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第1部 第1章
2 入口
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風に乗って、刈り取られた草の青い匂いがした。ツンと鼻を刺激するような匂い。意外と好きなんだ。田舎を思い出すから。
もう何年も帰ってない山々に囲まれたあの小さな町を。
古びた神社の青紅葉。田んぼのあぜ道。蓮華の花畑。ススキ野原。用水路の苔。水の無い川。公民館。図書館。小学校。中学校。保健センター。市民プール。どれも皆、懐かしく思い出のある場所だ。
高校に通う為、電車通学になってからは見てる景色がガラリと変わった。せかせかと動く街並み。たくさんのビルと人間がどこから出て来たかと疑いたくなるほど現れた。2、3倍速とスピードアップして、話しかけても答えを聞き取れず、情報量の多さに溺れた。
就職を機に上京してきて、都会の生活に慣れるまでしばらくかかった。社会人になってもまだ戸惑うこともある。憧れだった一人暮らしもはじめの頃は寂しくて泣いてしまった。夜、網戸がカタカタと風に揺れる音、コツコツとコンクリートの道を踏みしめる靴の音、野良猫の鳴き声にもビクビクと反応した。急な雨風に出しぱっ無しだった洗濯物がびしょ濡れになるわ飛ばされるわで近所中大騒ぎになったことも。
ああ、懐かしい。そんなこともあったよね。そのせいでご近所さんと顔馴染みになった。おはようからおやすみまで挨拶をかわしたり、たまにおかずの差し入れや旅行のお土産を交換した。真上の日野さんが作ったロールキャベツは美味しかったな。あんなにきちんと巻いてあるロールキャベツはお店並みだよね。私も真似したけど、びろびろ~って解けちゃった。料理上手な奥さんで旦那さん羨ましいな。また食べたくなった。
あれ、そういえば部屋の鍵閉めたっけ?洗濯物閉まった?今日、雨予報出てたっけ?
濡れた草の匂いがする。すぐそこで。
パチリと目を開けたそこに青々とした緑が辺り一面に広がっていた。横たわっていた自分の体の下には草がぺしゃんこになっていた。空は晴れているのに草はしっとりと水分が含まれていた。朝露かしら?体一面が冷たい。
「何でこんなところにいるの?」
部屋の中で泣き崩れていたはずなのだ。泣き疲れて眠っていたのだろうか?それにしても屋外にいるのはおかしい。せいぜい床の上だ。ヤケになって外に飛び出したとか記憶にない。
「えーっと…」
雪は立ち上がり辺りを見回した。だだっ広い草原は一回りしても緑のみ。人や木や岩の影すらない。
「冷たい」
と感じたのは靴を履いてなかったからだ。それはそのはず。家に帰ったのは間違いない。荷物と鍵をテーブルに置いた。
「スマホは?」
あれ?あれ?とスーツのポケットを探ったが出てこない。一日たりとて手放したことがない。あちこちに手をのばしても感触を得られなかった。
「スマホがないと仕事にならないよ!」
仕事先の担当者の連絡先など、たくさんのデータが入っていた。
雪はうわーっと頭を抱えて焦るも、不意に現実に戻った。
「…そうだ、クビになったんだ。私の席はもうないんだ」
声に出したらやたら現実味に帯びて来た。
そうか。私、もう、会社に行けないんだ。
私の仕事は美紅ちゃんに引き継ぐと言っていた。でも急だったから引き継ぎらしいことを何もしていない。今後の嶋谷とのやりとりに支障が出るんじゃないかな。
担当の岩井さんて、結構曲者だよ?いい人だけどキツイこともサラリと言う。勉強になりますと口では言うけど、帰ってから凹むんだ。今まで何度あったことか。美紅ちゃんにだってきっと容赦しない。
ああ、美紅ちゃん。あの子、あんな子だった?
あんな風に切り替えしてくるなんて思わなかった。あれも裏切りというのかな。
同い年だけど、私は高卒で就職しているから、仕事の面では大卒の美紅ちゃんより2年先輩。
美紅ちゃんはいかにも女子!なタイプだ。いや、私も括りとしてはそうだけど。
女子力は断然、美紅ちゃんの勝ち。美容院は月1、ネイルサロンは毎週通ってると言って、自慢の爪はいつもキラキラしていた。洋服も雑誌に載っていたアレとか、限定品だとか。流行りのスタイルに身を包んでいた。
私はキーボードを打つのに気を遣うのが嫌だから爪は塗らない。化粧はベースメイクとファンデーションとマスカラぐらい。美容院は早くて半年。おしゃれにはとんと興味がない。というより苦手。スーツのインに着るブラウスを何パターンか持ってるだけ。外回りがあるからカッチリした服になるのは仕方ない。
見た目で判断されるのは嫌だけど、単に不器用なだけだ。
美紅ちゃんは自分をどう見せれば綺麗で、みんなに可愛いがられるかどうかの術を持っていた。くるんとカールした睫毛をパチパチさせて、先輩にも教えてあげますと言われたこともあったけど、私はいいやと逃げた記憶がある。
そういうのも苦手だ。
仕事面では、私は先輩風吹かせるとか横柄な態度を取ったりはしなかった。同じチームで私の補佐的なことをしてくれていた。発注ミスの言い訳が合コンだなんて、そんなベタな言い訳を持ってくるなんてドラマみたいだ。中村部長と付き合ってるみたいな噂話をチラッと聞いたことがあったけど、合コンには行くんだ。そうか、中村部長に頼み込んで、私を追い出したと考えも出来るか。
雪はポンと手を打つ。自分で言っていて情け無い。部長だって、私のこと期待してると褒めてくれていたのに。嘘だったのか。
…情け無い。
悲しいより、悔しいより、自分の甘さにうんざりだ。
でも、私が築いて来た4年間をあんな風に終わりにされるなんて考えもしなかった。
ああ、来週の会議の資料…、パソコンに入れたままだ。
あ、そうだ、渉君にメールしなきゃ。観たいと言っていた映画はいつもの映画館ではやらなくて、別の場所なんだ。電車の時間と映画の時間を調整しなきゃ。
「あ」
と、ポロッと口から出た時に思い出した。彼から別れのメールが来ていたのだ。別れようと。
そうだ、こっちも終わったんだ。だからもうメールはしなくていいんだ。一日に二度も離別を余儀なくされるとは思わなかった。何だこれ、罰ゲーム?
雪は気の抜けた笑いをした。もう笑うしかない?
色々調べたから気になってたあの映画は、一人で観に行くか。
彼は、あちこちに行きたい観たいと言う割には何もしない人だった。調べものは全部私任せにしていためんどくさがりや。私はまたなの?と口を尖ららせながらもあれこれ調べるのは苦じゃなかった。彼の役に立つことなら、何でもまかせて欲しかった。良かれと思ってしたことが彼には重荷だったのかな?そういえば、別れの理由は聞かなかったな。
「…で、何でこんなところに」
いるのか?
数時間前の出来事を思い出せても、現在の状況を把握できない。ココハドコ?ワタシハダレ?
「私は、泉原雪」
イズハラ・ユキ
「ここは」
どこ?
雪はぐるりぐるりと辺りを見回したが、草以外何もない。だだっ広い草原にただ1人立ちつくしていた。風が吹いて草原が波打つ。まるで海の白浪のようだ。ザザザ、ザザザと。耳をつんざくような鳴り止まない風に、荘厳な景色の中にいるようでぞわぞわと鳥肌が立った。溺れるかもしれないとギュッと両足に力を入れた。
ビュウウウッッ!!
「うわっ」
突然、下から巻き上げられた風に顔を吹き飛ばされた。
元の位置に戻せない。腕で防いでも風の威力は衰えない。スカートの裾や髪の毛が舞い上がる。両腕も万歳の姿勢から元に戻らない。
「わ、わ、わわわっっ」
抵抗しようにも縋る物が何もない。踏み締める両足だけが頼りなのに、次の瞬間には地面にぽっかりと穴があいた。
「へ?えええっ!嘘でしょう!!」
落とし穴?などと一瞬だけ思ったが、想像をはるかに超えた深さだった。雪の想像はせいぜい舞台装置の2,3メートルくらいか。だが実際には穴は深く、深く、まだ深く、底に届く気がまるでしない。雪は態勢が変わり、頭から落ちていった。
頭を庇おうと両腕を伸ばすも、風に邪魔をされてびくともしない。ついに握りしめていた手のひらは力が入らずにだらんとした。空気の壁に圧迫されて声にならない。頭の中は真っ白だ。ジェットコースターなんて比じゃない威力に、雪は全身を持っていかれた。
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