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第1章 麻倉 斗和
#19
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「今日もお疲れ様でした」
「お疲れ様。雫さんもお疲れ様」
「ありがとうございます」
「あぁー、我ながら美味しそうだね」
「はい。特にこの音と香りがたまりませんね」
ちんと軽やかな音を手元に持ったグラスで鳴らし合うと、仕事モードであった体から電源が切れたように僕の気持ちが緩む。毎日のことだけれど、仕事を終えてありつく夕食は多分何を食べても美味しく感じる自信がある。今日は僕が作った特製ビビンバ。無性に韓国料理が食べたくなった僕が選んだのはやっぱりビビンバだった。それに、ビビンバは石焼きに限る。食べなくても分かる。この肉や米がコチュジャンと一緒に焼ける音と匂い。本当にたまらない。猫舌の僕は早く食べたい一心でスプーンに乗っている卵にまぶされた米ともやしに息を吹きかける。僕より先にそれを口に入れた雫さんはテーブルの向こう側で悶絶していた。
「あぁー! 美味しい! 何で先生は料理も上手なんですか? 欠点とかありませんよね! いつも思いますけど!」
「いやいや。僕よりも雫さんの料理の方が美味しいでしょ」
「んなことありませんから! 馬鹿にしてるでしょ!? 私のこと!」
「はは。してないから。褒めてしかないから」
ビビンバのお供にはマッコリでしょうと笑顔で話していた雫さんに促されるままスーパーで買ったそれを一口飲んだ雫さんは、すでに顔が赤くなっている。酒に弱い雫さんが何故、今日は飲みたくなっているのだろう。まぁ幸せそうな笑顔で食事をしている彼女を見ているとどうでもよく思えてくるけれど。
「あぁー、でもこうなるとチャンジャとチヂミも買っておけばよかったですね! トッポギだけじゃサイドメニュー、心細すぎましたね」
「そう言うと思ってね、買ってきたよ。チャンジャ。あと、ユッケも」
冷蔵庫からそれの入ったビニール袋を持ってくると、雫さんは待ちきれずに椅子から勢いよく立ち上がった。テーブルの裏の板に太ももを打ち付けていたような気がしたけど、彼女はそれを気にせずに袋の中を覗き込んだ。酒の入った雫さんは普段の3割増しで声と動きが大きくなる。そこも彼女の面白いところのひとつだ。
「やっぱり神ですね、先生! チャンジャのみならずユッケまで! しかもこれ、私の好きな焼肉屋さんが売ってるやつじゃないですか! いつ買いに行ってたんですか?」
「買い出しから帰ってきてランニングがてら外に出た時にこっそり買ってきてたんだ。最近の雫さんは特に頑張ってるからね。そのお礼にね。チヂミは無くてごめんだけどね」
「いいんです、ユッケもあるし先生のビビンバもあるし! 駄目だ、ダイエットを決意してたのにこんな調子じゃ絶対結果出ない!」
「ダイエットするの? そんなにスタイルいいのに?」
素朴に抱いた質問を彼女に問うと、彼女は眉間に皺を寄せ睨みつけるように「スタイル良くないって思ってるのにそんなこと言わないでください!」と、隣に家があったらそこに住んでいる人に聞かれそうなぐらい大きな声で叫ばれた。
「ごめんごめん。僕はそう思ったんだけどね。雫さんには雫さんのイメージする理想があるってことだよね」
「そうですよ! 人の努力を否定しちゃいけませんよ!」
「ダイエットを決意って言ってたけど、それってまだ努力は始まってないんじゃないの?」
「……細かいことも言っちゃいけません!」
どんどん顔の赤くなる雫さんの頬は、熱が出ているのかと思えるぐらいになっていた。
「そっかぁ。雫さんが努力をするなら、僕も何か頑張ること見つけないといけないかなぁ」
「頑張ること? 先生は仕事を頑張ってるじゃないですか」
「ううん、仕事とは関係ないものでさ、何て言うんだろう。趣味になるようなものを見つけられたらなって思ったりしてるんだけどね」
黒い器のへりにコチュジャンのついた米やもやしを貼り付けるようにヘラで押しつけながら自分の胸中を雫さんに話すも、彼女は僕の言葉を理解しているのかしていないのか、グラスの縁を指で撫でながら天井を見つめている。
「僕って何事にも興味が持てないじゃん? 仕事に繋がっていくことならどんどん取り入れようって思えるんだけどさ。料理とか音楽とかね。でも、それ以外の知識にはまるで関心がいかないとこを変えた方がいい気がしてさ。これは時間の無駄とか思っちゃダメだろうなぁって思ったりとかね」
「……テニスとか?」
「テニス?」
じっと黙り込んでいた雫さんが不意に発した言葉が「テニス」だったことに驚いたのもあるけれど、どちらかと言うと僕の発言を聞いていて答えを見つけ出そうとしてくれていたことに驚いた。それにしても、何でテニスなんだろう。聞いてみよう。
「何でテニス? 僕、スポーツとかあんまりしたことないよ」
「何をしている先生が一番カッコいいかなーって考えた答えがテニスでした! もちろん見たことはないしイメージでしかありませんけど、サーブを打った後のヘソチラとかがすごく萌えそうなので!」
ほぼ彼女の性癖のような理由でテニスが選ばれたが、納得するわけもなく彼女の酔いが順調に進んでいることだけが分かった。てか、せめてラケット握ってる姿とかにしてほしかったな。何だ、ヘソチラって。初めて聞いたわ。
「テニスとかできる体力、僕にあると思う?」
「もちろん皆無ですよね!」
「……」
こんなに即答する雫さんは、本当に何でテニスって言ったんだ。逆にこっそり練習してめちゃくちゃ上手くなったところを見せつけてやろうかと火がつきそうになったけど、多分やらないだろうな。
「あ、わりと真剣にオススメできる趣味ありました! これなら先生の体にも普段はかからないし、何となく先生には似合いそうな気もします」
「え、なになに? そんな趣味ある?」
「ふふ……! 小説です!」
「小説?」
ドヤ顔で僕を見つめる雫さんは、ふわふわとした足取りで踊るようにテレビの元にある文庫本を持ってきて僕の手元にそれを置いた。タイトルは『吾輩は時々、黒猫である。』と書かれている。何かこんなタイトルの有名作品が学生の頃、授業で習ったことがある気がするけど。
「読書はあんまり得意じゃないなぁ。しかもこの本って、結構昔の文章が使われてるような本じゃないの? タイトルが国語の授業で聞いたことあるんだけど」
「あはは! それ、違う作品ですよ! タイトルだけオマージュしてあって、物語や文章はしっかり現代の作品ですよ。先生、国語はあんまり得意じゃなかったんでしたっけ?」
「正直、あんまり覚えてないんだよね。だからこの歳になって本を読むのが面白いと思えるか自信は無いんだよ。細かい字が見えなかったりするかもしれないしね」
雫さんが酔った足取りで紹介してくれた趣味候補を否定するわけじゃないけれど、僕は自分が本を読んでいる姿をイメージすることが到底できない。彼女は似合うかもって言っているけれど、それも彼女の性癖目線だろうか。
「細かい字はいつも仕事で見てるでしょ!? ほら、先生! まずは騙されたと思って冒頭だけでも読んでみてくださいよ。私もそんなに本は詳しくないですけど、この作家さんの本は読んでいて心が落ち着くし、すぐに続きを読みたくなるので好きなんです。ほら!」
彼女はそれを手に取ってほしくてたまらないと言いたげな目で僕をじっと見つめている。まぁ実際、僕が言い出しっぺだけれど。雫さんには悪いが今はそれよりも頭の中はビビンバになっていた。
「ありがとう。じゃあとりあえず、これを食べてから読んでみるよ。焼き過ぎるとおこげがおこげじゃなくなっちゃうかもしれないからさ。ほら、雫さんの方も放置しすぎじゃない? 椅子、座りなよ」
「あ、忘れてた! あぁ、焦げてるー! 真っ黒だー!」
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