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第11話「打って、久次郎」
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かのえさんと出かけてから数日が経った。
今日はかのえさんに用事があるから、高校の近くの公園で二人でキャッチボールをすることになった。
「グローブがなかなか柔らかくならない」と歩きながらグローブをつけたかのえさんが言う。
「なかなかね」と僕は答える。
二人で出かけて以降、なんとなく、距離が縮まったような気がする。僕の気のせいかもしれない。
公園が見えてくる。今日は誰もいないらしい。四方を緑色のネットで囲われたキャッチボールのできる公園だけど、小さいことどもが来ているときはしないようにしている。
「そういえば、この前一人でここ来た時に——」とかのえさんが言い出した時、一人の少年がかのえさんの前に回り込んだかと思うと、一気にスカートをめくる。
かのえさんのパンツが見えたことよりも、この時代にもこんないたずらをするガキがいることに驚く。
かのえさんは険しい表情でにらみつける。
「クソガキ」
「クソババア」少年はそう言って、走って逃げていく。
僕は恐る恐るかのえさんの顔を見る。
「そういえば、この前一人でここに来た時に少年たちが野球をしてて」かのえさんは平然とさっきの話を再開する。
「その時に通りがかりの私にボールが当たって。投げ返してあげたら変な方向にとんでっちゃったけど、痛かったし、向こうは謝らなかったから、まあいいか、と思ってそのまま立ち去ったことがあって。その時に野球をしていた子供の一人がさっきの子ども」
「そんな感じで、その子どものいるチームと試合することになったから」
どんな感じだよ。
「小学生と試合するんですか?」と竜野が言う。
もっともな疑問だ。
「うん」とかのえは答える。
「ハンデは?」と俺は尋ねる。
「向こうは9人で、こっちは6人。それだけ」
「今回はベースは3つなんだな」
「うん。あ、そういえば、ソフトボールだって」
「は?」
「なんか、地区大会勝って、市大会に進んだ子ども会のチームらしい」
じゃあ、また練習しなきゃいけないわけだな。
試合当日になった。
この前の試合の時と同じような、もしかしたらさらに酷いような真夏日だ。
僕たちは前回と同じかのえアウトサイダーズのユニフォームを着て、相手の小学校に向かった。
「こんなに近いところにソフトボールの強いチームがあったんだ」と若菜さんが言う。この小学校は高校のすぐ近くだ。
グラウンドではすでに小学生たちがキャッチボールをしていた。その中には、かのえさんのスカートをめくったクソガキもいる。
僕たちに気付いて、相手の監督が門のところまで迎えに来てくれる。中年の、細い男だ。多分、選手の誰かの父親だろう。
「練習試合を受けていただき、ありがとうございます」とかのえさんが頭を下げる。僕たちも同じように頭を下げる。
「いえいえ、わざわざご足労いただきありがとうございます」
監督は深々と頭を下げる。クソガキのチームの監督とは思えない礼儀正しさだ。
「では、ベンチに案内します」
僕たちは藤棚の下に並んでいる四つのベンチに案内される。
反対側には運動会で見るような銀色の足に白い屋根のテントが三つ並んでいて、そこにバーベキューで使うようなテーブルとセットの折り畳みの椅子がおかれている。
小学生の選手だけでなく、その親も見に来ているらしい。週末だし、当然のことだろう。
かのえさんは先攻後攻を決めるために、そのテントのほうへ小走りで向かっていく。
「ほう、向こうの応援はすごそうだな」と青池先生が言う。
「青池先生がいれば、大丈夫ですよ」と義一が言う。
「おう。まあな」
かのえさんが戻ってくる。
「後攻」とかのえさんは言う。
「やったね」
今日の試合は45分経った時点での回の裏までと決まっている。つまり通常の野球と同じく後攻が有利だ。
「えつお、ピッチャーやってくれる?」
「俺、投げていいんすか」
「うん。きっと変わってもらう流れになるから。最初はえつお。継投で行こう」
「分かりました。投げたくなったら、いつでも変わりますよ」
えつおはマウンドに向かう。マウンドとはいっても、平地のグラウンドに石灰で線が引いてあるだけだ。僕が防具をつける間、青池先生が投球練習を受ける。
「やっぱムズイっすね、下投げ」
「まあ、慣れだろ。慣れろ」
二人の会話を聞きながら、僕は防具をつけ終わる。
守備の配置はピッチャーがえつお、キャッチャーが僕。一塁が若菜さん、二塁兼ショートがかのえさん、ショート兼三塁が義一、外野を青池先生が一人で守るらしい。明らかに人が足りない。小学生相手だ。これくらいで十分。特にピッチャーは。
ピッチャーは俺だ。
だから、この守備でも問題はない。
審判はよその子ども会の人が来てくれているらしい。ありがたいことだ。
俺は胸の前でボールを構える。
すべてはボールを離すタイミング。これさえ出来れば、ばっちり入る。
そういうのは得意だ。
「プレイっ」と審判が言う。なかなかにキレのある声だ。
少年が「よろしくお願いしますっ」と大きい声であいさつをする。
「頑張れー」
「打てるよー」
「ハヤトくんがんばってー」と親たちのバッターを応援する声が聞こえる。
関係ないね。
よーし、投げるぞ。
勢いをつけて、腕を回す。
それと同時に左足を前に出す。
腕が一周したところで手を放す。
まっすぐボールが飛ぶ。
バッターの少年は大きく空振りをする。
「ストライク」
簡単だ。
結局、あっという間に三人を空振りにし、えつおくんの投球は終わった。
こちらの攻撃では、一番のかのえちゃんが三振して、私の番になる。
「若菜ちゃん、がんばってね」と通りすがりに悔しそうな声で言う。
「うん。ありがと」私は打席に向かう。
私の次は久次郎で、その次が青池先生だ。私が塁に出れば、青池先生まで回る。今度こそ、青池先生の打ったボールで戻って見せる。
ボールが来る。
やっぱり、野球よりゆっくりだ。
バットを振る。
重っ、
ボールはそれて、相手のベンチのほうへ転がっていく。
もう一回。
いや、入らない。
ボールは地面を一度跳ねる。
キャッチャーがボールを返す。
今度こそ、打つ。
ボールが来る。
今。
鈍い。
ボールは前に転がる。
走らないと。
私は思いっきり走る。
サードの子がボールを拾って投げる。
「セーフ」と塁審の人が言う。
「ナイスランっ」とベンチから次々に声が聞こえる。
私は左手を上げてそれにこたえる。
早田が打ち取られて、俺の番が回ってきた。
「青池先生、打てるよー」とベンチから声がする。
この声は早田だな。
まあ、打ってやるよ。
そう思いながら、俺は味方のベンチに背を向けて打席に立つ。
正面には向こう側のベンチが見える。
「タケシくんがんばってー」
「タケシくん入るよー」と声がする。
なるほど。俺が大人だから、気兼ねなくピッチャーを応援できるってわけか。
俺はバットを構える。
タケシくんには悪いが、初球からブチかましてやるぜ。
「タケシくんがんばってー」「タケシくーん」
「タケシー、入るよー」とりわけ熱心だ。きっとタケシの親だな。
ん? この声は……
俺は思わずベンチを見る。
「ストライクっ」と審判が言う。
うるせぇな、審判。今はそんなことはどうでもいい。
なんで、いるんだよ。
なんで、タケシを応援してんだよ、夏海ちゃん。
青池先生が三振して、一回の裏は終わった。
先生が全く打てないなんて、信じられない。
明らかに、チーム内に悪い空気が漂っていた。
僕らが守備に就こうとしていると、審判がやってきた。
「あの、すみません。相手のチームの親御さんから苦情がはいりまして」
あまりの心当たりのなさに、全員がその審判を見る。
「ピッチャーのボールが小学生相手には早すぎて危ないということで、女性のどなたかに代わってほしいと」
「は?」と言ったのは、えつおだった。
「分かりました」とかのえさんが言う。
「おい」
「いいよ。私が投げる」
「いや、おかしい。相手の意見でピッチャーを変えるって、そんな」とえつお。
「いったでしょ。今日は継投になるって。ありがとう、あとは私に任せて」
まさか、ここまで見越していたのか。
かのえさんはグローブをもって、ニヤリと笑って僕を見る。
「分かったよ」と僕は答えて、キャッチャーミットを開いて見せる。
それから僕らはグラウンドに歩いていく。
天気は快晴、暑い。かのえさんが心配だ。
かのえさんは平然とマウンドに立ち、胸の前でボールを構える。
練習はしてある。多分、上から投げるより、ずっといい。
かのえさんはボールを僕のミットに投げ込む。
「いいよ、入ってる」と僕はかのえさんに言う。
それから二球投げたところで、審判がバッターを入れる。
僕はマスクをつける。
「よろしくお願いします」とガタイのいい少年が言う。
打順は4番、きっと飛ばすのだろう。
バッターが構える。
かのえさんも構える。
かのえさんが腕を回す。
ボールがまっすぐ飛び出す。
いいところだ。
いや、よすぎる。
バッターはそれをうまくとらえる。
ボールは外野まで跳ね上がる。
さすがに青池先生でも追いつけない。
ボールが落ちる。
バッターは一塁を蹴って、二塁へ進む。
青池先生がボールを投げる。
二塁についたえつおがボールを受ける。
バッターは滑り込んでいる。
セーフだ。
次のバッターは5番。またしてもガタイがいい。
このバッターはかのえさんのボールをグラウンドの端の垣根の中まで飛ばす。
ホームランだ。
ホームに二人帰ってくる。
2—0だ。
かのえさんは少し焦っているように見える。
僕はかのえさんに向かって「大丈夫だよ」という気持ちを込めて微笑む。
それを見たかのえさんは僕に微笑みかえして、それからグローブを構える。
これはいけるな、と思った。
かのえさんは見事な投球で、残りの三人を打ち取った。
僕はベンチに戻る前に、かのえさんに声をかける。
「ナイスピッチ」
かのえさんは笑って額の汗を拭う。
「ありがとう、久次郎」
かのえさんにそう言ってもらえるだけで、僕がキャッチャーをしている意味はある。
「義一くん、打てるよー」若菜先輩の声がする。
野球は守備で流れを作って、攻撃でそれを生かすらしい。
本当に流れなんてものがあるなら、それは今、こっちに来ている。
押せば、勝てる。
若菜先輩が、かのえ先輩が、みんなが、俺を連れ出してくれたんだ。
今、こんなに野球をしていることが夢みたいだ。
俺は変わる。
多分、野球を始めて、俺は少し変われた。
少なくとも、話せる先輩ができた。若菜先輩だけじゃなくて、久次郎先輩も、かのえ先輩も、青池先生も、えつおも。
だから、ここでもう少し踏み出して、俺は変わるんだ。
二球はボールで、三球目。
来た。
見ててください、若菜先輩。
俺は変わりますよ。
思いっきりバットを振る。
超えろ。
打球はショートの横を通る。
かなり回転がかかってバウンドしている。
さらにセンターとレフトの間を抜ける。
「回れ、義一」と久次郎先輩の声がする。
俺は全力で走って、二塁に滑り込む。
「セーフ」と審判が言う。
よっしゃー。
義一の次のえつおは二塁打を打ち、その間に義一がホームに戻り、一点を返す。
2―1
その次の、かのえさん、若菜さんは打ち取られ、僕も打つことができなかった。
次の守備ではかのえさんが3点を失いながらも守り切り、また僕たちの攻撃になった。
5―1
打順は4番の青池先生からだ。
前回の打席での三振は衝撃的だった。
「なんで、今日打てないんだろう?」と若菜さんが打席に入っていく青池先生を見ながら言う。
「原因はあれだよ」かのえさんは相手のベンチを指さす。
「誰?」
「あれ、一番熱心に応援してる人」
「ああ、あれか」と若菜さん。
大体同じタイミングで僕も分かった。
髪をハーフアップでまとめ上げた、三十代後半に差し掛かったくらいのキレイ気な人だ。
「あの人が、青池先生の初恋の人」
「へー」
「へー」とは言いつつ気が気ではない。
だって、青池先生の初恋の人があんなところに。
しかも、そのせいで打てないって、まだ引きずってるってこと?
「多分、若菜ちゃんなら、青池先生が打てるようにできると思うよ」
「え? どうやって?」
「耳貸して」
かのえさんは若菜さんの耳元で何かをささやく。
くそ、なんでいるんだよ。
そう思いながらバットを構える。
ボールが来る。夏海ちゃんと知らない男の間の子どもの投げたボールが。
絶対に打ち飛ばしてやる。
思いっきりバットを振る。
くそ。空振りだ。ふざけんな。
俺は乱暴に構えなおす。
次の球が来る。
これはボールだな。
「ストライクっ」と審判が言う。
くそ。
やばいな。
追い込まれた。
ピッチャーのタケシが腕を回し、投げるモーションに入る。
ダメだ、打てる気がしねぇ。
その時、
「昇、打てるよ」
っ、夏海ちゃん……
バットを振る。
ボールは放物線を描いて遠くまで飛んでいく。
誰も追おうとするものはいない。
ボールはネットが張られている二階を超え、校舎の三階の窓ガラスを割って教室に飛び込む。
夏海ちゃんの応援のおかげで打てた。
夏海ちゃんの応援?
夏海ちゃんは自分の息子が打たれて、心配した表情でマウンドを見つめる。
もう夏海ちゃんは俺のことを応援したりはしない。それなら誰だ?
俺は味方のベンチを見る。
「やったっ、青池先生」と笑顔でいうのは三好だ。三好の声だったのか。
だったら、夏海ちゃんのおかげじゃなくて、三好のおかげだな。
ベンチに戻って、三好とハイタッチをする。
「よかったね」とかのえ。
「ああ」
4—2。
義一は三振で、えつおが二塁に出て、かのえさんと若菜さんが落ち取られ、2アウト、ランナー2塁の状況で僕に打席が回ってきた。
僕はバットを持って、打席に入る。
「よろしくお願いします」と審判に言う。
チャンスだ。ここで打たなくてはならない。
僕はバットを強く握る。
来い、打ってやる。
ピッチャーが投げる。
いける。
バットを振る。
しまった。
ボールは緩くまっすぐ転がる。
ピッチャーはボールを拾ってファーストに送球する。
スリーアウト、チェンジだ。
また、打てなかった。
「この回が最後になります」と審判が言う。
つまり、ここで守ったら、あとは攻撃して終わりだ。
僕はキャッチャーミットを開く。
かのえさんが腕を振る。
パンっ、という乾いた音を立ててミットにボールが収まる。
間違いなく上達している。
僕はかのえさんに投げ返す。
かのえさんが投げる。
少し浮いたか。
バッターがボールをとらえる。
ボールはかのえさんの横で跳ね、鋭く低く跳ぶ。
抜けるか。
義一が飛び込んで手を伸ばす。
つかんですぐファーストに投げる。
若菜さんが足を開いて塁を踏んだまま、手を伸ばしてそれを捕る。
「アウト」
「ナイスキャッチー」僕はマスクを外して言う。
「ワンナウトー」と義一が返す。
いい感じだ。
次のバッターが入ってくる。
かのえさんはそれを三振にする。
あと一人。
かのえさんが投げる。
バットを大きく振る。
ボールは高く上がる。
「オーライっ」と青池先生が言う。
抜群の安定感でフライをつかみ取る。
スリーアウト、チェンジだ。
青池先生はフォアボールを選び出塁し、竜野が空振りして俺に回ってきた。
「打てるよー」
「えつお、打てるよー」とベンチから掛け声がする。
こういうのは野球部でもあった。
でも、それとは違う。
なんか、いい。
落ち着く。
野球部を捨てた価値はあったかな。
まあ、どっちでもいいや。
とりあえず今は、俺をピッチャーから降ろした奴らにブチかましてやらないと気が済まない。
ふざけんなよ、マジで。
俺はいつも通りバットを握る。
ピッチャーが球を投げる。
違う。
「ボール」
次の球が来る。
違う。
次の球も違う。
スリーボールか。フォアボールは嫌だな。
くそ、入れろよ、雑魚。
次の球が来る。
絶対ボールだ。
でも、ここでかましてやらないと、分かんないんだろうな。
なめんなよ。
思いっきりバットを振ってみる。
決まった。
ボールが外野手を飛び越えて延々と転がっていく。
青池先生は小走りで進んでいく。
俺も追い越さないように気を付けながら進塁する。
到底、ボールが帰ってくるはずもない。
ツーランホームランだ。
最終回、同点、アウト1つ。
まだチャンスだ。
ゆっくり息を吐いて、私はバットを握る。
「かのえさん、大丈夫。打てるよ」と久次郎が声援を送る。
彼は、いつもこう言ってくれる。
かけがえのない大切な仲間だ。
ありがとう。と心の中で言う。
久次郎だけじゃない。
「かのえ、打てるぞー」青池先生。
「かのえちゃん、頑張って」若菜ちゃん。
「打てますよ」義一くん。
「バッター、打てるよー」とえつお。
みんな、私の我儘についてきてくれる優しい人たちだ。
だから、せめて、結果を出して恩返しがしたい。みんなのおかげで私も野球ができてるって、本当に楽しいんだって、それを結果をだすことで伝えたい。
打ちたい。
左のバッターボックスに入る。
自分が左バッターだということも久次郎が教えてくれるまで知らなかった。
バットを肩の上にのせて構える。
「バッター打てるよー」
「大丈夫だよー」
「リラックスー」
応援の声がこれまでにないくらい聞こえる。
少し、泣きそうかもしれない。
そのとき、
「若人のすなる遊びはさわにあれど」
とキャッチャーの方から声がする。
「ベースボールに如くものはあらじ」
思わず振り返る。
ピッチャーの球がグローブに収まる。
「ストライク」
しまった。聞き間違いか。
私はピッチャーのほうを向く。
「なにしよるん。よそ見したらいかんぞな」
え?
一旦、落ち着こう。
私は深呼吸してバットを構える。
久次郎たちの声援が聞こえる。
「がいな声援じゃのぉ」
やっぱり、間違いない。
「うん」と私は答える。
「もっと力を抜いて。違う、違う。腰を落としすぎじゃ」
私はできるだけ、キャッチャーの方から聞こえてくる通りにする。
「あとは自分の気持ちを信じて打つだけじゃ」
私はじっとピッチャーを見る。
「ボールを見て、1、2、3、今じゃ」
私は思いっきりバットを振る。
今までで一番気持ちいい。
入道雲に届くのではないかと思えるくらい。
「あの、名前は?」私は走り出す。
陽炎の中から、微かに返事が聞こえる。
「正岡 升(のぼる)、野ボールじゃ」
ボールは内野の頭の上を超えて、レフトの前へ転がる。
私は一塁を蹴って、少しでて、戻る。
初めて打てた、うれしい。
ベンチのみんなにガッツポーズを見せる。
やった。
そうだ。
キャッチャーの方を見る。
普通の小学生だ。
じゃあ、さっきのは。
ふと空を見上げる。
「だんだん」とつぶやく。
「いいえのことよ」
返事が聞こえたような気がした。
若菜さんは器用にバントをして、かのえさんを二塁、つまり得点圏まで送った。
最終回、ツーアウト、ランナー二塁、4—4の同点。
今までの僕なら、絶対に打てない状況だ。味方側のチャンスで、しかもツーアウト。こんな試合を左右する局面で打席が回ってくるなど最悪でしかない。
それでも、僕は今、すごく打ちたいと思っている。
なぜなら、二塁にいるのがかのえさんだから。
かのえさんがどんなに何を言っても、僕は結局かのえさんが好きなのであって、野球が好きなわけではない。でも、かのえさんに近づく手段が野球になるなら、僕はどこまででも野球を上手くなってやる。
だから、今は、何としても打ちたい。
かのえさんに勝ちをプレゼントしたい。
バットの先を上に向け、引いて構える。
ピッチャーがボールを投げる。
僕はバットを振る。
ボールは相手側のベンチの中へ飛んでいく。
ファールだ。
もう一度、大きく構える。
ボールが来る。
ファール。
ファール、ファール、ファール、ファール。
前に飛べよ。
「久次郎っ」と塁の方から呼ばれる。
ピッチャーの奥にかのえさんが立っている。
「打てなくても大丈夫だよ」
「結果だけで、これまでのことが否定されるわけじゃない。手のひら見たよ、ずっと隠れて素振りしてたんだよね。打てなくても久次郎のやってきたことが無駄になるわけじゃない」
なんで、そんな言い方するんだよ、まるで僕が打てないみたいじゃないか。
僕は足元を見る。
「でもさ」
かのえさんは両手で作った三角を口に当てて言う。
「私は久次郎の打ったボールでホームに戻りたいよ」
本当にわがままで、自由気ままで、それなのにやきもち焼きで、目標ばっかり高くて、いつも周りを巻き込んで。
でも、そんなかのえさんが、僕は大好きだ。
「打って、久次郎」
「分かったよ、かのえさん」
僕はバットを構えなおす。
絶対に打つ。
打って、かのえさんをホームに、勝ちに連れていく。
次の球で決める。
ピッチャーがボールを投げる。
ど真ん中。
思いっきりバットを振る。
金属バットらしい、濃い音が響く。
ボールは外野を超える。
かのえさんは三塁を回る。
外野からボールが帰ってくる。
かのえさんは足を伸ばす。
キャッチャーはグローブでボールをうける。
かのえさんは転ぶように滑りこむ。
土煙が上がる。
僕はホームを見る。
「セーフっ」
かのえさんは立ち上がる。
やった……
4—5
かのえアウトサイダーズのサヨナラ勝ちだ。
僕は走ってホームベースに向かう。
かのえさんも僕の方に向かってくる。
と、そのままかのえさんは僕に飛びつく。
僕はかのえさんを支えきれず、後ろに倒れる。
「やった、勝ったよ、久次郎っ」
かのえさんは僕を抱きしめる。
僕も寝転がったまま、かのえさんを抱きしめる。
「やったね、かのえアウトサイダーズの初勝利だ」
「うんっ、ありがとう、久次郎」
小学生に勝って、高校生が喜んでいる。
しかも、小学生たちの前で寝転んで抱擁している。わざわざ見なくても、親たちが冷たい目で見ていることは感じ取ることができた。
でも、どうでもいい。
どうでもいいんだよ。
グラウンドにはかのえさんがいて、僕がいて、それからチームメイトがいて、あとは勝っているという事実。これが僕らの世界の中心で、全てだった。
つづく
今日はかのえさんに用事があるから、高校の近くの公園で二人でキャッチボールをすることになった。
「グローブがなかなか柔らかくならない」と歩きながらグローブをつけたかのえさんが言う。
「なかなかね」と僕は答える。
二人で出かけて以降、なんとなく、距離が縮まったような気がする。僕の気のせいかもしれない。
公園が見えてくる。今日は誰もいないらしい。四方を緑色のネットで囲われたキャッチボールのできる公園だけど、小さいことどもが来ているときはしないようにしている。
「そういえば、この前一人でここ来た時に——」とかのえさんが言い出した時、一人の少年がかのえさんの前に回り込んだかと思うと、一気にスカートをめくる。
かのえさんのパンツが見えたことよりも、この時代にもこんないたずらをするガキがいることに驚く。
かのえさんは険しい表情でにらみつける。
「クソガキ」
「クソババア」少年はそう言って、走って逃げていく。
僕は恐る恐るかのえさんの顔を見る。
「そういえば、この前一人でここに来た時に少年たちが野球をしてて」かのえさんは平然とさっきの話を再開する。
「その時に通りがかりの私にボールが当たって。投げ返してあげたら変な方向にとんでっちゃったけど、痛かったし、向こうは謝らなかったから、まあいいか、と思ってそのまま立ち去ったことがあって。その時に野球をしていた子供の一人がさっきの子ども」
「そんな感じで、その子どものいるチームと試合することになったから」
どんな感じだよ。
「小学生と試合するんですか?」と竜野が言う。
もっともな疑問だ。
「うん」とかのえは答える。
「ハンデは?」と俺は尋ねる。
「向こうは9人で、こっちは6人。それだけ」
「今回はベースは3つなんだな」
「うん。あ、そういえば、ソフトボールだって」
「は?」
「なんか、地区大会勝って、市大会に進んだ子ども会のチームらしい」
じゃあ、また練習しなきゃいけないわけだな。
試合当日になった。
この前の試合の時と同じような、もしかしたらさらに酷いような真夏日だ。
僕たちは前回と同じかのえアウトサイダーズのユニフォームを着て、相手の小学校に向かった。
「こんなに近いところにソフトボールの強いチームがあったんだ」と若菜さんが言う。この小学校は高校のすぐ近くだ。
グラウンドではすでに小学生たちがキャッチボールをしていた。その中には、かのえさんのスカートをめくったクソガキもいる。
僕たちに気付いて、相手の監督が門のところまで迎えに来てくれる。中年の、細い男だ。多分、選手の誰かの父親だろう。
「練習試合を受けていただき、ありがとうございます」とかのえさんが頭を下げる。僕たちも同じように頭を下げる。
「いえいえ、わざわざご足労いただきありがとうございます」
監督は深々と頭を下げる。クソガキのチームの監督とは思えない礼儀正しさだ。
「では、ベンチに案内します」
僕たちは藤棚の下に並んでいる四つのベンチに案内される。
反対側には運動会で見るような銀色の足に白い屋根のテントが三つ並んでいて、そこにバーベキューで使うようなテーブルとセットの折り畳みの椅子がおかれている。
小学生の選手だけでなく、その親も見に来ているらしい。週末だし、当然のことだろう。
かのえさんは先攻後攻を決めるために、そのテントのほうへ小走りで向かっていく。
「ほう、向こうの応援はすごそうだな」と青池先生が言う。
「青池先生がいれば、大丈夫ですよ」と義一が言う。
「おう。まあな」
かのえさんが戻ってくる。
「後攻」とかのえさんは言う。
「やったね」
今日の試合は45分経った時点での回の裏までと決まっている。つまり通常の野球と同じく後攻が有利だ。
「えつお、ピッチャーやってくれる?」
「俺、投げていいんすか」
「うん。きっと変わってもらう流れになるから。最初はえつお。継投で行こう」
「分かりました。投げたくなったら、いつでも変わりますよ」
えつおはマウンドに向かう。マウンドとはいっても、平地のグラウンドに石灰で線が引いてあるだけだ。僕が防具をつける間、青池先生が投球練習を受ける。
「やっぱムズイっすね、下投げ」
「まあ、慣れだろ。慣れろ」
二人の会話を聞きながら、僕は防具をつけ終わる。
守備の配置はピッチャーがえつお、キャッチャーが僕。一塁が若菜さん、二塁兼ショートがかのえさん、ショート兼三塁が義一、外野を青池先生が一人で守るらしい。明らかに人が足りない。小学生相手だ。これくらいで十分。特にピッチャーは。
ピッチャーは俺だ。
だから、この守備でも問題はない。
審判はよその子ども会の人が来てくれているらしい。ありがたいことだ。
俺は胸の前でボールを構える。
すべてはボールを離すタイミング。これさえ出来れば、ばっちり入る。
そういうのは得意だ。
「プレイっ」と審判が言う。なかなかにキレのある声だ。
少年が「よろしくお願いしますっ」と大きい声であいさつをする。
「頑張れー」
「打てるよー」
「ハヤトくんがんばってー」と親たちのバッターを応援する声が聞こえる。
関係ないね。
よーし、投げるぞ。
勢いをつけて、腕を回す。
それと同時に左足を前に出す。
腕が一周したところで手を放す。
まっすぐボールが飛ぶ。
バッターの少年は大きく空振りをする。
「ストライク」
簡単だ。
結局、あっという間に三人を空振りにし、えつおくんの投球は終わった。
こちらの攻撃では、一番のかのえちゃんが三振して、私の番になる。
「若菜ちゃん、がんばってね」と通りすがりに悔しそうな声で言う。
「うん。ありがと」私は打席に向かう。
私の次は久次郎で、その次が青池先生だ。私が塁に出れば、青池先生まで回る。今度こそ、青池先生の打ったボールで戻って見せる。
ボールが来る。
やっぱり、野球よりゆっくりだ。
バットを振る。
重っ、
ボールはそれて、相手のベンチのほうへ転がっていく。
もう一回。
いや、入らない。
ボールは地面を一度跳ねる。
キャッチャーがボールを返す。
今度こそ、打つ。
ボールが来る。
今。
鈍い。
ボールは前に転がる。
走らないと。
私は思いっきり走る。
サードの子がボールを拾って投げる。
「セーフ」と塁審の人が言う。
「ナイスランっ」とベンチから次々に声が聞こえる。
私は左手を上げてそれにこたえる。
早田が打ち取られて、俺の番が回ってきた。
「青池先生、打てるよー」とベンチから声がする。
この声は早田だな。
まあ、打ってやるよ。
そう思いながら、俺は味方のベンチに背を向けて打席に立つ。
正面には向こう側のベンチが見える。
「タケシくんがんばってー」
「タケシくん入るよー」と声がする。
なるほど。俺が大人だから、気兼ねなくピッチャーを応援できるってわけか。
俺はバットを構える。
タケシくんには悪いが、初球からブチかましてやるぜ。
「タケシくんがんばってー」「タケシくーん」
「タケシー、入るよー」とりわけ熱心だ。きっとタケシの親だな。
ん? この声は……
俺は思わずベンチを見る。
「ストライクっ」と審判が言う。
うるせぇな、審判。今はそんなことはどうでもいい。
なんで、いるんだよ。
なんで、タケシを応援してんだよ、夏海ちゃん。
青池先生が三振して、一回の裏は終わった。
先生が全く打てないなんて、信じられない。
明らかに、チーム内に悪い空気が漂っていた。
僕らが守備に就こうとしていると、審判がやってきた。
「あの、すみません。相手のチームの親御さんから苦情がはいりまして」
あまりの心当たりのなさに、全員がその審判を見る。
「ピッチャーのボールが小学生相手には早すぎて危ないということで、女性のどなたかに代わってほしいと」
「は?」と言ったのは、えつおだった。
「分かりました」とかのえさんが言う。
「おい」
「いいよ。私が投げる」
「いや、おかしい。相手の意見でピッチャーを変えるって、そんな」とえつお。
「いったでしょ。今日は継投になるって。ありがとう、あとは私に任せて」
まさか、ここまで見越していたのか。
かのえさんはグローブをもって、ニヤリと笑って僕を見る。
「分かったよ」と僕は答えて、キャッチャーミットを開いて見せる。
それから僕らはグラウンドに歩いていく。
天気は快晴、暑い。かのえさんが心配だ。
かのえさんは平然とマウンドに立ち、胸の前でボールを構える。
練習はしてある。多分、上から投げるより、ずっといい。
かのえさんはボールを僕のミットに投げ込む。
「いいよ、入ってる」と僕はかのえさんに言う。
それから二球投げたところで、審判がバッターを入れる。
僕はマスクをつける。
「よろしくお願いします」とガタイのいい少年が言う。
打順は4番、きっと飛ばすのだろう。
バッターが構える。
かのえさんも構える。
かのえさんが腕を回す。
ボールがまっすぐ飛び出す。
いいところだ。
いや、よすぎる。
バッターはそれをうまくとらえる。
ボールは外野まで跳ね上がる。
さすがに青池先生でも追いつけない。
ボールが落ちる。
バッターは一塁を蹴って、二塁へ進む。
青池先生がボールを投げる。
二塁についたえつおがボールを受ける。
バッターは滑り込んでいる。
セーフだ。
次のバッターは5番。またしてもガタイがいい。
このバッターはかのえさんのボールをグラウンドの端の垣根の中まで飛ばす。
ホームランだ。
ホームに二人帰ってくる。
2—0だ。
かのえさんは少し焦っているように見える。
僕はかのえさんに向かって「大丈夫だよ」という気持ちを込めて微笑む。
それを見たかのえさんは僕に微笑みかえして、それからグローブを構える。
これはいけるな、と思った。
かのえさんは見事な投球で、残りの三人を打ち取った。
僕はベンチに戻る前に、かのえさんに声をかける。
「ナイスピッチ」
かのえさんは笑って額の汗を拭う。
「ありがとう、久次郎」
かのえさんにそう言ってもらえるだけで、僕がキャッチャーをしている意味はある。
「義一くん、打てるよー」若菜先輩の声がする。
野球は守備で流れを作って、攻撃でそれを生かすらしい。
本当に流れなんてものがあるなら、それは今、こっちに来ている。
押せば、勝てる。
若菜先輩が、かのえ先輩が、みんなが、俺を連れ出してくれたんだ。
今、こんなに野球をしていることが夢みたいだ。
俺は変わる。
多分、野球を始めて、俺は少し変われた。
少なくとも、話せる先輩ができた。若菜先輩だけじゃなくて、久次郎先輩も、かのえ先輩も、青池先生も、えつおも。
だから、ここでもう少し踏み出して、俺は変わるんだ。
二球はボールで、三球目。
来た。
見ててください、若菜先輩。
俺は変わりますよ。
思いっきりバットを振る。
超えろ。
打球はショートの横を通る。
かなり回転がかかってバウンドしている。
さらにセンターとレフトの間を抜ける。
「回れ、義一」と久次郎先輩の声がする。
俺は全力で走って、二塁に滑り込む。
「セーフ」と審判が言う。
よっしゃー。
義一の次のえつおは二塁打を打ち、その間に義一がホームに戻り、一点を返す。
2―1
その次の、かのえさん、若菜さんは打ち取られ、僕も打つことができなかった。
次の守備ではかのえさんが3点を失いながらも守り切り、また僕たちの攻撃になった。
5―1
打順は4番の青池先生からだ。
前回の打席での三振は衝撃的だった。
「なんで、今日打てないんだろう?」と若菜さんが打席に入っていく青池先生を見ながら言う。
「原因はあれだよ」かのえさんは相手のベンチを指さす。
「誰?」
「あれ、一番熱心に応援してる人」
「ああ、あれか」と若菜さん。
大体同じタイミングで僕も分かった。
髪をハーフアップでまとめ上げた、三十代後半に差し掛かったくらいのキレイ気な人だ。
「あの人が、青池先生の初恋の人」
「へー」
「へー」とは言いつつ気が気ではない。
だって、青池先生の初恋の人があんなところに。
しかも、そのせいで打てないって、まだ引きずってるってこと?
「多分、若菜ちゃんなら、青池先生が打てるようにできると思うよ」
「え? どうやって?」
「耳貸して」
かのえさんは若菜さんの耳元で何かをささやく。
くそ、なんでいるんだよ。
そう思いながらバットを構える。
ボールが来る。夏海ちゃんと知らない男の間の子どもの投げたボールが。
絶対に打ち飛ばしてやる。
思いっきりバットを振る。
くそ。空振りだ。ふざけんな。
俺は乱暴に構えなおす。
次の球が来る。
これはボールだな。
「ストライクっ」と審判が言う。
くそ。
やばいな。
追い込まれた。
ピッチャーのタケシが腕を回し、投げるモーションに入る。
ダメだ、打てる気がしねぇ。
その時、
「昇、打てるよ」
っ、夏海ちゃん……
バットを振る。
ボールは放物線を描いて遠くまで飛んでいく。
誰も追おうとするものはいない。
ボールはネットが張られている二階を超え、校舎の三階の窓ガラスを割って教室に飛び込む。
夏海ちゃんの応援のおかげで打てた。
夏海ちゃんの応援?
夏海ちゃんは自分の息子が打たれて、心配した表情でマウンドを見つめる。
もう夏海ちゃんは俺のことを応援したりはしない。それなら誰だ?
俺は味方のベンチを見る。
「やったっ、青池先生」と笑顔でいうのは三好だ。三好の声だったのか。
だったら、夏海ちゃんのおかげじゃなくて、三好のおかげだな。
ベンチに戻って、三好とハイタッチをする。
「よかったね」とかのえ。
「ああ」
4—2。
義一は三振で、えつおが二塁に出て、かのえさんと若菜さんが落ち取られ、2アウト、ランナー2塁の状況で僕に打席が回ってきた。
僕はバットを持って、打席に入る。
「よろしくお願いします」と審判に言う。
チャンスだ。ここで打たなくてはならない。
僕はバットを強く握る。
来い、打ってやる。
ピッチャーが投げる。
いける。
バットを振る。
しまった。
ボールは緩くまっすぐ転がる。
ピッチャーはボールを拾ってファーストに送球する。
スリーアウト、チェンジだ。
また、打てなかった。
「この回が最後になります」と審判が言う。
つまり、ここで守ったら、あとは攻撃して終わりだ。
僕はキャッチャーミットを開く。
かのえさんが腕を振る。
パンっ、という乾いた音を立ててミットにボールが収まる。
間違いなく上達している。
僕はかのえさんに投げ返す。
かのえさんが投げる。
少し浮いたか。
バッターがボールをとらえる。
ボールはかのえさんの横で跳ね、鋭く低く跳ぶ。
抜けるか。
義一が飛び込んで手を伸ばす。
つかんですぐファーストに投げる。
若菜さんが足を開いて塁を踏んだまま、手を伸ばしてそれを捕る。
「アウト」
「ナイスキャッチー」僕はマスクを外して言う。
「ワンナウトー」と義一が返す。
いい感じだ。
次のバッターが入ってくる。
かのえさんはそれを三振にする。
あと一人。
かのえさんが投げる。
バットを大きく振る。
ボールは高く上がる。
「オーライっ」と青池先生が言う。
抜群の安定感でフライをつかみ取る。
スリーアウト、チェンジだ。
青池先生はフォアボールを選び出塁し、竜野が空振りして俺に回ってきた。
「打てるよー」
「えつお、打てるよー」とベンチから掛け声がする。
こういうのは野球部でもあった。
でも、それとは違う。
なんか、いい。
落ち着く。
野球部を捨てた価値はあったかな。
まあ、どっちでもいいや。
とりあえず今は、俺をピッチャーから降ろした奴らにブチかましてやらないと気が済まない。
ふざけんなよ、マジで。
俺はいつも通りバットを握る。
ピッチャーが球を投げる。
違う。
「ボール」
次の球が来る。
違う。
次の球も違う。
スリーボールか。フォアボールは嫌だな。
くそ、入れろよ、雑魚。
次の球が来る。
絶対ボールだ。
でも、ここでかましてやらないと、分かんないんだろうな。
なめんなよ。
思いっきりバットを振ってみる。
決まった。
ボールが外野手を飛び越えて延々と転がっていく。
青池先生は小走りで進んでいく。
俺も追い越さないように気を付けながら進塁する。
到底、ボールが帰ってくるはずもない。
ツーランホームランだ。
最終回、同点、アウト1つ。
まだチャンスだ。
ゆっくり息を吐いて、私はバットを握る。
「かのえさん、大丈夫。打てるよ」と久次郎が声援を送る。
彼は、いつもこう言ってくれる。
かけがえのない大切な仲間だ。
ありがとう。と心の中で言う。
久次郎だけじゃない。
「かのえ、打てるぞー」青池先生。
「かのえちゃん、頑張って」若菜ちゃん。
「打てますよ」義一くん。
「バッター、打てるよー」とえつお。
みんな、私の我儘についてきてくれる優しい人たちだ。
だから、せめて、結果を出して恩返しがしたい。みんなのおかげで私も野球ができてるって、本当に楽しいんだって、それを結果をだすことで伝えたい。
打ちたい。
左のバッターボックスに入る。
自分が左バッターだということも久次郎が教えてくれるまで知らなかった。
バットを肩の上にのせて構える。
「バッター打てるよー」
「大丈夫だよー」
「リラックスー」
応援の声がこれまでにないくらい聞こえる。
少し、泣きそうかもしれない。
そのとき、
「若人のすなる遊びはさわにあれど」
とキャッチャーの方から声がする。
「ベースボールに如くものはあらじ」
思わず振り返る。
ピッチャーの球がグローブに収まる。
「ストライク」
しまった。聞き間違いか。
私はピッチャーのほうを向く。
「なにしよるん。よそ見したらいかんぞな」
え?
一旦、落ち着こう。
私は深呼吸してバットを構える。
久次郎たちの声援が聞こえる。
「がいな声援じゃのぉ」
やっぱり、間違いない。
「うん」と私は答える。
「もっと力を抜いて。違う、違う。腰を落としすぎじゃ」
私はできるだけ、キャッチャーの方から聞こえてくる通りにする。
「あとは自分の気持ちを信じて打つだけじゃ」
私はじっとピッチャーを見る。
「ボールを見て、1、2、3、今じゃ」
私は思いっきりバットを振る。
今までで一番気持ちいい。
入道雲に届くのではないかと思えるくらい。
「あの、名前は?」私は走り出す。
陽炎の中から、微かに返事が聞こえる。
「正岡 升(のぼる)、野ボールじゃ」
ボールは内野の頭の上を超えて、レフトの前へ転がる。
私は一塁を蹴って、少しでて、戻る。
初めて打てた、うれしい。
ベンチのみんなにガッツポーズを見せる。
やった。
そうだ。
キャッチャーの方を見る。
普通の小学生だ。
じゃあ、さっきのは。
ふと空を見上げる。
「だんだん」とつぶやく。
「いいえのことよ」
返事が聞こえたような気がした。
若菜さんは器用にバントをして、かのえさんを二塁、つまり得点圏まで送った。
最終回、ツーアウト、ランナー二塁、4—4の同点。
今までの僕なら、絶対に打てない状況だ。味方側のチャンスで、しかもツーアウト。こんな試合を左右する局面で打席が回ってくるなど最悪でしかない。
それでも、僕は今、すごく打ちたいと思っている。
なぜなら、二塁にいるのがかのえさんだから。
かのえさんがどんなに何を言っても、僕は結局かのえさんが好きなのであって、野球が好きなわけではない。でも、かのえさんに近づく手段が野球になるなら、僕はどこまででも野球を上手くなってやる。
だから、今は、何としても打ちたい。
かのえさんに勝ちをプレゼントしたい。
バットの先を上に向け、引いて構える。
ピッチャーがボールを投げる。
僕はバットを振る。
ボールは相手側のベンチの中へ飛んでいく。
ファールだ。
もう一度、大きく構える。
ボールが来る。
ファール。
ファール、ファール、ファール、ファール。
前に飛べよ。
「久次郎っ」と塁の方から呼ばれる。
ピッチャーの奥にかのえさんが立っている。
「打てなくても大丈夫だよ」
「結果だけで、これまでのことが否定されるわけじゃない。手のひら見たよ、ずっと隠れて素振りしてたんだよね。打てなくても久次郎のやってきたことが無駄になるわけじゃない」
なんで、そんな言い方するんだよ、まるで僕が打てないみたいじゃないか。
僕は足元を見る。
「でもさ」
かのえさんは両手で作った三角を口に当てて言う。
「私は久次郎の打ったボールでホームに戻りたいよ」
本当にわがままで、自由気ままで、それなのにやきもち焼きで、目標ばっかり高くて、いつも周りを巻き込んで。
でも、そんなかのえさんが、僕は大好きだ。
「打って、久次郎」
「分かったよ、かのえさん」
僕はバットを構えなおす。
絶対に打つ。
打って、かのえさんをホームに、勝ちに連れていく。
次の球で決める。
ピッチャーがボールを投げる。
ど真ん中。
思いっきりバットを振る。
金属バットらしい、濃い音が響く。
ボールは外野を超える。
かのえさんは三塁を回る。
外野からボールが帰ってくる。
かのえさんは足を伸ばす。
キャッチャーはグローブでボールをうける。
かのえさんは転ぶように滑りこむ。
土煙が上がる。
僕はホームを見る。
「セーフっ」
かのえさんは立ち上がる。
やった……
4—5
かのえアウトサイダーズのサヨナラ勝ちだ。
僕は走ってホームベースに向かう。
かのえさんも僕の方に向かってくる。
と、そのままかのえさんは僕に飛びつく。
僕はかのえさんを支えきれず、後ろに倒れる。
「やった、勝ったよ、久次郎っ」
かのえさんは僕を抱きしめる。
僕も寝転がったまま、かのえさんを抱きしめる。
「やったね、かのえアウトサイダーズの初勝利だ」
「うんっ、ありがとう、久次郎」
小学生に勝って、高校生が喜んでいる。
しかも、小学生たちの前で寝転んで抱擁している。わざわざ見なくても、親たちが冷たい目で見ていることは感じ取ることができた。
でも、どうでもいい。
どうでもいいんだよ。
グラウンドにはかのえさんがいて、僕がいて、それからチームメイトがいて、あとは勝っているという事実。これが僕らの世界の中心で、全てだった。
つづく
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