宵月桜舞

雪原歌乃

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第一章 偶然と必然

第三節

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 入学式後、各クラスに戻って担任からの学校説明と一人一人の自己紹介を終えてから、ようやく下校となった。明日からは早速、通常の授業が始まる。新生活は嬉しいものだが、勉強は全く別で、考えただけでうんざりしてくる。
「おべんと忘れちゃダメだからね」
 しっかり者の優奈は、校門前で美咲に念を押す。
 美咲は、「分かってるってば!」と、頬を膨らませた。
「いくら何でもおべんとは忘れないよ。――教科書は怪しいけど……」
「そっちのがマズいでしょっ?」
 美咲ならばやりかねないと思っているのか、優奈は心配そうに美咲を見つめる。
「もう……。こっちも気が気じゃないから、あとで確認のメールするから。今晩のうちから、忘れ物しないようにちゃんとチェックしときなよ?」
「やーん! 優奈ちゃん愛してるーっ!」
 美咲は優奈に抱き着こうとしたが、サッと身体を翻して避けられてしまった。
「ちょっとそれ反則」
 不満をあらわにして抗議する美咲に、優奈は、「『反則』じゃない!」と、突っ込みを入れてきた。
「こんな公衆の面前でなんて恥ずかしいに決まってんでしょっ? それに、あんたに抱き締められたら窒息しちゃうじゃない!」
 何を大袈裟な、と思ったが、確かに、小柄な優奈を強く抱いたりしたら、必要以上に苦しませてしまいそうだ。
「しょうがないなあ……」
 美咲は諦めて、広げていた両手を戻した。
「じゃあメール待ってるから。――絶対忘れないでよ?」
「忘れるわけないじゃん。私を誰だと思ってんの?」
「蒼井優奈さまです」
「結構。そんじゃまた」
「バイバーイ!」
 優奈は美咲に手を振り、先に背を向けてしまった。
 美咲はしばらく、優奈の背中を見届ける。
「また明日」
 ポツリと口にすると、美咲もクルリと向きを変え、駅へ続く道を歩き始めた。

 ◆◇◆◇

 家に着いてから、美咲は即座に自分の部屋へ行き、制服から、部屋着として愛用している黒いジャージに着替えた。黒いジャージとはいっても女性向けだし、一部に可愛らしい花模様が刺繍されているのだけど、理美に言わせると、ジャージを着るのは女の子らしさに欠けるらしい。
(〈女の子らしい〉って何なんだか……)
 長袖のTシャツを中に着込み、ジャージのファスナーを胸の辺りまで上げながら、美咲は考える。別に、女に生まれたことを不満だなんて思っていないし、外出する時は、スカートだって履くこともある。
「〈女の子〉、ねえ……」
 全身鏡に自分の姿を映しながら、今度は、口に出して言ってみる。
 鏡の向こうの〈自分〉は、焦げ茶色のストレートヘアを背中まで流し、茶味を帯びた双眸で美咲を見つめ返す。どちらも美咲本人なのだから、何ひとつ違いはないはずなのに、何故か、違う〈自分〉を見ているような錯覚に陥るから不思議だ。
 鏡の向こうには、いったいどんな世界が広がっているのか。そんなことも考えてしまう。
(あの人のいる世界も……)
 美咲はまた、夢の中に現れた男のことを想い出した。
 うつつの、しかし、現とは異なる世界。黄金色の満月が浮かぶ闇の光景も、その中でゆったりと舞う桜も、男の夢の中に存在するもの全て、現とは似て非なるものだと美咲は思う。
(あれはきっと、あの人が創り出した世界なんだ)
 そう考えると、全てに納得がいくような気がしてくる。
(あの人は私を求めてた。そうなると私は……)
 ぼんやりと鏡を睨み続けていた時だった。
 軽くノックされる音と同時に、「美咲」と、ドアの向こうから呼ばれた。今朝のような、ヒステリックな感じではない。
「なあにー?」
 美咲が答えると、ドアがゆっくりと開かれた。
「お昼食べる前で悪いけど、ちょっとひとっ走り行ってくれない?」
 理美の言う『ひとっ走り』は、買い出しのことを指している。
 これから何も予定のない美咲は、否定する理由はひとつもなかったから、「はいよ!」と、素直に了承した。
「で、何買ってくればいいの?」
「ちょっと多いから下でメモ書いて渡すわ。もちろん、お金もちゃんとあげるから」
 お願いね、と、最後に念を押し、理美はドアを閉める。階段を下りる足音が、微かに響いていた。
「買い物だったら……、このまんまでいっか」
 どうせ近くなんだからと、美咲は外出着に着替えなかった。理美には呆れられるだろうが、何度も着替えるのは非常に面倒臭い。
「ジャージで歩いてる人って結構いるんだし」
 そう言い聞かせ、美咲は通学バッグから財布を取り出した。理美からお金は渡されるが、剥き出しのままで持ち歩くのはさすがに危険だ。
「じゃ、行きますか」
 ひとりごちると、理美を追うように部屋を出る。今朝のパターンと全く同じだった。

 ◆◇◆◇

 理美から買い物を指示された美咲は、預かった買い物内容を書いたメモ、買い物用のトートバッグとお金の入った財布を手に、近所のスーパーへとやって来た。そこは、家から歩いて十分程度の場所にある、地元ではわりと規模の大きいチェーン店だ。
 休日で貴雄が家にいれば、たまに遠くへ買い物に行くこともあるが、大抵はこのスーパーで用を足す。しかも、理美が専用のポイントカードも作っているから、メモとお金と一緒に、そのポイントカードもしっかり渡された。

『チリも積もれば山になるんだからね。絶対出し忘れちゃダメよ? 分かった?』

 ポイントカードを美咲に託す理美の表情は必死だった。理美の気持ちは分からなくもないが、それでも、ポイントに執着する主婦ほど恐ろしい者はないと、美咲は改めて実感する。貴雄もあの場にいたら、きっと、同じことを考えたに違いない。
(私もいつか母親になったら、今のお母さんと同じことを自分の子供にしちゃうのかな……)
 美咲は想像しようとするも、今は、母親になるどころか恋人すらいないのだ。当然、これから先のことなんて分かるはずもないし、それ以前に考えられない。
(とにかく、今は買い物のことだけ考えとけばいっか)
 そう思い直し、入り口付近でカゴを手に取り、メモを見ながら目的の売り場へと足を運ぶ。
 それにしても、外の陽気からは信じられないぐらいに店内は寒い。入った途端に、ひんやりとした空気が全身を襲い、美咲はブルリと身体を震わせてしまった。暖房の設備はあるのかもしれないが、それすら失くしてしまうほど、冷蔵庫の冷気が強力なのだろうか。
(入学早々風邪引いて休むハメになったらどうしてくれんのよ……)
 二つ返事で買い物を引き受けたのは美咲自身なのに、寒い店の中を歩き回っているうちに、理美とスーパー、両方への恨みが募ってくる。逆恨みもいいところだが、それぐらい、美咲は寒さに耐えられなかったのだ。
(とにかく、とっとと済ませてとっとと店を出よう!)
 美咲の足が、自然と速くなる。店内のどこに何があるかも、完璧、とまではいかなくても、ほとんど把握していたので、わりとスムーズに買い物を終わらせられた。
 店を出れば、寒さから解放される。美咲は意気揚々と、食料品をたっぷり詰め込んだトートバッグを肩にかける。重みは少し気になったが、長時間、寒い所にいるよりは断然いい。
(でも、三人分にしては多い気がするけど……)
 そんなことを考えながら店を出た時だった。
 出入り口付近で、美咲の足がピタリと止まった。同時に、頬だけが別の生き物のように痙攣し始める。
「な、何で……?」
 辛うじて声は出たが、あまりの衝撃に、これ以上、言葉を紡ぐことが出来ない。
「また逢ったな」
 硬直している美咲とは対照的に、目の前に現れた声の主は飄々と構えている。むしろ、美咲の反応を楽しんでいるように、口元が微かに歪んでいた。
 信じたくなかったが、声の主は紛れもなく、今朝のストーカー男だった。まさか、こんな所にまで出没しようとは、美咲は予想だにしなかった。
「何か勘違いしてるようだが、俺がここにいるのは単なる偶然だ」
「どこがよっ?」
 悪びれる様子もないストーカー男に、美咲の我慢も限界に達した。ここが公衆の面前であることなど、今は頭から完全に抜けてしまっている。
「こんなトコまでヒトを追っ駆けてきて……。いったい何が目的? ちょっとでも何かしようもんなら、今この場で大声上げてやるからっ!」
 ここまで一気にまくし立てると、美咲は肩で息を繰り返し、ストーカー男をキッと睨み付ける。
 よし決まった! と、美咲は思ったのだが――

 グー……キュルキュルー……

 ほんの数秒だったが、見事に場の空気を壊す間抜けな音が鳴った。音の元は、美咲のお腹だった。
 美咲は咄嗟に、両手を重ね合わせて腹部を押さえる。しかし、身体はとても正直なもので、さらに大きな音で空腹を訴えてきた。
 ストーカー男は音を聴いた瞬間、何事かと言わんばかりに目を丸くさせていたが、やがて、口元を押さえながらクツクツと忍び笑いを漏らした。
 笑われている悔しさと恥ずかしさ、色んな感情が混ざり合い、美咲は口を結んで俯いた。全身も急激に熱を帯び、汗がジワジワと湧いてくる。最悪としか言いようがない。
(なんなのよもうっ!)
 きっと、美咲の今の表情は、泣きそうなほど歪んでいるだろう。
 逃げ出してしまいたい。しかし、逃げたとしても、また追い駆けられて来られそうな気がしなくもない。
「ほら」
 下を向いたままの美咲に、ストーカー男が小さなビニール袋を差し出してきた。
 美咲は弾かれたように顔を上げる。
「余分に買い過ぎて処分に困ってたところだ。無理なダイエットなんかしないでちゃんと食え」
「――別にダイエットなんてしたことないですけど……」
 美咲はまた、ストーカー男――もとい、青年に敬語で話していた。
 青年は、困ったように微苦笑を浮かべる。先ほどとは全く違い、その表情からは、美咲に対する思いやりのようなものが垣間見えた。
「とにかく食え。これでも多少は腹の足しになるはずだからな」
 美咲は躊躇いながらも、結局は青年の好意に甘えてしまった。ビニール袋を受け取ると、青年は満足げに笑みを湛える。
「じゃあ、またあとで」
 青年はそう言い残し、美咲に背を向けた。
 美咲はビニール袋を握り締めたまま、ぼんやりと青年の背中を見つめ続ける。
「何だったの……?」
 青年の意図が掴めず、ただただ戸惑うばかりだ。今朝は、〈チョー最悪なストーカー男〉だと思い込んでいたが、ほんの些細なことで、青年に対する見方が変わってしまった。
(てか、どっちがほんとのあの人なの……?)
 首を傾げるも、二回しか逢っていない人間の本性など分かるはずもない。
(とりあえず、悪いヒトじゃない、かも……)
 そう思いながら、美咲は袋の中を見た。そこには、今いるスーパーの手作りおにぎりが二個とチョコレートバーが一個入っていた。
「別に処分に困るような量じゃないじゃん……」
 ひとりごちながら、自然と笑いが込み上げてくるのを感じた。もしかしたら、自分のためにわざと余分に買ってくれたのかな、などと、都合のいい解釈までしてしまったほどだった。
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