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第九章 恣意と煩慮
第二節-02
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『どうだ美咲。また来ないか?』
「え……?」
言っている意味が理解出来なかった。怪訝に思いながら首を傾げ、「どこに?」と訊き返した。
『ずいぶんととぼけるのが上手いな』
電話の向こうで相手が呆れているのが伝わってくる。美咲はムッとして、控えめではあったが声を荒らげてしまった。
「とぼけてなんていません。言ってることが全然分かんないし」
『そうか、私の言い方が悪かったか』
相手は笑いを含みながら続けた。
『こっちへおいでと言ってるんだよ。そこだと大所帯で過ごすには窮屈だろう?』
「――まさか、本家に、ってこと……、ですか……?」
『それ以外にどこがあると言うのだね?』
ヒトを馬鹿にした言い回しに、また腹が立つ。だが、それ以上に、『本家に来い』という言葉に恐怖心を煽られる。
「――本気、なんですか……?」
『私は貴雄と違って、つまらん冗談は言わないが?』
いちいち他人を謗る意味が分からない。そうやって自らを立てようとしているのか、それとも、元々他人は自分以下だと思っているか。もしかしたら、両方かもしれない。
どちらにしても不愉快極まりない。頼りないところは確かにあるが、美咲にとって、貴雄はたった一人の大切な父親だ。
「お父さんはいつでも真面目なヒトです!」
『やれやれ、そんなにムキになるのは誰に似たのかな? ああ、理美君か……』
「――お母さんまで馬鹿にするんですか?」
『馬鹿にしてなんかいないよ。理美君のような気の強い女性は、むしろ好きだよ?』
何故だろう。相手が言うと、『好き』という言葉が危ういものに聞こえる。もしかしたら、相手は理美に特別な感情を抱いているのではないかと思い込んでしまう。だが、相手に問えるはずがない。いや、問うこと自体が非常におぞましい。
(落ち着け、美咲……)
美咲は何度も深呼吸を繰り返す。そして、少しだけ冷静さを取り戻してから、おもむろに口を開いた。
「どうして、私が本家に行かなきゃいけないんですか……?」
『理由が必要かね?』
「そもそも私に行く理由がありませんから」
『それもそうだな』
そう言いながら、相手は静かに笑う。だが、すぐに笑いを引っ込めた。
『お前に理由を求めてないよ』
穏やかなようで、非常に冷ややかな声音だった。言葉のニュアンスから、美咲に拒否する権利はないことが嫌というほど伝わっている。
『私が美咲を本家に迎えたいと言っている。私も朝霞がそっちに行ってしまって正直淋しいのだ。だから、せめてお前に側にいてほしいのだよ』
「――だったら、最初からアサちゃんを呼び戻せば? アサちゃんは伯父さんの娘でしょ?」
『あれはダメだ』
「――どうして?」
『あれには長いこと苦労をさせた。これからは自由にさせてやりたい』
相手は心にも思っていないことを平然と言ってのける。朝霞に苦労をさせたと思っているなら、何故、もっと早くに辛い境遇から救おうとしなかったのか。
(このヒトは、自分以外はどうでもいいと思ってる……)
昔から分かってはいたが、改めて気付くと虫唾が走る。たった一人の娘をただの〈道具〉のように扱い、邪魔になれば簡単に切り捨てる。朝霞が貴雄の家に行きたいと言い出したのを止めなかったのも、自分にとって煩わしい存在を排除したかったからに違いない。それを思うと、朝霞はとても憐れだ。例え、朝霞も父親に愛情を感じていないとしても、だ。
だとしたら、どうして相手――藍田は美咲を本家に迎えたいなどと言うのか。本心からなのか、気まぐれなのか、あの男の真意は全く読めない。電話越しだとなおさら。
「――私の中には、桜姫がいるんですよ……?」
分かりきったことを相手に確認する。
案の定、藍田からは『そうだな』と呆れた口調で返答された。
『だが、私はそんなことは問題視していないよ。以前にも言ったはずだ。私は、桜姫の生まれ変わりが現れるのを待っていた、とね』
そんなことを言われた記憶はない。だが、単に美咲が忘れているだけかもしれない。藍田に襲われかけたことのショックで、その時の詳細なやり取りが消え去ったのだろう。
と、不意に首を伝った藍田の生温い舌の感触が蘇った。そして、ショーツの中を直に這った指も。
胃液が込み上げてくる。吐き気を催してきたが、どうにか堪えた。
『とにかくこっちに来なさい。何もしなくていい。美咲は私の側にいてくれればいいんだよ』
藍田の言葉に込められた意味を考えるのはよそうと美咲は思った。深読みしようとすればするほど、胃がムカムカしてくる。
「――行きたくない、って言ったら……?」
答えは予想出来たが、あえて訊ねてみる。
『拒否は受け入れないよ。この間は彼があまりにも必死で美咲を手放したが』
(やっぱり……)
美咲は深い溜め息を漏らした。こうなると、また次に南條達が乗り込んで来たとしても解放してくれないだろう。
「――どうしても、行かなきゃダメですか……?」
簡単に受け入れられない美咲は、足掻いてみる。無理なことはもちろん分かっている。
『お前を守るためだよ。美咲はまだ、自分の立場を全く分かっていないようだが、万一、桜姫が解放されたら周囲を危険に晒す。そうなると、美咲はあの彼に殺されてしまうのだよ? 私は、可愛い姪が殺されるのを黙って見ていられるほど非常じゃないと思っている』
また、美咲を呆れさせることを平気で言う。話を聴いているうちに、この伯父は少し――いや、かなり頭がおかしいのではないかと、むしろ心配になってきた。
(でも、確かに南條さんのチカラは桜姫にとっては危険だった……)
桜姫を擁護するつもりも、ましてや自分だけ助かりたいなどとは決して思っていない。ただ、自分が暴走した時、一番苦しむのは南條だと美咲も理解しているつもりだ。南條は、過去世の自分の行いを非常に悔いている。だからこそ、南條に辛いことは絶対にさせたくない。
(南條さんは優しくて……、ほんとは凄く繊細だから……)
美咲の指が、無意識に自分の唇に触れる。何度も交わした南條とのキスの柔らかくて温かい感触。それは藍田とのおぞましい記憶を優しく拭い去ってくれる。
また、本家に戻ると言えば、南條は怒るかもしれない。どんなことをしてでも止めてくれるかもしれない。だが、先のことを思えば、南條に甘えてばかりもいられない。
「――いつ、そっちに行けばいいんですか……?」
そう訊ねる声は震えていた。藍田に囚われてしまう恐怖と、それ以上に、南條とまた離れてしまわなければならない淋しさがどうしても抑えられない。
分かってはいたが、藍田はそんな美咲の気持ちなどお構いなしだった。
『すぐに出てきなさい。すぐ近くの公園に車を停めてある』
「急過ぎます……。準備とかあるのに……」
『そんなものは必要ない。こっちには全て揃っている。欲しいものがあればいつでも用意出来る』
全てにおいて、美咲に決める権利はないということだ。何もかも諦めるしかない。
「分かりました。では、すぐに出ます」
『そうしなさい。貴雄には明け方にでもすぐに連絡しよう』
そこでようやく、藍田から通話が切れた。
美咲は携帯から耳を放し、しばらくぼんやりとそれを眺めていた。
行きたくない。しかし、行かなければ、今度は強引に家に押しかけて来るだろう。そうなると、みんなに迷惑をかけてしまう。
とんでもないことになってしまったと後悔しつつ、けれども、南條のためだと思い、美咲は素早く着替えを始めた。さすがに、寝間着姿では出られない。
「携帯ぐらいはいいよね、多分……」
以前、綾乃に取り上げられてしまったから、持って行っても無意味な気がしたが、持っていなければいないで何となく不安だ。万一、また取り上げられてしまった時は、仕方ないと諦めるしかない。
着替えを済ませ、小さめのバッグに財布と携帯、充電器を突っ込んで、静かに部屋を出る。幸い、貴雄も理美も熟睡型だから多少の物音では起きない。多分、朝霞と優奈も大丈夫だろう。
(ごめんなさい……)
心の中で謝罪し、美咲は玄関のドアを開けた。
「え……?」
言っている意味が理解出来なかった。怪訝に思いながら首を傾げ、「どこに?」と訊き返した。
『ずいぶんととぼけるのが上手いな』
電話の向こうで相手が呆れているのが伝わってくる。美咲はムッとして、控えめではあったが声を荒らげてしまった。
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相手は笑いを含みながら続けた。
『こっちへおいでと言ってるんだよ。そこだと大所帯で過ごすには窮屈だろう?』
「――まさか、本家に、ってこと……、ですか……?」
『それ以外にどこがあると言うのだね?』
ヒトを馬鹿にした言い回しに、また腹が立つ。だが、それ以上に、『本家に来い』という言葉に恐怖心を煽られる。
「――本気、なんですか……?」
『私は貴雄と違って、つまらん冗談は言わないが?』
いちいち他人を謗る意味が分からない。そうやって自らを立てようとしているのか、それとも、元々他人は自分以下だと思っているか。もしかしたら、両方かもしれない。
どちらにしても不愉快極まりない。頼りないところは確かにあるが、美咲にとって、貴雄はたった一人の大切な父親だ。
「お父さんはいつでも真面目なヒトです!」
『やれやれ、そんなにムキになるのは誰に似たのかな? ああ、理美君か……』
「――お母さんまで馬鹿にするんですか?」
『馬鹿にしてなんかいないよ。理美君のような気の強い女性は、むしろ好きだよ?』
何故だろう。相手が言うと、『好き』という言葉が危ういものに聞こえる。もしかしたら、相手は理美に特別な感情を抱いているのではないかと思い込んでしまう。だが、相手に問えるはずがない。いや、問うこと自体が非常におぞましい。
(落ち着け、美咲……)
美咲は何度も深呼吸を繰り返す。そして、少しだけ冷静さを取り戻してから、おもむろに口を開いた。
「どうして、私が本家に行かなきゃいけないんですか……?」
『理由が必要かね?』
「そもそも私に行く理由がありませんから」
『それもそうだな』
そう言いながら、相手は静かに笑う。だが、すぐに笑いを引っ込めた。
『お前に理由を求めてないよ』
穏やかなようで、非常に冷ややかな声音だった。言葉のニュアンスから、美咲に拒否する権利はないことが嫌というほど伝わっている。
『私が美咲を本家に迎えたいと言っている。私も朝霞がそっちに行ってしまって正直淋しいのだ。だから、せめてお前に側にいてほしいのだよ』
「――だったら、最初からアサちゃんを呼び戻せば? アサちゃんは伯父さんの娘でしょ?」
『あれはダメだ』
「――どうして?」
『あれには長いこと苦労をさせた。これからは自由にさせてやりたい』
相手は心にも思っていないことを平然と言ってのける。朝霞に苦労をさせたと思っているなら、何故、もっと早くに辛い境遇から救おうとしなかったのか。
(このヒトは、自分以外はどうでもいいと思ってる……)
昔から分かってはいたが、改めて気付くと虫唾が走る。たった一人の娘をただの〈道具〉のように扱い、邪魔になれば簡単に切り捨てる。朝霞が貴雄の家に行きたいと言い出したのを止めなかったのも、自分にとって煩わしい存在を排除したかったからに違いない。それを思うと、朝霞はとても憐れだ。例え、朝霞も父親に愛情を感じていないとしても、だ。
だとしたら、どうして相手――藍田は美咲を本家に迎えたいなどと言うのか。本心からなのか、気まぐれなのか、あの男の真意は全く読めない。電話越しだとなおさら。
「――私の中には、桜姫がいるんですよ……?」
分かりきったことを相手に確認する。
案の定、藍田からは『そうだな』と呆れた口調で返答された。
『だが、私はそんなことは問題視していないよ。以前にも言ったはずだ。私は、桜姫の生まれ変わりが現れるのを待っていた、とね』
そんなことを言われた記憶はない。だが、単に美咲が忘れているだけかもしれない。藍田に襲われかけたことのショックで、その時の詳細なやり取りが消え去ったのだろう。
と、不意に首を伝った藍田の生温い舌の感触が蘇った。そして、ショーツの中を直に這った指も。
胃液が込み上げてくる。吐き気を催してきたが、どうにか堪えた。
『とにかくこっちに来なさい。何もしなくていい。美咲は私の側にいてくれればいいんだよ』
藍田の言葉に込められた意味を考えるのはよそうと美咲は思った。深読みしようとすればするほど、胃がムカムカしてくる。
「――行きたくない、って言ったら……?」
答えは予想出来たが、あえて訊ねてみる。
『拒否は受け入れないよ。この間は彼があまりにも必死で美咲を手放したが』
(やっぱり……)
美咲は深い溜め息を漏らした。こうなると、また次に南條達が乗り込んで来たとしても解放してくれないだろう。
「――どうしても、行かなきゃダメですか……?」
簡単に受け入れられない美咲は、足掻いてみる。無理なことはもちろん分かっている。
『お前を守るためだよ。美咲はまだ、自分の立場を全く分かっていないようだが、万一、桜姫が解放されたら周囲を危険に晒す。そうなると、美咲はあの彼に殺されてしまうのだよ? 私は、可愛い姪が殺されるのを黙って見ていられるほど非常じゃないと思っている』
また、美咲を呆れさせることを平気で言う。話を聴いているうちに、この伯父は少し――いや、かなり頭がおかしいのではないかと、むしろ心配になってきた。
(でも、確かに南條さんのチカラは桜姫にとっては危険だった……)
桜姫を擁護するつもりも、ましてや自分だけ助かりたいなどとは決して思っていない。ただ、自分が暴走した時、一番苦しむのは南條だと美咲も理解しているつもりだ。南條は、過去世の自分の行いを非常に悔いている。だからこそ、南條に辛いことは絶対にさせたくない。
(南條さんは優しくて……、ほんとは凄く繊細だから……)
美咲の指が、無意識に自分の唇に触れる。何度も交わした南條とのキスの柔らかくて温かい感触。それは藍田とのおぞましい記憶を優しく拭い去ってくれる。
また、本家に戻ると言えば、南條は怒るかもしれない。どんなことをしてでも止めてくれるかもしれない。だが、先のことを思えば、南條に甘えてばかりもいられない。
「――いつ、そっちに行けばいいんですか……?」
そう訊ねる声は震えていた。藍田に囚われてしまう恐怖と、それ以上に、南條とまた離れてしまわなければならない淋しさがどうしても抑えられない。
分かってはいたが、藍田はそんな美咲の気持ちなどお構いなしだった。
『すぐに出てきなさい。すぐ近くの公園に車を停めてある』
「急過ぎます……。準備とかあるのに……」
『そんなものは必要ない。こっちには全て揃っている。欲しいものがあればいつでも用意出来る』
全てにおいて、美咲に決める権利はないということだ。何もかも諦めるしかない。
「分かりました。では、すぐに出ます」
『そうしなさい。貴雄には明け方にでもすぐに連絡しよう』
そこでようやく、藍田から通話が切れた。
美咲は携帯から耳を放し、しばらくぼんやりとそれを眺めていた。
行きたくない。しかし、行かなければ、今度は強引に家に押しかけて来るだろう。そうなると、みんなに迷惑をかけてしまう。
とんでもないことになってしまったと後悔しつつ、けれども、南條のためだと思い、美咲は素早く着替えを始めた。さすがに、寝間着姿では出られない。
「携帯ぐらいはいいよね、多分……」
以前、綾乃に取り上げられてしまったから、持って行っても無意味な気がしたが、持っていなければいないで何となく不安だ。万一、また取り上げられてしまった時は、仕方ないと諦めるしかない。
着替えを済ませ、小さめのバッグに財布と携帯、充電器を突っ込んで、静かに部屋を出る。幸い、貴雄も理美も熟睡型だから多少の物音では起きない。多分、朝霞と優奈も大丈夫だろう。
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