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四章 眠り薬は味噌汁に合うか?
薄っぺらい口づけ一つ
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温泉を出た後、二人は潟杜市内のファミリー・レストランで食事を済ませ、利玖のアパートに向かった。
「疲れました」
「だろうね」
利玖は、史岐がいるのもお構いなしにベッドに仰向けになっている。
「慣れない山歩きに温泉の追い討ちで、意識もフェードアウト寸前です。今なら薄っぺらい口づけ一つぐらい夢現に忘れてしまうでしょう」
史岐は答えずに、流し台に置かれていた空のやかんを手に取った。
「ティーバッグ、一つ使ってもいい?」
「薬を混ぜるならどうぞマドラーを。引き出しの左のトレイに入っています」
「……じゃ、ありがたく」
史岐が運んだ茶を、利玖は一息で飲み干した。
薬を盛った事がばれている飲み物を、目の前で本人に呷られるというのは、なかなかに胃の痛い光景である。
「割と味に変化が出ますね。もっと風味の強い……、そうですね、味噌汁などに混ぜた方がいいと思いますよ」
「振る舞いで味噌汁だけ出したら露骨に怪しいでしょ」
茶を飲み終えると、利玖は、ごろんとベッドに横になった。
「どれくらいで効き始めますか?」
「初めてなら、十分以内には」
「そうですか」
言葉を切って、天井を見上げていた利玖は、やがて、かすかに寂しさの混じった声で呟いた。
「出来るなら、もっとあなたの一族について調べたかった」
それから眉をひそめ、寝返りを打つ。
「いえ。あなたの一族、というと語弊がありますね。正確には、あなたの一族が周辺の生態系に与える影響について、です」
「生態系」
「はい。二十歳を過ぎた次代当主がこんな事件を起こすのですから、これまで周辺に影響を与えずにいたはずがないでしょう。熊野家の敷地周辺には、独自の生態系が築かれている可能性があります」
「答えを改竄するのは望まないんじゃなかったの?」
「それとこれとは全く別です。特殊な条件下で、すでに成立している生態系には、大いに興味をそそられます。これまで誰も考えつかなかった問題を、思う存分調べられる機会が、そこにあるかもしれないのですから」
利玖はわずかに唇を閉じ、「まあ、それは」と付け足した。
「今さら言っても詮ない事ですが」
史岐は、立ち上がり、ベッドの傍らに跪いて利玖を見下ろした。
「言っておきたい事はある? 君ぐらいの歳の子が考える事なら、大抵は叶えてあげられるよ」
「臼内岳まで連れて行っていただいた事とガソリン代、それと食事代だけで十分です」
「君が覚えていなくても、熊野家への貸しとして将来に残しておくのもおすすめするけど」
「そんな重い物、持って歩けません」
史岐が顔を近づける。
彼の左目の下に小さな黒子がある事に、利玖は初めて気がついた。
「殴ってもいいよ」
「結構です。後日、もう少し歳上で体格のよい男が代行で来ると思いますので」
史岐は苦笑した。
「それは、嫌だな……」
と、利玖が思い出したように、あ、と唇を開けた。
「一つ、考えていた事がありました。わたし、あなたの歌をまだ聞いた事がありません」
徐々に薬が回り始めたのだろう。とろんとした目をこすりながら、利玖は一所懸命に話している。
「記憶が消されるのなら、わたしはこの先、驚天動地の巡り会いでもしない限り、あなたの歌を聴く事はないでしょう。……そうなる、前に……」
史岐は頷いた。
「いいよ。リクエストはある?」
利玖は少し考えてから、半世紀ほど前に流行った外国のポップ・デュオによるヒット曲を挙げた。英語の曲だが、昔、テレビでよく流れていた幼児向け番組の挿入歌として使われていたので、今でも史岐はそらで歌う事が出来る。
「また、懐かしい物を」
「おや。あなたも、あの番組で知った口ですか」
利玖の頬に、優しい笑みが浮かんだ。
ごく平易な英文で綴られた素朴なメロディに、史岐は、ずいぶん遠くなったように思える自らの思い出を重ねた。
いつだったか、まだ声変わりもしていない頃、梓葉と膝を並べてその番組を見た事がある。『五十六番』を継承する者として、物心ついた頃から教育を受けていた自分は、早くも邦楽に飽き始めていて、外国の言葉で作られた歌に瞬く間に魅せられた。
すぐに歌詞を覚えて、梓葉の前で歌ってみせると、その頃、まだ漢字も満足に読めなかった彼女は、魔法使いでも見るように目をきらきらとさせて喜んだ。
梓葉の方がうまく英語を使いこなせるようになっていた事に気づいたのは、いつだっただろう。
自分が──自分の家が、彼女の生き方を縛っているような思いにばかり囚われていたが、とっくに道を決めて歩き出していたのは、梓葉の方だったのかもしれない。
(一度くらい、素直になって、綺麗になったと言ってやればよかった)
ふと目を開くと、利玖は微睡みながら、つたないハミングで史岐の歌を追っていた。
水面を浮き沈みするように、途切れてはまた現れる鼻歌の間隔が間遠になり、やがて寝息に変わると、史岐の歌声も止み、部屋には静寂が訪れた。
「疲れました」
「だろうね」
利玖は、史岐がいるのもお構いなしにベッドに仰向けになっている。
「慣れない山歩きに温泉の追い討ちで、意識もフェードアウト寸前です。今なら薄っぺらい口づけ一つぐらい夢現に忘れてしまうでしょう」
史岐は答えずに、流し台に置かれていた空のやかんを手に取った。
「ティーバッグ、一つ使ってもいい?」
「薬を混ぜるならどうぞマドラーを。引き出しの左のトレイに入っています」
「……じゃ、ありがたく」
史岐が運んだ茶を、利玖は一息で飲み干した。
薬を盛った事がばれている飲み物を、目の前で本人に呷られるというのは、なかなかに胃の痛い光景である。
「割と味に変化が出ますね。もっと風味の強い……、そうですね、味噌汁などに混ぜた方がいいと思いますよ」
「振る舞いで味噌汁だけ出したら露骨に怪しいでしょ」
茶を飲み終えると、利玖は、ごろんとベッドに横になった。
「どれくらいで効き始めますか?」
「初めてなら、十分以内には」
「そうですか」
言葉を切って、天井を見上げていた利玖は、やがて、かすかに寂しさの混じった声で呟いた。
「出来るなら、もっとあなたの一族について調べたかった」
それから眉をひそめ、寝返りを打つ。
「いえ。あなたの一族、というと語弊がありますね。正確には、あなたの一族が周辺の生態系に与える影響について、です」
「生態系」
「はい。二十歳を過ぎた次代当主がこんな事件を起こすのですから、これまで周辺に影響を与えずにいたはずがないでしょう。熊野家の敷地周辺には、独自の生態系が築かれている可能性があります」
「答えを改竄するのは望まないんじゃなかったの?」
「それとこれとは全く別です。特殊な条件下で、すでに成立している生態系には、大いに興味をそそられます。これまで誰も考えつかなかった問題を、思う存分調べられる機会が、そこにあるかもしれないのですから」
利玖はわずかに唇を閉じ、「まあ、それは」と付け足した。
「今さら言っても詮ない事ですが」
史岐は、立ち上がり、ベッドの傍らに跪いて利玖を見下ろした。
「言っておきたい事はある? 君ぐらいの歳の子が考える事なら、大抵は叶えてあげられるよ」
「臼内岳まで連れて行っていただいた事とガソリン代、それと食事代だけで十分です」
「君が覚えていなくても、熊野家への貸しとして将来に残しておくのもおすすめするけど」
「そんな重い物、持って歩けません」
史岐が顔を近づける。
彼の左目の下に小さな黒子がある事に、利玖は初めて気がついた。
「殴ってもいいよ」
「結構です。後日、もう少し歳上で体格のよい男が代行で来ると思いますので」
史岐は苦笑した。
「それは、嫌だな……」
と、利玖が思い出したように、あ、と唇を開けた。
「一つ、考えていた事がありました。わたし、あなたの歌をまだ聞いた事がありません」
徐々に薬が回り始めたのだろう。とろんとした目をこすりながら、利玖は一所懸命に話している。
「記憶が消されるのなら、わたしはこの先、驚天動地の巡り会いでもしない限り、あなたの歌を聴く事はないでしょう。……そうなる、前に……」
史岐は頷いた。
「いいよ。リクエストはある?」
利玖は少し考えてから、半世紀ほど前に流行った外国のポップ・デュオによるヒット曲を挙げた。英語の曲だが、昔、テレビでよく流れていた幼児向け番組の挿入歌として使われていたので、今でも史岐はそらで歌う事が出来る。
「また、懐かしい物を」
「おや。あなたも、あの番組で知った口ですか」
利玖の頬に、優しい笑みが浮かんだ。
ごく平易な英文で綴られた素朴なメロディに、史岐は、ずいぶん遠くなったように思える自らの思い出を重ねた。
いつだったか、まだ声変わりもしていない頃、梓葉と膝を並べてその番組を見た事がある。『五十六番』を継承する者として、物心ついた頃から教育を受けていた自分は、早くも邦楽に飽き始めていて、外国の言葉で作られた歌に瞬く間に魅せられた。
すぐに歌詞を覚えて、梓葉の前で歌ってみせると、その頃、まだ漢字も満足に読めなかった彼女は、魔法使いでも見るように目をきらきらとさせて喜んだ。
梓葉の方がうまく英語を使いこなせるようになっていた事に気づいたのは、いつだっただろう。
自分が──自分の家が、彼女の生き方を縛っているような思いにばかり囚われていたが、とっくに道を決めて歩き出していたのは、梓葉の方だったのかもしれない。
(一度くらい、素直になって、綺麗になったと言ってやればよかった)
ふと目を開くと、利玖は微睡みながら、つたないハミングで史岐の歌を追っていた。
水面を浮き沈みするように、途切れてはまた現れる鼻歌の間隔が間遠になり、やがて寝息に変わると、史岐の歌声も止み、部屋には静寂が訪れた。
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