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第2章
6 夜明け
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まだ夜は明けない。まだ誰も目が覚めてない時間。群青色の空に、細い月と小さく瞬く星がひとつ。
マリーはじっと天井を見つめていた。職人の凝ったデザインが彫られていた。羽根を広げた鳥の姿だ。優雅に羽ばたき、彩色も見事だった。その鳥と共に描かれた花々は、風に舞っているような動きが見えた。だが、マリーは、それらを気に止めることはなかった。
ここ最近は、昼も夜もまったく眠れていない。横になっても布団を頭から被っていても、一向に眠気は襲って来なかった。
歌もだ。
「…今日も歌えなかった」
歌いたくないわけじゃない。むしろ歌いたい。なのに、歌わないといけない義務感に、押し潰されそうで焦るばかりで、気持ちが歌に入らない。歌詞やリズムが合わない。そんなことの繰り返しで、気力が損なわれていた。
昼間は、神官や女官達の「できるのは当たり前」といった視線が刺さる。
巫女に一目会いに来たという村人達の羨望の眼差しも痛いほどだ。しっかりしないといけないのに、歌わないといけないのに、ただ、ただ気持ちが逸るばかりで、落ち着いていられなかった。一字一句まるごと覚えた花詞典も、今は何度もトチってしまう。
マリーは深く溜息を吐いた。ゆっくりと起き上がり、寝台から下りた。
肌寒い。いつの間にか空気はひんやりとして、吐く息は白かった。目まぐるしい日々を送っていたためか、寒さに気付いてなかった。
マリーは毛布を被ったままテラスに出た。耳の端を風が通り過ぎて行った。ピューッと勢いよく吹き付ける風に髪の毛もぶわっと揺れた。
今なら、どうかな。誰もいない。
マリーは口元を両手で覆って、白い息を吐いた。
きょろきょろと周りを見回しても、今は誰の視線もない。あるのは月と星だけ。空は押し黙ったまま。深い群青色に染まったままだ。
眼下に、小さな明かりは見えるが、微々たるものだ。足元を照らす為に等間隔に歩道に置かれていた。ロカイドという植物だ。この植物の種から油が取れる。布に浸して火を付けるのだ。火のもちもよく、旅の必需品でもある。
あの小さな明かりでは、私を捕らえる事はできない。
今はまだ起きる時間ではない。みんなまだ寝静まっている。夜明けまではまだ少し時間がある。
「…夜の花。冬の花…」
マリーは、頭の中にある花詩典のページをめくり、冬に咲く花を探した。
「星の瞬き…。囁き…」
雪の結晶のような形の花がある。バイラ。無色透明な雪の結晶とは違い、少し黄味がかった色だ。太陽光に照らされると、優雅に花弁を広げる。氷は溶けるが、花は残る。冷たい土の上でもその美しさは保たれる。
「…おねえちゃん。…聞こえる?マリーは、さびしいよ。…さむいよ。ぎゅっとくっついてねむりたいよ」
かの日の思い出を思い返しながら、マリーは歌い出した。その歌声は小さく、巫女にも神官にも聞こえなかった。押し黙ったままの空に溶け込んでいった。
*
「なんだもう行くのか?毎日せわしないな」
窓辺に差し込む日差しを手で遮りながら、男は呟いた。大あくび。まだ閉じそうな眼。
「あれの奥方は仕事が早いんですよ。いくつも印を付けているのに、すぐに繕ってしまう。あれを目印に動いているから、見つかる前に動かないと何もできない」
ベッドの上でのうのうとしている態度にククルは苛立ちを覚えていた。
「そうか。一緒に行ってやりたいが、どうにも体がついていかない。悪いな。起き上がらせてくれ」
ククルは、男の袖を咥えて引っ張った。
「よっこらせ」
男はベッドの縁に掴まりながら、ようやく体を起こした。両腕は細く、血管が浮かんでいた。
ククルはぶるぶると体を震わせ、尻尾の付け根にグッと力を入れ、体を伸ばした。抜けた赤毛がふわっと宙に舞った。
「…体力無さ過ぎですね。前からそんなんでしたっけ?まあ、いつも不健康っぽい雰囲気ではありましたが」
もともと細身で肉付きの悪い体だ。たくさん食べても太れない体質である。男が残した食事をククルはよく漁っていた。
行き交う人にチラチラと見られていた。独居老人の話し相手は猫。二人の会話を独り言だと勘違いした隣人が、心配そうに尋ねて来たこともある。
「お爺さんに間違えられるはずです。ていうか爺さんです。どっから見ても!」
「そうは言ってもずいぶんと実体から離れていたのだ。魂の抜けていた体は萎びていくのが自然だ。体を取り戻す気はあったが、残された体をケアしていくのは忘れていた。体が定着するまでは安静にしていなければならん」
ボサボサ頭に無精髭。身なりも薄手のシャツ一枚。
「そのうち木乃伊に間違えられるかもですね」
翁から木乃伊に格下げ。
「…機嫌悪いのう」
「無駄話で引き止められてたら機嫌が悪くなるに決まってるじゃないですか!私行きますからっ」
ククルは踵を返して窓枠にぴょんと飛び乗った。
「夕飯までには帰ります。ちゃんと用意しておいてくださいね。今日はお鍋がいいです。骨付き肉を買いに行ってください!あと、寝てばかりじゃなく、起きててくださいね!水分をしっかりとって!日光浴して!潤ってくださいよ!いいですね!!」
「ひとを植物かなんかと思っているのか」
「光合成は人間にも大事なんですよ。そう、もうご主人は人間なんですよ!いつまでも靄気分でいないでくださいね!」
キーキー声を上げてククルは窓の外に飛び出して行った。
「…ようやく呼んだな。ご主人と。そうだよ。おまえの主人は儂だ」
男はベッドから立ち上がり窓辺に向かった。開け放たれた窓を閉めた。建て付けの悪い窓は、金具が擦れて耳障りな音を立てる。
「…あやつ消えてもまだ、儂の心を掻き混ぜていくのか。使い魔までも巻き込みおって…。まったく。しぶとい。ん?掻き混ぜる?ちがうか?掻き乱す?…んんぅ?」
男は未だ名もない感情に翻弄していた。窓を閉めても、どこからか入り込んで来た風に、かの日の出来事を思い出していた。
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