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第3章
9 夢の中のひと
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足湯には、ララカスカスから抽出したオイルをを使う。スプーン一杯をお湯に溶かし軽く混ぜる。薄い黄緑がかったオイルが円を描く。ララカスカスは刈り取ったばかりの草木のような匂いがした。
「こうやって末梢神経を温めることによって血行が良くなるんだろう?」
「そうよ」
ナユタはナノハの寝室に行き、お湯を張った桶に足を入れるよう勧めた。
「あなたが作ってくださるなんて」
忙しい時にごめんなさいねとナノハは寝台から起き上がり、バツの悪そうな顔を見せた。
「具合の悪い人が気を遣うものじゃないよ」
疲れが出たんだろうとナユタは妻を甲斐甲斐しく世話をした。二人暮らしが長い分、普段からお互いを支えあってきた。仕事が宿屋なので家事は折半だ。料理や掃除や接客はナユタの担当。裁縫や染め物、花の植え替え、足湯やポプリなどに使うオイル作りなどはナノハの方が担当していた。
「急に忙しかったからな。疲れが出たんだよ。ゆっくり休みなさい」
ナユタに促されてナノハはお湯の中に足を入れた。
「…ああ。じんわりと来るわ。温かい」
ナノハは、ふんわりと柔らかく笑みを浮かべた。
キアは二人の仲睦まじいやりとりをドアの外から眺めていた。
「…いいなあ」
こちらにまで飛んできた幸せな雰囲気を感じとっていた。
雨は昼を過ぎても降り続いた。森中に、村中に、ゆっくりとたっぷりと染み込んでいった。
キアは外の様子を見ようと扉を開けた。ざあーっと風に運ばれた雨が吹き込んできた。
キアはそれを全身で受け止めた。霧吹きで吹いたみたいな細かい雨粒だ。
室内から見た雨と、外で見た雨とは様子が違った。体に受けたため、服はあっという間にびっしょりだが、雨はシャワーのようで心地よかった。
ただ、足元は泥濘んで歩きにくく、ぐちゃぐちゃだ。足跡だらけの道を見てるとキハラの身体への負担の重さが手に取るようにわかる。これはかなりキツそうだ。キハラの苛立ちが目に浮かぶ。
キアは今日は早めに儀式を始めたい。さすればキハラの負担が早く引くだろうと考えていた。
「少し森の中を見てきます」
ナユタに届くかどうかの声音で伝言を残し、キアは森の中に進んだ。
周りの木々がざわざわと枝を揺らしていた。まだ時間も早いのに、森の中は暗ったかった。濡れた草木が肌の上に這う。ベタッと張り付いて感触が悪かった。葉の色素までもが流されてしまいそうだった。
「冷たい」
体感温度は低く感じても風はぬるい。じめっとした空気がキアにまとわりついた。
木々の間から、川面に風で落ちた葉やイミュキュの花が見えた。水の流れは早くすぐに視界の端に消えた。
「水嵩が増してるんだ」
祭の最終日がこんな天気なのは少々寂しさもある。忙しかった日々が頭の中を駆け巡った。
緩やかな日々を過ごすのもいいが、緩急がつくともっと楽しいんだなとキアは思った。心が軽くなった証拠かな。
自分の存在が受け入れられているんだと最近はいちいち気にしなくなっていた。それだけ毎日が忙しかったというものもあるが、それに対して気落ちしている自分もいなくなったということが、何よりも心の解放感があった。こんな天気の日でも心地よく感じるのはそのせいなんだと思う。
雨が煩わしくない。濡れているのに気分が悪くない。
キハラが聞いたら怒られるだろうな。
キアはくすりと笑った。
煩わしさを感じているキハラを助けたいと思っている反面、自分のことは棚上げだもん。
ふと、視線を感じた。キアは立ち止まり視線の方を向いた。薮の中に白い犬が佇んでいた。
「あなた…」
白い、いや銀色か。霧の中で色がはっきりしなかったが、いつかの夢に連日のように出てきた犬のように見えた。低い声で泣いてばかりの、何かを訴えているかのような。
「どうしたの…」
雨に濡れて全身の毛がぺったりと下向きになっていた。尻尾も垂れていた。毛の先が地面につきそうだ。表情も覇気がない。
キアは犬に近づこうと距離を縮めた。怖がらせないように慎重に。野犬かもしれないという考えは頭の隅の方に置いた。警戒心は少しある。でも、きっとあの夢の中にいた犬だと確信があった。
進むたびに草木に触れ、小枝を踏み、パキッと音を出してしまった。その度にキアは表情を曇らしたが犬は微動たりともしなかった。キアの一挙手一投足をじっと見つめていた。
「もうちょっとだから…」
キアは雨よけのローブとスカートの裾を一緒にたくし上げ、犬のすぐ側まで来た。手を伸ばせば届きそうな距離だ。
キアはしゃがみ込み、犬と目線を合わせた。
犬は鼻をひくひくと動かした。
「…あなたは私の夢に出てきたひと?」
犬は、キアの声に応えるかのように体を振るわせた。反動で水飛沫が飛び散った。
「わっ」
自分の声に驚いてキアは口を両手で覆った。ドスンと尻餅をついた。犬は一瞬怪訝な顔つきになった。
「ご、ごめんね。びっくりして…」
犬は鼻を動かしながらキアに近づいた。キアの手や服の匂いをクンクンと嗅いだ。
キアは口に手を置いたまま、その様子を眺めた。
何か精査されているのだろうか。気になる…
キアはゆっくりと犬に手を伸ばした。
体に触れるか触れないかのところで犬はキアに振り返った。気に障ったのか。キアは慌てて指先を引っ込めようとするが、その前に犬自ら鼻先を触れてきた。
ひやっとしていた。次いで鼻息がかかってくすぐったい。
「ひゃ!」
笑っていいものか迷う前に声が漏れていた。犬は、いたずらっ子ぽく鼻を動かして首元にまできた。いつの間にかローブの裾は踏まれていた。
「くすぐったいよ、」
「…か」
「え、」
「……おまえ、……か?」
「え?」
声がした。え、喋った…?まさか、獣人?
キアは顔を上げた。ロイ以外の獣人を見たのは初めてだった。確認しようと犬の顔を見るが、二人の間を遮ったのは野太い声だった。ムジだ。
「こんな雨ん中ふらふらとしてるな!馬鹿者が!!」
むんずと首根っこを掴まれ、藪の中から引きずり出された。
「また具合でも悪いのか!」
ムジは口は乱暴だが、やることには気遣いを感じる。厚ぼったい掌をキアの額に押し当てて熱を測る。
「むう。熱はなさそうだな。しかしこんな雨ん中にいたら風邪をひくぞ。何をしていたんだ」
「ここに犬が、獣人の人が!」
「あん?何にもいないぞ」
キアは藪の中に目を向けたが犬の姿はなかった。
ムジに驚いて逃げてしまったのだろう。
「しかし、なんだ。あんたはいろんなものに好かれるんだな」
人にも神にも獣人にも。
「変人だ」
「へん…」
「良い意味で!だ」
羨ましいことだとムジは呟いた。オレが選ばれることはないんだと肩を落とした。
「そんなことより、何で森にいた?儀式にはまだ早いだろう」
「そのことで相談なんですけど。儀式の時間を早められませんか?お客様が来ないなら、夜まで待たなくてもいいのではないでしょうか」
「ああ。それもそうだな。だがな、万が一のこともあるから、夜まで待った方がいいと思うんだ。侵入者がいないとは限らないからな」
「…そうですか」
夜の静寂の中で行う儀式。その夜に紛れて入り込んで来る侵入者を一匹たりとも逃してはならない。
「心配はわかるが、キハラ神のためと思ってくれ」
「…はい」
キアは頷くしかなかった。キハラを慮るあまりに、当初の懸念していたことが抜け落ちてしまっていた。まだ見えていない問題も残っていたのだ。
「おーい!おーい!」
背を向けていた森の奥から、大勢の人の声を感じた。振り返ったムジとキアは、絶句して固まってしまった。
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