小説探偵

夕凪ヨウ

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Case51.教授の遺した暗号⑤

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「あなたの言う通り、村上さんとの話は短かったわ。ノートを取りに行くのにも時間が掛からなかったし、考え事をしていて、遅くなったの。」

 小夜は諦めを含んだ声で、数十分前の出来事を語り始めた。

「それで? 話って何かしら、村上さん。」
「・・・・宮前教授のことで。」

(多分、その時の私は、あまりいい顔をしていなかったと思うわ。彼女は一瞬、獣でも見るような目で私を見たから。)

「宮前教授の?」
「はい・・・泉龍寺先生が、宮前教授のことを、誤解している気がするので。」
「誤解・・・?」

(彼女は、こちらが目を瞑りたくなるほど眩しい瞳で、私を見ていたわ。そして、彼女はゆっくりとこう言ったの。)

「宮前教授は、泉龍寺先生を守っていました。先生は、お気づきでないかもしれませんが。」
                   
            ※

「守っていた?」
「ええ。彼女が言うには、男子生徒・教員から、だそうよ。」
「ああ・・・なるほどね。君は、その件に気がついていたの?」

 玲央は顔色を変えなかった。分かっていたと言わんばかりの顔である。

「当たり前じゃない。毎度のことだし、慣れっこなのよ。父の会社でもそうだった。だから、実害なんて無いだろうと、そう思って特に何もしなかったわ。でも・・・・」
「でも?」
「言われてみれば・・・少し変だったかもしれない。」

 小夜は過去を思い出すように、途切れ途切れに言葉を続けた。

「昔と違って、言い寄られることがなかったし、食事に誘われても、なぜか引き下がっていっていた・・・・今思えば、あれは、宮前教授の威圧感だったのかもね。」

 小夜は苦笑した。玲央は考え込むように、再び顎を撫でる。

「その話から推測すると・・君の件で彼に恨みを持つ人間がいてもおかしく無いわけだ。」
「となると、容疑者は増えるな。」

 龍と玲央の言葉に、海里は椅子から立ち上がった。

「ちょっと待ってください。そんな些細なことで、人の命を奪う? まさか、そんな。」
「甘いよ、江本君。人の欲っていうのは、君が思っている以上に深いのさ。君が些細なことと述べる物事すら、殺人犯には罪を犯すほどに重要な可能性もある。考えたくない動機だけど、あり得るっていうのが、俺たちの意見だ。人は、君が想像しているよりも軽く一線を超えられてしまうからね。」

 海里は釈然としないという顔で座り込んだ。小夜が持ってきたノートを見返し、唸る。

「賄賂の件が関係していると思ったのですが・・・どうも分かりませんね。水嶋さんのあの余裕・・・初対面の動揺とはまるで違う。」

 全員が考え込んでいると、扉越しに、廊下を歩く生徒たちの声が聞こえた。

「宮前教授、休みって珍しいよね。」
「確かに~でも本当、宮前教授って教えるの上手いし、優しいし、良い先生だよね!」
「うんうん。そう言えば、今日、何か音楽室の床おかしくなかった? 傷ついてたって言うか、へこんでた?」
「ああ・・・へこんでた! 確か、ピアノの椅子の近く・・だっけ?」

 その言葉を聞いた瞬間、小夜は講義室を飛び出した。

「あなたたち!」
「わっ、泉龍寺先生⁉︎」
「その凹み・・・本当の話なの? 椅子の角は? 傷ついていた?」

 小夜の鬼気迫る表情に、生徒たちは唖然としていた。しかし、生徒たちはあくまで冷静に、彼女の質問に答えた。

「へ・・・へこんでましたよ。椅子の近くの床。あと、椅子の角も傷ついていました。宮前教授は、誰よりも楽器を大切にしていたから、偶に買い替える椅子すら、きちんと磨いて、傷つかないようにしていました。」
「・・・・椅子が、倒れた・・凹むほどの・・衝撃、で・・・・」
「先生・・・?」

 講義室の扉がゆっくりと開いた。海里たち3人が、真剣な面持ちで小夜を見ている。海里は軽く頷き、口を開く。

「音楽室に戻りましょう。この事件の真相が、見えてきたかもしれません。」
                    
            ※

 音楽室に戻った海里たちは、急いで教授を退出させ、音楽室を封鎖した。

「これだ。この凹み・・・・確かに、椅子の角と大きさが一致する。凹みの周りにも、何かをぶつけたような跡があるよ。」

 玲央はグランドピアノの側に屈み、凹んだ床を撫でながら言った。

「つまりーーーー宮前教授は、首を絞められた際、この椅子に座っていた。凹みの位置から考えて、ピアノを弾いている最中だったのでしょう。そして、体が引っ張られた時、体が傾き、椅子が倒れた。この凹みは、恐らくその時のものです。」

 そう言って、海里は玲央が撫でている凹みを見つめた。と・・・その時、ふと、龍が椅子と床を見て呟いた。

「綺麗だな・・・。」
「え?」

 海里が首を傾げると、龍は玲央の方を見て言った。

「いや・・・兄貴も分かるだろ? 絞殺された遺体は、普通・・見るに耐えない状態になっていることが多い。時間が経てば腐臭も加わって、慣れた俺たちですら、臭いはきついと感じる。
 それなのに、遺体も、椅子も、床も、綺麗すぎる・・・・。臭いもない。ここで殺されたことは間違いないのに、この不自然さは、一体何だ?」

 龍の言葉を聞いて、海里はしばらく何も言わなかった。見開かれた目でピアノを見つめ、床と、椅子、部屋全体を見渡していた。

「江本君?」
「・・・・解けました。」
「何?」

 海里はゆっくりと、龍たちの方に向き直った。彼は、今にも泣きそうな、悲痛な表情をしていた。その理由を聞こうとすると、彼は急に歩き出し、音楽室の端にある、ゴミ箱を除いた。

「やっぱり・・・そうだったんですね。東堂さん。水嶋さんを呼んでください。」
「じゃあ、本当に・・・・?」
「はい。この事件の犯人は、水嶋さんです。彼の前で、全てを解き明かしましょう。」

 数分後、音楽室に水嶋がやって来た。彼は、海里たちの顔を見て何かを察したのか、用意された椅子に、ゆっくりと座った。

「お越し頂き、ありがとうございます。水嶋さん。」
「ちょうど・・・仕事が済んだところですから。それで、話とは?」
「・・・・この事件の、真相についてです。」

 その言葉を聞いた瞬間、水嶋はどこか安心したような笑顔を浮かべた。

「ああ・・・やっと、解決しましたか。」
「・・・はい。時間はかかりましたが、辿り着きましたよ。」
「それは良かった。」

 海里は震えていた。ゆっくりと水嶋に近づき、静かな声で告げる。

「この事件の犯人は、水嶋智彦学長。あなたですよね?」
「はい。」

 水嶋は、恐ろしいほど落ち着いていた。海里は、尋ねる。

「なぜですか? 賄賂を贈ってまで・・・共に過ごしたいと願う友人を、なぜ、殺したのですか?」

 海里の問いに水嶋は答えずに言った。

「・・・・いけませよ、江本さん。私は、殺人犯です。そして、あなたは探偵。殺人の動機を聞くよりも、声高々に、私の罪を告白しなければ。」
「そんなこと・・・!」
「江本、分かってるだろ。分かってるなら逃げるな。」
「東堂さん・・・・」

 彼の言葉は、正しかった。彼は、探偵としての役目を放棄しようとした海里を、静かに諌めたのだ。海里は、小声で分かりました、と言い、顔を上げた。

「お教えしましょう。あなたの殺害方法と、宮前太一教授の遺した、暗号の意味を。」
「ええ、お願いします。探偵さん。」

 水嶋は、どこか疲れたような笑みを浮かべた。海里は、ピアノの前に立ち、片手を鍵盤台に置く。

「始めましょうか。この事件の、答え合わせを。」
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