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第3話「ほーら、主導権はこっちだよ」
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「昇、一緒に泳ご」
夏海ちゃんが俺に白い腕を伸ばす。
「仕方ねえな」
俺はその腕を掴む。
夏海ちゃんが笑う。
なーんてな。
はぁー
夏海ちゃんのスクール水着姿を想像しながら吸うタバコは最高だぜ。
胸デカかったし、ケツの形も綺麗だったからな。まあ、体操服のときに見ただけだけど。スクール水着なんて来てたらさぞ眼福だったことだろうよ。
あー、女に生まれてきたら見放題だったのによ。ちくしょー。おふくろが俺を男に生んだせいだ。まったく。
初夏の早朝の晴れ渡った空に吐いた煙が上っていく。
もうプールの授業が始まっている季節だから、水は綺麗で点々と光っている。
「夏海ちゃん」と試しに呼んでみる。
『ヴィーナスの誕生』みたいに出てきてくれないかな。
いや、出てくるわけねえか。
「I miss you, my Venus」と呟く。
「昇っ」
今まさに呼ばれたくらい鮮明に、夏海ちゃんが俺を呼ぶ声を思いだせる。
ああ、ずっと呼ばれてられたらな。
「夏海ちゃん」
遠くから学生の声が聞こえてきた。そろそろ時間か。
さすがに学校のプールサイドでタバコ吸ってんのばれたらヤバいからな。
プールサイドから立ち上がって、携帯式の灰皿にタバコを入れる。
さて、今日も仕事を頑張るとするか。
「撮れた、今の?」と声がする。
聞き覚えのある声だ。
「うん、まあ、撮れたけど」
ちくしょー、最悪だ。
振り返ると、この学校の制服を着た男女が、こちらにスマホのカメラを向けて立っている。
女の方がニヤリと笑う。
「どうしようかな、この映像」
「久次郎」
バッティングセンターに行った翌日の昼休み、僕が購買に行こうと立ち上がると、かのえさんが声をかけてきた。
「購買いく?」と彼女が尋ねる。
「うん」
「じゃあ、ついでに外でご飯食べよう」
「うん、いいよ」
やったー。まさか、いきなり一緒に昼食を食べられるような関係になれるとは思っていなかった。
僕はかのえさんと並んで購買へ向かっていく。
かのえさんの左手の親指には絆創膏が巻かれている。
「それ、大丈夫?」僕はその絆創膏を指さして言う。
「うん。だれでも最初はこういうふうになるんでしょ」
「ああ、そうかも」
「いちいち絆創膏なんて貼らない方が球児っぽいと思ったんだけど、お母さんが巻いていけって」
「へー」
「でも、こっちの方が子規っぽいからいいかな」
僕たちは渡り廊下を歩いていく。生徒の多いこの高校では、道を挟んで校舎がいくつもあって、その一部がこうして渡り廊下で繋がっている。この渡り廊下の先が購買だ。
僕がパンを買っている間に、かのえさんは自動販売機で紙パックのコーヒー牛乳を買っている。弁当は教室から持ってきていた袋の中に入っているのだろう。
「下のベンチに行こう」とかのえさんが言う。
この高校は屋上にもベンチが置かれているが、そこはいつも混んでいる。それに比べて校舎の横にあるベンチはいつもすいている。
やっぱり今日も誰もいなかった。
僕がベンチに座り、その隣にかのえさんが座る。
遠くから生徒の声が聞こえてくるのと、近くの自動販売機がうなる音以外はなんの音もしない。ここでの僕たちの会話は誰にも聞かれないだろう。かのえさんもそう思ってここに来たのだと思う。
なんとなく、二人だけというだけでわくわくする。
「昨日すこし話したけど、チームメイトに一人当てがある」かのえさんは弁当箱を開けながら言う。
「ああ、言ってたね」僕はかのえさんの弁当を見ながら言う。
肉が中心の弁当と、白米のおにぎりだ。細身だけれど、しっかり食べるのだな、と思う。
「でも、多分あんまり協力してくれないから、ちょっと強引な手段でいこうと思う」
「え?」
彼女は大きく口を開けておにぎりを食べる。
それから、口に手を当てて
「早くチーム組みたいから、背に腹は代えられないよ」
僕はパンを食べながら話の続きを聞く。
「明日の朝、早く来れる?」
「どれくらい?」
「六時半に駅」
「いいよ」やけに早いな、と思う。多分、運動部の朝練でも、こんなに早くはないだろう。
「じゃあ、それで」
「うん」
「それとさ」
彼女はまた大きく口を開けて肉を食べる。
なにか急いでいるのだろうか。
「私、ピッチャーやりたいから、キャッチャーやって」
「うん、分かった」キャッチャーはやった事がないから、勉強しないとな、と思う。
彼女はコーヒー牛乳を一気飲みすると立ち上がる。
「じゃあ」彼女は白い手のひらを僕に向けるとどこかに行ってしまう。
もう少し一緒に食事ができたらよかったのだけれど、仕方がない。
僕もパンを食べ終わって、腕時計を見る。
まだ、授業が始まるまでには時間がある。かのえさんのペースに乗せられていたからか、いつもよりも早く食べ終わった。
図書室に行って、キャッチャーの勉強でもするか。
その日の夕方、またかのえさんと帰ろうかと思っていたが、彼女は一人で帰っていってしまった。
翌朝、学校に向かう電車に乗り込むと、かのえさんと出会った。
結構混んでいたけれど、なんとか隣に行くことができた。
「おはよう」と声をかけると
「おはよう」と返って来る。
僕は思わずあくびをする。
「できるだけ、毅然とした感じにしてて。あくび禁止」
「え、なんで?」
「相手は手ごわいから。主導権はこっちだって分からせてやらないといけない」
「手ごわいって、どんな感じ?」
「会ってみれば分かるよ。ほんとにヤバい人だから」
「へー」ヤバい人ってどんな感じだろう。
それに、なんでこんなに朝早くに行く必要があるのだろう。まあ、会ってみれば分かるか。
「うーん、上手くいくかな」かのえさんは窓の外を眺めながら言う。
電車が学校の最寄り駅に着く。
下りるのは、僕たちと他に数人のサラリーマンだけだ。同じ学校の生徒は見当たらない。
僕はかのえさんの後をついて改札を出る。
「一応、防犯カメラの位置確認したけど、気づいたら教えて」
学校に歩いていく道中でかのえさんが言う。
「なんか、悪い事するの?」
「私たちはしないけど、相手はしてるから。もし私たちが先生に見つかっちゃうと、相手も見つかっちゃう。で、そうなると、結構困る」
「分かった」
僕らはいつも通り、表のエントランスから学校に入る。
「あれ、早いね」と教師らしい中年の男性が話しかけてくる。
見たことはないから、僕たちのクラスに授業をしに来ているわけではなさそうだけれど、ここで教師に不審がられるのは都合が悪い。
どうしようか、と僕が考えるよりも早くかのえさんが答える。
「自然科学部で、トカゲにエサあげないといけなくて」と言って、微笑む。
綺麗だけれど、僕は本当の笑顔を知っているから、これは偽物だと思う。
「お、そうか。大変だな、ご苦労さま」
僕とかのえさんは会釈をしてその人物の横を通りすぎる。
「上手くいったね」と僕が言う。
「うん」かのえさんはニヤリと笑う。
そうそう。僕はその表情が好きだ。
かのえさんは上へ続く階段をそれて、別のドアの方に向かう。その先は昨日昼食をとったベンチの近くだ。
かのえさんはそのベンチを通過する。
自動販売機の裏へ回る。
僕もついていく。
そのまま並んだ自販機の裏を通り、それから垣根の裏を歩いていく。
目の前はコンクリートの壁、その上はプールになっている。
「こっち」かのえさんはそのコンクリートの壁に沿って歩いていき、上へあがる階段の前に出る。
かのえさんが立ち止まる。
入り口には当然、防犯カメラがついている。
「防犯カメラだ」と僕は言う。
「あれは多分大丈夫。この時間だけ切られてるから」
なんでだろう。
「荷物、この辺に置いてこう」かのえさんは壁際にリュックサックを下し、スマホを取り出す。
僕もかのえさんの隣にリュックを下す。
「合図するまで、これで撮って」と言って、彼女は僕にスマホを渡す。
「分かった」
「いい?」
「うん」
「じゃあ、カメラ回しながらついてきて」
彼女は上っていく途中で、手を前の段について止まる。
「あれ、撮って」
僕はカメラを向ける。
ウソだろ、学校にこんな奴がいたのか。
白いシャツに紺色のベストを着た大人が、プールサイドに座ってタバコを吸っている。
少し癖がある髪を真ん中で分けていて、顎には無精ひげが生えている。年齢は40くらいだろうか。背も高いようだし、肩幅も広い。ガタイのいい男という印象だ。ただ、目元に疲れた雰囲気が出ていて、それが余計に妖しい雰囲気を醸し出している。
ほんとにヤバい人だから、というかのえさんの言葉を思い出す。確かに、これは本当にヤバい人だ。そもそも、この学校の関係者なのか。
それよりも、かのえさんはこの人を自分のチームに入れようとしているのか。
そう思ってかのえさんを見ると、彼女はじっとその男を見つめている。
タイミングを待っているのだろう。
遠くから生徒の声が聞こえてくる。朝練に来た運動部だ。
すると、男は携帯用の灰皿に吸っていたタバコを入れて立ち上がる。
かのえさんが僕の方を見て頷く。
もう録画を止めて、という意味だ。
かのえさんは立ち上がって階段を上っていく。
もし何かあったら、かのえさんを守らなければならないだろう。
「撮れた、今の?」かのえさんが尋ねる。
「うん、まあ、撮れたけど」僕はかのえさんにスマホを渡す。
男はこちらを向いて、一瞬驚いた表情をした後でにらみつける。
怖い。
毅然として、とかのえさんの言葉を思い出す。
「どうしようかな、この映像」かのえさんはニヤリと笑う。
「……」男は表情を変えずに睨みつける。
「ねえ、青池先生」かのえさんもじっと男を見つめる。
先生、この学校の教師だったのか。ヤバいだろ。
青池先生は僕の方を向く。
僕もまっすぐその男を見る。
「俺も、どうしようかな、お前らを」と青池先生が言う。
「主導権はこっちだから」とかのえさんが言う。
「そうか? その細い男とお前だけだろ。ここに沈めるなんて簡単だぜ?」
青池先生は無精ひげの顎でプールを指す。
「防犯カメラも切ってあるしな」
本当にヤバいだろ、この人。
「動画、お母さんに送った」とかのえさんが言う。
かのえさんも容赦がない。
「まじか」
「まだ既読ついてないから、なんとでもなる」
「……」
「ほーら、主導権はこっちだよ」
「はぁー」青池先生は下を向いて、その場でぐるりと一周回る。
「うーん、降参だ」両手を上にあげる。
かのえさんは頷く。
「目的はなんだ? 成績か?」
「それは足りてる」
「まあ、お前の事だからな。じゃあ、なんだよ?」
かのえさんが口を開く。
でも、その前に確認したいことがある。
「あの、いい、ですか?」僕は恐る恐る会話を遮る。
「誰だ?」
「かのえさんのクラスメイトの早田です」
かのえさんが僕を見る。
「ここでなにしてたんですか」
「タバコ吸ってた、普通に」
「なんで、プールで」
「女子のスク水姿想像しながら吸うタバコがウマいから」
ヤバい、会話をすればするほどヤバい人だという事が分かる。
それに、女子のスク水を想像してたって、あまり女子を近づけないほうがいいだろう、この人に。
「かのえさん、やっぱり危なすぎるんじゃ」
「大丈夫。この人が想像してたのは、どうせ昔の好きだった人だから」
「はー、よく知ってんな、ほんとに」
「ここの卒業生でしょ」
「で、何が、目的だ?」青池先生はふらっと僕たちの近くに来る。
「青池先生、小、中、高と野球部だったよね?」
「まあ、そうだけど」
「私のベースボールチームに入って」とかのえさんが言う。
「ベースボール?」
「うん。ちょうど、外野手が足りないんだよね」
「なんで野球なんだよ」
「それはまた後で話すよ」
「……」
「ほら、どうする?」
「はぁー。分かったよ。試合出ればいいんだろ」
「練習も付き合って」
「はいはい」
「じゃあ、送るのやめてあげる」かのえさんはさっき母親に送った動画の送信を取り消す。
「あー、ちくしょう、めんどくせぇことになっちまったなぁ」
青池先生は本当にめんどくさそうに頭の後ろをかく。
「かのえさん、本当にいいの?」
「うん。こんな感じだけど、実はベースボール大好きだから」
もちろん、かのえさんが試合をしたいのなら、させてあげたい。でも、チームメイトが増えるのはなんだか複雑な感じがする。
バッティングセンターの練習とかでも、この人も来るのだろうか。
かのえさんはそんなことを全く思わないようで、楽しそうにどんどん話を進めていく。
「紹介するね、彼は、私のチームメイトでクラスメイトの早田久次郎。ポジションはキャッチャーで、私にベースボールを教えてくれる。えーと、あだ名は久次郎で、小学校のころ野球部で、結構打てるんだけど——」かのえさんは青池先生に夢中で僕の説明をしている。僕と話しているときよりも饒舌な感じがして、なんだか嫌な気持ちになる。
「で、この先生は」かのえさんは僕の方を向いて、指先を青池先生に向ける。
「青池昇、この高校の非常勤講師。小中高と野球部で、それ以外は知らないけど、このガタイだから、多分結構打てるんじゃないかな。どう?」
「ああ、それなりに、な」
「青池先生、本当にいいんですか」と僕は尋ねる。
「仕方ねえだろ、こいつに脅されてんだから」
「よし」かのえさんはニヤリと笑う。
本当にうれしいのだろう。
そして、僕のときと同じような言い方で
「ようこそ、『かのえアウトサイダーズ』へ」
すこし、心がざわついていた。
「先、駅行ってて」放課後、かのえさんはそう言って、どこかへ行ってしまう。
僕は一人で駅へ歩いていく。
そうだ、かのえさんが興味あるのは僕じゃなくて、野球なんだ。僕はそれに付き合っているだけ。そこをしっかり頭に入れておかないとな。
そう思いながら駅の階段を上り終えると
「あ、久次郎」と声がする。
この学校の制服を着た生徒の中に混じって、紺色のベストを着た男が立っている。
「青池先生」と答える。
「お前も待たされてんのか」
「ああ、はい、まあ」
僕は青池先生の横に立って電車を待つ。
なんだか、気まずい。
かのえさんに「正岡子規ベースボール文集」を借りている。それを読むことも考えたけれど、人の隣で本を読みだすのも、少し失礼な気がする。
「なんで、かのえに協力してんだ?」と青池先生が言う。
「うーん、成り行きです」
「お前、かのえのこと好きだろ?」
「え?」
青池先生は僕の方を向いて、ほら、と声を出さずに口を動かす。
「しばらく教師やってると分かるようになるんだぜ、そういうの」
「まあ」と僕は答える。
「じゃあ、協力すれば付き合ってやる、みたいな感じか?」
「え、いや。そこまでは」
「あ、そう。まあ、大方、悪女みたいな事言ってきたんだろ」
「……」悪女みたいなところも好きだ、とは言はない。
青池先生は僕の方を見た後で
「No problem.」
「え?」
「安心しろ。お前の邪魔はしねえよ」
僕は思いがけない言葉に顔を上げる。
青池先生は笑う。
「俺だって、大人だ。どういう時にどういう事をすれば邪魔になるかってことくらいは分かってる」
「ありがとう、ございます」と僕はとりあえず言う。
「信頼しろ、俺は教師だぜ」
「ああ、はい」
かのえさんが階段を上ってやって来る。
「お待たせ」
「出たな、悪女」青池先生が言う。
「今日もバッティングセンター行こう」かのえさんは言う。
「うん」
駅に電車が入って来る。
かのえさんが乗り込むから、僕もついていく。
「さては、この三人だけだな、チームメイト」と言いながら青池先生も乗り込む。
この前と同じバッティングセンターに来た。
「ほう、今のバッティングセンターってキレイなんだな」と青池先生が言う。
「ここは特にだよ」とかのえさんが言う。
それから、またかのえさんはコインの販売機に向かう。
青池先生は自動販売機でペットボトルのアイスコーヒーを買っている。
手持無沙汰で、僕は今月のホームラン本数ランキングを眺める。どうしてこんなに打てるのだろう。
「たくさん買っちゃった」と言いながらかのえさんが歩いてくる。
その手には大きめのポリ袋いっぱいにコインが入っている。
「いくら?」
「一万」かのえさんはニヤリと笑う。
千円で11枚だから、一万円なら110枚か。相当打つつもりだな。
「当たった」と言って歩いてきた青池先生が僕に一本ペットボトルを差し出す。自販機のもう一本サービスに当たったという事だろう。
「ありがとうございます」スポーツドリンクだ。
「じゃあ、始めようか」かのえさんはまたヘルメットをかぶって軍手をすると、この前と同じバットを持って、打席に入っていく。
かのえさんは素振りをする。
この前よりずっと良くなっている。
「いい感じ」かのえさんは声を弾ませて、楽しそうに言う。
ボールが飛んでくる。
70キロだから少し山なりだ。
かのえさんはそれに合わせて、バットを振る。
パンっ、という音を立ててボールが前に跳ぶ。
そのまま小屋を飛び越えて向こうのネットに落ちる。
「よし」と呟く。
「思ったより飛ぶな」ベンチに座ってコーヒーを飲んでいた青池先生が呟く。
打席を終えて、かのえさんが満足そうな顔で出てくる。
「楽しい」
「この前より良くなってた」
「昨日、プロ野球見たから」
見ただけでここまで出来るようになるのか。
「やるな」ベンチにふんぞり返っていた青池先生はそう呟くと立ち上がる。
「でも、まあ、すごいってほどじゃないな」
「じゃあ、見せてよ、青池先生の実力」
「ふん」と言って、ベストを脱ぐ。
それからコインを買って、バットを持ってくる。850グラムのバットだ。
青池先生は100キロの打席に入っていく。
「よく見とけよ」
とは言ったものの、何年ぶりだよ、バット握るの。
あー、かのえには負けたくねえな。
右打席に立って、バットを構える。
手首の角度ってどんな感じだっけ?
手と手はくっつけるんだよな。
ネットの向こうでピッチングマシンのアームが持ち上がる。
タイミングって、どんな感じだ?
ボールが飛んでくる。
あ、思いだした。
思いっきりバットを振る。
その瞬間、跳ねるように斜め上にボールが飛んでいく。
「わ」と俺の後ろでかのえが言う。
タン、という音を上げて「ホームラン」という丸い看板にボールが当たる。
ああ、そうだった。
思いっきりバット振ればいいだけだったわ。
「まあ、こんなもんだな」と言いながら青池先生は打席から出てくる。
「こんなに打てるとは思ってなかった」とベンチに座っていたかのえさんが言う。
「まあ、それなりにやってたからな」先生はバットを右肩に乗せる。
「じゃあ、ジュースは私に」
「ホームラン打つとジュース貰えるんだったな。でもやらねえよ」
「さっき久次郎に当たったジュースあげてたのに?」
「お前は自分で買えよ。一万円分もコイン買う金あんだろ」
「じゃあ、久次郎がホームラン打った時は私が貰うから」
「かのえさんもホームラン打てるよ」と僕が言う。
「ほら、そういうこと言うから上手く使われるんだ。主導権取りにいかねえと」
「主導権はこっちだから」かのえさんはニヤリと笑う。
「とりあえず、ジュース貰いに行ってくるわ」
青池先生はバットをベンチに立てかける。
「じゃあ、もう一回打とうかな」かのえさんはバットを持って立ち上がる。
「おっさん、めっちゃ打つな」と声がする。
僕と同じ高校の制服を着た男子が三人立っている。
全員坊主頭だから、野球部だろう。
「まあ、昔やってたからな」と青池先生が返す。
「へー」と最初に声をかけた男子が言う。
あ。
相手も僕と同じタイミングで気づいたのだろう。
堀のやや深い、目のくっきりした顔。
その顔が僕の方を向いて、いじわるそうに笑う。
「久しぶりだなぁ、早田」そいつは僕の方に歩いてくる。
「……」絶対に会いたくない人間ランキング、実際に会った事がある部門第一位。
名前は青鷺 炎(ほむら)。
「あれ、野球辞めてなかった?」
「……」
「なんでもいいけど。もう一回やるなら、堂々と野球部に入部届けだせよ」
「僕の自由だろ」
「確かに。どうせ入ったって控えだからな」
「……」
「やめろよ、野球」
その時、かのえさんが歩いてくる。
「あれ、同じ学校の子?」と青鷺が言う。
「え、うん。多分」とかのえさんが言う。
「2年生?」
「うん」
「ふーん。俺も。クラスは5組。君は?」
「2組」
「同じ階だね」
「うん」
青鷺がかのえさんと会話をしているだけで不快だ。
でも、不快だからやめろ、という権利はない。
早く終われ。僕は拳を強く握る。
「早田とはどういう感じ?」
「ベースボール教えてもらってる」
やめろ、野球の話になるな。
「ふーん。今日も練習?」
「うん」
「君、打てるようになりたい?」
ダメだ、そんなやつと関わるな。
「うん」とかのえさんは頷く。
その瞬間、僕の胸を冷たい風が通っていく。
「じゃあ、俺が教えてあげるよ。一緒に練習しようか」
「ううん」
「え?」
「必要ない」
「でも、早田はやめとけよ」
「なんで?」
聞かないでくれ。
青鷺は僕の顔を一度見る。
「まず、ルールをちゃんと覚えてない。チャンスで打てない。守備ではエラーをする。他にもいろいろだ」
「……」
「俺のほうが上手く教えられる。な?」青鷺はかのえさんに微笑みかける。
かのえさんはため息をつく。
「あなたたちより、久次郎の方が断然うまいから」
「そんなわけないだろ」
「それに——」かのえさんは一歩、青鷺に近づく。
自分より背が高い青鷺を、目を細めて鋭くにらみつける。
「あなたみたいな女の尻しか見てない凡人に興味ないから」
かのえさんは低い声で言う。
青鷺の取り巻きの片方があからさまに驚く。
もう片方はよそ見をしている。
青鷺本人は、驚いてポカンと口を開けている。
「じゃあ、私の打席見てて。久次郎」かのえさんは振り返って僕に言う。
瞼が熱い。
「ほら」かのえさんは僕の前に立つ。
「かのえさん、僕は」
「私にベースボールを教えられるのは、久次郎だけだよ」
「ありがとう」
ごめん、かのえさん。本当にありがとう。
かのえさんは優しい顔をしてから、打席に入っていこうとする。
「待てよ」青鷺だ。
かのえさんは足を止める。
「ちょっと優しくしてやったからって調子にのるなよ」
「優しく?」
青鷺の顔が怒りに歪む。
「お前、早田の方が上手いって言ったな」
「うん、言った」
「ちょうど三人同士だ。勝負しよう」
かのえさんは青鷺の方に歩いてく。
「あなたたちが負けたら?」と彼女は尋ねる。
「どうしてほしい?」
「もう二度とこのバッティングセンターに来ないで」
「じゃあ、お前が負けたら、俺の彼女になれ。それから二度とバットに触るな」
「釣り合わないな」
「なにが欲しい?」
かのえさんはニヤリと笑う。
「ジュース三本追加で」
つづく
夏海ちゃんが俺に白い腕を伸ばす。
「仕方ねえな」
俺はその腕を掴む。
夏海ちゃんが笑う。
なーんてな。
はぁー
夏海ちゃんのスクール水着姿を想像しながら吸うタバコは最高だぜ。
胸デカかったし、ケツの形も綺麗だったからな。まあ、体操服のときに見ただけだけど。スクール水着なんて来てたらさぞ眼福だったことだろうよ。
あー、女に生まれてきたら見放題だったのによ。ちくしょー。おふくろが俺を男に生んだせいだ。まったく。
初夏の早朝の晴れ渡った空に吐いた煙が上っていく。
もうプールの授業が始まっている季節だから、水は綺麗で点々と光っている。
「夏海ちゃん」と試しに呼んでみる。
『ヴィーナスの誕生』みたいに出てきてくれないかな。
いや、出てくるわけねえか。
「I miss you, my Venus」と呟く。
「昇っ」
今まさに呼ばれたくらい鮮明に、夏海ちゃんが俺を呼ぶ声を思いだせる。
ああ、ずっと呼ばれてられたらな。
「夏海ちゃん」
遠くから学生の声が聞こえてきた。そろそろ時間か。
さすがに学校のプールサイドでタバコ吸ってんのばれたらヤバいからな。
プールサイドから立ち上がって、携帯式の灰皿にタバコを入れる。
さて、今日も仕事を頑張るとするか。
「撮れた、今の?」と声がする。
聞き覚えのある声だ。
「うん、まあ、撮れたけど」
ちくしょー、最悪だ。
振り返ると、この学校の制服を着た男女が、こちらにスマホのカメラを向けて立っている。
女の方がニヤリと笑う。
「どうしようかな、この映像」
「久次郎」
バッティングセンターに行った翌日の昼休み、僕が購買に行こうと立ち上がると、かのえさんが声をかけてきた。
「購買いく?」と彼女が尋ねる。
「うん」
「じゃあ、ついでに外でご飯食べよう」
「うん、いいよ」
やったー。まさか、いきなり一緒に昼食を食べられるような関係になれるとは思っていなかった。
僕はかのえさんと並んで購買へ向かっていく。
かのえさんの左手の親指には絆創膏が巻かれている。
「それ、大丈夫?」僕はその絆創膏を指さして言う。
「うん。だれでも最初はこういうふうになるんでしょ」
「ああ、そうかも」
「いちいち絆創膏なんて貼らない方が球児っぽいと思ったんだけど、お母さんが巻いていけって」
「へー」
「でも、こっちの方が子規っぽいからいいかな」
僕たちは渡り廊下を歩いていく。生徒の多いこの高校では、道を挟んで校舎がいくつもあって、その一部がこうして渡り廊下で繋がっている。この渡り廊下の先が購買だ。
僕がパンを買っている間に、かのえさんは自動販売機で紙パックのコーヒー牛乳を買っている。弁当は教室から持ってきていた袋の中に入っているのだろう。
「下のベンチに行こう」とかのえさんが言う。
この高校は屋上にもベンチが置かれているが、そこはいつも混んでいる。それに比べて校舎の横にあるベンチはいつもすいている。
やっぱり今日も誰もいなかった。
僕がベンチに座り、その隣にかのえさんが座る。
遠くから生徒の声が聞こえてくるのと、近くの自動販売機がうなる音以外はなんの音もしない。ここでの僕たちの会話は誰にも聞かれないだろう。かのえさんもそう思ってここに来たのだと思う。
なんとなく、二人だけというだけでわくわくする。
「昨日すこし話したけど、チームメイトに一人当てがある」かのえさんは弁当箱を開けながら言う。
「ああ、言ってたね」僕はかのえさんの弁当を見ながら言う。
肉が中心の弁当と、白米のおにぎりだ。細身だけれど、しっかり食べるのだな、と思う。
「でも、多分あんまり協力してくれないから、ちょっと強引な手段でいこうと思う」
「え?」
彼女は大きく口を開けておにぎりを食べる。
それから、口に手を当てて
「早くチーム組みたいから、背に腹は代えられないよ」
僕はパンを食べながら話の続きを聞く。
「明日の朝、早く来れる?」
「どれくらい?」
「六時半に駅」
「いいよ」やけに早いな、と思う。多分、運動部の朝練でも、こんなに早くはないだろう。
「じゃあ、それで」
「うん」
「それとさ」
彼女はまた大きく口を開けて肉を食べる。
なにか急いでいるのだろうか。
「私、ピッチャーやりたいから、キャッチャーやって」
「うん、分かった」キャッチャーはやった事がないから、勉強しないとな、と思う。
彼女はコーヒー牛乳を一気飲みすると立ち上がる。
「じゃあ」彼女は白い手のひらを僕に向けるとどこかに行ってしまう。
もう少し一緒に食事ができたらよかったのだけれど、仕方がない。
僕もパンを食べ終わって、腕時計を見る。
まだ、授業が始まるまでには時間がある。かのえさんのペースに乗せられていたからか、いつもよりも早く食べ終わった。
図書室に行って、キャッチャーの勉強でもするか。
その日の夕方、またかのえさんと帰ろうかと思っていたが、彼女は一人で帰っていってしまった。
翌朝、学校に向かう電車に乗り込むと、かのえさんと出会った。
結構混んでいたけれど、なんとか隣に行くことができた。
「おはよう」と声をかけると
「おはよう」と返って来る。
僕は思わずあくびをする。
「できるだけ、毅然とした感じにしてて。あくび禁止」
「え、なんで?」
「相手は手ごわいから。主導権はこっちだって分からせてやらないといけない」
「手ごわいって、どんな感じ?」
「会ってみれば分かるよ。ほんとにヤバい人だから」
「へー」ヤバい人ってどんな感じだろう。
それに、なんでこんなに朝早くに行く必要があるのだろう。まあ、会ってみれば分かるか。
「うーん、上手くいくかな」かのえさんは窓の外を眺めながら言う。
電車が学校の最寄り駅に着く。
下りるのは、僕たちと他に数人のサラリーマンだけだ。同じ学校の生徒は見当たらない。
僕はかのえさんの後をついて改札を出る。
「一応、防犯カメラの位置確認したけど、気づいたら教えて」
学校に歩いていく道中でかのえさんが言う。
「なんか、悪い事するの?」
「私たちはしないけど、相手はしてるから。もし私たちが先生に見つかっちゃうと、相手も見つかっちゃう。で、そうなると、結構困る」
「分かった」
僕らはいつも通り、表のエントランスから学校に入る。
「あれ、早いね」と教師らしい中年の男性が話しかけてくる。
見たことはないから、僕たちのクラスに授業をしに来ているわけではなさそうだけれど、ここで教師に不審がられるのは都合が悪い。
どうしようか、と僕が考えるよりも早くかのえさんが答える。
「自然科学部で、トカゲにエサあげないといけなくて」と言って、微笑む。
綺麗だけれど、僕は本当の笑顔を知っているから、これは偽物だと思う。
「お、そうか。大変だな、ご苦労さま」
僕とかのえさんは会釈をしてその人物の横を通りすぎる。
「上手くいったね」と僕が言う。
「うん」かのえさんはニヤリと笑う。
そうそう。僕はその表情が好きだ。
かのえさんは上へ続く階段をそれて、別のドアの方に向かう。その先は昨日昼食をとったベンチの近くだ。
かのえさんはそのベンチを通過する。
自動販売機の裏へ回る。
僕もついていく。
そのまま並んだ自販機の裏を通り、それから垣根の裏を歩いていく。
目の前はコンクリートの壁、その上はプールになっている。
「こっち」かのえさんはそのコンクリートの壁に沿って歩いていき、上へあがる階段の前に出る。
かのえさんが立ち止まる。
入り口には当然、防犯カメラがついている。
「防犯カメラだ」と僕は言う。
「あれは多分大丈夫。この時間だけ切られてるから」
なんでだろう。
「荷物、この辺に置いてこう」かのえさんは壁際にリュックサックを下し、スマホを取り出す。
僕もかのえさんの隣にリュックを下す。
「合図するまで、これで撮って」と言って、彼女は僕にスマホを渡す。
「分かった」
「いい?」
「うん」
「じゃあ、カメラ回しながらついてきて」
彼女は上っていく途中で、手を前の段について止まる。
「あれ、撮って」
僕はカメラを向ける。
ウソだろ、学校にこんな奴がいたのか。
白いシャツに紺色のベストを着た大人が、プールサイドに座ってタバコを吸っている。
少し癖がある髪を真ん中で分けていて、顎には無精ひげが生えている。年齢は40くらいだろうか。背も高いようだし、肩幅も広い。ガタイのいい男という印象だ。ただ、目元に疲れた雰囲気が出ていて、それが余計に妖しい雰囲気を醸し出している。
ほんとにヤバい人だから、というかのえさんの言葉を思い出す。確かに、これは本当にヤバい人だ。そもそも、この学校の関係者なのか。
それよりも、かのえさんはこの人を自分のチームに入れようとしているのか。
そう思ってかのえさんを見ると、彼女はじっとその男を見つめている。
タイミングを待っているのだろう。
遠くから生徒の声が聞こえてくる。朝練に来た運動部だ。
すると、男は携帯用の灰皿に吸っていたタバコを入れて立ち上がる。
かのえさんが僕の方を見て頷く。
もう録画を止めて、という意味だ。
かのえさんは立ち上がって階段を上っていく。
もし何かあったら、かのえさんを守らなければならないだろう。
「撮れた、今の?」かのえさんが尋ねる。
「うん、まあ、撮れたけど」僕はかのえさんにスマホを渡す。
男はこちらを向いて、一瞬驚いた表情をした後でにらみつける。
怖い。
毅然として、とかのえさんの言葉を思い出す。
「どうしようかな、この映像」かのえさんはニヤリと笑う。
「……」男は表情を変えずに睨みつける。
「ねえ、青池先生」かのえさんもじっと男を見つめる。
先生、この学校の教師だったのか。ヤバいだろ。
青池先生は僕の方を向く。
僕もまっすぐその男を見る。
「俺も、どうしようかな、お前らを」と青池先生が言う。
「主導権はこっちだから」とかのえさんが言う。
「そうか? その細い男とお前だけだろ。ここに沈めるなんて簡単だぜ?」
青池先生は無精ひげの顎でプールを指す。
「防犯カメラも切ってあるしな」
本当にヤバいだろ、この人。
「動画、お母さんに送った」とかのえさんが言う。
かのえさんも容赦がない。
「まじか」
「まだ既読ついてないから、なんとでもなる」
「……」
「ほーら、主導権はこっちだよ」
「はぁー」青池先生は下を向いて、その場でぐるりと一周回る。
「うーん、降参だ」両手を上にあげる。
かのえさんは頷く。
「目的はなんだ? 成績か?」
「それは足りてる」
「まあ、お前の事だからな。じゃあ、なんだよ?」
かのえさんが口を開く。
でも、その前に確認したいことがある。
「あの、いい、ですか?」僕は恐る恐る会話を遮る。
「誰だ?」
「かのえさんのクラスメイトの早田です」
かのえさんが僕を見る。
「ここでなにしてたんですか」
「タバコ吸ってた、普通に」
「なんで、プールで」
「女子のスク水姿想像しながら吸うタバコがウマいから」
ヤバい、会話をすればするほどヤバい人だという事が分かる。
それに、女子のスク水を想像してたって、あまり女子を近づけないほうがいいだろう、この人に。
「かのえさん、やっぱり危なすぎるんじゃ」
「大丈夫。この人が想像してたのは、どうせ昔の好きだった人だから」
「はー、よく知ってんな、ほんとに」
「ここの卒業生でしょ」
「で、何が、目的だ?」青池先生はふらっと僕たちの近くに来る。
「青池先生、小、中、高と野球部だったよね?」
「まあ、そうだけど」
「私のベースボールチームに入って」とかのえさんが言う。
「ベースボール?」
「うん。ちょうど、外野手が足りないんだよね」
「なんで野球なんだよ」
「それはまた後で話すよ」
「……」
「ほら、どうする?」
「はぁー。分かったよ。試合出ればいいんだろ」
「練習も付き合って」
「はいはい」
「じゃあ、送るのやめてあげる」かのえさんはさっき母親に送った動画の送信を取り消す。
「あー、ちくしょう、めんどくせぇことになっちまったなぁ」
青池先生は本当にめんどくさそうに頭の後ろをかく。
「かのえさん、本当にいいの?」
「うん。こんな感じだけど、実はベースボール大好きだから」
もちろん、かのえさんが試合をしたいのなら、させてあげたい。でも、チームメイトが増えるのはなんだか複雑な感じがする。
バッティングセンターの練習とかでも、この人も来るのだろうか。
かのえさんはそんなことを全く思わないようで、楽しそうにどんどん話を進めていく。
「紹介するね、彼は、私のチームメイトでクラスメイトの早田久次郎。ポジションはキャッチャーで、私にベースボールを教えてくれる。えーと、あだ名は久次郎で、小学校のころ野球部で、結構打てるんだけど——」かのえさんは青池先生に夢中で僕の説明をしている。僕と話しているときよりも饒舌な感じがして、なんだか嫌な気持ちになる。
「で、この先生は」かのえさんは僕の方を向いて、指先を青池先生に向ける。
「青池昇、この高校の非常勤講師。小中高と野球部で、それ以外は知らないけど、このガタイだから、多分結構打てるんじゃないかな。どう?」
「ああ、それなりに、な」
「青池先生、本当にいいんですか」と僕は尋ねる。
「仕方ねえだろ、こいつに脅されてんだから」
「よし」かのえさんはニヤリと笑う。
本当にうれしいのだろう。
そして、僕のときと同じような言い方で
「ようこそ、『かのえアウトサイダーズ』へ」
すこし、心がざわついていた。
「先、駅行ってて」放課後、かのえさんはそう言って、どこかへ行ってしまう。
僕は一人で駅へ歩いていく。
そうだ、かのえさんが興味あるのは僕じゃなくて、野球なんだ。僕はそれに付き合っているだけ。そこをしっかり頭に入れておかないとな。
そう思いながら駅の階段を上り終えると
「あ、久次郎」と声がする。
この学校の制服を着た生徒の中に混じって、紺色のベストを着た男が立っている。
「青池先生」と答える。
「お前も待たされてんのか」
「ああ、はい、まあ」
僕は青池先生の横に立って電車を待つ。
なんだか、気まずい。
かのえさんに「正岡子規ベースボール文集」を借りている。それを読むことも考えたけれど、人の隣で本を読みだすのも、少し失礼な気がする。
「なんで、かのえに協力してんだ?」と青池先生が言う。
「うーん、成り行きです」
「お前、かのえのこと好きだろ?」
「え?」
青池先生は僕の方を向いて、ほら、と声を出さずに口を動かす。
「しばらく教師やってると分かるようになるんだぜ、そういうの」
「まあ」と僕は答える。
「じゃあ、協力すれば付き合ってやる、みたいな感じか?」
「え、いや。そこまでは」
「あ、そう。まあ、大方、悪女みたいな事言ってきたんだろ」
「……」悪女みたいなところも好きだ、とは言はない。
青池先生は僕の方を見た後で
「No problem.」
「え?」
「安心しろ。お前の邪魔はしねえよ」
僕は思いがけない言葉に顔を上げる。
青池先生は笑う。
「俺だって、大人だ。どういう時にどういう事をすれば邪魔になるかってことくらいは分かってる」
「ありがとう、ございます」と僕はとりあえず言う。
「信頼しろ、俺は教師だぜ」
「ああ、はい」
かのえさんが階段を上ってやって来る。
「お待たせ」
「出たな、悪女」青池先生が言う。
「今日もバッティングセンター行こう」かのえさんは言う。
「うん」
駅に電車が入って来る。
かのえさんが乗り込むから、僕もついていく。
「さては、この三人だけだな、チームメイト」と言いながら青池先生も乗り込む。
この前と同じバッティングセンターに来た。
「ほう、今のバッティングセンターってキレイなんだな」と青池先生が言う。
「ここは特にだよ」とかのえさんが言う。
それから、またかのえさんはコインの販売機に向かう。
青池先生は自動販売機でペットボトルのアイスコーヒーを買っている。
手持無沙汰で、僕は今月のホームラン本数ランキングを眺める。どうしてこんなに打てるのだろう。
「たくさん買っちゃった」と言いながらかのえさんが歩いてくる。
その手には大きめのポリ袋いっぱいにコインが入っている。
「いくら?」
「一万」かのえさんはニヤリと笑う。
千円で11枚だから、一万円なら110枚か。相当打つつもりだな。
「当たった」と言って歩いてきた青池先生が僕に一本ペットボトルを差し出す。自販機のもう一本サービスに当たったという事だろう。
「ありがとうございます」スポーツドリンクだ。
「じゃあ、始めようか」かのえさんはまたヘルメットをかぶって軍手をすると、この前と同じバットを持って、打席に入っていく。
かのえさんは素振りをする。
この前よりずっと良くなっている。
「いい感じ」かのえさんは声を弾ませて、楽しそうに言う。
ボールが飛んでくる。
70キロだから少し山なりだ。
かのえさんはそれに合わせて、バットを振る。
パンっ、という音を立ててボールが前に跳ぶ。
そのまま小屋を飛び越えて向こうのネットに落ちる。
「よし」と呟く。
「思ったより飛ぶな」ベンチに座ってコーヒーを飲んでいた青池先生が呟く。
打席を終えて、かのえさんが満足そうな顔で出てくる。
「楽しい」
「この前より良くなってた」
「昨日、プロ野球見たから」
見ただけでここまで出来るようになるのか。
「やるな」ベンチにふんぞり返っていた青池先生はそう呟くと立ち上がる。
「でも、まあ、すごいってほどじゃないな」
「じゃあ、見せてよ、青池先生の実力」
「ふん」と言って、ベストを脱ぐ。
それからコインを買って、バットを持ってくる。850グラムのバットだ。
青池先生は100キロの打席に入っていく。
「よく見とけよ」
とは言ったものの、何年ぶりだよ、バット握るの。
あー、かのえには負けたくねえな。
右打席に立って、バットを構える。
手首の角度ってどんな感じだっけ?
手と手はくっつけるんだよな。
ネットの向こうでピッチングマシンのアームが持ち上がる。
タイミングって、どんな感じだ?
ボールが飛んでくる。
あ、思いだした。
思いっきりバットを振る。
その瞬間、跳ねるように斜め上にボールが飛んでいく。
「わ」と俺の後ろでかのえが言う。
タン、という音を上げて「ホームラン」という丸い看板にボールが当たる。
ああ、そうだった。
思いっきりバット振ればいいだけだったわ。
「まあ、こんなもんだな」と言いながら青池先生は打席から出てくる。
「こんなに打てるとは思ってなかった」とベンチに座っていたかのえさんが言う。
「まあ、それなりにやってたからな」先生はバットを右肩に乗せる。
「じゃあ、ジュースは私に」
「ホームラン打つとジュース貰えるんだったな。でもやらねえよ」
「さっき久次郎に当たったジュースあげてたのに?」
「お前は自分で買えよ。一万円分もコイン買う金あんだろ」
「じゃあ、久次郎がホームラン打った時は私が貰うから」
「かのえさんもホームラン打てるよ」と僕が言う。
「ほら、そういうこと言うから上手く使われるんだ。主導権取りにいかねえと」
「主導権はこっちだから」かのえさんはニヤリと笑う。
「とりあえず、ジュース貰いに行ってくるわ」
青池先生はバットをベンチに立てかける。
「じゃあ、もう一回打とうかな」かのえさんはバットを持って立ち上がる。
「おっさん、めっちゃ打つな」と声がする。
僕と同じ高校の制服を着た男子が三人立っている。
全員坊主頭だから、野球部だろう。
「まあ、昔やってたからな」と青池先生が返す。
「へー」と最初に声をかけた男子が言う。
あ。
相手も僕と同じタイミングで気づいたのだろう。
堀のやや深い、目のくっきりした顔。
その顔が僕の方を向いて、いじわるそうに笑う。
「久しぶりだなぁ、早田」そいつは僕の方に歩いてくる。
「……」絶対に会いたくない人間ランキング、実際に会った事がある部門第一位。
名前は青鷺 炎(ほむら)。
「あれ、野球辞めてなかった?」
「……」
「なんでもいいけど。もう一回やるなら、堂々と野球部に入部届けだせよ」
「僕の自由だろ」
「確かに。どうせ入ったって控えだからな」
「……」
「やめろよ、野球」
その時、かのえさんが歩いてくる。
「あれ、同じ学校の子?」と青鷺が言う。
「え、うん。多分」とかのえさんが言う。
「2年生?」
「うん」
「ふーん。俺も。クラスは5組。君は?」
「2組」
「同じ階だね」
「うん」
青鷺がかのえさんと会話をしているだけで不快だ。
でも、不快だからやめろ、という権利はない。
早く終われ。僕は拳を強く握る。
「早田とはどういう感じ?」
「ベースボール教えてもらってる」
やめろ、野球の話になるな。
「ふーん。今日も練習?」
「うん」
「君、打てるようになりたい?」
ダメだ、そんなやつと関わるな。
「うん」とかのえさんは頷く。
その瞬間、僕の胸を冷たい風が通っていく。
「じゃあ、俺が教えてあげるよ。一緒に練習しようか」
「ううん」
「え?」
「必要ない」
「でも、早田はやめとけよ」
「なんで?」
聞かないでくれ。
青鷺は僕の顔を一度見る。
「まず、ルールをちゃんと覚えてない。チャンスで打てない。守備ではエラーをする。他にもいろいろだ」
「……」
「俺のほうが上手く教えられる。な?」青鷺はかのえさんに微笑みかける。
かのえさんはため息をつく。
「あなたたちより、久次郎の方が断然うまいから」
「そんなわけないだろ」
「それに——」かのえさんは一歩、青鷺に近づく。
自分より背が高い青鷺を、目を細めて鋭くにらみつける。
「あなたみたいな女の尻しか見てない凡人に興味ないから」
かのえさんは低い声で言う。
青鷺の取り巻きの片方があからさまに驚く。
もう片方はよそ見をしている。
青鷺本人は、驚いてポカンと口を開けている。
「じゃあ、私の打席見てて。久次郎」かのえさんは振り返って僕に言う。
瞼が熱い。
「ほら」かのえさんは僕の前に立つ。
「かのえさん、僕は」
「私にベースボールを教えられるのは、久次郎だけだよ」
「ありがとう」
ごめん、かのえさん。本当にありがとう。
かのえさんは優しい顔をしてから、打席に入っていこうとする。
「待てよ」青鷺だ。
かのえさんは足を止める。
「ちょっと優しくしてやったからって調子にのるなよ」
「優しく?」
青鷺の顔が怒りに歪む。
「お前、早田の方が上手いって言ったな」
「うん、言った」
「ちょうど三人同士だ。勝負しよう」
かのえさんは青鷺の方に歩いてく。
「あなたたちが負けたら?」と彼女は尋ねる。
「どうしてほしい?」
「もう二度とこのバッティングセンターに来ないで」
「じゃあ、お前が負けたら、俺の彼女になれ。それから二度とバットに触るな」
「釣り合わないな」
「なにが欲しい?」
かのえさんはニヤリと笑う。
「ジュース三本追加で」
つづく
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