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第九話 ささやかな願い

Act.5-01

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 部屋着のままで外に出た宏樹は、先ほどの電話の相手――紫織の家の前まで来た。
 家の中との温度差は、空中に吐き出される息の白さからも分かった。辺りに漂う空気は、寒いと言うよりも痛いと感じる。
 少しばかり待つと、紫織も家から出てきた。その腕には貸したコートがかけられており、反対側の手には小さめの紙袋が握られている。
「ごめんね」
 宏樹の前まで来るなり、紫織は真っ先に謝罪を口にした。
 宏樹は「いや」と答えながら小さく笑んだ。これは昔からの条件反射で、どんな時でも、紫織を見ると同じような表情になってしまう。
「でも良かった」
 紫織もまた、宏樹の微笑みに応えるようにニッコリと笑った。
「ほんとはね、電話しようかどうか悩んだんだ。小父さんや小母さん、あとは……、朋也が出たらどうしよう、って思ったから……」
 朋也の名前が出るまで、ほんの少しの間があった。やはり、彼女も朋也に対して後ろめたさを感じていたのだろう。宏樹は思った。
「あ、そうだ」
 紫織は紙袋の紐を手首にかけると、その空いた手でコートを手にし、両手に載せてから宏樹の前に差し出してきた。
「コート、ありがとう。それと、返すの遅くなってごめんね」
「そんなの気にすることないよ」
 宏樹は微苦笑を浮かべながらコートを受け取った。
 それを見届けた紫織は、今度は手首から再び紙袋を取った。
「――良かったら、これも受け取って……」
 躊躇いがちに、しかし、押し付けるようにそれを宏樹に渡してきた。
「これは……?」
「――今日は、クリスマスイヴでしょ?」
「そうだっけ?」
 もちろん、今日がクリスマスイヴなのは今朝になって気付いていたが、紫織からの予想もしなかったプレゼントに戸惑い、つい、惚けた返答をしてしまった。
「けど、俺は何にも用意してないよ?」
 紙袋の袋の部分を握った状態で宏樹が言うと、紫織は、「別にいよ」とゆっくりと首を横に振った。
「ただ、私が渡したいと思っただけだもん。――コートのお礼とか、色々あるし……」
「そっか」
 宏樹は紙袋を一瞥してから「ありがとう」と礼を口にした。
「せっかくだから貰っておくよ。でも、やっぱり貰いっ放しじゃ悪いな。
 紫織、なんか欲しいモンとかあるか?」
「え? 急に言われても……」
 紫織は本気で困惑したらしく、空に視線をさ迷わせていた。
「――何でも、いい……?」
 しばらくして、紫織が口を開いた。
「ああ、そんなに高くなければな」
「――ほんとに?」
「ほんとに」
 宏樹が大きく頷くと、紫織は真っ直ぐに宏樹を見つめてきた。
 紫織の真剣な眼差しをまともに受けた宏樹は、まさか、無理難題を言われはしないか、と少々不安になった。だが、紫織に限って、高額なものをねだってくるとも思えない。
 紫織はまた、あらぬ方向に目を泳がせている。言うべきか、言わざるべきか悩んでいたようだが、やがて、思いきったように言った。
「宏樹君の彼女にして」
 宏樹は目を見開いたまま絶句した。紫織の要求してきたのは金目のものではない。しかし、それよりも簡単に応じられるようなものではなかった。
「――本気で、言ってるのか……?」
 やっとの思いで宏樹は訊ねた。
「本気だよ」
 紫織は先ほどと変わらず、宏樹をじっと見据えている。
「私が一番欲しいのは宏樹君だもん。確かに、宏樹君には他に好きな人がいるのも知ってるよ。けど、やっぱり私、自分の気持ちに嘘なんてつけないよ。
 ずっとなんて言わない。一日だけでいいから、私を、宏樹君の彼女にして下さい」
 そこまで言いきってからも、紫織は相変わらず宏樹に視線を注いだままだった。だが、その瞳は揺れているように感じる。
 宏樹はしばし悩んだ。
 千夜子への未練はなくなっているものの、だからと言って、簡単に紫織に乗り換えられるほど器用ではない。しかも朋也の問題もある。
 紫織は今、『一日だけ』と言っていたが、軽い気持ちで答えてしまって良いのだろうか。
 宏樹は再び紫織の表情を覗った。今にも泣き出してしまうのでは、と思えるほど、唇が小さく震えている。
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