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その1. ポメラニアンとピレネー

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 クレームをつける気は無いことを表すため、あえて微笑みながらそう言うと、美晴は今度こそ歩き出した。だが店を出たところで、すぐに後ろからの声に捕まってしまう。

「ならせめて、ハンカチ使って下さい」

 振り返ると、井草が美晴を真っ直ぐ見つめていた。

「でも」
「使ってください」

 ぐいっと、手にハンカチを押し付けられる。そしてそのまま、拒否されまいとするかの様に手を包み込まれた。

「ハンカチ、返してもらわなくていいんで」
「手……」
「え?」

 無意識の行動をどう指摘すればよいか迷い、美晴が握られた手を見つめる。その視線を追うように井草も下を向き、己のしていることにようやく気が付いたらしい。ビクリと身体が跳ね、勢いよく手が離れてゆく。

「失礼しました。……やることなすことさっきから俺」

 美晴とは二十センチ以上身長差があるにもかかわらず、最大限にうつむいているため井草の表情が見えない。でもその肩の落ち具合から、叱られてシュンとしている牧羊犬の絵面が浮かんで、つい笑ってしまった。

「あの、来週、この時間にここに来られますか?」

 ふと思いついたことがあって、笑顔のまま井草に聞いてみる。

「はい?」
「その時までにこのハンカチ、洗濯してお返ししますので」
「でもそれじゃあ……」
「大丈夫?」
「こいつなら、大丈夫です! ちゃんと来させますので」

 井草に比べはるかに感情表現が豊かな柿村が後ろからひょっこりと顔を出し、そう気楽に請け負った。多分、井草にだけ任せてはおけないと思ったのだろう。

 このままこの二人を眺めていたい気持ちもあるが、そろそろ美晴の昼休みは尽きかけていた。それにいくら目立たないといっても、襟元にコーヒー染みが出来ているなら、早く落とさないといけない。

「じゃあ、来週ここで」

 美晴はペコリとお辞儀をすると、足早にオフィスへと戻って行った。



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