大人のためのファンタジア

深水 酉

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第1部 第1章

8 夜明け

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 長い長いドキュメンタリー映像を見せられていたと思ったら、ゼラチン質のような形状のモノがドロリと溶け出した。頭の上から輪郭や体のラインが崩れて最終的には泡となって消えた。

「…え?あ、あれ?み、美紅ちゃん?」

 今の今まで眼前にユラユラと動いていた美紅とおぼしきモノが雪の視界から消えた。何の予告もなしに舞台が変わるのは、こちらに来てから何度となく体験していたけれど、人がひとり忽然と消えたのは初めてだった。

「…どうして」
消えたのか。美紅の怪我の状態はどうなのか。しかも時間が動いてる?雪がこちらに来てまだ一日しか経っていないのに、会社では雪がいないその後の日常を追っていた。美紅に引き継がれてから、もう何ヶ月も過ぎているようだった。
 そして知ってしまった美紅の本心を。本当の姿を。
 雪は先ほどの美紅まがいのモノのように崩れるように座り込んだ。信じていたことが目の前で打ち砕かれたのだ。絶望は深い。 言い逃れも何もない。
 ぐしゃぐしゃと髪を振り、地面を殴りつけ、次第に嗚咽が漏れた。
 シャドウとディルは雪を見守るよう、数歩後ろに下がった。

「バカじゃないの」
「…失敗だ」
 二人とも深く溜息をつき、思惑が外れたことを嘆いた。
「影付き」が迷い込んだこの森で、通過儀礼として未練や思い出を断ち切れるか補助をするのが任務だった。未練となるものと口をきき、切れかけていた縁をまた繋いでしまったことが失敗の原因だ。会話とはいかなかったので影を抜かれることはなかったが。
 
 空が白み出した。闇が薄くなり朝を迎える準備を始めた頃、き鳥の羽ばたきが視界の端にちらついた。全身が黒く大きい夜鳴き鳥は、王仕鳥でもある。王に「影付き」の迎えの失敗を報告しに行くのだろう。

「ずいぶんとゲスな未練だったね」
ディルは夜鳴き鳥を睨みつけながら、吐き捨てるように呟いた。

「…未練は人それぞれだしな」
良くも悪くも人生を左右するのが心残りだ。その後の人生に活かすか殺すかは本人次第だ。

「レスに怒られるかな」
「…ああ」

 レスというのは本名はレアシスといい、「影付き」の管理者で王城の門番でもあり、二人とも顔なじみだ。
 空を見上げ雲の流れを読み、少しでも波長の異なる風が吹いたならばそれは「影付き」の出現を予期するものだと悟っていた。
 一千年ぶりの「影付き」は風花が舞い散る程度の天気の崩れで済んだ。取るに足らない気象事象だ。

 「…大した事ないと思っていたのにな」
 まさか逃げられるとは。

 「量刑が延びちゃうんじゃないの?」
 シャドウは自身が犯した罪の量刑を軽減させる為に王からの指令を受けていた。
 ディルはシャドウの方に首を向けた。朝日に照らされた白い毛並みが光って見えた。

 「…こちらにもミスはある。致し方ない。未練の重さは対象者によって違うからな」

  読みが甘かったのだ。未練となる者と口をきくなというのはそう容易いものでは無い。目の前に親の仇がいても手を出すなと言っているようなものだ。

 「…どちらにしても夜は明けてしまった。未練は断ち切れぬまま、今後をどう生きて行くか決めねばならんな」
 シャドウは突っ伏したままでいる雪の背中を見つめた。まだ若い娘には重すぎる事態だ。

 「…若い娘だからって、いちいち同情してたらキリが無いんじゃないの」
 ディルはシャドウを見上げては睨みつけて低い声で唸った。

 「心を読むな」
 シャドウはディルの片耳を人差し指で軽く弾いた。

 「ほんとのことだろ」
 ディルはプイとそっぽを向いた。シャドウの優しすぎる性格をディルは嫌っていた。その優しさに甘んじて、勘違いをして思いを寄せてきたり、つけあがる者もいるからだ。

 「シャドウは対象者と距離が近すぎるんだよ」
  ぷうっと頬を膨らませてディルはぼやいた。

 「仕事だから仕方あるまい」
当の本人が分かってないから、余計タチが悪い。罪人になるまでは文武両道でせいかんな青年だったが、罰を受けてからは覇気が無く、流れに身を任せるタイプになってしまった。優しすぎる性格だけは引き継がれていたが。
ディルが隣でヤキモキしているのにも気がつかない愚鈍な男に成り下がったのだ。

 「ぼく水飲んで来る」
ディルはよそを向いたままシャドウに背中を向けた。

「ああ、待て。あの娘も連れてけ」

「何で?」

「娘も水を使いたいだろうから。オレはレアシスに連絡をとる」

「どーせ、夜鳴き鳥から報告されてるだろ。いいじゃ無いか、ほっとけば」
あの子は犬嫌いなの忘れたのか?ぼくはまた叫ばれるのはゴメンだよ。

「王にも報告しなければならないから、ついでだ」

「ちぇっ」
ディルはムスッと眉間に皺を寄せた。
冗談でけしかけるのと、おびえるさまを見させられるのは勝手が違うんだぜ。シャドウは気付いているのかよ。

 ディルはまたプイと顔を背けて先を行ってしまった。
シャドウがいくらなだめても返事は返ってこなかった。
やれやれとシャドウは頭をガシガシと掻いた。
雪を見やるとようやく顔を上げていた。ヒックヒックと肩はまだ上下に揺れていた。顔は真っ赤になって、泥と涙と血が混ざり合っていた。擦れば擦るほど、範囲が広がっていく。

 シャドウは雪に近づき、
「この先に小川があるから、顔を洗って来るといい」と伝えて雪を立たせた。
足元がふらついていたが折れたりはしてなさそうだった。タオルを持たせてそっと背中を押した。ヨロヨロと足元がおぼつかないが、一歩ずつ歩き出した姿を見送った。


朝日が上り出して明るくなった森の中を歩いていくと水音が聞こえてきた。音のする方向に進むと緩やかな流れの川が出て来た。
「…川だ。水」
手のひらに掬い上げた水は雪解け水のように冷たく、透明度の高い純水だった。川床の石が丸みを帯びて整然と並んでおり、小魚の群れもいくつか確認出来た。
 顔を洗うと傷にしみてヒリヒリしたけれど、口に含むとほのかに甘く感じた。
「…おいしい」
 雪は川岸に腰を下ろした。
川面に映る己れの顔に愕然とした。
泥と血と涙でぐちゃぐちゃだった。メイクなどは当に消え落ちていて素顔がさらに不細工になっていた。

「ひどい顔だなぁ」
笑い顔も引きつる。唇の端が切れて笑うのも一苦労だ。雪は水を掬って、もう一度顔を洗った。
 泣き過ぎて腫れ上がった目元がすうっとした。視界もクリーンになった。
 ついでに足袋を脱いで包帯を外した。足も傷だらけだ。切り傷や痣、擦過傷などがたくさんあり、水につけるとやはり傷口はヒリヒリとして痛みは蔓延したが、水の冷たさに慣れた頃には何だか心地よくなっていた。神経がやられて感覚がなくなって来つつあるような変な感じだ。

「川の流れに身を任せつつ」
このまま流されてしまいそうな。流されてしまいたくなるような。そんな気分だ。
雪は目を閉じ、じっとしていた。

「美紅ちゃんの気持ち。…知りたくなかったなぁ」
中村部長と付き合っている噂は聞いていたけれど、あんな生々しい関係だったとは思わなかった。しかも私の席を奪う為の色仕掛けにすぎない。
 私とのことも計画の一端に過ぎなかったんだな。美紅ちゃんが入社して二年。二年かけて私との距離を詰めて、私の気を引いて、私の席を奪っていった。優しさも気遣いも、メイクの仕方や洋服の選び方なども、休日のショッピングも食事も何もかもの全てが、私をおとしいれる為の布石だった。
 美紅ちゃんは私に一抹の不安も抱かせないくらい丁重に慎重に首尾を全うした。はい、流石です。
「…完封負けだ」
 蜘蛛の術中にまんまとかかって羽根をもぎ取られた蝶のようだ。
「やられた」
 タイプの違う人間同士でも、同じ場所で同じ時間を過ごしていれば大抵のことは乗り越えられると思っていた。私と美紅ちゃんとの間には信頼関係なんてモノは、はなからなかったのだ。食うか食われるか。私は追われるだけの獲物に過ぎなかった。
 疑うとか嫌いになれないとか言っていた自分よ、考え直せ。
 ああ、でも。そんな簡単に切り替えられるわけがない。簡単に出来ていたらこんな風に未練としては残らないはずだ。
どうして、また、私は、
雪は込み上げて来た涙を堪えるように顔を両手で隠し、後ろに倒れた。嗚咽が水音と重なって掻き消された。

 川の対岸にはディルが座ったまま、雪の姿を見つめていた。シャドウに頼まれた事でたとえ納得できない事でも見守る姿勢ではいるようにしている。刑の軽減の為にできることは協力する。付かず離れず。雪の心の声を聞いた。

「…他者を信用し過ぎだ。挙句足元を掬われてまんまと罠にかかってる。あんな未練断ち切ってしまえばいいのに」
 ディルはムスッとした顔つきのまま、雪を見つめていた。
 人間に対して、かなりの嫌悪感と劣等感を抱えているディルにとって雪の未練はバカバカしくて理解し難いものだった。
 
 田舎にいる家族とやらも一癖も二癖もありそうじゃないか。自分の生活を切り詰めてまでして、仕送りをしているのに帰って来いだなんて勝手過ぎやしないか?上京してやっとのことで就職したのに田舎では仕事はあるのか?仮に帰ったとしても幼い兄弟の世話を押し付けられて、仕事などしている場合ではなさそうじゃないか。どいつもこいつも手前勝手な連中ばかりで、あの娘の未練になるとは到底思えないのに。
  断ち切れぬ想いとはどういうものなのか。人間にしか分からぬものならぼくはずっと獣のままでいい。

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