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第2部
助太刀御免!全員集合
しおりを挟む「――水奈瀬っ! 水奈瀬っ? いるのかっ、水奈瀬っ!」
これは――聞き間違えようのない、彼の声。
普段とはまったく違う鬼気迫る声が耳に入った時、今度こそ葵の目に涙がこみ上げた。
部屋が振動するほどドアは何度も叩き鳴らされ、次いで新たな複数の人間がバタバタと駆けつける気配――、
「――ちょっ……侑司……、落ち着け……っ」
「――葵ちゃんっ、そこにいるのねっ? 葵ちゃんっ!」
「杉浦さん、早く鍵を……っ」
「水奈瀬! 大丈夫かっ?」
「――えーぃっ、押すな……、ちょっと待てって……っ」
「「……葵ちゃぁぁんっ!」」
ドア越しにたくさんの声がわあわあとがなり立てる中、カチと鍵が回される音がしてドアが勢いよく開く。そこから真っ先に飛び込んできた人物は――黒河侑司。
彼は瞬時に視線を走らせ、社長椅子で中途半端に腰を上げている今田氏、そして涙ぐむ葵と、葵の襟元を掴み不自然に片腕を宙に浮かせた蜂谷を認めるや否や、疾風のごとく走り寄り葵の腕をぐいと引いて自分の背後に隔離した。
「――葵ちゃん……!」
一方のなだれ込んできた一団に目をやって、葵は腰を抜かしそうになった。
牧野女史を先頭に、諸岡、大久保、小野寺兄弟が息を切らしてずらりとデスク前に陣取ったのだ。それぞれが皆、ラスボスに向かう戦士みたいな顔をしている。
「――これは、どういうことですか」
いち早く葵の盾となった黒河侑司が、唖然とする今田顧問と頬をピクピク引きつらせる蜂谷を真正面から見据えた。その声は底冷えするほど怒りに染まっている。
荒げた息遣い、端正な横顔のこめかみに薄らと滲む汗。スーツはボタンも留めずネクタイもしていない。
すると、並んだ一団の隙間から鍵の束を手にした杉浦が悠然と現れ、ハフと大げさに息を吐いた。
「――今田顧問に蜂谷支配人。鍵をかけた個室に若い女性を監禁したうえで尋問するなんて、これは色んな意味での “ハラスメント” になるんじゃありませんかねー?」
チャリと手の中の鍵をわざと鳴らして見せて、杉浦は不敵に笑う。
今田顧問が、皮張りの椅子を蹴倒さんばかりにデスクへ身を乗り出した。
「……な、何だねっ、君たちは……っ、一体、誰の許可をもらって、この部屋に……っ」
「あなたこそ、誰から許可を頂いちゃったんですかー、今田顧問。ここは “社長執務室” ですよ? 顧問様が利用できる部屋じゃない」
「……き、君は――、」
ググッと詰まった今田顧問から視線を外し、葵と目を合わせた杉浦はちょっと困ったような顔で笑った。
「葵ちゃん、よく頑張ったね」
「あ、あの……」
愛すべき乱入者たちは、何故ここに葵がいるとわかったのだろう。
まさか、これもみんな “計画” のうちに――?
突然の状況変化について行けず戸惑う葵を、杉浦はくつくつと笑って、いきなり声高に、誰に向かうでもなく “宣告” した。
「――あー、すみませんねー、思いのほか “証拠” がいっぱい揃っちゃったんでー、ちょっとお邪魔させてもらいまーす」
「……杉浦、さん……?」
目に見えない誰かに向かって叫んでいるようなその奇行に、あちこちが「?」となったが、その注視に構わず杉浦は「よし」とか何とか呟く。そして、デスクの前でブルブルと顔中戦慄かせる蜂谷を、何とも言えない目で見据えた。
「――昨日の夜、 “辻山徹朗” が捕まったよ。罪状は “威力業務妨害罪” と “恐喝未遂罪” ……まぁ、今後の調べでさらに罪状が増える可能性はあるけどね」
蜂谷のブルブルが目に見えて大きくなった。
初めて聞く名前と大仰な言葉の羅列に、葵はますます首を傾げるばかりだ。しかし、この場に並ぶ仲間たちを見れば、皆が杉浦の言葉を理解しているように見えた。
「知ってるでしょ蜂谷くん。五年前、ちょこっとだけ『櫻華亭』本店に勤務していた辻山。あんたと同じ進栄大付属高校出身の、辻山徹朗」
「……な、何のことだか……」
ヒク、と笑みらしきものを浮かべようとした蜂谷を、杉浦が見事に失敗させる。
「知らない? うっそだねー。裏、取れたもん。辻山が証言したよ。……『櫻華亭』赤坂店で支配人をやっている昔の同級生から、クレームを起こしてほしいと頼まれた、って。同じクロカワフーズ傘下の『アーコレード』慧徳学園前店でね」
――その言葉を聞いた途端、葵は、やっぱりそうか、と唇を噛んだ。
つい先ほど発覚した、蜂谷が片倉の名を知っていたという事実だけじゃない。ずっと、心の隅に引っ掛かっていたのだ。
本部クレームに上がった苦情メールの文面……あの中に出てきた “栗のアイスクリーム” 。
慧徳の店で、今季一度も出したことのない “栗のアイスクリーム” が、クレームの中に出てきたという不可解さ――、それは、店の内情をある程度知っているクロカワフーズ関係者が関与しているということなのではないか……と。
しかしまさかそれが、他でもない『櫻華亭』の支配人、だったとは――
葵は、怒りとも悲しみともつかない捻じ切れるような心地で、痙攣する蜂谷を睨みつけた。
あの異物混入のクレームのせいで、葵の大切な仲間たちが、どれほど辛くて悔しい思いをしたのか……それを思うと、到底許せることではない。
「は、蜂谷君……!? これはいったい……、せ、説明したまえ……!」
蜂谷に劣らず顔をひくつかせ、声を裏返して叫ぶ今田氏に、前へ進み出た杉浦が目線を合わせたまま、馬鹿丁寧な仕草で一礼した。
「……私がご説明申し上げますよ、今田顧問」
その時葵は初めて、いつも整髪剤で軽く上げてある杉浦の髪がバッサリ下りていることに気づいた。よくよく見れば他の皆も、同じようにどこか不完全な出で立ちだ。スーツは着ているが慌てて家を出てきたような、そんな風体である。
鼻を鳴らし荒々しく椅子に身を沈めた今田氏を見据え、杉浦は、葵もよく知るお客様向けの顔と声と喋り方を優雅に披露した。
「今田顧問はご存じないかと思いますが……五年ほど前、辻山徹朗という男がコックとして、本店に勤務していました。大した能力もないくせに矜持だけは高い傲慢な男で、もちろんうちでは通用せず、すぐに退社となっています。……まぁ、そんな性格じゃあ、うちを辞めて新しい職場へ行っても長続きしなかったようで、しばらく前からその辻山という男は無職のプー太郎です。挙句の果ては、夜な夜な目ぼしい飲食店を回り、ちょっとした悪さを仕掛けての小遣い稼ぎ。一例を申し上げるなら、……『オタクの料理に髪の毛入ってたんだけど』……『どーしてくれんの、誠意を見せろよ』……そーんな言葉で脅迫して、幾何かの金銭をせしめる……我々飲食業に携わる者から見れば、タチの悪い害虫みたいな奴です」
杉浦は芝居がかった仕草で肩をすくめると、わなわなと震える蜂谷を、その視線でガシッと捕らえた。
「その害虫さんに、かつての同窓であり、現在『櫻華亭』の店舗管理者となっている、とある人物がオイシイ取引を持ち掛けたわけです。……お前をお払い箱にした男へ仕返しをしたくはないか? ……今、その男が担当する『アーコレード』慧徳学園前店……そこでクレームの一つでも起こせば、ヤツに一泡吹かせてやれるだろう……いや、そこの店長はまだ入社したての若い女でね……ちょっと脅せば簡単に金を出すはずだ……心配するな、辻山のことを知っている人間はあの店にいない……できてまだ三年そこらのちっぽけな店だからね……もちろん謝礼はする……十万……いや二十万でどうだ……」
「――ぅぅうそだっっ!」
滑稽なまでに裏返った声は、先ほどまでの不気味な滑らかさが微塵もない。
「ウソじゃないよ、蜂谷くん。辻山はね、色んな店でオイタが過ぎちゃってるの。だから被害届があちこちから出ててね、すでにもう、刑事事件になっちゃってるんだなー。ちなみに、クロカワフーズも出してるからね、被害届。警察が介入となれば、辻山の自供を裏付けるためにあんたの所にも調べが行く。……携帯の通信履歴に保存メール、自宅電話の通信記録……ああ、預金通帳の引き出し金額なんかもあるよね。……証拠の隠滅は、完璧かなぁ?」
挑発するような危うい口調の杉浦だが、その間にほんの一瞬だけ、侑司の方へ視線を走らせた。
触れるほど葵の近くに立ちはだかる彼は、今にもビリビリと放電しそうだ。
葵がヒヤリとする一方で、杉浦は「ああ、そうそう」と続ける。
「もう一つ、面白い証言が見つかったよ? ねぇ、モロちゃん?」
そう言って杉浦が戦闘モードの一団に顔を巡らせれば、戦士その一の諸岡が、待っていましたとばかりに一歩踏み出す。
光の加減なのかどうか、彼の細い目の下が暗く陰っているような気がした。
「――昨日、僕たちは偶然、木戸穂菜美さんに会いました」
え……、と目を見開く葵の向かいで、蜂谷の喉が奇妙な音をたてた。
「無断欠勤したまま音信不通で、先月退社処分となった木戸さんです。……彼女には、色々反省すべき点があるのは確かです。でも、無断欠勤と音信不通は、彼女の意思ではありませんでした」
一旦言葉を切った諸岡は、葵を見て小さく頷いて、蜂谷と今田顧問に向いた。
「……前に、ここにいる水奈瀬店長を中傷したFAXが一括送信されました。あれを流した犯人は木戸さんだという噂が、今、社内で囁かれていますよね。彼女はあのFAX騒動の真っ最中に姿を消し、翌日から無断欠勤している……となれば、そんな憶測が広がるのも無理はありません。……ですがその噂も、実は巧妙に操作された偽りの噂です。実際のところ、犯人は木戸さんじゃありません」
「……な、何を、根拠に……」
上ずった声を出しかけた今田氏を、杉浦がサッと手を上げて黙らせた。
諸岡はすっとひと息吸って言葉を続ける。
「犯人は木戸さんじゃない……でも、彼女には心当たりがあった。罪悪感を伴う恐怖に近い心当たりです。だから、あのFAXを見た時、彼女は愕然となりパニックに陥った……これが罠だと気づくはずもなく、冷静な判断ができないほど混乱してしまったんです。……そんな彼女に『今すぐ帰れ』とこっそり帰宅させた人物がいます。そして次の日の朝早く、電話で『君があのFAXの送信者だと疑われている。その疑いが晴れるまで自宅待機していろ』と命じた人物がいるんです。……蜂谷支配人、あなたです」
その場にいる全員の目が、蜂谷に向かった。
こめかみに筋をたて瘧のように震える蜂谷は、まさに異形の狂人――今までの外見が仮の姿だったかのような変異である。
諸岡の隣にいる大久保恵梨が、その涼やかな目で蜂谷を睨みつけて言った。
「蜂谷支配人、あなたご丁寧にも『私が君の嫌疑を晴らしてやろう。しかし、君自身の弁明は却って逆効果だ。今後、私がメールで連絡するまで、誰からの電話にも決して出るな』と、木戸さんに釘を刺したらしいですね。よく考えれば怪し過ぎる命令でも、極限まで怯えた木戸さんはそれを信じてしまったんです。……自分で潔白を訴える勇気が持てなかった彼女にも非はありますが、そのように仕向けたのは蜂谷支配人ですよね? 今田顧問の紹介で入ってきた彼女を、表立って苛めることはしない代わりに、水面下でスタッフ全員を操り、暗示をかけるように木戸さんへ “劣等意識” を植え付けた。……ある意味、豊島支配人よりも性格悪いですよ。絶対安全地帯に胡坐をかいて、自分は手を出さないんだから」
「き、さま……」
ゴロゴロと不快な音を交えて、蜂谷は歯ぎしりする。諸岡が大久保を守るように少し前へ出て、その後を続けた。
「あなたはそのまま木戸さんを放置したんだ。……彼女は仕事に馴染めず辞めたがっていた、放っておいても彼女が戻ってくることはないだろう、このまま上手く退職処分になってしまえば万々歳……そう思ったんじゃないですか? それを見越したうえで、FAXを流した犯人は木戸さんなのではないか、とまことしやかな噂を密かに流し始めた。……疑惑を木戸さんに向けて、自分は安全圏へ逃れるために」
蜂谷は器官が詰まったような音を出しながら、口を何かの形に開けた。が、彼が意味のある言葉を発する前に、今田氏がダンッと両手でテスクを叩き立ち上がった。
「……か、彼女が、無能であったのは事実だっ! せっかく、赤坂へ引き取ってやったものをっ、つまらないミスを繰り返し、満足な接客もできず、私の期待を裏切ったのだ……っ! つ、使えない人間が相手にされないのは当然だっ! 劣等意識だとっ? 劣等であった彼女こそが、愚かな真似をしでたかもしれんじゃないかっっ!」
「でも、彼女はFAXを作成してません」
「送信もしていません」
一番端にいる小野寺兄弟がシレッと口を挟んだので、今田氏はギュイと眉を吊り上げた。こんな若造にまでコケにされたという忌々しさがくっきりと顔に出ている。
「どこにそんな、証拠が……っ」
「――ありますよ、証拠」
明朗な声音で割り込んだのは、我らが女史、牧野昭美。
手に持っていたクリアファイルから、白い紙を引き抜き掲げて見せる。それは二枚あった。
「これ、昨日の夜、黒河マネージャーが見つけたものです。……こっちが、木戸さん作成のワード文書。そしてこっちが、あの中傷FAXの原本。これら二つとも、赤坂の事務室にあるパソコンの削除データの中から出てきたんですよ。……この二つが、赤坂のパソコンから出てきた理由、説明できますか? 赤坂の支配人、蜂谷さん?」
いつも以上に美しく凄みのある笑みは、小野寺双子でなくとも恐怖を抱くだろう。
今や蜂谷は、額にびっしりと汗の滴を滲ませ、血走った眼を極限まで見開いていた。ひび割れた唇が喘ぐように開きかけるが、言葉は出てこない。
そんな蜂谷と牧野女史の間で、忙しなく視線を行き来させていた今田氏が、焦れたように叫ぶ。
「さ、さっぱり、意味がわからん……っ、赤坂のパソコンが、なんだというのだ……っ、」
すると今度は杉浦が、散歩するような足取りで牧野女史に近づき、細かい文字が打たれた方の紙を手に取った。
「これがさっき、諸岡が言った “罪悪感” の原因ですよ。こっちの《告発状》はね、木戸さんが作成したものだと、本人も認めたそうです。……ここにいる水奈瀬店長について、根も葉もない嘘っぱちを “告発” する内容になっていますが……赤坂で邪険にされ、大きなストレスを受けていた木戸さんはつい、出来心で打っちゃったんでしょうねぇ。……でも見ての通り、途中で文章が切れています。木戸さんがこれを打っている途中に、何らかの邪魔が入り、彼女は慌てて作業を止めてこれを削除した…… “ごみ箱” へ。……わかりますか? 大体どのパソコンでも既定はそうなってるんですけどね、一度でも保存をかけた文書は、一回の “削除” だけじゃ消えないんですよ。完全に消すためには、パソコン内の “ごみ箱” に移動したファイルを、もう一度 “完全削除” する必要がある……つまり、木戸さんが消したと思っていたデータは “ごみ箱” の中で生きていた」
杉浦から再び戻ってきた白い紙を、バトンのように受け取って牧野が続く。
「……それを見つけて、利用した人があなたなのよね? 蜂谷支配人。その《告発状》を読んだあなたはすぐに、誰が打ったものか、どういう理由で打たれたものか、即座に理解した……大方、黒河くんに対する木戸さんの気持ちを察してたんでしょう。……元々、『アーコレード』を目の上のクソだと思っていたあなたは、これ幸いと、この文書を自分の武器に作り変えたの」
牧野は、黒いゴシック文字が刻まれた方の紙を、蜂谷に向かって勢いよく突き付けた。
「――葵ちゃんを潰し、慧徳を潰し、果ては黒河くんも、『アーコレード』も潰すために、あなたはこんな鬼畜めいたFAXを流した!」
「――ぅうるさいっっ! わ、私が、そ、そのっ、ぶぶ、文書……しょ、しょ証拠が……っ、ど、どこにッ……」
唾をまき散らしながら、蜂谷は必死の形相で喚く。
そこで侑司が、静かに、黒い焔を揺らめかせながら、口を開いた。
「――赤坂店のエントランスにある監視カメラ、それから裏出入り口にある監視カメラを解析しました。あの文書が作成された日、店に出入りした人間とその時間をすべてチェックした結果、FAX原本の作成者は……蜂谷支配人、あなた以外にいない」
「そ、そ、そんな……そんな、ことが……っ、」
「悪いことはできないねー、蜂谷支配人? さっき警察が介入するって言ったでしょ? お宅の家にあるFAX機も調べてもらおうと思うんだよねー。最近のFAX機って “送信予約” とか、 “送信者欄空欄” のまま送信とか、できるんでしょー? 便利だよねー、自宅で送信設定したFAXを、何喰わぬ顔して、店で受信することができるんだからねー」
軽い調子で続けながら、杉浦がゆっくり何気なく、葵と侑司の前に来る。
「ああ、そうそう、ついでにお宅にあるパソコンも調べてもらっちゃう? ほら、あのグルメサイトのアカウント情報、まだ残してもらってるんだー。パソコンのIPアドレスを調べれば、あの記事を投稿した人間が誰なのか、すーぐにわかっちゃうからねー」
杉浦が再び、侑司をちらと見た。葵も侑司を見上げて、思わず息を呑む。
蓄電エネルギーは飽和状態だ。蜂谷へ向ける双眸に光が見えない。
蜂谷と侑司を結ぶ動線に、杉浦がさりげなく割って入ったが、簡単に押しのけられた……殺気立つ侑司の手で。
「――目的は何ですか、蜂谷支配人」
全身の肌がそそけ立つような声だった。
――待って、黒河さん……!
葵の手が思わず侑司の袖を掴むと、その腕がわずかに反応する。
侑司は一度瞳を閉じて、ゆっくりと開けた。
「……言いたいことがあるなら、直接言えばいい。こんなやり方は卑劣で、不毛だ」
奇怪な震えを見せていた蜂谷が、突如ぐわんと頭を回す。
「――黙れ……」
そして、両手で頭を抱え上下左右に振り始めた。
「だまれだまれだまれだまれぇぇぇっっ!」
侑司が葵を庇って一歩下がった。その場にいる数名は身を竦め、数名は身構える。
蜂谷は頭を抱えたまま、焦点の合わない視線をゆらりと上げた。
「……この私に、生意気な口を叩くな、黒河。私の方が年長なのだ。……卑劣、だと? ……不毛だと……? その言葉をそっくりそのままお返ししてやる。……黒河の名を持っただけの無能が。……貴様の卑劣で姑息で、浅ましい伸し上がり方こそ、責められるべきだろぉがぁっっ!」
「……は、蜂谷、く……」
今田氏が伸ばした手を、蜂谷は思い切り振り払った。
「……なにがわるい……私は、なにも、わるくない……いつだって私は完璧だった……ミスしたのはあいつだ……あいつも……あいつもあいつも……あいつもあいつもあいつも……」
葵は、目の前の醜態を信じられない思いで、ただ見つめる。蜂谷の身体が、細い木の枝のように不自然に曲がってぐらぐらと揺れた。
「……グランド・シングラー赤坂の『櫻華亭』こそ、最高のステイタスだと……FCICに……世界に誇れる、日本の洋食界の、パイオニアとして……完璧な味と、完璧なサーヴィス……ミシュランさえも一目置く……最高の、さい、っこう、けんいの、さっ、さ、さ……」
「き、君……っ、蜂谷っ……、な、何を言っているんだねっ、ひひ、否定をしたまえっ! こ奴らの言うことはすべて世迷言だと……っ、否定したま――、」
「――だぁまれぇと、ぃっているのだ、たぁぬきめ……」
血走った眼の中の真っ黒い穴のような瞳孔が、今田氏を虚ろに見た。
「……は……貴様も、所詮、愚鈍な、タヌキだ……赤坂に蔓延る……カビだ……菌だ……寄生する、くそムシめ……くそムシのおかげで……赤坂は、散々だ……掻き回され、踏み躙られ……メチャクチャになっていく……赤坂の……『櫻華亭』……私の、完璧な、店が……」
「……何と……っ、は、蜂谷くん……っ、てて、撤回し――」
ぐぐぐと煮詰められたように赤黒く変色した今田氏が悲鳴じみた声を上げた時、再び社長執務室のドアが開いた。
「――ざまぁねぇなぁ。飼い犬に噛まれるたぁ、こういうこった」
弾かれたように振り向いた全員が、その濁声の主に目を見張った。
「――く、国武チーフっ? さ、佐々木チーフも……、げ」
諸岡の最後の「げ」は、国武と佐々木の入室に続き、クロカワフーズの大御所チームと呼ばれる親父たちが次々に姿を現したのに対してだ。
「ずいぶん楽しそうなお集まりじゃねーか」
葵と侑司の真横に、国武と並んで仁王立ちした佐々木が、顎先を高く上げて言う。
「間に合いましたかね」
のんびりとした口調は、先ごろ本店支配人に就いたばかりの仙田。
「おい、国武、奥へ詰めろ、奥へ」
大柄でガッチリした山男みたいな風貌は、松濤の綿貫チーフ。邪魔だとばかりに革張りのソファをズズズと動かしている。
「君たちだけで楽しむのはズルいんじゃないの?」
麻布の支配人穂積が先の布陣者たちへニヤリと笑えば、同じ麻布のアテンド大久保が引きつった顔で天を仰いだ。
葵も、そして先陣の仲間も揃って顎を落としたのは、それら大御所チームの後からさらに続いて、他の役職者がほぼ全員、ぞろぞろと入ってきたからだ。
『アーコレード』渋谷や恵比寿のチーフもいた。『紫櫻庵』の手塚支配人も松濤の澤口支配人も。麻布のチーフ牧野晃治の真後ろで、松濤のアテンド坪井がぴょんぴょん飛び上がってこちらに手を振っている。ドア近くには、ホテル店舗の役職……赤坂のチーフと、日比谷のチーフ、両店のアテンドもいた。汐留の若い野々村支配人は、思い詰めたような顔で立っている。
間の抜けたポッカーン顔をした杉浦が、この場に勢揃いした会議出席者を見渡した。
「……今日の会議は、確か午後からのはずですよ? なんで皆さん、揃っちゃってるんですかねー?」
「社長以下、統括、GM、マネージャー……誰一人とも連絡がつかねぇとなりゃ、何かあると勘ぐられても文句は言えねーな」
佐々木の答えに、さすがの杉浦も目を泳がせた。
「……あー、そうでしたか……それはまた、申し訳ないことで……」
「たまたま本店前で柏木に会ってなぁ、ご親切にここまで案内してくれたってぇわけだ」
腕を組んだ国武が勝ち誇ったように顎をしゃくると、ドア付近の人の影からするりと姿を現した柏木が、憮然とした顔でツーポイントフレームを指で押し上げた。
「……この方たちに対して、私が口を閉ざしていられると、お思いですか?」
「うん、思わないねー」
杉浦が苦笑し、取り囲む大御所たちは当然だとばかりに肩をそびやかせ胸を張る。
今や社長執務室は、適正収容人数を遥かに超える人だかりだ。
社長机の奥で仰け反り慄く今田顧問と、その脇で虚脱したように立ち尽くす蜂谷支配人――両氏を追い詰め包囲するように、そして両氏に対峙する葵と侑司を援護するように、幾重もの人垣が作られている。
ビックリ眼の葵と目を合わせた柏木は、少しホッとしたように表情を緩めたが、すぐにキラリンとレンズを光らせて敬礼でもしそうな口調で報告した。
「……豊島支配人の身柄は、しかるべき方達の手によって “確保” されたそうです。そちらには、徳永GMが対処に当たっておりますので」
豊島の名を聞いた時、虚脱していたような蜂谷の身体がピクリと反応したのが、葵の目の端に映る。
「りょーかい、カッシー。……んじゃあ、あとはこの二人で、粛清完了だな」
「……粛清、だと……?」
杉浦の言葉に、今田氏が目を剥いた。そこへ、それ以上の眼力をねじ込んだのは国武だ。
「どうもキナ臭ぇと思ってはいたが、ここまで堕ちていたとはなぁ? 情けねぇこったぜ、今田さんよぉ?」
その筋のお方も真っ青だろう “優しい” 濁声に、今田氏はビクッと仰け反る。すると佐々木が嘲笑うように鼻を鳴らした。
「子飼いの犬たちを操り、よその店に馬鹿げた刺客を放って、てめぇの店の酒を勝手気ままにパクらせる……ずいぶんやりたいようにやってくれたじゃねーか」
「何のことだっ、知らん! 私は、何も……っ、」
「我が物顔でご自分のテリトリーを主張され、悉く人事に口を挿まれたその理由は……こういった悪行をなさるためだった、と」
あくまでも穏やかな口調を崩さないのは仙田支配人。その隣で、綿貫チーフが猿人のように歯を剥き出した。
「あんたが囲った “優能で品格のある『櫻華亭』に相応しい人材” とやらは、詐欺師に盗人、非道な鬼畜生だったというわけだな」
「……だから、私は知らんと言っておるっ! こ、こやつが勝手にしおったことだっ! は、蜂谷くんっ、べ、弁明したまえっ! 君には失望したっ! こ、これは、だ、大問題――、」
「ふは……ぅふふふ……ぐふふふ……」
いつの間にか窓際まで後退していた蜂谷が、木枝のような身体をさらに捻じ曲げて、奇怪な声を上げ始めた。
「ぃひひひ……ひはは……ぅぅふふ……」
狂ったように忍び笑う蜂谷に、今田氏が椅子を蹴り倒しながら掴みかかる。
「――蜂谷……っ、君は、君はっ、重大な事態を招いたのだぞっ! わ、笑っている場合ではない……っ、正気に戻りたまえぇっ! おいっ、蜂谷……っ」
「ぐふふふ……たぁぬきぃ……ぃひひひ……た、たぁぬきぃがぁ……ぁははは……」
ぐにゃぐにゃと今田氏に揺さぶられる蜂谷の目は、もはやどこも見ていなかった。
“成れの果て” ……そんな言葉が葵の脳裏に浮かぶ。
ついに床の上に崩れ落ち、それでもへらへら笑い続ける蜂谷と、その彼を何としてでも起こそうと無様にもがく今田顧問。
侮蔑とも憐れともつかない様々な色が、あちこちの目に浮かんでは、やるせなく瞬いた。
その場に立ち尽くしたまま、葵はこの顛末に困惑し途方に暮れていた。事態は予想もしない方向に進んでしまった。
蜂谷がすべてを裏で操っていたのか、それとも今田氏こそが黒幕だったのか……先ほど話に出てきた木戸穂菜美のことも辻山徹朗なる人物のことも豊島支配人のことも、わからないことが多過ぎて頭の中がショートしそうだ。
そもそも、何故ここに皆が集まったのだろう。本来なら、この決戦の場には自分一人が立ち向かうはずだったのに。
瞳を揺らし、葵はつい侑司を見上げた。それに気づいた侑司がこちらを見返す。先ほどまで放出していた禍々しい瘴気は幾分治まったように思えた。
葵が口を開きかけ、侑司が問いかけるように顔を近づけた時、もう一つの扉が開いた。
「――はい、そこまで。……ちょっと、あけてもらえるかしら」
人垣がざわりと割れて姿を現したその人は、玲瓏な微笑を浮かべ、一同を睥睨する。
誰ともなく漏れた呟きが、さざ波のように広がった。
「――統括……」
0
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