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第1章 暴力の旅路
2. 囁くノイズ
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補給所を求めて路地裏に入った時だった。
──チリリ、リ。
鈴の音が聞こえた。いや、それは本当に鈴の音だったのだろうか。ピクスの耳には、まるで錆びた鉄板を爪で引っ掻いたような、神経を逆撫でするノイズとして響いた。
「っ……!?」
ピクスは思わず耳を押さえてうずくまる。遠くから聞こえたはずの音が、いきなり鼓膜の真裏──脳みその中で鳴ったような錯覚。平衡感覚が狂い、地面が斜めに傾いて見える。
(なんだ? めまいか? いや、音が……ズレてる?)
前を行くグラードが、不意に足を止めた。その巨体が放つ無言の圧力が、路地の空気を張り詰めさせる。グラードの周囲に、いつもの『静寂』が発動しかけている。だが何かがおかしい。完全な無音にならない。静寂の膜に、ザラザラとした砂嵐のような雑音が混じり、不快な不協和音を奏でているのだ。
「ヒヒ……。いい『静けさ』だねぇ」
歪んだ空間の隙間から、その男は現れた。ボロ布を何枚も重ね着した、奇妙な風体の放浪者。最大の特徴は、異様に長く垂れ下がった耳だ。その耳たぶは無残に引き裂かれ、いくつもの小さな鈴がピアスのように埋め込まれている。
《耳裂きのノマド》。この荒界で、最も会ってはいけない存在のひとつ。
「旦那、あんた……『三魔殻』だろ?」
ノマドは焦点の合わない濁った瞳でグラードを見上げ、気味の悪い笑みを浮かべた。ピクスの背筋が凍る。こいつの言葉は、物理的な距離を無視して響いてくる。右にいるのに左から声がする。近いのに遠い。
「濃いねぇ……。あの『逆巻き』の旦那より、ずっと濃い死の匂いだ。あんたの周りだけ、世界が黙りこくってやがる」
ノマドが一歩近づくと、キィン、と高い音が鳴り、路地の壁に亀裂が走った。何もしていない。ただ、彼が纏う『認識のズレ』が、物理的な空間にまで干渉し始めているのだ。グラードの圧倒的な静寂と、ノマドの『囁断の連鎖』。二つの魔王遺物の力が反発し合い、火花のような不可視の歪みが散る。
グラードは眉一つ動かさず、冷徹にその異形を見下ろした。
「……退け」
「おっと、怖い怖い。喧嘩を売りに来たわけじゃないさ」
ノマドは大げさに両手を上げて後ずさる。その動きですら、コマ送りの映像のように不自然だ。
「ただの忠告さ。気をつけなよ、旦那。あんたのその静寂……いつか世界そのものに喰われちまうぜ? それに──」
ノマドの視線が、不意にグラードの背後──ピクスへと向けられた。濁った瞳が、獲物を見つけた爬虫類のように細められる。
「そこの小ネズミ。お前さん、よく生きてるねぇ。死体袋の中で寝てるようなもんだぜ? そのうち、どっちが自分の悲鳴かわからなくなるかもな……ヒヒッ!」
「ひっ……!」
ピクスが息を呑んだ瞬間、ノマドの姿は掻き消えるように失せていた。残されたのは、耳の奥にこびりついて離れない、不快な鈴の残響だけ。
グラードは興味を失ったように、再び歩き出す。だが、ピクスの震えは止まらなかった。今の男は、ただの不気味な流れ者ではない。グラードと同質の──いや、もっと別の角度から心を壊しに来る、本物の「化け物」だ。
(三魔殻……あいつ、そう言ったか?)
ピクスはまだ知らない。自分たちが足を踏み入れようとしているのが、単なる暴力の荒野ではなく、世界を滅ぼす三つの災厄が食い合う、地獄の最前線であることを。
──チリリ、リ。
鈴の音が聞こえた。いや、それは本当に鈴の音だったのだろうか。ピクスの耳には、まるで錆びた鉄板を爪で引っ掻いたような、神経を逆撫でするノイズとして響いた。
「っ……!?」
ピクスは思わず耳を押さえてうずくまる。遠くから聞こえたはずの音が、いきなり鼓膜の真裏──脳みその中で鳴ったような錯覚。平衡感覚が狂い、地面が斜めに傾いて見える。
(なんだ? めまいか? いや、音が……ズレてる?)
前を行くグラードが、不意に足を止めた。その巨体が放つ無言の圧力が、路地の空気を張り詰めさせる。グラードの周囲に、いつもの『静寂』が発動しかけている。だが何かがおかしい。完全な無音にならない。静寂の膜に、ザラザラとした砂嵐のような雑音が混じり、不快な不協和音を奏でているのだ。
「ヒヒ……。いい『静けさ』だねぇ」
歪んだ空間の隙間から、その男は現れた。ボロ布を何枚も重ね着した、奇妙な風体の放浪者。最大の特徴は、異様に長く垂れ下がった耳だ。その耳たぶは無残に引き裂かれ、いくつもの小さな鈴がピアスのように埋め込まれている。
《耳裂きのノマド》。この荒界で、最も会ってはいけない存在のひとつ。
「旦那、あんた……『三魔殻』だろ?」
ノマドは焦点の合わない濁った瞳でグラードを見上げ、気味の悪い笑みを浮かべた。ピクスの背筋が凍る。こいつの言葉は、物理的な距離を無視して響いてくる。右にいるのに左から声がする。近いのに遠い。
「濃いねぇ……。あの『逆巻き』の旦那より、ずっと濃い死の匂いだ。あんたの周りだけ、世界が黙りこくってやがる」
ノマドが一歩近づくと、キィン、と高い音が鳴り、路地の壁に亀裂が走った。何もしていない。ただ、彼が纏う『認識のズレ』が、物理的な空間にまで干渉し始めているのだ。グラードの圧倒的な静寂と、ノマドの『囁断の連鎖』。二つの魔王遺物の力が反発し合い、火花のような不可視の歪みが散る。
グラードは眉一つ動かさず、冷徹にその異形を見下ろした。
「……退け」
「おっと、怖い怖い。喧嘩を売りに来たわけじゃないさ」
ノマドは大げさに両手を上げて後ずさる。その動きですら、コマ送りの映像のように不自然だ。
「ただの忠告さ。気をつけなよ、旦那。あんたのその静寂……いつか世界そのものに喰われちまうぜ? それに──」
ノマドの視線が、不意にグラードの背後──ピクスへと向けられた。濁った瞳が、獲物を見つけた爬虫類のように細められる。
「そこの小ネズミ。お前さん、よく生きてるねぇ。死体袋の中で寝てるようなもんだぜ? そのうち、どっちが自分の悲鳴かわからなくなるかもな……ヒヒッ!」
「ひっ……!」
ピクスが息を呑んだ瞬間、ノマドの姿は掻き消えるように失せていた。残されたのは、耳の奥にこびりついて離れない、不快な鈴の残響だけ。
グラードは興味を失ったように、再び歩き出す。だが、ピクスの震えは止まらなかった。今の男は、ただの不気味な流れ者ではない。グラードと同質の──いや、もっと別の角度から心を壊しに来る、本物の「化け物」だ。
(三魔殻……あいつ、そう言ったか?)
ピクスはまだ知らない。自分たちが足を踏み入れようとしているのが、単なる暴力の荒野ではなく、世界を滅ぼす三つの災厄が食い合う、地獄の最前線であることを。
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