蜩の軀

田神 ナ子

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忍びの境編

エピソード3 菊千代

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 夜が逼っていた。
山の稜線が朱い夕陽に染まり空は紺色に広がる。
少しばかりの星が輝き始めていた。

 二人は飼い馬を急がせた。
馬の背には沢山の荷が結わえてある。三か月みつきに一度、こうして、二つ峠を越えた城下町に食料等の買い出しに出掛けるのだ。

その帰り道――
小さな城下に差し掛かった時、黒毛の飼い馬が足をもたつかせた。

 「どうした、翡龍ひりゅう・・・?」
 「・・・見ろ、菊千代・・・・」

そう声を掛けた美緑の視線の先に、戦の後の残害が荒涼としていた。
黒毛の艶やかなその馬を宥めながら菊千代もその光景を見渡し、言葉を失くした。

 「・・・地蜘蛛衆の仕業だな・・・・」
呟くように言う美緑の声は低く押し殺される。

 「急ぐぞ、菊千代!」

二人がまた飼い馬の手綱を引き先を急ごうとした時――
菊千代を乗せた飼い馬が、突然、その城下へ向かって走り出したのだ。

 「翡龍っ、どうした?!止まるんだ!」

手綱を引くが、利かない。
それどころか、まっしぐらに駆け、ある屋敷の前まで来るとゆっくりと辺りを廻り始めた。
後を追ってきた美緑が驚いた様子で、

 「どうした!こんな所に長居はできない。まだ奴等の気配がする・・・・」
全身の《気》を張り巡らせる。

 「・・・・・しっ・・・」

突然、菊千代が静止する。
息を殺して辺りの様子を窺いながら何か気配を感じているようだ。

 古びた物置き小屋の前に飼い馬を落ち着かせながら休め、静かに地に降りた。
菊千代はゆっくりとその小屋に近付いていく。

 (何か――居る・・・?)

菊千代の感が起つ。
音もなく近付いた瞬間、

 「はっっ!んんっ・・・・!」

物陰から着物を着た娘が短刀を振り回し向って来た。
娘は必死に短刀を振り回しながら己を護ろうとしている。

この戦の中、逃げに逃げてきたのだろうか――?その美しい紅の着物はあちこちが裂かれ、白い肌が露になっていた。透き通る白肌は疵を負って薄っすらと血が滲んでいる。

 「ま、待たれ!私は敵の者ではない・・・落ち着かれよっ!」

菊千代の声も届かない。娘は必死で短刀を振る。
その細い腕を菊千代が確と握り寄せた。
娘の躰が震えている。恐ろしさにその愛らしい眸までも血走っていた。

 「落ち着いて・・・大丈夫、安心して・・・。」

小さなその躰を支えながら、手にしている短刀をゆっくりと取り除く。

 「んっ!んんっ・・・!」

それでも娘は噛み付きそうな勢いで菊千代に喰らい付く。

「菊千代!大丈夫か・・・・っ?」

後から追ってきた美緑が駆け込んできて、その様子を眼の当たりにする。

「・・・この城下の姫君か――?」
美緑の視線が上目使いになる。

この戦の中、辛うじて生き延びたこの小さな城下の姫。
その恐ろしさに我を失くしてしまっている。

 「美緑、先に行ってくれ。俺は、この姫君を村まで連れて行く。」

菊千代の言葉に少し迷ったが、美緑は飼い馬に乗り、

「分かった。お前も急げ!」

そう言うと馬を走らせ先を急いだ。


 頷くように美緑の姿を見送ると、菊千代は優しく落ち着いた笑顔を見せ、震える美しい姫君を見つめて言う。

「私は菊千代という者です。この先に私の知る村があります。そこで疵の手当てを・・・ここに居ては、また敵方に見つかってしまいます。」

菊千代の声にやっとの思いでその姫君は俯いていた顔を上げた。
透き通るほどの肌色に漆黒の麗しい眸が菊千代を捉える。その純潔な容姿に、暫し菊千代は言葉が出なかった。

「・・・貴方の名は――?」

菊千代の問いに、柔らかなその唇から鈴音のような愛らしい声が届く。

「・・・私は・・・豊香とよかと申します・・・・」

――豊香姫・・・
それが、二人の儚い出逢い。
その宿命も知らず、恋に落ちた・・・。


 菊千代の指笛を聴き付け、黒毛の馬が駆けて来る。

 「頼むぞ!翡龍!」

菊千代の声に応えるように愛馬が首を降ろした。そして、その背に姫君を乗せ自分の胸に確と抱き、菊千代は手綱を引くと迫り来る夜の闇を急いだ。

 艶やかな黒毛の鬣が風に靡く。
春というのにまだ風は冷たかった。が、先を急ぐ者たちを護るように優しく包んでいた。
五分咲きの薄桃色の桜が美しい――

愛馬を走らせながら、時折、腕の中の姫君を覗う。
全てを失ったその悲しみと、残された己を待ち受ける運命・・・その重さに耐えてゆかねばならない。
姫は固く瞼を閉じたまま躰を寄せている。

 (・・・俺たちと同じ身の上・・・辛かったろう・・・・)

姫の姿に菊千代は切なげに眼を細めた。


村の手前まで来ると手綱を弛め馬を止めた。

「・・・豊香姫・・・・」

呼ばれて、硬く瞑っていた瞼を開く。

「先に見えるのが私が世話になった村・・・話を知ればきっとよくしてくれるはず。皆、優しい村人ばかりです」

そう言いながら菊千代は優しく微笑んだ。

 太い幹の桜が、村を護るようにして木戸口の辺りに活きていた。
その限りなく白に近い花瓣かべんの色の何と切ないものか・・・・

ゆっくりと愛馬を歩ませながらその桜の袂まで来ると、姫君が不安気に菊千代を見やった。
愛しい二つの眼が憂いに満ちて揺らいでいる。

言葉はない――
二人は、互いに唇を重ね合う。

刹那の風が桜の花びらを散らし、二人を纏って流れていく。
姫君の頬にそっと掌を添え菊千代は云う。

 「私は、忍びの者・・・民の者とは共に生きられぬ定め・・・必ず、必ず逢いに行きます。この翡龍に乗って――」

そして、菊千代は愛しい姫君を腕に抱いた。


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