舞いあがる五月 Soaring May

梅室しば

文字の大きさ
15 / 18
四章 眠り薬は味噌汁に合うか?

薄っぺらい口づけ一つ

しおりを挟む
 温泉を出た後、二人は潟杜市内のファミリー・レストランで食事を済ませ、利玖のアパートに向かった。
「疲れました」
「だろうね」
 利玖は、史岐がいるのもお構いなしにベッドに仰向けになっている。
「慣れない山歩きに温泉の追い討ちで、意識もフェードアウト寸前です。今なら薄っぺらい口づけ一つぐらい夢現ゆめうつつに忘れてしまうでしょう」
 史岐は答えずに、流し台に置かれていた空のやかんを手に取った。
「ティーバッグ、一つ使ってもいい?」
「薬を混ぜるならどうぞマドラーを。引き出しの左のトレイに入っています」
「……じゃ、ありがたく」
 史岐が運んだ茶を、利玖は一息で飲み干した。
 薬を盛った事がばれている飲み物を、目の前で本人にあおられるというのは、なかなかに胃の痛い光景である。
「割と味に変化が出ますね。もっと風味の強い……、そうですね、味噌汁などに混ぜた方がいいと思いますよ」
「振る舞いで味噌汁だけ出したら露骨に怪しいでしょ」
 茶を飲み終えると、利玖は、ごろんとベッドに横になった。
「どれくらいで効き始めますか?」
「初めてなら、十分以内には」
「そうですか」
 言葉を切って、天井を見上げていた利玖は、やがて、かすかに寂しさの混じった声で呟いた。
「出来るなら、もっとあなたの一族について調べたかった」
 それから眉をひそめ、寝返りを打つ。
「いえ。あなたの一族、というと語弊がありますね。正確には、あなたの一族が周辺の生態系に与える影響について、です」
「生態系」
「はい。二十歳を過ぎた次代当主がこんな事件を起こすのですから、これまで周辺に影響を与えずにいたはずがないでしょう。熊野家の敷地周辺には、独自の生態系が築かれている可能性があります」
「答えを改竄するのは望まないんじゃなかったの?」
「それとこれとは全く別です。特殊な条件下で、すでに成立している生態系には、大いに興味をそそられます。これまで誰も考えつかなかった問題を、思う存分調べられる機会が、そこにあるかもしれないのですから」
 利玖はわずかに唇を閉じ、「まあ、それは」と付け足した。
「今さら言ってもせんない事ですが」
 史岐は、立ち上がり、ベッドのかたわらに跪いて利玖を見下ろした。
「言っておきたい事はある? 君ぐらいの歳の子が考える事なら、大抵は叶えてあげられるよ」
「臼内岳まで連れて行っていただいた事とガソリン代、それと食事代だけで十分です」
「君が覚えていなくても、熊野家への貸しとして将来に残しておくのもおすすめするけど」
「そんな重い物、持って歩けません」
 史岐が顔を近づける。
 彼の左目の下に小さな黒子ほくろがある事に、利玖は初めて気がついた。
「殴ってもいいよ」
「結構です。後日、もう少し歳上で体格のよい男が代行で来ると思いますので」
 史岐は苦笑した。
「それは、嫌だな……」
 と、利玖が思い出したように、あ、と唇を開けた。
「一つ、考えていた事がありました。わたし、あなたの歌をまだ聞いた事がありません」
 徐々に薬が回り始めたのだろう。とろんとした目をこすりながら、利玖は一所懸命に話している。
「記憶が消されるのなら、わたしはこの先、驚天動地の巡り会いでもしない限り、あなたの歌を聴く事はないでしょう。……そうなる、前に……」
 史岐は頷いた。
「いいよ。リクエストはある?」
 利玖は少し考えてから、半世紀ほど前に流行った外国のポップ・デュオによるヒット曲を挙げた。英語の曲だが、昔、テレビでよく流れていた幼児向け番組の挿入歌として使われていたので、今でも史岐はそらで歌う事が出来る。
「また、懐かしい物を」
「おや。あなたも、あの番組で知った口ですか」
 利玖の頬に、優しい笑みが浮かんだ。

 ごく平易な英文で綴られた素朴なメロディに、史岐は、ずいぶん遠くなったように思える自らの思い出を重ねた。
 いつだったか、まだ声変わりもしていない頃、梓葉と膝を並べてその番組を見た事がある。『五十六番』を継承する者として、物心ついた頃から教育を受けていた自分は、早くも邦楽に飽き始めていて、外国の言葉で作られた歌に瞬く間に魅せられた。
 すぐに歌詞を覚えて、梓葉の前で歌ってみせると、その頃、まだ漢字も満足に読めなかった彼女は、魔法使いでも見るように目をきらきらとさせて喜んだ。

 梓葉の方がうまく英語を使いこなせるようになっていた事に気づいたのは、いつだっただろう。
 自分が──自分の家が、彼女の生き方を縛っているような思いにばかり囚われていたが、とっくに道を決めて歩き出していたのは、梓葉の方だったのかもしれない。

(一度くらい、素直になって、綺麗になったと言ってやればよかった)
 ふと目を開くと、利玖は微睡まどろみながら、つたないハミングで史岐の歌を追っていた。
 水面を浮き沈みするように、途切れてはまた現れる鼻歌の間隔が間遠になり、やがて寝息に変わると、史岐の歌声も止み、部屋には静寂が訪れた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

処理中です...