華と毒薬

アザミユメコ

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第二章 乱れ桜に幕が下りる

二十九 憶えているのは薫りだけ

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「これ……」

 その女性は帯から一枚の紙を取り出し、小幕こまくの前に置いた。

「ハツネ姐さん、ほんとはあんたにこれを持たせてやりたかったと思うんだ。御守おまもり袋を縫っていたから」
「もしかして、この袋ですか?」

 懐から桜の刺繍が入った布切れを取り出すと、娼婦は頷いた。
 空っぽだった御守の中身を、ずっと置いておいてくれたらしい。

「でも、亡くなってすぐ店主に隔離した部屋ごと慌ただしく片付けられてしまって、あんたもいつの間にか捨てられていた。私もまだ十四、五の娘だったから、なにもできなくてごめんね」

 彼女の気まずそうな態度から、すでにこの世にいないのは想像がついていた。
 存在さえ今知ったばかりなのだから悲しいわけではないが、居心地が悪くなるような、少しばかりがっかりしたような、なんとも言えない気分だった。

「……病気で?」
「そう。もともと体が強いほうじゃなかった。あんたにも似てしまって、いつも謝ってたよ」

 差し出された紙をそっと開く。花の香が鼻腔をくすぐった。
 これが母の匂いなのかと一瞬考えたが、昔の香がいつまでも残っているはずがない。娼婦たちの香油や化粧品なのだろう。
 そう理解しているのに、なんだか懐かしいような気がした。

「明治三十七年三月二十日 命名──」
「ほんとの名前、あったのか?」
 
 斜め後ろに座っていた百夜ももやが、そわそわとしながら尋ねてくる。

「みたいですね。……あれ、三十七年生まれってことは、僕、今年で十九歳? 十八歳じゃなくって?」
「私が十のときに生まれたんだ。明治三十七で間違いないよ。他の子供と比べて、随分と小柄だったから勘違いしたんじゃない?」
「適当に数え始めたからなぁ。なーんだ、のぎと同い歳だったんだ」

 なにをするにも年功序列が厳しかった浮浪児たちの習わし。
 男色の真似事も盛んに行われていたが、抱くのは年上が絶対だった。

 同じ歳だとわかっていれば、芒ともっと対等な関係でいられたのだろうか。一方的に守られることも、支配されることもなく。
 そうであれば、ここまでこじれなかったのかもしれない。
 でも、いまさら考えてもしかたがないからやめた。

「あの、お母さんが死んだのって僕がいくつのときですか?」
「四つか、五つだったと思う」

 幼いには違いないが、その歳でまったく記憶がないものだろうか。
 考え込んでいると、彼女が言った。

「あんた、生まれつき心臓が悪かったんだよ。ずっと発熱や発作を起こしているような状態で、ほとんど布団に寝かされたきりだった。蝋燭ろうそくもろくになかったから、朝も昼も真っ暗な部屋でさ。姐さんがせめて花だけでもって、近所で摘んできたのを飾ってたけど、そこだけしか色がないみたいな部屋だった」

 真っ暗な部屋。
 かすかに記憶が揺さぶられる。
 苦しくて、いつも泣いていた。でも、すぐそばで花のいい香りがした。

「産まれたとき、産婆は医者にも治せない病だって言ってた。どちらにしろ、酌婦の子が医院なんて連れてってもらえるわけがないけどね」
「ああ、それで……」
「そう。だからハツネ姐さんが亡くなったあと、すぐ口減らしに捨てられたんだ。でも、それまではちゃんと守られてたよ、あんたのお母さんに」
「そっかぁ」

 憶えてなくて、ごめんなさい。
 写真もなにもない。顔も声も知らない母に、心のなかで謝罪した。
 ごめんなさい、そして、ありがとう。

「でも、よかった。喧嘩ができるほど丈夫に育ったみたいで。産婆は長くても二十までは生きられないだろうって言ったんだ。元気そうな今だから言えるけどね」
「ありゃ。今が十九ってことは、見立てどおりなら、そろそろ時間切れだったんですね」

 それを聞いた志千しちと百夜が、後ろから小幕を抱きしめながら言った。

「よかったなぁ、元気になって。もう風邪ひくなよ」
「きちんと食って寝て、もっと頑丈になれ。喧嘩もだめだ」
「あはは、ふたりとも、髪の毛くすぐったい」

 笑いながら青年たちの抱擁を受けていたが──
 意識はどこかべつの場所に飛んでいったみたいだった。

 心臓がばくばくと鳴る。

 気づかないでほしい。でも、わかっている。
 あの人は察しているはずだと。

「小幕、おどれ……」

 声のしたそちらを振り返るのが怖かった。
 きっと傷ついた顔をしているから。

 指先から足の先まで、全身がゆるく痙攣するみたいな動悸がまた襲ってくる。

 自分の体の一部のはずなのに、自分のものではないような、ままならない感覚。
 子供のから何度も味わってきた苦しさ。

 医者になんてかからなくても、自分でも気づいてしまった。
 この肉体のなかに、もうすぐ爆発する爆弾を抱えている。


 ***


 初めて自分の名を知った。

 百夜が教えてほしそうに落ち着きをなくしていたが、まだ自身でも飲み下せていなかったため、もらった紙を誰にも見せずにそっと閉じた。

 すでに薬も抜けているし大丈夫だと断ったのだが、念のため医院に連れていくと桜蒔に言われた。
 百夜たちとは分かれて六区に向かう。

 隣を歩いている桜蒔は静かだった。
 どちらもお喋りなため、ふたりとも黙っている時間はめずらしくて変な感じだ。

 前回一緒に歩いたときからまだ一日しか経っていないが、決定的に漂う雰囲気も、纏う空気も違う。
 やっと想いが通じたのだから、もっと話したいことがあるはずなのに言葉が出てこない。

 あのとき「わしのところに来い」と、たしかに言われた。
 しかし、意識が混濁していた最中である。
 まさか聞き間違いとか、勘違いじゃないかとだんだん不安になってきた。

 ──よし、もういっかい確認しよう。

 というのは口実で、何回でも聞きたいだけなのだが。

 隣を盗み見ると、普段あまり開いていない感じの瞳はまっすぐに前方を射抜いていた。

「ね、オージさん。ちょっと寄っていきません?」

 立ち止まって、神社の鳥居を指さす。
 男女の逢引の定番スポットのため、小幕の言わんとしていることはすぐ伝わったようだった。

「いや、医者かかれや」
「薬のせいかな。あれって媚薬の効果もあるらしいじゃないですか。収まらないんですよ、体の芯の熱が。医院に着くより先に鎮めてくれないと死んじゃうかも」

 薬のせいは嘘だ。当たり前に隣にいてくれるようになったこの人のせいで、高まりが収まらない。
 本当に自分のものになったのかと、今すぐに確かめたくなった。

「よいしょっと」
「──んなっ!?」

 返事を聞く前に桜蒔を肩にかついで、短い階段をのぼっていく。

 幸い先客はいなかった。
 境内の大きな桜の花はとっくに散って、新緑の葉桜が風にそよいでいる。

 自分よりずっと年上の男を下ろしつつ、今度は横抱きにして、自分の胡座あぐらのうえに乗せる。
 木の幹にもたれかかりながら、地面に座った

「恥ずい恰好させんな! おどれが十八じゃろうが十九じゃろうが、たいして変わらんくらいわしは大人!」
「あは、大人なのにこんな恥ずかしい恰好で吠えてる。かーわい」
「ぶちのめすで!」

 足をばたつかせて暴れて始めたが、小幕に比べれば驚くほど非力だ。
 子猫をあやすように抱きしめながら、優しく動きを封じる。
 力では敵わないと諦めたのか、桜蒔は諦めた表情で頭をこてんと小幕の首元に預けてきた。

 またしても空気が静寂に包まれる。
 気まずさなどはなくて、心は平穏だった。
 さっきまで銃を構えたり、殴り合ったりしていたのが嘘みたいだ。

「じつは、僕の本名、オージさんとちょっと被ってたんですよねえ」

 澄んだ明るい緑色で覆われた木を見あげながら、つぶやく。

「なんじゃ、春生まれの宿命か。なんとなくわかったわ。戸籍に登録する名前はどーする? 小幕でも本名でも、どっちでも」
「そういえば苗字ってどうなるんですか?」

 ふと気になって訊いただけだったが、予想外の答えが返ってきた。

「わしが戸主こしゅの籍に入れるけえ、小山内おさないになる。続柄は弟にでもしとくけど」
「……オージさんの戸籍に!? それってつまり求婚ですか!?」
「続柄は弟って箇所、聞いとった?」
「まさかの、小山内ファミリーの一員になるんですね、僕……」
「なんじゃいそれ」

 どんな形でも、傍にいられるならよかったのだけれど。
 まさか家族になれるなんて、ほんの昨日までは思いもしなかった。

「戸主って、家族全員の権利をぜんぶ握ってる代わりに、死ぬまで責任持たなきゃいけないんでしょ。お母さんもいて、蝶子ちゃんも引き取ってるのに、オージさん甲斐性ありすぎ」
「おう、まだまだ現役で稼ぐで。シッチーに追いつかれるんは悔しいけえ。『松柏しょうはくキネマの劇作家』だけで終わる気もないし、いずれ『世界の小山内桜蒔』になったるわ」

 絶対に手が届かないはずのすごい人。
 それは変わっていないのに、こうして自分の腕のなかにいてくれる。

「小山内なら、語呂は両方悪くないな。どうしよう」
「どっちでもおどれはおどれじゃ。でも、一生もんじゃけえ後悔ないように決めんさいよ」 
「じゃあ……オージさんに呼ばれて嬉しいほうがいいです。抱かれてる最中に呼んでみてください」
「なんで最中……」
「だって今から始めるもん。僕の本当の名前、知りたいでしょ?」
「いや、いい」
「興味なし!?」 
「訊かんでもわかった。わしゃ名探偵なもんで」

 風が新緑を揺らしている木陰で、そっと耳元に口づけをした。
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