの奥から聞こえる苛立った厳めしい声。
それに応じるもう一人の声も聞こえたが、はっきりと言葉は聞き取れない。中にいるのはおそらく二人――、誰と誰なのか、ドアを開けずともわかる。
葵は背を伸ばし、ひと息吸ってノックする。十数秒おいて、ドアが静かに開いた。
「おはようございます。……蜂谷支配人」
ドアを開けた赤坂の支配人、蜂谷は、じっと葵を注視したまま「――どうぞ」と葵を迎え入れる。
「失礼します」
葵は神妙に足を踏み入れ、室内の最奥にいる人物に丁寧な一礼をした。
「……おはようございます。今田顧問」
「……ああ、おはよう」
鷹揚な太い声が返された時、背後でカチリと鍵が回されたのを、葵の耳はしっかりと捉えた。思わず、室内にあるもう一つのドアに目を向ける。
入って左壁側にあるもう一つドアは、隣の応接室へ繋がっているものだ。いつかの日、徳永GMと話をしたことがある部屋だが、そちらも施錠されているのだろう。
葵は気を持ち直し、それとなく視線を巡らす。
社内トップ専用の部屋にしては簡素な印象を受ける社長執務室。部屋の中央にはローテーブルと革張りソファで組まれた応接セットがあり、その左手に書籍棚、右手の壁の上部に飾られているのは、おそらく先々代と先代の御影だ。
そして部屋の奥、窓を背にして構えるのが社長デスクである。余計な装飾物がない広い机上に唯一置かれた、上等そうな漆器の文箱が妙に葵の目を惹いた。描かれた桜花の蒔絵が場違いに華やかで浮き立って見える。
その大きな社長机の奥で、今田顧問はデスクチェアに身を収め尊大に構えていた。
三つ揃えの光沢ある背広を身に纏い、まるで自席であるかのように社長椅子でふんぞり返る元老は、老獪に細めたその眼を、葵の頭の先から足元までを往復させる。
その隙に、赤坂の蜂谷支配人がデスク脇へすっと控えた。その立ち振る舞いは今田顧問の忠実なる参謀といったところか。葵を見据える開かれた両眼は瞬き一つしない。異様に小さな瞳孔が、獲物を丸飲みにしようと狙いを定める爬虫類を思い起こさせた。
「――今日の呼び出しのことは、誰にも口外していませんね?」
開口一番に、蜂谷がその顔に似合わない滑らかな口調で問う。この人ほど、外見の印象と声の印象が違う人もいないと、葵は思う。
針金のように細い体躯と常に見開かれているような丸眼が、ともすれば薄気味悪さを感じさせるほどだが、間近で聞く声は奇妙なほど柔らかくつるりとしていて、その滑らかな喋り方は熟練アナウンサーのようだ。
「……そうすることが、うちの店のために、なるんですよね」
硬い声で葵が答えると、蜂谷は口元に笑みを浮かべ、準備が整いましたとばかりに今田顧問へ小さく目配せをした。
「――『アーコレード』慧徳学園前店、店長の水奈瀬君」
わざとらしく咳払いを一つこぼして、今田顧問が口を開いた。どうやら葵をデスク前に立たせたまま、本題に入るようだ。
「……今日、君に足労を願ったのは、他でもない。……先日、私の耳に不穏な噂が届いた。……このクロカワフーズにおいて、絶対にしてはならぬ禁忌行為が、密かに行われたという。……『アーコレード』慧徳学園前店に芸能関係者を招き、撮影もしくは取材に応じた……というのは、本当かね?」
葵の喉が小さく鳴った。
物々しく勿体をつけて、目だけをこちらに向ける今田氏。こうして一対一で相対するのは初めてのことだ。
牧野や大久保が、以前から憤怒を込めてこの老人を “コンダヌキ” と揶揄していたように、受ける印象はいかにも怜悧狡猾。重ねてきた年月が深い皺と弛みに表れているが、切り出したような眼光は鋭く、高い鼻梁と頬骨は少々日本人離れした面貌であるように思える。若い頃はかなり眉目秀麗であったのではないか、と思わせる顔立ちだ。
ふんぞり返った今田顧問は、葵が答えぬほんのわずかな間にも苛立ったように首を振った。
「――いいかね、君。……我が社がメディアへの露出を極力避けていることは、君ももちろん知っているね? 宣伝広告などという浅薄な手段は、我が社の、ひいては『櫻華亭』の尊厳を穢すことになりかねない。世俗への無差別な発信は、それだけ招かざる客も惹きつけることになるのだよ。……グルメだ三ツ星だと騒ぐ低俗で品格のない輩が、『櫻華亭』という由緒正しき聖域に無闇矢鱈と足を踏み入れる事態を想像してみたまえ。『櫻華亭』の品位と格式を貶め、長年築き上げた各界VIPとの信頼関係を裏切ることになりかねんだろう。……『櫻華亭』はだね、君。選ばれた特権階級者だけが利用できる、いわば最高級ステイタスそのものなのだ。――だのに、マスコミの取材に撮影だと? 庶民向けの飲食店風情が、そんな勝手な真似をしてもらっては困るんだよ」
「――いえ、うちの店は取材を受けたことなど、一度もありません」
長々と続く独壇場を半ば遮るようにして、葵は静かに答えた。が、内心は呆れにも怒りにも似た感情がぐるっぐるに高速回転だ。
葵が今まで関わりのあった『櫻華亭』の社員――本店の社員や麻布の大久保など――の中で、こんなに傲慢な考え方をする人間など一人もいない。だからこそ、実際に突き付けられた衝撃といったらない。
――話には聞いていたけれど……こんな排他的な考えを持つ人間が本当にいるなんて。
葵の憤慨をよそに、当の今田顧問は持論展開を軽くあしらわれたように感じたのか、「しかし君――」と尚も畳み掛けようとする。そこをやんわりと、傍らの蜂谷が遮った。
「――先々週の水曜日、『アーコレード』慧徳学園前店は、定休日にも関わらず夕方から極秘に店を開け、そこに多くの芸能関係者を招待しています。これは、そこに招待された関係者から直接仕入れた情報なので、確かな事実です。カメラ機材なども持ち込まれ、著名な監督や俳優も数多く来店されたと」
淀みない説明に援護を受けた今田氏も、大きく頷いてじろりと葵をねめつけた。
「これらの事実は、そこで何らかの撮影が行われていたという証拠ではないのかね?」
二人の視線に射られて、葵は目立たないよう息を吐く。丹田に力を込めて、用心深く、慎重に、感情的にならず、冷静に。
「……撮影も取材も、一切行われておりません。宴会のご予約を入れて下さったお客様が、たまたま芸能関係者であった、というだけです。機材を持ち込まれたお客様も確かにいらっしゃいましたが、お仕事の帰りに直接立ち寄っていただいたからだと思います」
淡々と動揺することなく答えた葵に、今田顧問はわかりやすく鼻を鳴らした。一方の蜂谷は、まるで意に介した様子もなく、スーツジャケットの内ポケットに手を入れる。
取り出したのは、ハガキサイズの一枚のカード。一目見ただけで、葵はそれが何かわかった。
「――ここに、出回った招待状の現物があります。……なるほど、ここにはドラマ制作関係者への感謝御礼パーティーと銘打っているようですが、目的はそれだけでないようですね。……《イベント特別メニュー “大人のお子様ランチ” 、無料試食会同時開催》……要するに、くだらないイベントメニューのモニターとしてゲストを利用した……、ということですか」
「蜂谷君、見せたまえ」
今田氏は、招待状の存在を初めて知ったのか、差し出されたカードをひったくるように奪う。矯めつ眇めつその内容を検め、みるみるうちに赤黒くなっていく今田氏の顔色を目に映しながら、葵は一言一句はっきりと口にした。
「……幹事様とは何度も打ち合わせをしたうえで、ご了承いただきました。ご来店くださったお客様にも、決して強制ではなく、ご希望されるお客様にだけ無料でお試しいただける、とお伝えしております。そのことに関してのご苦情は一件もいただいておりません」
「――苦情の有無が重要なのではない!」
派手な音を立てて、カードは大きな社長机に叩き付けられた。漆塗りの文箱がその振動で跳ねる。
「こ……っ、このような低次元極まるふざけた真似を、我が社傘下の店が勝手に遊び半分で行ったことが問題なのだ! ……お、大人の、お子様ランチ、だと……? 悪ふざけも大概にしたまえっ!」
今田氏は顔中をひくつかせて憤っていた。その剣幕に気圧されぬよう、葵は何度も、大丈夫、落ち着け、と心の中で唱える。
「悪ふざけでも、遊び半分でもありません。お客様にどれだけ喜んでいただけるか、真剣に考えた上でのイベント企画です。事前に許可もいただきました」
「――馬鹿なっ! そのような下劣でくだらない浅知恵に、いったい誰が許可を出すのだというのだっ!」
「――お待ちください、顧問。これは、用意周到に張り巡らされた策謀です」
すっと割って入った、神経を逆撫でるような柔らかな声音。
蛇のような動きでデスク前に出てきた蜂谷は、その小さな瞳孔に怪しげな光を湛えて、葵を真っ直ぐ見た。
「……昨年の十一月、慧徳で異物混入のクレームが起こりましたね。あろうことにそれは、本部クレームに発展した挙句、ネットへ公開されるという恥辱事態にまで陥りました……これらはすべて、水奈瀬店長のずさんな管理体制と危機管理意識不足、そして緊急時対応能力の低さに問題があったことは紛れもない事実です。しかし……こんな経験も知識もない若い女性に店長という責務を負わせながら、そのフォローを万全にできなかった上司こそ問題であり、彼こそが責任を問われるべきなのです。……私が察するに、水奈瀬店長も実のところ、その無能な上司の責任逃れに利用されたのではないでしょうか」
――まさか、そう来るか。
予想していなかった展開に、葵の心臓がにわかに騒ぎ始めた。逸る鼓動を必死に抑え込めば、正面の今田顧問が片眉を大きく吊り上げる。
「どういうことだね? 今あの店を担当しているのは、確か……柏木という若造だったか……」
「いえ、柏木は担当になってまだ間もない、所詮新参者です。責任を取るべき人間は……、前担当の黒河マネージャーであると、私は思います」
目に見えて身を固く強張らせた葵に、蜂谷は薄気味悪い笑みを見せた。
「聞くところによると、あのクレームが起きたその日、黒河マネージャーは裏の事務室で、柏木新マネージャーへの引き継ぎ業務を行っていたようですね。……揃いも揃って表で起きている騒動に気づかず対応に間に合わなかった、ということ自体、言語道断な気もしますが……それはさて置いても、その時点ではまだ、『アーコレード』の正式な担当マネージャーは黒河マネージャーであった……よって、慧徳で起きた不祥事の責任は彼にあるはずなのです」
「……なるほど」
「結局、この件については上が “虚言” だと判断したため、水奈瀬店長も彼も、責任追及されることはありませんでしたが、このたった一つの汚点が、黒河マネージャーの無駄に高いプライドには耐えきれなかったのでしょう。現にあれ以来、ホテル店舗では彼への不信任感が蔓延している状態です。だからこそ、彼は自己保身のため “名誉挽回” を図ったのですよ」
――違う……っ!
喉元まで出かかった叫びを、葵は死に物狂いで飲みこんだ。感情的になってはいけない。冷静に受け答えしなければならないのだ。
葵の小さな震えに気づいたのか、蜂谷の口角がじわりと引き上がる。彼はデスクの上の招待状を不自然に曲げた指先で摘まみ、虫けらを見るような目で、それをなぞった。
「このパーティー予約がたまたま入ったものなのか、それとも故意に計画されたものかは定かではありませんが、あの男はそれを好機と利用したのです」
そして蜂谷は、木の枝のような細い脚を動かし、ゆっくりと社長デスクの前を行き来しだす。
「……ここにある主催者の名は、あの立花監督の孫、橘ちひろの所属事務所です。立花監督といえば先代の義兄に当たるお方……よって孫の橘ちひろ嬢は、黒河家の親戚筋に当たります。……となると、黒河侑司が密かに橘ちひろサイドへ手回ししたことは容易に察せられます。看板女優の口利きがあれば、スポンサーの出資は簡単に引き出せますからね。……その一方で、未熟な女店長を手懐け、上手く丸め込み誘導したうえで、無料であることを掲げたお粗末なイベントメニューなるものの試食会を催す……もちろんそれを密かに撮影させて、慧徳の店の名を広く宣伝させようとする魂胆のもとに、です。……もしかしたら、今後あの店をドラマもしくは映画などの舞台として使わせるための、誘致目的だったのかもしれません。今は、 “あのドラマに出ていたレストラン” とでも銘打てば、ミーハーな庶民ごとき、いくらでも呼び寄せることができる世の中ですから、宣伝効果としては十分期待できます」
葵は開けた口をそのままに愕然と固まった。あまりのメチャクチャなこじつけに、もはや言葉も出ない。
「それ故に、この “感謝御礼パーティー” を利用した……そう考えれば、あんなちっぽけな安物の店に、芸能界屈指の著名人が集まったことも説明がつきます。……黒河マネージャーにとって、多少の社則違反を犯すくらい何でもないことですよ。売上さえ取れれば……あるいは、正面切って “取材” を受けたわけじゃない、とでも言い逃れするつもりだったのでしょう。……汚い手段には目を瞑ってもらい、ひねり出した功績だけが称えられると見込んでの狡猾な策略……、黒河家の御曹司が考えつきそうなあざとい算段です」
ここまで言われれば、葵の忍耐も限界である。
自分のことなら何を言われても耐える覚悟で来た。だが、彼のことは別だ。あの人のことを、ここまで貶され侮辱されるのには耐えられない。
「……違い、ます」
噛みしめた歯の隙間から、自分の声じゃないような声が出た。
「……私がこのイベント企画を提出したのは柏木マネージャーです。黒河マネージャーは、この企画について何もご存じなかったはずです」
蜂谷は、はっ、と侮蔑を露わに嗤う。
「――だから何だというんだ? 柏木が見聞きしたことはすべて、黒河へ筒抜けになるに決まっているだろう? 柏木など黒河の忠実な犬に過ぎない。黒河という名に尻尾を振るだけのロボット犬だ。あんな低能な犬をマネージャーに据えたのも、黒河の独裁的支配を『アーコレード』で継続させたいが故だ。ホテル店舗に我が物顔で戻ってきたあの男が、未練がましくコソコソと『アーコレード』に首を突っ込んでいたのを知らないとでも思ったのか? ……黒河が柏木を操り、その柏木に貴様が操られていたとは考えないのか? すべては、あの黒河が己の地位と評価を高めるための、薄汚い策謀から始まったことだ!」
段々と語気荒く狂気めいていく蜂谷の様子に、さすがの今田氏も、その目と口が完全に開き切っている。
「この “大人のお子様ランチ” という馬鹿げたイベントメニューを見ても一目瞭然だ。……つい数年前、お子様ランチなる邪道を本店のグランドメニューに載せるか否かで揉めたことがあってね……あの男が本店の支配人だった頃だ。当然のことながらその案は退けられ、あの男のプライドはズタズタに傷ついたのだろう。それを強く根に持ったがため、こんな浅ましい計画を思いついたのだ。……愚鈍な女店長を利用し、自分が『櫻華亭』で成し遂げられなかった愚策を『アーコレード』に持ち込み、無理矢理遂行させようとした…… “イベント企画” であれば、失敗してもその責任を店長に擦りつけることができるからな」
鼻先で嗤って、蜂谷は指先の招待状をピン、とデスク上に弾き落とす。ひらりと舞うカードを、今田氏が滑稽な仕草で追った。
「こんなママゴトじみた企画でも、辛うじて採算は取れたようだ。出資者がいるならそれも納得だがね。……あの男の悪運の強さには心底呆れる。おそらく、今日の会議であいつは鼻高々に、このイベント企画は自分の発案だと名乗り出るだろう。成功すれば己の功績……失敗して責任追及されれば、すべて配下に押し付ける。ハイエナのような狡賢い奴なのだよ、黒河侑司という男は」
吐き捨てるように蜂谷は言った。葵は震える両手の拳を爪が食い込むまで握りしめた。
――どうして……なんで……、ここまで、黒河さんを……?
「……蜂谷支配人……あなたは……」
そこへ、蚊帳の外に放り出されていた今田氏が、やっと我に返ったように瞬いた。
「――あー、蜂谷君……つまり、君が主張するところは……黒河マネージャーこそが、今回のあるまじき禁忌行為を計画した主謀者であり、責を負うべき人間だと――」
「違います。計画したのは私です。それがルール違反だと言うなら、それは私の罪です。黒河マネージャーはこの件に一切関わっていません」
それでも、葵は否定し続けるしかない。不覚にも涙が滲みそうだった。
絶対に泣くものかと奥歯を噛みしめれば、先ほどの狂気から一転、カメレオンのようにその顔つきをガラリと変えた蜂谷が、猫なで声で葵に向かって囁いた。
「……水奈瀬店長。……君が彼を庇いたい気持ちはわかる。……あのFAXにも書かれていたね。ずいぶん酷い仕打ちを受けた挙句に、捨てられたそうじゃないか……男女の痴情に首を突っ込むつもりはないが、君はあの男に騙されているのだよ。現に私は、あの男が何人もの客に手を出していることを知っている。……彼氏持ちだろうが人妻であろうが、それこそ純真無垢なお嬢様までお構い無しだ。鉄面皮の顔で女を食い物にする汚らわしい獣……それが黒河侑司の本性だ。……いい加減君も、目を覚ました方がいい。……それとも――、」
にたりと笑んだ蜂谷の口内が真っ赤に見えた。
「 “淫乱” な君には、あれくらいの “獣” が、ちょうどいい、ということかな……?」
「――っ!」
思わずキッと睨み上げた葵を尻目に、蜂谷はくるりと今田氏に向かった。
「――今田顧問。今日の午後からの会議で、私は『アーコレード』慧徳学園前店で行われた社則違反行為について、徹底的に糾弾するつもりです。黒河マネージャーの私利私欲に走る横暴な行為を、これ以上黙認することはできません。『アーコレード』慧徳学園前店の存続について提起し、黒河マネージャー、水奈瀬店長両者の責任問題も改めて追及し直す所存です。……ですがもし、水奈瀬店長が “黒河マネージャーに唆された” ことを証言してくれるのなら、彼女の責任能力を鑑みた上で、彼女だけは特別に、不問に付すのもやむを得ないのではないかと思われます。いかがでしょう」
「う、うむ……そうだな……」
「――私はそんな嘘の証言なんかしません! 何度も言いますが、今回の企画は私が発案し計画しました。誰にも唆されてなどいません! 社則に違反したというなら、その罪は私だけにあります! 処分されるのは私だけのはずです!」
必死の叫びは、蜂谷の小馬鹿にするような嗤いで踏みつけられた。
「これだから、女というものは……」
見開かれた双眸が、葵に向かってさらにその面積を増す。
「自分一人が犠牲になって、事が丸く収まるとでも思っているのか? もはや事態は取り返しのつかないところまで来ているのだ。貴様のごとき弱小店舗の小粒店長がすべての責任を負えるとでも? 思い上がるのもいい加減にしたまえ。……そもそも、料理に異物混入させて本部クレーム問題に発展させた挙句に、その恥辱をネットで公開されるなど、このクロカワフーズにおいて前代未聞、あり得ない失態なのだぞ? 片倉だとかいう通りすがりのヒーロー気取りな男の証言を、たまたま愚かなマネージャーどもが鵜呑みにしたがために――」
――え……?
「――貴様のクビは辛うじてつながっているに過ぎないのだから――」
「――ちょっと、待って下さい」
追い詰めているはずの獲物が、突如表情を変えたのを見て、蜂谷は言葉を止めた。
葵は混乱するまま、浮かんだ疑問を口にする。
「――どうして、片倉さんだと、知っているんですか……? 蜂谷支配人」
蜂谷は明らかにぎくりと動揺し、詰まった。
「……は……、なにを……」
一方の今田顧問は、葵の問いの意味がまったくわからないらしく、怪訝な顔を蜂谷に向けている。
今ここで、これ以上の追及はしない方がいいのだろうか……でも、おかしいのだ。
異物混入が起きたあの時、カップル客と葵の間に割り込んで異議を申し立てた “通りすがりのヒーロー気取りな男” が “片倉” という名であることを、蜂谷が知っているはずがないのだから。
「私が、あの時のクレームの詳細を上に報告した時、片倉さんの名を出さないように、と命じられました。彼は一般のお客様ですから、万が一どこからか名前が漏れてご迷惑がかからないように、という配慮からだと思います。……ですので、私は報告書も書き直しましたし、会議の中でもその名前は一切出ていません。……実際、クレーム中に介入されたお客様が “片倉” という名であることを知っているのは、社長と統括、そしてマネージャーの方々だけのはずなんです。他店舗の店長や支配人は、絶対に知っているはずがありません」
正直なところを言えば、牧野昭美と諸岡良晃は知っている。十二月の定例会議の後、本社を訪れた片倉と鉢合わせ、ご丁寧に片倉自身が名乗ったからだ。もしそれがなければあの二人も知らなかったはずであるし、あの後葵は、二人に口外しないよう頼んである。だから、片倉の名が他の社員に漏れることは絶対にない。
「そ……っ、そんな緘口令など、無駄に決まっている……っ、噂というものはいくらでも隙をついて拡散されるものだっ、現に、今田顧問も――、」
振り向いた蜂谷を受け止める今田氏の顔には、困惑と苛立ちがごちゃ混ぜになっていた。
「いったいさっきから何の話だねっ、き、君たち、そんなどうでもいいようなことを言っていないでさっさと――、」
「――もし、知っているとすれば……あの現場にいた人間か……あるいは、現場にいた人間と懇意な人間であるか……です。――蜂谷支配人はあのお客様と、お知り合いですか?」
見つめた先の爬虫類じみた男は、失言と失態を充分に自覚していた。しかし、それを押し通す図太さと狡猾さは、葵の想定を遥かに超えるものらしい。
一度は揺らいだように見えたその挙動も、男はすぐに立て直し、再び鎌首をもたげた。
「……今更 “犯人捜し” など意味はないのだよ、水奈瀬店長。……知り合いだったら何だというのだ? 私がそのカップル客とやらに、やらせのクレーム騒ぎを命じたとでも? そんな証拠はどこにもない。そんな証明など誰にもできやしない。……水奈瀬店長、過ぎ去ったことより自分の身を案ずるのだな。君が後生大事に抱える、あのちっぽけな店が無くなってもいいのか? このクロカワフーズから追い出されてもいいのか? ……先ほども言ったように、すべて黒河の入れ知恵だと認めたまえ。そうすれば、君は無罪放免、慧徳の店も存続を許される。ここは素直に、 “大人に” なったらどうだのだ?」
ざらりと横面を撫ぜられたような不快感、葵の全身は嫌悪と憤りでくっきりと粟立つ。
『落ち着いて慎重に』……事前の “注意点” など、もはや意識の外だ。
「……それが狙いですか、蜂谷支配人。……私に有りもしない嘘の証言をさせて、黒河さんを陥れようとするなんて……あなたは、卑怯です……っ」
「――黙れっ! 私に向かってその口の利き方は――」
「は、蜂谷君……、お、落ち着きたまえ……少々言葉が過ぎやしないかね……」
「黙りません、蜂谷支配人。どうしてそこまで黒河さんを目の敵にしているんですか? 何があなたの目を曇らせているんですか? あなたの黒河さんに対する誤解は異常です! 彼が何をしたっていうんですか? 羨望ですか? 嫉妬ですか?」
「――黙れぇぇっっ!」
蜂谷は大股で詰め寄ると葵の襟元を乱暴に引っ掴んだ。今田顧問が思わず腰を浮かせる。目の前に迫った血走った眼はギラギラと異様な光を放った。
「……わた、しが……この私がっ、あの男を羨む要素など、どこにあるというのだぁっ! あいつはな、黒河という姓を持っただけの無能なハイエナだっ! 人の顧客を奪い取り、人の出世を横取りし、人の女まで平気な顔で掠め取る……っ! 異常なのはあいつだ! あいつを評価するこのクロカワフーズが異常なのだ! 貴様ごときの小娘が、売女がっ、この私に小賢しい口を叩くなぁぁっっ」
振り上げられたその腕に、葵が身を固くしギュッと目を閉じた瞬間――、
部屋の外で走り寄る足音が鳴ったと思うや否や、社長執務室のドアノブがガチャガチャと鳴り、次いでドアが叩き壊されんばかりに打ち鳴らされた。
「――水奈瀬っ! 水奈瀬っ? いるのかっ、水奈瀬っ!」
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