溺愛の花

一朶色葉

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番外編

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 ファルノン帝国は、他国が攻め入るのを恐れるほどに魔力持ちが溢れている。
  その属性は様々で、瞬きの間に火の玉を生みだす火属性、時には強力な竜巻を生みだす風属性など、敵に回して百害あって一利なし。倍返しどころの騒ぎではない。
  ここ数年魔導士師団団長の座についている青年などは、莫大な魔力を持っておきながらさらに水の変態まで操るという化け物っぷりと発揮している。
  魔力の大きさは個人差あれど、ファルノン帝国を他国が恐れるのはいわゆる〝攻撃向き〟の魔力属性が溢れているからだ。
  その多様な魔力属性溢れる国でも、特段稀少だと言われる属性がある。
  生きとし生けるものすべてを育む治癒魔力。攻撃力は皆無だが、護りに入れば重宝される特殊能力ともいえるその力。──〝土属性〟の魔力持ちは極めてその数が少ない。
  その稀少な土属性の魔力持ちが王宮の薬室に入ったのは、底なし沼と謳われる水属性の魔導士が師団入りする半年前のことだった。



 ***



  ここ数年、まったくと言っていいほど空くことのなかった宮廷薬剤師の席がひとつだけ空いた。
  毎年新人を募る軍部と違って薬室は定員が決まっている。席が空かなければ募集はかからない。そして、空席ができたとしてもそこは異常な競争率となる。
 「ああ、君が土属性か。どうだ、被検体になるつもりはないか?」
  勉強して勉強して、寝る間どころか食事する時間すら惜しんで机に齧りついた甲斐あってか、その小さな空席に名前を滑り込ませることが出来てから半月ほど経った頃。
  突如として目の前に現れたのはファイよりも僅かに背の低い黒縁眼鏡が印象的な少年だった。背の割に声は低く、それでいて硬質な喋り方をするものだから怪しさは五割増どころの話ではない。魔術師の特徴である布地の多い服を纏い、さらに頭をすっぽり隠してしまうフードを被って、ズレた眼鏡を押し上げながらそう言われた日には誰だって警戒する。
  もちろんファイもその例に漏れず、胡乱な色を充分に浮かべた眸で切り捨てた。
 「ないです」
 (どこの悪徳業者よ!)
  いや、悪徳業者のほうがもっと上手い口八丁で近づいてくる。なんだこのチビメガネと大概失礼なことを思いながらも、あっさりと「そうか」と引き上げていった彼に拍子抜けしたのはここだけの話だ。
  だがその初日の潔さはどこへやら。彼はそれから毎日の如くファイの前に現れ謎の勧誘をしてくるようになった。
 「ああ土属性、いいところに。研究を手伝ってくれないか?」
 「土属性、こんなところで偶然だな。袖振り合うも他生の縁だ。ちょっと被検体になってくれ」
 「やあいい曇り具合いだな、土属性。ところで君の魔力は天気によって調子を変えたりするのか?」
 「土属性、休憩中か? なら休憩ついでにちょっと魔力を調べさせてくれ。茶くらいなら出そう」

 「土属性土属性土属性土属性土属性土属性土属性土属性土属性土属性土属性土属性うるさぁぁああああああいわ!」

  あるときファイはついにぶち切れた。大体、ひとの顔を見るたびに壊れたように「土属性」と「実験」を繰り返すとは何事だ。
  何よりも、叫んだファイに対し一度きょとんと瞬きをした後「一番土属性土属性言っているのは君じゃないか?」と冷静に返して来たことが腹立たしい。
 (こんなところで偶然も何も温室だしアンタがいるほうがおかしい場所だし大体ついでに被検体になれってどこがついでなのよ袖振り合うも他生の縁どころかこっちは何度も何度もアンタのこと袖にしてんのよ!)
  しかし彼はしつこかった。執拗に行く先々に現れ「土属性」と「実験」を何度も何度も繰り返し言われ続ければこちらも辟易してくる。
 (もうどうにでもして・・・)
  怒るのも疲れる。気力も何もかも持っていかれて、気づけば実験に付き合わされているのだから末恐ろしい魔術師だ。
 「なるほど。土属性の治癒魔力は直接的に作用するものではなく植物などを媒介にしなければならないのか。・・・ああ、だから土属性は薬室に」
 「ねえ、その土属性って言うの止めてもらえないかしら」
  ファイが彼の実験に半強制的に引っ張られるようになってから一週間ほど経つ。それなのにこのおかしな眼鏡魔術師からの呼称はいつまで経っても〝土属性〟だった。
  蓄積された不快感に脚を組みながら顔をしかめる。不愉快さを滲ませた声音に、動かしていた羽ペンを止めた彼は一度ファイの顔を見やった後「そうか」と呟きながら再び書類に向き直った。
 「だが僕は生憎と、君の名を知らないのでな」
 「は?」
  独り言のように言われた言葉に唖然とする。もうこの一週間で通い慣れた彼の小さな研究室は、その狭さも相まって、どこに何が置いてあるのかをファイはすでに把握していた。
  だが。考えてみればこの部屋の主である少年のことは外見の特徴と職業が魔術師であること、魔力属性は風、そして所属は違えど同じ年に王城に入った同期であるらしいことくらいしかわからない。
 (えっ? でも私の名前知らないなんて)
  彼の名すら知らない自分のことを棚の上にぶん投げてファイは呆気にとられる。そこに少しの戸惑いも混ざった。
  彼は最初、「ああ、君が土属性か」と言って近づいてきた。それは彼女が何者なのかを最初から知っている前提がなければ出てこない台詞だ。
  それに、自分についてあまり嬉しくない噂が出回っていることも知っている。
  ──〝薬室の新人はその魔力の稀少さゆえに起用された。実力は関係ない〟
  悪事千里を走る、ではないが悪い噂というのは広まりやすい。実際に、薬室を出れば不躾な視線とともに何事かを囁かれているのは感じている。さらに嬉しくないことに、その噂にはしっかり名も入っているのだ。
 「あなた、私の名前知らないの?」
 「? 逆に何故知っていると思う。僕は一度も誰何した覚えはないし、君も名乗った記憶はないだろう」
 「そ、れはそうだけど・・・」
  心底不思議そうに首を傾げられ、ファイの頬は僅かに赤くなった。今の発言だけ聞けば、確実に自意識過剰な自己愛者ナルシシストだ。
  だから紡いだ言葉はどこか焦ったようになる。
 「私がこの属性で薬室に入ったっていう嫌な噂が流れてるみたいだからあなたもそれを聞いたのかと思って」
 「僕は今年薬室に入った薬剤師は土属性だとしか聞いていない」
 「・・・そうなの?」
 「ああ。それに何故それが嫌な噂になる?」
 「え」
  淡々とした返しにほっとしたのも束の間。無遠慮に成された質問に、ファイは確かに動揺した。
 「・・・っ、だって腹が立つじゃない。認められてないみたいで。私は他の受験者と同じくらい・・・いいえ、それ以上に机に齧りついて夢の中でまで本とペンに追いかけられるくらい勉強したのに」
 「追いかけられたのか」
 「食れるかと思ったわ。それなのにその努力は一切関係なしに魔力属性が稀少で薬室に合ってるから選ばれたんだって言われて。・・・なんか私を否定されてるみたいで」
 「それの何が問題なんだ?」
  眼鏡の向こう側の怪訝な眸と視線が絡む。
 「土属性の魔力含めて君だろう。薬剤師になるために勉強したのも君だ、稀少な土属性の魔力を持っているのも君だ。その魔力属性だって君の持って生まれた実力だろう。言ってみればそれは、君が持ち得る実力で薬室に入ったという話と寸分違わん。それでも魔力で受かったって言われて何か不都合があるのか」
  悩んでいるのが馬鹿らしくなるほど前向きな解釈だった。それどころか、ずっと視界を覆っていた靄を一瞬で吹き飛ばすほど明快な〝答え〟だった。
  一瞬返答に詰まって、それからゆるゆると唇が笑みを刻むのがわかる。
 「ないわね」
  隠し切れなかった喜色に気づいた彼が僅かに目元を和ませる。
  その後、ファイは初めて知ったのだ。そのおかしな魔術師の名がウォズリト=ハルバンであることを。

 「ファイ殿」
  呼ばれて振り返れば、少し視線を上げた位置に光を弾く黒縁眼鏡があった。遅めの成長期を迎えたウォズリトが、ファイの身長を今のところ僅かに超している。
 「・・・生意気」
 「唐突に何の話だ」
 「別に。身長欲しいなと思っただけよ」
 「? 君は女性だろう。小さくてなめられるわけでもなし。背が低くても愛らしいだけだと思うが」
 「そ、そう・・・」
  背丈がそれほど変わらないから、立ち止まって向き合えば近い位置に眸がある。
  さらりと何気なく付け足された愛らしいという単語に、ファイは照れるを通り越して頬を引き攣らせた。
 (落ち着け―落ち着け―。この男は身長が低いことを愛らしいと言ったのよ。つまり小さいものは可愛らしいと同義。見たまんまを言っただけ。・・・そうよ、大体ちょっと前まではウォズリトの方が〝愛らし〟かったんだから)
  背が伸び始める前のウォズリトの目の位置は、少し視線を下げたところにあった。だから彼はファイト話す際、少し見上げるような体勢になっていたのだ。それを思い出して過去にウォズリトの目があったはずの位置に目線を下げ、一度深く呼吸をする。
  まだ大丈夫だ。動揺はしたが取り繕えない範囲ではない。
  時折不意打ちで放り込まれる爆弾のせいで以前よりも精神を揺さぶられる回数が段違いに増えた。そのせいでオリジナルの精神統一方法を確立したし、何より未だ蔓延っている心無い噂にいちいち落ち込む余裕もない。
 (大丈夫、他意はない他意はない他意はない他意は──)
 「ファイ殿?」
  目を合わせないことを訝しんだウォズリトが首を傾けながら顔を覗き込んで来た。「ひっ」と上がりそうになる悲鳴と下がりそうになった足を押し止め、何事もなかったかのようににっこり笑って見せる。
 「ちょっと前まではあなたの方が小さくて可愛かったのになー」
  誤魔化しにはいささか向かない声の調子になった。ついでに大根役者もかくやというほど語尾に感情の籠らない棒読みだった。
  にかわで固めたような胡散臭い笑みを浮かべながら背中には冷や汗を流すファイに、ウォズリトは眉を顰める。だがそれも一瞬だ。怪訝な顔は瞬く間に眉間に皺を刻んだ不機嫌顔へと変化した。
 「・・・可愛さはいらん」
  よほど可愛いと言われたのが気に障ったのか、ぼそっと落とされた声は普段よりも低い。片目をすがめながら軽く睨み付けてくる様はいつもなら恐ろしく見えるのだろうが、今回はなんというか──可愛らしかった。
 (これ、もしかして怒ってるというよりは拗ねてる? むくれてる?)
  睨み付けても平然としているどころかきょとんとどこか驚嘆顔をするファイに、ウォズリトはしまいにはふいっとそっぽを向いた。
 (むくれてるー! あの小生意気な魔術馬鹿が子どもみたいに拗ねていらっしゃるー!)
  ファイとしてはとてもいじりたい。いじり倒したい。だが下手にいじると本気で機嫌が急降下してしまいそうだ。
  せっかくの機会なのにいじれないというのは非常に口惜しいが、普段の彼を知っているからこそわかる──ウォズリトは怒らせると面倒なタイプだ。
  仕方なしに次の機会を狙おうと心に決めて、ファイは話題をすり替える。
 「それで? 何か用だったんじゃないの?」
  本格的に研究に手を貸すようになってからは、彼の研究室に行くのは三日に一度と頻度が決まった。昨日、土属性の魔力持ちが持つ厄介な特徴についてデータを取らせたところだから、今日は何の予定も入っていなかったはずだ。そしてもしも研究の手伝いならば、それはファイの仕事を邪魔しない終業後となるはず。
  温室から薬室に戻る途中だったためにファイの片手には取ってきたばかりの薬草を入れた袋が握られ、経過観察を記した書類も小脇に挟んでいる。言外に手短に頼むと訴えるファイの出で立ちに口を噤んだ後、「見かけたから」と薄い唇が吐き出した。
 「見かけたから声をかけただけだ。・・・ついでに今日魔導士師団に能力も魔力も馬鹿高い魔導士が入ったと聞いたのでな、その辺り何か知らないかと」
  絶対に〝ついで〟の部分が本題だっただろうと目が据わる。
  見かけたから声をかけたのは嘘ではないはずだ。彼はわざわざファイを探して時期外れに入った魔導士のことを聞こうとはしない。情報を集めているついで、または実際にその魔導士の元に向かおうとしているところにファイがいたから何か知っているなら聞き出そうと声をかけて来たにすぎない。
 「今日入ったばかりの魔導士について私が特に何かを知っていると思うの? わかるのは私たちが王城に入って半年のこの時期に入ってくるのは珍しいってことと、私たちのが半年先輩だけど同期になるってことくらいだわ」
 「それもそうなんだが──」
  珍しく歯切れの悪い物言いをしながら視線を彷徨わせたウォズリトが、ふいに何かを見つけたらしく目を瞠った。
  気づいたファイが振り返るのと、彼がその横をすり抜けるのはほぼ同時。視界に飛び込んで来た銀雪のような髪色と酷く整った中性的で幼い相貌を認めた時には、ウォズリトはすでに少年に絡みに行った後だった。
 「君が今日入った魔導士だな。噂に聞いてはいたが底なしだな本当に。ああ、よかったら僕の研究に付き合ってくれないか?」
  それは、ファイに最初近づいてきたときよりも些か弾んだ声音で。
  つい今しがた向き合って話していたというのにファイのことはもう完全に視野の外だ。

  ──彼の興味が、あの魔導士に移ってしまった。

  ガツンと、横っ面を殴り倒されたような衝撃が走る。不自然に鼓動が跳ねた。首筋から噴き出た嫌な汗が背骨の上をゆっくりと滑る。
  ウォズリトは、自他ともに認める魔術馬鹿だ。ファイに声をかけて来たのだって、研究のためで。それ以外に他意はない。言ってみれば、彼がファイに興味を持ったのはファイが稀少な魔力土属性を持っているから。
  それならば。
  自分を超える稀少な人間が見つかったら、ファイは彼の興味の対象外になるのではないだろうか。
  指先が微かに震える。
  鬱陶しそうな顔をしている魔導士にめげずに絡み続ける彼の姿に〝用済みだ〟と言われている気がして、堪らず彼女は目を背けた。
  何故か心臓が、締め付けられたように痛かった。



  体の中は酷く熱いのに、外皮に触れる空気は震えるほど冷たい。
  頭蓋骨を内部から金槌で何度も殴られているような感覚に、ファイは低く唸った。指先を動かすのも億劫になるほど怠い体で寝返りを打って重い瞼をゆっくりと押し上げる。
 (ゆ、め・・・)
  呟いたはずの音は空気を震わせることなく、まるで堤に止められたように喉の奥で絡まった。視界は紗がかかっていて物の輪郭がぼやけて見える。はっきりとわかるのは色くらいだ。ファイしかいない部屋で寝返りを打つたびに聞こえる衣擦れの音もどこか遠い。
  朝起きた時から調子がおかしかった。最初はただの眩暈。寝台から降りた時くらりと視界が揺れた。そして徐々に四肢の先端から感覚が消えていく。地につけているはずの足裏がまるで浮いているように何の感覚も伝えて来ない。極めつけは収まらない頭痛だ。
  ほとんどの感覚がどこか自分の預かり知らぬ遠いところへ行ってしまったというのに、頭を殴られているような痛みはずっと続いている。これのせいで眠ることもままならない。眠ったとしても意識は深いところまで沈まずに浅瀬をふよふよと漂っているせいで短時間で目が覚めてしまう。そうしてまた、頭痛に悩まされる。
  朝異変を感じ取ってすぐに隣室の薬室長補佐のもとへ休むことを伝えに行ったから、薬室はファイがいなくても円滑に回っているはずだ。
  風邪に近い症状だが、風邪ではない。──これは、土属性の魔力持ちが持つ厄介な特徴だ。
  魔力というものは、常に体の中を循環している血液のようなものだ。水属性の魔力ならば、その魔力は属性の通りさらさらで滞ることなく体を回っている。他の属性も似たようなもの。だが土属性は、属性の名が示す通り流れが悪い。
  そもそも土というものは、流れを堰き止めるものであって自らが流れるものではない。水が火よりも強い性質を持つのは火の威力を水で消してしまえるからだ。そして土は、水の流れを止めてしまう。
  ──つまり土属性の魔力は荷詰まりをおこしやすい。
  血液が体を巡らなくなると不調を起こすように、魔力も一か所で止まってしまえば体が不具合を起こす。その不具合の結果が今のファイだ。
 (・・・さむい。あたま、いたい)
  動くこともままならず、体は熱いのに常に寒さに襲われている。頭痛も止まらない。これが、最低でも丸一日は続く。
  寝台の上で丸くなり、ぎゅっと目を瞑る。いつの間にか目の表面に張っていた薄い水膜が、その拍子に零れ落ちた。眦を伝う雫は、生理的なものなのか精神的なものなのか、ファイにもわからない。
  体が弱ると思考も弱る。どんどん消極的な方向に傾いていく思考のせいで嫌な夢まで見た。寝ても起きても地獄だ。
  あんな、五年以上も前のこと──
「・・・・・・みればこれだ。ファイ殿、油断しただろう」
  ふいに。
  ぺしりと、額にひやりとしたものが貼りついた。同時に遠くにあった五感が戻ってきて、どこか呆れたような声が耳朶を叩く。
  ぼやけていた視界が焦点を結んで、若草色を捉える。カーテンの隙間から入り込む光を弾く黒縁眼鏡の奥には湖水の青。夢の中よりも長身で幼さの抜けた顔が、ふいに意地の悪く笑った。
 「そうして術符を額に貼っていると東方の国の化け物を思い出すな。知っているかファイ殿、その化け物は符を剥がすと大暴れするらしい」
 「・・・・・・苦しんでる病人に最初に言うことがそれなの。何でここにいるのよ」
 「ルレイン殿に聞いてきた。君に以前渡した術符の数とあれから何度君に周期が来たかを照らし合わせたらちょうど術符が足りなくなっているだろうと思ってな。本当は術符を渡しに来たんだがタイミング悪く寝込んでいると聞いたんでもしかしたら、と」
  額からぶら下がる術符が視界の大半を奪っている。怠さはまだ抜けないが感覚は戻って来た。頭痛も徐々に収まってきている。
  術を編み出したウォズリト本人が〝循環術符〟と呼ぶこの符は、その名の通り魔力の滞りを緩和するものだ。土属性の荷詰まりにはある程度の周期があり予測しやすいため、体が不調を訴え始めた初期症状のときにこれを体のどこかに貼りつければほとんど普段と変わらずに過ごせるという優れものである。まだ二十五のウォズリトが魔術師長の地位にいるのも、この研究があったからと言って過言ではない。
  もぞもぞと体を起こして鎖骨にまで到達している長い符を頭の上に捲り上げれば、見舞いに来たと言っていたはずのウォズリトが別室に消えていくのが見えた。
  しっかり施錠していたはずの自室にどうやって入ってきたのかは聞くまでもない。王城入りして初めて荷詰まりを起こした時、様子を見に来てくれたウォズリトは今と同じように鍵をものともせずに入ってきた。絶句するファイに「大抵の鍵は針金一本でどうとでもなる」としれっと言ってのけた男だ。
  犯罪だと思いはしたがその開錠技術ピッキングに救われたも同然だったのであえて何も言わなかった。今思えばあの時口を噤んだのは間違いだったのだろう。
 「無断侵入は犯罪よ」
 「今更だな」
  恨みがましく睨み付けるファイに戻って来たウィズリトはどこまでも涼しい顔だ。
 「キッチン借りたぞ」
  手渡されたマグの中身は蜂蜜入りのホットミルク。勝手知ったる顔で別室から椅子を引きずってきて、ちゃっかり自分の分まで用意したマグに口をつけるその手の中で、ファイの私物である本──それも巷で流行りの恋愛小説が開かれている。
 (・・・なんで数ある本の中からそれなのよ)
  別室はキッチンとテーブル、浴室以外のほとんどの空間を本棚に取られている。仕事関連の図鑑から研究書、果ては趣味で集めている小説の類を一見しただけでわかるようきちんと分類わけして並べているのだが、ウォズリトが選出したのは植物や魔力に関する本ではなく何故か心ときめき胸躍るという謳い文句の乙女向け小説だった。
  生真面目を体現したような真剣な表情で大の男が恋愛小説に向き合っている様はどこか歪だ。
 (そもそも何でそんなにくつろいでるのよ。研究馬鹿のくせに仕事に戻らなくてもいいわけ? ・・・ああ、経過観察これも仕事か)
  舌に触れて喉を通る味は甘いのに、何故か苦みが広がった。文句を言う気にもなれない。
  ホットミルクの柔らかい白をぼーっと眺める。
  いつからか、彼に対しての言葉に僅かな棘を含ませるようになった。棘で刺されている当人は気づいていないのか、はたまた気づいていて敢えて何も言ってこないのか、まったく気にした様子もない。おそらく後者なんだろうと思う。ウォズリトは鈍いようでいて他者の抱えている負の感情には驚くほど敏い。最近ようやく元鞘に納まったルレインの傷を正面から暴きにかかったほど、荒っぽい手段をとることも厭わない。言動を一切飾ろうとしないところは、彼の欠点であり美点だ。
  そのウォズリトがファイに対して何も言わないのは、向けられる些細な棘に珍しく困惑しているからなのだが、それを知らない彼女は自分が彼の興味の対象外だからだと悪い方向に捉えている。
  基本的に興味のないものに注意を向けないというウォズリトの性質が今回ばかりは災いした。
 「それ、おもしろい?」
 「それなりには」
 「そう」
  ぺらっとページを捲る音を聞きながらマグを置いてシーツに潜り込む。ファイがウォズリトに棘を向けるのは、自分自身が傷つかないためだ。自分でも呆れるほどに弱くて柔い心が折れてしまわないように、ほとんど無意識に言葉が険を孕む。このウォズリトに対してだけ発揮される悪癖はもう簡単には治らない。
  恋愛小説は好きだ。どんなに辛くても、どんなに胸が締め付けられようとも、最終的に待っているのは大団円。苦い思いも最後には報われる。──けれど、現実はそう甘くない。
 (なんで)
 「・・・・・・なんであんたにこいしちゃってたかなぁ」
  ホットミルクで温まった体が意識を深淵の淵に誘おうとしている。うとうとと船を漕ぎ出した頭では自分が何を口走ったのかよく理解できていない。
 (おもったってつらいだけなのに)
  重くなる瞼に負けて目を閉じたせいで、眼鏡の奥の湖水の眸が限りなく大きく瞠られたことに気づかなかった。
 「・・・君は、僕のことが好きだったのか」
 「・・・わかげの、いたりよ・・・・・・」
 「・・・・・・そうか」
  誰かが言っていた。初恋は実らない、と。
  実りはした。でもまだまだ青くて、苦くて、とても食べられたものではなくて。
  いくら待っても甘くなるむくわれるわけないのに、未だ摘み取るのを躊躇ってしまっている自分に、いい加減反吐が出そうだった。



  すうすうと穏やかな寝息が聞こえる。そこに重なるページを捲る音は、静かな空間を乱すものだった。
 (つまらんな)
  おもしろいかと問われ、それなりにと返したのはつい数分前のことだ。物語としてはそれなりに楽しめる。だが現実味のないご都合主義な展開は自分の感性には合わないものらしい。
  半ばを少し超えたところで、ページを捲る手が止まった。しばしそのページを意味もなく眺め、完全に閉じてしまう。
 (恋愛ほどいろんなものを奪われる無駄なものはないな)
  自分のペースを乱され、心を削がれ、理性とは違うところで体が勝手に動く。満たされる時間なんて一時で、満たされた後も際限なく湧いてくる欲のせいで落ち着かず、心の平穏を奪われる。
  吐き出した溜息が、思っていた以上に重々しく響いた。
  いつも強気な光を湛えた深い翡翠の眸は、今は瞼に遮られて見ることが叶わない。最初は悪かった顔色も、今はもうほとんど戻ってきている。初めは本当に酷い顔色をしていたのだ。ウォズリトが持ち前の開錠技術ピッキングを駆使して部屋に入った時、寝台で丸くなっていた彼女の顔は土気色を通り越して蒼白だった。柄にもなく焦ったのは言うまでもない。
 「若気の至り、か」
  ファイが眠る前に落としていった爆弾は、ウォズリトを動揺させると同時に落胆させるものだった。
  そっと寝台の上に広がる白金プラチナに触れる。普段は纏められているこの髪に触れられる機会はそう多くない。緩く握っただけだとさらさらと零れ落ちていくほどに柔らかい手触りを堪能しながら、苦く笑う。

 「──・・・僕はこれでも、かなり君を好いているんだがな」

  無意識に唇から零れた言葉は、硬質な言葉遣いに似合わず、隠しきれない愛おしさを孕んでいた。




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