溺愛の花

一朶色葉

文字の大きさ
7 / 18

しおりを挟む

 ほとんど騙し討ちのようにした結婚は彼女が何も言ってこないのをいいことに三週間ほど生活が続いて、その三週間の間に彼女の体温が傍らにあることが当たり前になってしまっていた。
  帰ると彼女の姿があって、夜は故郷でやっていたように抱きしめて眠る。朝はいつの間にか腕から抜け出していた彼女に揺さぶられて起きて、まだまったく覚めていない頭でどうにかこうにか支度をしていた。
  部屋を出るタイミングは一緒だからお互いに「いってきます」と「いってらっしゃい」を交わして。
  ──その当たり前が終わると、何故だか目が早くに覚めるようになった。
  彼女の顔を見てから出勤するのが当たり前だったからか、早くに支度を終えた体が無意識に彼女の部屋に向かっていて、けれど特に用事もないのに朝訪ねるのはさすがに憚られる。だから結んでいたクラバットを外してシャツのボタンをふたつほど開けた。団服のコートは腕を通さず羽織ったまま、呼び鈴を鳴らしてみる。
  出てきた彼女は何度か瞬いただけで表情はあまり動かさない。しかし琥珀の眸には怪訝そうな色が浮かんでいて、柳眉が僅かに寄せられていた。心底不思議そうな顔をするくせに頼めば残りの身支度を手伝ってくれる。彼が故意に開けたボタンを留めてくれて、これまた故意に外したクラバットを結んでくれた後に一度ぽんっとクラバットを叩いて「いってらっしゃい」と少しだけ目元を和ませる。
  きっと彼女からしてみればなんてことない無意識の内の言動で。
  でもそれが、彼にとっては何よりも安らぎだった。



 ***



  午後からの仕事は散々だった。
  書架から取った本は足に落とし、広げていた書類は窓を開けたせいで盛大に床に散らばった。落ちて転がった万年筆を取ろうとして机に頭をぶつけるし、書き上げた資料はインクをぶちまけて台無しになった。仕事に倍以上の時間がかかったのは言うまでもない。
  心ここに在らずなせいで、ファイやナーシェどころか他の薬剤師にも心配される始末。さすがに見かねたのか、終業間際にファイに声をかけられた。
  今朝ウォズリトと小さな舌戦を繰り広げていた彼女は負い目を感じているらしい。普段は凛としている薬室長に申し訳なさそうに眉を下げられてしまえば、ルレインの中で話さないという選択肢はなくなってしまう。
  情けなくも膝を抱えながらぽつぽつと独り言のように零し、彼女は顔を伏せた。
  ──〝君が、君のいなくなった俺の世界に妬いてくれたように〟
  確かにルレインは、自分が死んでからも続いていくヴィスタの世界に嫉妬した。いつか忘れられると思うと悲しくて哀しくて苦しい。
  それは、昔からずっと一緒にいた幼馴染だからという理由だけではない。過去を表す幼馴染という関係性でありながら、未来を望んでしまったのは──ヴィスタのことが好きだから。
 (わかってる。・・・・・・もうとっくに気づいてた)
  ルレインは幼い時から、自分の寿命が他人のものより短いことを知っていた。けれど気にしていなかった。気にしないようにしていた。それを今更気に病んでしまうのは、彼との未来を渇望してしまったからだ。

  それでも、そのためにヴィスタが自らの命を削ることには耐えられない。
  彼の犠牲なんて望んでいない。

 「・・・けっきょく、ヴィスタはあの後訓練に戻っていっちゃって」
  涙で言葉が喉奥につっかえて出ないルレインに困ったように笑って、「落ち着いたらまた、ね」と言いながらルレインの頭を二、三度叩いて出て行った。
  だけどルレインは、向き合うのが怖くて堪らない。
  ヴィスタと一緒にいたい。この感情は本当で間違いなんて疑う余地もなくて。
  でもそのためにはヴィスタの犠牲が必要で。
 (・・・情けない。でも怖い。ちょっとしたことでも、些細なものでもヴィスタが犠牲を払う。ヴィスタが傷つく。私が、あのひとの負担になる)
 「それは本当に、ノスコルグ師団長の自己犠牲なのかしら」
  膝頭に顔を埋めて呼吸を押し殺していたルレインの臆病な思考を打ち切ったのは、まるで幼子にでも言い聞かせるかのような柔らかい声だった。
 「確かに魔力のないあなたに魔力を持たせるということは、ノスコルグ師団長の魔力を分け与えるという意味だから多少なりとも命を削ることになるわ。犠牲を払うという考え方で間違ってない。・・・でも、でもねルレイン」
  呼びかけられて顔を上げたルレインの目の際に光るものを見つけて、ファイはそっと目を細める。
 「でも、ノスコルグ師団長はあなたを生かしたいからそんなことするわけじゃないと思うの。あなたと一緒に生きたいから、あなたが傍にいる未来を望んだから、こんな他のひとには出来ない無謀とも思えるようなことをしたんじゃないの?」
  琥珀の眸を大きく瞠る。視界がぼんやりと滲んだ。
 (一緒に、生きたい・・・? 未来を望んだ・・・?)
  それはルレインの望みと寸分違わぬもので。
 「ねえ、あなたはもう少し望んでもいいのよ。魔力を持っていないというだけで諦めてきたものも多いでしょう。でもその今まで諦めてきたぶん、望んでこなかったぶん、あなたは望んでもいいの」
 「っ」

 「──一番大事なものを抱えるだけの隙間は、まだその腕にあるでしょう?」



 ***



  普段はコツコツと静かな音を響かせる編み上げのブーツの踵が、今はお世辞にも静かとは言い難い音を奏でている。白衣を脱いで、首から下げていた身分証を外した。時折すれ違うひとたちがどこか焦燥に駆られたように走るルレインに目を瞬かせるが、彼女の琥珀の眸がそれを気にする素振りはない。彼女の思考を今現在染め上げているのはたったひとつのことだ。
  向かう先は、自分の部屋がある寮とは真逆の位置にあるもうひとつの寮。薬室を飛び出して広間を抜け、温室も通り過ぎて寮の階段を上がる。ここまでずっと走り続けていたせいで息は上がっているし、肌が僅かに汗ばんでいる。それでも心も体も逸りっぱなしで休んでなんていられない。
 (い、た──)
  視線のその先。ちょうど仕事から戻ったのか、鍵を開けて部屋に入ろうとする姿がある。
  柔らかい銀雪のような銀髪。細身に見える、平均より高い背丈。薬室を出てからずっと探していた、求めてたその姿に、ルレインは駆ける速度上げて勢いを殺さぬままに──彼に突っ込んだ。
 「がっ・・・!」
  急襲に耐えられなかった体が傾く。そのまま部屋の中に転がって、背後でぱたんと扉の閉まる音がした。
  下敷きにした体温と背中に回った腕に、ヴィスタが衝撃から庇ってくれたことを知る。
 「ル」
 「考えてみたんだ」
  ヴィスタの言葉を遮ってルレインは口を開く。顔は上げずに彼の纏う魔導士師団の団服に埋めたまま、縋るようにしてクラバット掴んだ。
 「私とヴィスタの立場がまったく逆で、魔力のないあなたが四十年も生きられないとして・・・私はきっとヴィスタと同じ選択をする。魔力を分け与える。大事なひとを失いたくないから、力があるなら絶対にそうする。・・・・・・だから私にはヴィスタの選択を責める権利がない」
  だって大事なのだ。自らの命を削ったとしても一緒にいてもらいたい。・・・反対に、相手がいないのならどんなに力があっても意味がない。
  ゆっくりと、ヴィスタが上体を起こした。それに伴って、ルレインの体勢も変わる。ヴィスタに抱えられたまま床にペタンの膝をついて、それでも顔を上げようとしない。
 (・・・一緒だ。私の思ってることと、ヴィスタの行動の根本にあるものはまったく一緒。私はヴィスタと一緒にいたい。昔も、今も、これから先もきっと)
  責められない。ヴィスタが自分に魔力を与えるという選択をした。それは、自らを犠牲にすることと同義で、とめどない愛情を注いでくれるのと同義で。

  ──〝俺は、この先の未来を君と一緒に生きる権利が欲しい〟
  その懇願にも似たものが、愛おしくて。
  だからルレインは、覚悟を決めた。

 「・・・・・・だから、明日からあの部屋に来るの禁止」
 「えっ」
 「朝昼晩関係なしにあの部屋に行くのは禁止。支度もちゃんと自分でやるの。わざとボタンとかクラバット外すのもだめ。──歪んでるクラバット直すくらいならやってあげるから」
  だって意味がない。明日からあの部屋は無人になるのだから。
 「訪ねたって誰もいないよ」
  顔を上げてそう言えば、目の前の綺麗な顔がポカンと間の抜けたものになった。紫苑の目を丸くして唖然とルレインを見下ろしてくる。
 「・・・貰っていいよ、ヴィスタ。あげる。一緒に生きる権利も、理由がなくても私に触ることができるそんな立場も。全部あげる」
  反応を示さない頬を両手で包んで贈るのは、軽く触れるだけの口づけ。自分の唇をヴィスタのそれにふにっと押し付け離れれば、まるで夢でも見たかのように何度か瞬いた眸が一瞬遅れて見開かれる。
  その紫苑の眸の中で、彼女は花が咲いたように笑った。

 「だから、だからね、ヴィスタ。あなたの傍にいて、特別な理由がなくてもあなたに触れられる──そんな立場を、私にもちょうだい?」

 




fin






───────────

溺愛の花、これにて完結になります。最後までお付き合いいただきありがとうございました!
サイトのweb拍手の方にささやかながら御礼小話も掲載していますので、お時間あるときにどうぞ。

しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

伯爵令嬢の25通の手紙 ~この手紙たちが、わたしを支えてくれますように~

朝日みらい
恋愛
煌びやかな晩餐会。クラリッサは上品に振る舞おうと努めるが、周囲の貴族は彼女の地味な外見を笑う。 婚約者ルネがワインを掲げて笑う。「俺は華のある令嬢が好きなんだ。すまないが、君では退屈だ。」 静寂と嘲笑の中、クラリッサは微笑みを崩さずに頭を下げる。 夜、涙をこらえて母宛てに手紙を書く。 「恥をかいたけれど、泣かないことを誇りに思いたいです。」 彼女の最初の手紙が、物語の始まりになるように――。

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

冷徹社長は幼馴染の私にだけ甘い

森本イチカ
恋愛
妹じゃなくて、女として見て欲しい。 14歳年下の凛子は幼馴染の優にずっと片想いしていた。 やっと社会人になり、社長である優と少しでも近づけたと思っていた矢先、優がお見合いをしている事を知る凛子。 女としてみて欲しくて迫るが拒まれてーー ★短編ですが長編に変更可能です。

寵愛の花嫁は毒を愛でる~いじわる義母の陰謀を華麗にスルーして、最愛の公爵様と幸せになります~

紅葉山参
恋愛
アエナは貧しい子爵家から、国の英雄と名高いルーカス公爵の元へと嫁いだ。彼との政略結婚は、彼の底なしの優しさと、情熱的な寵愛によって、アエナにとってかけがえのない幸福となった。しかし、その幸福を妬み、毎日のように粘着質ないじめを繰り返す者が一人、それは夫の継母であるユーカ夫人である。 「たかが子爵の娘が、公爵家の奥様面など」 ユーカ様はそう言って、私に次から次へと理不尽な嫌がらせを仕掛けてくる。大切な食器を隠したり、ルーカス様に嘘の告げ口をしたり、社交界で恥をかかせようとしたり。 だが、私は決して挫けない。愛する公爵様との穏やかな日々を守るため、そして何より、彼が大切な家族と信じているユーカ様を悲しませないためにも、私はこの毒を静かに受け流すことに決めたのだ。 誰も気づかないほど巧妙に、いじめを優雅にスルーするアエナ。公爵であるあなたに心配をかけまいと、彼女は今日も微笑みを絶やさない。しかし、毒は徐々に、確実に、その濃度を増していく。ついに義母は、アエナの命に関わるような、取り返しのつかない大罪に手を染めてしまう。 愛と策略、そして運命の結末。この溺愛系ヒロインが、華麗なるスルー術で、最愛の公爵様との未来を掴み取る、痛快でロマンティックな物語の幕開けです。

処理中です...