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その9. 今日はツイてない

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「私は冷やし中華、お願いします」

 店員を呼んで注文すると、やはり無言でうなずかれ厨房へと去っていく。そこから聞こえる、注文を通す声が尖っていた。返答する店主の声も荒々しい。日本語ではないので何を言っているのか分からないが、とにかく二人が良好な関係でないことが伺える。

「夫婦、喧嘩ですかね」
「多分……」

 またもや顔を見合わせ、小さな声で話す。先に食べ終わった他の客がいそいそと去っていくのを眺めていると、注文した品が運ばれて来た。汁が零れそうな勢いで置かれ、慌てて受け取る。

「いただきます」

 そう言って食べ始めたが、しばらくすると厨房で怒鳴り合う声が聞こえてきた。つい聞き耳を立ててしまうが、あいにくなんと言っているのかは分からない。だが険悪な雰囲気が加速していくのはよく分かった。こうなると、あとは時間との勝負だ。二人して早食い大会に参加しているかのように急いで食べていると、金属が打ち付けられる様な派手な音が厨房から響いた。

「わぁ」

 思わず小さく叫んでしまい、慌てて美晴は厨房に視線をやる。

「中華鍋、床に叩きつけた?」
「多分」

 店主の行為をなじるように、女性の声がより甲高くなる。ここまで来ると、もはや店は舞台のようなものだ。店の客全員が観客となり、食事をしながらその劇を見守るしかない。なんとか食べ終えた頃、厨房から怒りの形相で店員が出てきたので、会計をして店を出た。

「食べた気が、しなかった……」

 肩で息をついて美晴がつぶやく。まだ喉元に冷やし中華が残っている気がする。

「結構美味い店なのに、全然味がしなかったな」

 苦笑交じりで健斗が返す。その言葉にはっとして、美晴が慌てて頭を下げた。

「ごめんなさい。私が安易にあそこに入ろうって言っちゃったから」
「美晴さんのせいじゃないですよ。それ言うなら、そもそも俺が店の予約を間違えていたせいだし。俺もすみませんでした」

 互いに謝り顔を見合わせると、次第に気の抜けた笑いが沸き起こってきた。

「……なんか、今日はツイてない日でしたね」

 最初の店は予約をミスし、次の店では夫婦喧嘩に巻き込まれる。連続して体験すると、流石に精神的疲労は大きい。けれど健斗はのんびりと感想を口にした。

「激しかったですね。あの夫婦喧嘩」
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