蜩の軀

田神 ナ子

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忍びの境編

花に想いを 風に願いを

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 「菊千代殿、どうかを助けてやって下さい・・・姫君は、いつも泣いておられます・・・」

村のおさがそう告げる。

 度々、こうして村に預けた姫君の所へ逢いに来ていた。
蠟の灯りが静かに揺れる。

 「我々にはその姿を見せまいと、いつも笑んでいらっしゃる・・・しかし、あのまなこはとても寂しい眼をしておられます・・・・」

しわがれた重い声で長はそう言うと、俯いて膝に置かれた手許を見ていた。

 「・・・そうか・・・皆には申し訳ない事をして・・・すまない・・・・」

優しい村人たちの心を想い、菊千代は眼を閉じる。


 満ちたばかりの白い月に、儚い桜の花が皓々と輝いていた。
月明かりの夜を春の風が通り、畑一面の菜の花がやんわりと馨る。
村の端にある水車が清らかな音を奏でて動いていた。

 「・・・豊香姫・・・・」

優しい声が届いて、その姫君が待ちかねた眸で振り返る。
いつもと変わりなく愛しい微笑みで迎えてくれる。
何も言わず菊千代は姫を抱き締めた。何も言わなくても想うことはただ一つ・・・
――逢いたかった・・・
春の月の許、互いを確かめ合う二人は口づけを交わす。
僅かのときを愛しむように二人は抱き合う。

 「・・・菊千代殿・・・」

美しい黒い眸が菊千代を見つめながら語る――

 「“竹取物語”の話を知っておられますか?」

 ――竹から生まれた姫が、老夫婦に育てられ〝かぐや姫〟と名付けられた。
かぐや姫は美しい姫――と、都中で噂になり、都中の大名たちが姫を嫁に、と競ったという・・・しかし、美しいかぐや姫は、まことは月の天女であり、月の満ちた晩、大切に育ててくれた老夫婦に別れを告げて月へと還ってゆく――
昔々の物語・・・・

そう語りながら豊香姫は白い月を見上げる。

 「私の知らぬへと還ってゆかれる貴方を待つのが、私には辛うございます・・・・」

その眸に映る白い月が潤んでいた。

 「・・・・豊香姫――」

たとえ――添うて生きられぬ定めでも、貴方の傍に居たい・・・そう願う。

 「私は、貴方様がおなごであろうと、この想いは何一つ変わりませぬ・・・菊千代殿・・・」
 「・・・気付いておられましたか・・・・・」
 「・・・はい。私の眼は、節穴ではございませぬぞ・・・・」

そう戯けて言いながら鈴音のような声で笑う。

 ――そうだ・・・何も隠すことなどない。それを気付かせてくれた。
貴方を護りたい・・・それでいい。
菊千代は姫の眸に真っ直ぐに向き合うように微笑む。そして、今、ここに居る姫を離さぬようにと、優しく抱き締めた。
その腕の中で、

 「菊千代殿、この命、もし生まれ変わることができるのならば、いつの世も、この私を探し出して下さいますか?貴方様のお傍に添わせて下さいますか・・・?」

その切なる願いに応えるかのように、菊千代は強く、強く、姫を抱いて、

 「・・・きっと・・・約束致します――」

それが、最期―――


 「何故・・・っ!何故、護ってやれなんだ・・・その心を奪っておいて、お前は愛しい者を見捨てたのか?応えろっ、菊千代っ!」

怒りと切なさを剥き出しにして、直臣は哀しみに暮れる菊千代のその背中に向かって責め立てた。

 「やめろ・・・直臣!」

今にも食って掛かろうとする直臣の躰を美緑が羽交い絞めにして抑える。


 ――姫が、命を絶った・・・・・
春の温もりが届いた頃、儚い恋は終わりを告げた。

 ――いつの世も必ず貴方と廻り合い、添うて生きられることを約束して・・・・
何も怖い事はないのです。
また、貴方と廻り逢えるのですから――

そう姫君は信じて自ら命を絶った。

 「・・・俺は・・・俺は信じてる・・・!また必ず探し出してみせる・・・っ!」

哀しみに震える背を向けたまま、菊千代は飛び出して行った。

春の嵐が狂ったように草木を薙ぎ倒してゆく。風は、菊千代の心の痛みと同じに吹き荒れていた。
この風は、菊千代の想い――
荒れ狂う風を纏いながら、菊千代は唯々、愛馬を走らせたのだった。



 小川のほとりで愛馬の毛並みの手入れをしていた。
艶やかな黒毛の美しい馬だった。
手入れをしてもらいながら、その愛馬は安心して小川の水を呑んでいる。

 「ゆっくり休みな・・・・」

優しく愛馬に話し掛ける。

小川の水は陽に反射してきらきらと清らかな流れを湛えていた。
木洩れ日が草木を暖めている――冬の暖かな昼下がり。

 「・・・菊千代――ここに居たのか・・・・」

名を呼ばれて振り返る。

 「直臣か・・・どうした?」
 「・・・いや、大した用などないのだが・・・・」

菊千代が少し笑う。毛並みの手入れをしていた手を休めて岩に座った。

 「ここは落ち着くだろ?この場所が好きなんだ」

水面に反射する陽の光が少し眩しいようで、薄く眼を細めて菊千代は笑う。

 「お前は女なのに、どうしてそうも男勝りなのだ・・・・」
そう言って直臣は苦笑する。

 「生まれつきだよ!」と、負けじと言い返す菊千代は、また立ち上がり、草を食む愛馬を優しく撫でた。

 「一つ尋ねてみたい・・・其方たちの操るは、其方たちにとって武器となるのか――?」
直臣は真っ直ぐな両眼を向けて問う。

一瞬、菊千代の手が止まり何かを想う――
そして、愛馬の顔を撫でながら、

 「直臣、それは違うぞ・・・俺たちの呪術はんじゃない――風や水、空、光、そして真・・・全ての自然、この世に生けるものの力が俺たちに力を与えてくれるんだ。況してや武器なんかじゃない。この大地と共に生き、大切なものを護るために授かった〝術〟なんだ・・・・」
しっかりと諭すように応える。

 「それに・・・」と付け加えて、菊千代は愛馬に軽々と跨ると、凜とした笑みを見せて云う。

 「俺たちは、ただ眼の前にある大切なものを護りたいだけ・・・・戦う為に生きてるんじゃない――」

そして、柔らかな風の如く馬を走らせて行った――

愛馬と走り、風になる菊千代の姿を直臣は見つめていた。


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