58 / 67
20話
虚無の彼方に
しおりを挟むこの部屋の静寂がゆっくりと穏やかに和らぐ――
主の帰りを待っていたかのように、部屋の隅々に優しい空気が広がっていく。
いつものように、いつもの流れで、彼はコーヒーを淹れていた。
部屋中に、深いコーヒーの香りが漂う。
「・・・ん・・・あ・・・帰ってたんだ。ごめん、寝てた・・・」
少し掠れた声で彼女はそう言う。
彼の帰りを待って、いつの間にかソファで眠っていたようだ。
それもそのはず――、
昨夜から一睡もせず、帰りを待っていたのだから。
微かな物音とコーヒーの香りで彼女は目覚めた。
ゆっくりと躰を起こすと、茶色のさらりとした髪をくしゃくしゃとかいた。
「・・・ごめん、起こしたね・・・・」
咲弥は控えめな笑顔を浮かべ持っていたカップを菊千代の方へ差し出した。
それから彼女の座っている向かい側のソファにゆっくりと腰を降ろしながら、
「・・・保さんは?」
一息つく間もなく、そう訊ねる。
「・・・まったく・・・連絡ぐらい入れなよ。心配してたんだからね。」
ため息混じりに菊千代はそう言いながらカップに手を伸ばすと咲弥を少し睨んでいた。
「ごめん・・・ちょっと手間取ってしまってね・・・・。」
菊千代の視線に苦笑いしながら誤魔化し気味に謝る。
そんな彼の様子に気づいた菊千代は大きく一息つくと、上目遣いで軽く咲弥を睨んで言う。
「・・・その手の疵・・・・頼むから、無茶しないで。」
「・・・・隠し事はできないな・・・・」
軽く両眼を伏せて咲弥は微かに笑う。
――あの夜、咲弥の援護をしていた菊千代に彼が言い告げた。
『あの娘を早く――!』
咲弥の声に、はっとなった。
自分にできること・・・
仲間を信じ、大切なものを守ること。
(どうか、無事で・・・・!)
巨大な〝弧鬼〟に一人で立ち向かう咲弥の背中に祈りを込めて、菊千代は美緒たちの救出に向かった。
咲弥はコーヒーを一口飲むと、先程とは違う抑えた口調で、
「・・・思っていた以上に奴らは手強くなってきている。次はどんな手を使ってくるか・・・油断はできない。」
呟くように言ってカップをテーブルに置いた。
そして、軽く前髪を掻き上げてから菊千代を見やってまた訊ねる。
「保さんは――?」
「・・・あ、あぁ・・・『ちょっと出てくる』って、ボール持って出てった。場所までは聞いてない。」
咲弥はテーブルに置いていた眼鏡を手に取り静かに立ち上がって、
「・・・分かった・・・・」
それだけ言うと、またこの部屋からいなくなってしまった。
(・・・咲弥・・・あんた、気づいてる――?)
――保さん
そう名を呼んだ。
愛しい人の名を。
咲弥の行った跡を見やりながら、彼女は憐れみにも似た切ない微笑みでいた。
――逢いたい。
あれから、たった一晩・・・・
長い一晩・・・・
――声が聴きたい。
何百年もの時を待つより、
たった一晩の時の長さ・・・・
――傍に居たい。
その声を聴いて、名を呼んで、
吐息の触れる距離に居て・・・・
駐車場へ下り立った咲弥は素早く愛車に乗り込む。
シャツのポケットに入れていた眼鏡を取り出し慣れた手つきでかけると、その手で前髪をかき上げた。
柔らかに下りてくる前髪が眼鏡越しに流れる。
そして、深く息を一つ。
多分、予測はついている。
愛車を走らせる彼の表情に微かな翳りが浮かんでいる。
また・・・あの人を怒らせた・・・・。
きっと・・・怒っているだろう・・・。
自分勝手な振舞いで、幾度、愛しい人を傷つけるのだろう。
ハンドルを握る彼の指先に力が込もる。
この命――
愛しい貴方を守るためなら、失ってもかまわない。
尽きるまで愛しい貴方を守り続けようと、傍にいようと、宿命のままに生きてきた。
それでよかった。
それでよかったはずなのに――
この心の中にある不安は・・・?
願わくば、この命あるかぎり貴方の傍にいたい。
愛しい貴方の髪に触れ、声を聴き、その眸を永遠に見つめていたい。
(・・・・保さん――)
自分のマンションを出て、徒歩だとすれば・・・
一番近い運動公園を廻り探していた。
数ヶ所当たったが、その姿はなかった。
国道を走る左手側、
やや下り入った所に、適度なほどの広さのある運動公園が見えていた。
彼は慣れた手つきでハンドルを切り、少し細くなった道路へ入り込んだ。
左側に、ちょうどその運動公園が見えている。
入り口の軽い傾斜に沿ってゆっくりと車を入れる。
開けた先にニ、三十台は余裕で停められるだろう、整えられた駐車場が設けてあった。
今は、停めてある車もなく閑散としている。
その一角に、彼は静かに車を停めた。
陽が落ちた山々から吹いてくる風が、保の柔らかい髪を揺らす。
薄暗くなってきた空を仰いでいた視界に、
見覚えのある黒い車が。
男は車からゆっくりと下り立った。
視線の先に、愛しい人の姿が。
ずっと、逢いたかった――
真っすぐに保を見つめる男の、胸許まで開いたシャツを風が揺らしていく。
保の濃紺の眸に、男の姿が映る。
二人の距離を、湿り気を帯びた風だけが流れていく―――
交わす言葉はない。
見つめている互いのその眸が、想いを含んでいた。
何も言わなくていい。
見つめている互いの姿に、安心した。
保はくしゃ、っと髪をかいて、つま先で軽く足許のボールを蹴り上げた。
それを小脇に抱えると駐車場へ向った。
車の傍らに立っている咲弥の横を、保は素通りしていく。
「・・・・・・・・・。」
ちょうど咲弥の停めた車の右側に水道が設けてある。
そこまでいくと持っていたボールを足許へ置き、水を飲んだ。
汗で濡れたTシャツが、背中に張りついている。
「ふ―――・・・・・」
今度は頭から水をかぶり始めてしまった。
動いた後のほてった躰に、水が気持ちいいのだろう。
後先考えずに思い切った行動をする――、
(・・・この人は・・・・・)
咲弥の口許が微かに笑んだ。
それから、車の後部座席からタオルと着替えを取り出すと、保の傍へ歩み寄った。
気配を感じて、びっしょりと濡れた髪をニ、三度振り、顔を上げる。
そして、水場の縁に軽く腰かけると、張りついたTシャツを脱いだ。
灼けた肌が艶を纏い、露になる。
その腹部と腰の辺りには、今もなお、生々しい疵痕が残っていた。
それを見つめる咲弥の眉宇が、微かに動く。
愛しい人を傷つけた――
この命に代えても守ろうとしていた自分が、その躰も心までも傷つけてしまった。
自責の念が咲弥の表情を曇らせる。
咲弥は手にしていたタオルと着替えをそっと差し出す。
「・・・サンキュ。」
照れくさそうにポツリと呟く保の、それなりの礼の言い方だ。
そう――分かってる。
ぶっきらぼうでいて、真っすぐで。
意地っ張りでいて、純粋で。
(だから、可愛い人なんだ・・・って言ったら、また怒るかな――?)
そんなことを思って、ひとり可笑しくなって微かに笑う。
「・・・なに、笑ってんだよ?」
咲弥の様子を横目に見ていた保が、不快に思って少々膨れっ面になっている。
「・・・いえ――、何でもありません。」
また誤魔化して、大人の笑みを返す。
「・・・・・チッ。」
ちょっぴりふてくされて、受け取ったタオルで大ざっぱに髪を拭いた。
でも――、
なんだろ・・・いつになく、咲弥の表情が重く感じた。
誰もいない広々としたグラウンドを見渡している咲弥をちら、と見る。
変わらず――落ち着いた優しい咲弥はいるのに、気が薄れてる、って言うかな?
疲れてんだろ・・・
そう思いたかった。
けど、
頭ん中に、亮介――美緑から聞かされたことが引っかかってた。
『力を使えば使うほど橘 義明の躰はもたなくなる』
自分を守ろうとしているのだろう、この男は。
その命を惜しまず、この自分のために傷つくのだろう、この男は。
どうして?
それが宿命だから――?
その魂を失った軀はどうなる?
『ごめんな、助けてやれなくて・・・・』
この言葉は、そう、咲弥に。
俺はしばらく、グラウンドを見てる咲弥の横顔を見つめてた。
繊細でキレイな横顔なんだ。ほんと。
そんな横顔を隠すように前髪が揺れてる。
束ねた髪は、少し強くなってきた風になびいてた。
タオルを肩に下げて、ちょっと上目がちに、
「・・・咲弥、お前、休んでねぇんだろ?」
そんなこと言う俺にちょっと咲弥は驚いた風で振り返る。
合わせた視線に、言葉はない――
咲弥が口を開こうってしたとき、
「・・・もう・・・大丈夫なんて、言うなよな・・・・」
また、虚勢を張って強く生ようとする。
もう、自分を誤魔化さなくていいから。
「・・・保さん・・・・・」
保の真っすぐな濃紺の眸に、咲弥は何も言えなかった。
純粋な心で、素直な想いのままにこの自分を見つめる彼に、自分は欺いてはいけない。
そう――
今、眼の前に生る貴方を、愛しいと想う。
静かに伸ばした繊細な指が、優しく保の頬に触れた。
頬に触れた指先から、掌から――温もりを感じる。
今、現在に生きている、今、これが現実。
今、ここに在る温もりが愛しい。
そこに、何も無い。
何も考えることなど無い。
傍にいたいと思うから――
傍にいてほしいと思うから――
「・・・・帰りましょう・・・・雨が来る――。」
触れていた指先をそっと離し、穏やかに笑んで咲弥はそう告げた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない
砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。
自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。
ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。
とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。
恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。
ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。
落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!?
最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。
12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる