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第18章 負けるが勝ち
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ディケーレさんのお葬式はどんよりとした、雨が降りそうで降らない午後に執り行われました。病院の敷地内にある墓地で行われた葬儀には、ニカをはじめとした看護師や医師、病院関係者、入院中にできた友達、それにエレンとリンとフラッフィが参加しました。しかし故人が生前あれほど会いたがっていたターセさんは姿を現しませんでした。
エレンはニカに住所を聞いて電報を打ちましたが、何も連絡はありません。ターセさんが喪主をつとめてくれない以上、ディケーレさんが住んでいた町や親戚、友人が分かる人がおらず、昔からディケーレさんを知る人が一人もいない葬儀になりました。
エレンとなんとなく距離ができてしまったリンとフラッフィは、急遽参加することになった二人組の医者の話を聞くともなく聞いていました。
「直接の死因って聞いたか?」
一方が尋ねると、もう一方の医者は首を横に振りました。
「なんでも身体に悪いところは一つもなくて、主治医も首を捻っているらしい。原因があるとしたら精神的ショックだろうって」
フラッフィは身震いしました。
「フラッフィは図太いから心配いらないよ。なにしろあのケーニヒの店で生き残ったんだ。それより心配なのはエレンだ」
先ほどからことあるごとに遠くを見ているエレンを、リンはあごでしゃくりました。
「あいつ、なんだかんだいい子ちゃんだろ。周りには見せないけれど、相当傷ついていると思う」
「何ともないとは思わないけど、自分でコントロールできるタイプなんじゃない」
リンはフラッフィを小突きました。
「ばか。あの年でそんな術を身につけみろ。あとでぶっ壊れちまう。僕にはよく分かる」
フラッフィが口を開きかけたとき、バラバラバラバラという音が上空でしたので、その場にいた全員が空を見上げました。
それはオリーブグリーンの小さなヘリコプターでした。機体はしばらくその場でホバリングしていましたが、やがて葬儀の列から少し離れたところまで移動すると、静かに着陸しました。
プロペラが余韻で回り続ける中、ヘリコプターから現れたのは背の高い女の人。その人は白金の髪をドレッドヘアにしていて、他の人が着ている喪服とは違う、アジア風の黒い服を着ています。
「なにかの演出?」
フラッフィが小声で訪ねると、リンは首をひねりました。
その場にいた全員が女の人を見つめていましたが、女の人はまったく気にする様子もなく、プロペラの残りの風に髪と服をなびかせながら棺に駆け寄りました。
「あんなに手紙に死ぬ死ぬ書いたら誰だって信じなくなるわ。それなのに本当に死んじゃうなんて! お父さんは馬鹿よ」
女の人がわっと泣き出したこの瞬間、みんながなんとなく抱いていた推測は確固とした事実になりました。そう、この人がディケーレの娘、ターセでした。
「こんなことなら早く会いに来ればよかった。きちんと仲直りしたかった。どうして無意味な意地を張って謝ることができなかったのかしら」
ターセは咽び泣きました。しかしその瞬間、信じられないことが起こりました。なんと死んだはずのディケーレ老人がしくしく泣きはじめたのです。もとから皺だらけの顔はさらにしわしわになり、老人がしゃくりあげるので、胸のところで組んでいた手や棺の中の花は老人の呼吸に合わせて小刻みに震えています。
「フラッフィ。死んだ人が泣いているように見える僕っておかしい?」
「僕もおかしいか、二人ともおかしくないかのどっちかだね。だって僕もそう見えるもの」
狼狽えるリンにフラッフィは冷静な助言をしました。
意外すぎることが起こって、ターセは口をあんぐり開けたまま父親を見つめました。老人は棺の中でずーずー泣いています。
「わしが悪かったんじゃ。会いに来ないなら死ぬと脅したりして。なんて馬鹿だったんだろう」
すると突然ターセは笑い出しました。吹っ切れたみたいに明るい声です。
「それはこっちのセリフ! 私こそすぐに折れればよかった。でもまた生きて会えたんですもの。こんな嬉しいことはないわ。たとえこんな芝居を打たれてもね」
芝居? リンとフラッフィは顔を見合わせました。どうやらディケーレじいさんとエレンにいっぱい食わされたようです。二人はちょっと腹が立ちました。しかしすぐにどうでもよくなりました。
「どちらが勝ったとか負けたとか、どうでもいい。とにかく生きていること! それが大切なんだわ」
ターセは棺ごとお父さんを抱きました。ディケーレ老人の顔はもう紙くずみたいに皺くちゃです。
「その通り。つまらん意地の張り合いは今すぐやめた方がいい。わしは全世界にそう言ってやりたい」
老人はまるで自分に言い聞かせるように、ことばを噛みしめました。けれどふと、ゆっくりと首を横に振り、こう言いました。
「いや、待てよ。勝ち負けはどうでもいいとターセは言ったが」
ターセが訝しそうに顔を歪めたので、フラッフィは額に手を当てて小さく叫びました。
「せっかく仲直りできたのに、あのじいさんは!」
「―負けるが勝ち。そう、負ける方が勝ちなんだ。だってこんなにいいことがあるんだぞ。負けた方が絶対にいいに決まっている!」
老人がいたずらっぽく笑うと、ターセもお父さんには負けたわ、と言いました。するとどこからともなく拍手が起こって、エレンもリンもフラッフィも、その場にいた誰もが素敵な映画を見たときのような幸せな気持ちになりました。だからブッシュ医師が、自分も敢えて患者に負けて病気を聞いているのだ、自分が病気を決めてかかって、患者のためによかれと思ったことがかえって症状を悪化させることもあるから云々・・・と呟くのも、あまり気にかかりませんでした。
さてウィデ市とアウディ市の両軍の戦場は膠着状態が続いていました。互いにぼろぼろになっているのに誰も辞めようと切り出さないので、本当はもう戦いたくない子も、敵の報復をおそれて武器を手放せないのです。しかしそんな状況の中、突如オリーブグリーンのヘリコプターが乱入したので、その場は騒然となりました。
ヘリコプターが、両陣営が睨みを利かせるだけで立ち入らない空間に着陸すると、あたりは水を打ったようにしーんと静まり返りました。空からやってきたのが一体何者なのか、みな固唾を飲んで見守っています。と、機体の扉があいて、緑色の一枚布でできた服を着た背の高い人物が現われました。それは棺の次に戦場へ乗り込んだディケーレ氏そのひとで、彼は娘と再会して以来、見違えるほどしゃっきりしていました。いえ、というより元の溌剌とした人間に戻っていました。
これはエレンたちもつい先ほど知ったことなのですが、以前のディケーレは地元でも有名な平和活動家で、議員としても一目を置かれる存在でした。しかし自分ひとりがどんなに反戦を訴えても、議会の過半数が賛成しないと何も変わらない民主主義の前に無力を感じ、あるとき彼は議員を辞職して、地元の子どもたちに柔道を教えるようになりました。娘のターセは平和のために働く父を尊敬していたので、なんとか政治家に戻るよう再三言い聞かせましたが、ある日決壊したダムみたいに濁ったことばがディケーレの口から溢れ出しました。理想と現実は違う、一人で頑張っても何も変わらない。だから自分がどう生きようと放っておいてくれと。
しかしこの発言でディケーレはターセを失うことになりました。血気盛んなターセは、一人でも世界は変えられる、自分はそんな人間になるんだ、と啖呵を切って、当時できたばかりの子どもたちの理想郷アウディ市に行ってしまったのです。そこは子どもたちが大人の干渉を受けずに自由に学び、自由に未来を創造できると謳っていました。そして実際ターセは、ヘリコプターを使って町に絵を描くアーティストになりました。
「でもお父さんの言っていたことは正しかった。一人で世界を変えるのはものすごく大変なこと。特に芸術は政治と違って具体的でもないし、いくら平和を訴えても伝わるかは見る人次第。現に私の育った町でも戦争が起きてしまった」
ターセはしょんぼりと言いました。しかしディケーレ老人は力強く娘の手を握りました。平和を唱え続けることこそ尊く、お前を誇りに思うよ、と。すると突然、エレンが叫びました。
「みんなで証明しようよ。小さな力でも、人によってはナンセンスなことでも世界を変えられるってことを!」
戦場の真っ只中、緑の衣を纏ったディケーレ老人は「ウィデ市立病院」と書かれた拡声器のスイッチを入れました。音量の調整が合わず、キーンという嫌な音が一瞬鳴り響きましたが、老人は慌ててつまみを直すと、改めて子どもたちに語りかけました。
「これは失礼。えーと何から言うんだったかな。あぁ、そうだ。わしはディケーレ・パックス。見ての通りの年寄だ。しかしその分、君たちが知らないことも知っている。どうかひとつ、この老いぼれの話に耳を貸してくれないかね」
ディケーレが名乗ると、腕が痺れかけていたほとんどの子どもたちは、待ってましたとばかりに武器を下ろしました。しかし一部の「大人っぽい」子どもたちは武器を構えたまま、大人は口を出すなとか、混乱に乗じて占領する気だとか罵声を浴びせました。するとヘリコプターから出てきたターセが、お父さんの拡声器を奪いました。
「そういう態度なら王様にはこう報告するわ。やっぱり子どもたちだけでやっていくのは無理だから、大人が見てやらないとダメですって」
王様という単語を聞いたとたん、あれほど過激だった子どもたちは、ぱっと口をつぐみました。どうやらディケーレ老人を王様の使者だと思い込んだようです。
拡声器を父親に返したターセは、子どもたちから見えない方の目でウィンクしました。すると、老人はまるでカチンコが鳴って急変する俳優のように、たっぷりとアドリブを交えながら見事な演説を始めました。さすがは元議員。往事を彷彿とさせる、その堂々たるパフォーマンスに聴衆は酔いしれました。
「親愛なるウィデ、アウディの市民諸君。君たちが両都市を委ねられたのは、様々な柵に縛られ、頭の固くなった大人たちとは一線を画した子どもたちのユートピアを手に入れるためだ。しかし最近の君たちときたらどうだ。自由や創造的文化を謳歌するどころか、破壊を繰り返すばかり。そもそもなぜこんなことになってしまったんだろう」
すると子どもたちは銘々自分の信じる大義を口にしました。いつも見られているというような些細な思い込みから、争い合っているうちに階段から落ちたという事件性のあるものまで、理由は実に多種多様です。しかしあっちの子が線をはみ出して家を建てられたと主張すれば、こっちの子は先に侵入したのは向こうだと言い、馬鹿にされたと怒りをあらわにする子がいれば、あいつは僕をひがんでいると言う子が現れるといった具合に、問題解決の手がかりを探すどころか、かえって事態はとっちらかりました。さらに、ある女の子の発言は決裂を決定的なものにしました。
「アウディのやつらは、ウィデの黄色いウサギ像の千里耳を折ったのよ」
ウィデの中でも年長の、眉の濃いおかっぱの女の子が分かりやすく顔を歪めると、普段は温厚そうな、アウディの博士少年は負けじと言い返しました。
「そっちこそアウディの宇宙の瞳を盗んだじゃないか。おかげで青いフクロウは目くらになってしまったんだ!」
聞けば、双方が被害を受けたのは、それぞれの市のシンボル像でした。長い耳のついたウィデ市の黄色いウサギは、子どものどんな小さな声も聞き逃さない都市になろうという思いが込められた銅像で、他方アウディの青いフクロウは、宇宙を閉じ込めたような珍しい鉱石を目に持つモニュメントで、これは宇宙のように広い視野を持ち続けようという市民の願いを表したものでした。しかしそんな美しい思いが込められた作品を巡ってこんな諍いが起きたのでは、ウサギもフクロウもその耳目を覆いたくなるに違いありません。そしてそれはディケーレ氏も同じでした。
「やめい! やめ、やめ!」
拡声器の音が割れるほどの大声をディケーレ氏が出すと、子どもたちはやっと口をつぐみました。
「両市の象徴に起きたことは大変残念に思う。しかし証拠がない以上相手を犯人だと決めつけてはならないし、むしろ同じ悲しみを分つ者として、手を差し伸べるくらいの気概を持ってほしいものじゃ。かといって疑心暗鬼になっている君たちが、それで仲直りできるとも思えん。形だけの和平を結んで、すぐに戦争を再開した連中を沢山見てきたからな。そういうわけで、わしは双方納得がいくまで戦ってほしいと思っておる。全力を尽くした結果なら誰も文句は言わないからな」
ディケーレ老人はそういうと拡声器を置いて、地声で語りはじめました。
「ルールは簡単。より強い武器を出した方が勝ち。しかし武器は相手に向けて使うのではなく、捨てるために出す。より強い武器を手放す方が、勇気がいるからな。トランプ同様、より強いカードを出した方が勝ちというわけだ」
ディケーレ老人がこういうと、場内は一気にざわつきました。せっかく開発した武器を放棄しろだって? 相手が裏切ったらやられてしまうではないか、と。しかし賢しらな子どもたちが躊躇する中、一番小さな女の子が元気よく手を挙げました。
「私、これを出すわ。だって全然楽しくないんだもの」
女の子はゴムの力で玉を飛ばすパチンコを差し出しました。するとディケーレは代わりに風船をあげました。どうせ空に飛ばすなら、落っこちなくてキレイな方がいいだろうから、と。
赤い風船をもらった女の子がスキップしながら去ると、ヘリコプターのまわりには子どもたちが殺到しました。子どもたちは先ほどまできつく握っていた武器をいとも簡単に投げ捨て、ヘリコプターに積まれたおもちゃに我も我もと手を伸ばしてきたのです。
おかげで最初はのんびり構えていたエレンたちは、急遽おもちゃのバケツリレーをすることになりました。弓矢を差し出した子にはヴァイオリンを、剣を捨てた子にはホッピングを、ウォーターガンを出した子にはシャボン玉を。軍を指揮する警笛にはピロピロ笛を贈り、盾にはスケートボードをあげました。
用意したおもちゃが底をつく頃には、ヘリコプターの前には武器の山が出来上がっていました。最初の女の子が放棄したパチンコのような子どもだましの武器から、病院でエレンを襲った子ども用手榴弾のような殺傷能力のある武器(ちなみに彼は野球のボールとグローブをもらいました)、はたまた大人が戦争で使いそうな、言うのもおぞましい巨大兵器の試作品までありました。
この試作品を持ってきたのは、先ほど青いフクロウ像について発言した少年博士でしたが、彼は、大きな目をしたロボットが主人公のマンガを受け取ると、こういうのを作りたいと笑顔を見せました。
さていよいよヘリコプターがすっからかんになると、ターセはおもちゃが行き渡らなかった子どもたちに大きな刷毛を渡しました。
「好きな色を好きなだけ、好きなところに!」
絵の具のたっぷり入った大きなバケツが並べられると、子どもたちの目はきらきら輝きました。
町はあっという間に様変わりしました。家も車も洋服もカンバスになったいま、刷毛を持つ子も持たない子も、絵の具を思い思いに走らせて、町に虹の雨が降ったみたい。ついさっきまで青と黄色にきっちり塗り分けられていたとは、とても信じられません。
しかし絵の具が塗り替えたのは、目に見えるものだけではありません。ウィデとアウディの子どもたちが一緒に遊ぶ様子がそこかしこで見られましたし、可愛いフラッフィはもちろん、普段は格好つけのリンでさえ、子どもたちと本気で絵の具のつけ合いっこをしています。
それにエレンも少し変わりました。前はレネのことで頭がいっぱいだったのに、街角でバケツをひっくり返したレネが、身体を虹色にして跳ね回っているのを見ても、ニカと博士少年と軍曹とキャッチボールをする方が大事に思えたのです。色が変わっただけでこんなに打ち解けられるなんてカメレオンみたい!
エレンは思わず、ターセに目で合図を送りました。するとターセもそうでしょう、という風に微笑みました。色と形と笑い声が溢れる美しい午後のことでした。
エレンはニカに住所を聞いて電報を打ちましたが、何も連絡はありません。ターセさんが喪主をつとめてくれない以上、ディケーレさんが住んでいた町や親戚、友人が分かる人がおらず、昔からディケーレさんを知る人が一人もいない葬儀になりました。
エレンとなんとなく距離ができてしまったリンとフラッフィは、急遽参加することになった二人組の医者の話を聞くともなく聞いていました。
「直接の死因って聞いたか?」
一方が尋ねると、もう一方の医者は首を横に振りました。
「なんでも身体に悪いところは一つもなくて、主治医も首を捻っているらしい。原因があるとしたら精神的ショックだろうって」
フラッフィは身震いしました。
「フラッフィは図太いから心配いらないよ。なにしろあのケーニヒの店で生き残ったんだ。それより心配なのはエレンだ」
先ほどからことあるごとに遠くを見ているエレンを、リンはあごでしゃくりました。
「あいつ、なんだかんだいい子ちゃんだろ。周りには見せないけれど、相当傷ついていると思う」
「何ともないとは思わないけど、自分でコントロールできるタイプなんじゃない」
リンはフラッフィを小突きました。
「ばか。あの年でそんな術を身につけみろ。あとでぶっ壊れちまう。僕にはよく分かる」
フラッフィが口を開きかけたとき、バラバラバラバラという音が上空でしたので、その場にいた全員が空を見上げました。
それはオリーブグリーンの小さなヘリコプターでした。機体はしばらくその場でホバリングしていましたが、やがて葬儀の列から少し離れたところまで移動すると、静かに着陸しました。
プロペラが余韻で回り続ける中、ヘリコプターから現れたのは背の高い女の人。その人は白金の髪をドレッドヘアにしていて、他の人が着ている喪服とは違う、アジア風の黒い服を着ています。
「なにかの演出?」
フラッフィが小声で訪ねると、リンは首をひねりました。
その場にいた全員が女の人を見つめていましたが、女の人はまったく気にする様子もなく、プロペラの残りの風に髪と服をなびかせながら棺に駆け寄りました。
「あんなに手紙に死ぬ死ぬ書いたら誰だって信じなくなるわ。それなのに本当に死んじゃうなんて! お父さんは馬鹿よ」
女の人がわっと泣き出したこの瞬間、みんながなんとなく抱いていた推測は確固とした事実になりました。そう、この人がディケーレの娘、ターセでした。
「こんなことなら早く会いに来ればよかった。きちんと仲直りしたかった。どうして無意味な意地を張って謝ることができなかったのかしら」
ターセは咽び泣きました。しかしその瞬間、信じられないことが起こりました。なんと死んだはずのディケーレ老人がしくしく泣きはじめたのです。もとから皺だらけの顔はさらにしわしわになり、老人がしゃくりあげるので、胸のところで組んでいた手や棺の中の花は老人の呼吸に合わせて小刻みに震えています。
「フラッフィ。死んだ人が泣いているように見える僕っておかしい?」
「僕もおかしいか、二人ともおかしくないかのどっちかだね。だって僕もそう見えるもの」
狼狽えるリンにフラッフィは冷静な助言をしました。
意外すぎることが起こって、ターセは口をあんぐり開けたまま父親を見つめました。老人は棺の中でずーずー泣いています。
「わしが悪かったんじゃ。会いに来ないなら死ぬと脅したりして。なんて馬鹿だったんだろう」
すると突然ターセは笑い出しました。吹っ切れたみたいに明るい声です。
「それはこっちのセリフ! 私こそすぐに折れればよかった。でもまた生きて会えたんですもの。こんな嬉しいことはないわ。たとえこんな芝居を打たれてもね」
芝居? リンとフラッフィは顔を見合わせました。どうやらディケーレじいさんとエレンにいっぱい食わされたようです。二人はちょっと腹が立ちました。しかしすぐにどうでもよくなりました。
「どちらが勝ったとか負けたとか、どうでもいい。とにかく生きていること! それが大切なんだわ」
ターセは棺ごとお父さんを抱きました。ディケーレ老人の顔はもう紙くずみたいに皺くちゃです。
「その通り。つまらん意地の張り合いは今すぐやめた方がいい。わしは全世界にそう言ってやりたい」
老人はまるで自分に言い聞かせるように、ことばを噛みしめました。けれどふと、ゆっくりと首を横に振り、こう言いました。
「いや、待てよ。勝ち負けはどうでもいいとターセは言ったが」
ターセが訝しそうに顔を歪めたので、フラッフィは額に手を当てて小さく叫びました。
「せっかく仲直りできたのに、あのじいさんは!」
「―負けるが勝ち。そう、負ける方が勝ちなんだ。だってこんなにいいことがあるんだぞ。負けた方が絶対にいいに決まっている!」
老人がいたずらっぽく笑うと、ターセもお父さんには負けたわ、と言いました。するとどこからともなく拍手が起こって、エレンもリンもフラッフィも、その場にいた誰もが素敵な映画を見たときのような幸せな気持ちになりました。だからブッシュ医師が、自分も敢えて患者に負けて病気を聞いているのだ、自分が病気を決めてかかって、患者のためによかれと思ったことがかえって症状を悪化させることもあるから云々・・・と呟くのも、あまり気にかかりませんでした。
さてウィデ市とアウディ市の両軍の戦場は膠着状態が続いていました。互いにぼろぼろになっているのに誰も辞めようと切り出さないので、本当はもう戦いたくない子も、敵の報復をおそれて武器を手放せないのです。しかしそんな状況の中、突如オリーブグリーンのヘリコプターが乱入したので、その場は騒然となりました。
ヘリコプターが、両陣営が睨みを利かせるだけで立ち入らない空間に着陸すると、あたりは水を打ったようにしーんと静まり返りました。空からやってきたのが一体何者なのか、みな固唾を飲んで見守っています。と、機体の扉があいて、緑色の一枚布でできた服を着た背の高い人物が現われました。それは棺の次に戦場へ乗り込んだディケーレ氏そのひとで、彼は娘と再会して以来、見違えるほどしゃっきりしていました。いえ、というより元の溌剌とした人間に戻っていました。
これはエレンたちもつい先ほど知ったことなのですが、以前のディケーレは地元でも有名な平和活動家で、議員としても一目を置かれる存在でした。しかし自分ひとりがどんなに反戦を訴えても、議会の過半数が賛成しないと何も変わらない民主主義の前に無力を感じ、あるとき彼は議員を辞職して、地元の子どもたちに柔道を教えるようになりました。娘のターセは平和のために働く父を尊敬していたので、なんとか政治家に戻るよう再三言い聞かせましたが、ある日決壊したダムみたいに濁ったことばがディケーレの口から溢れ出しました。理想と現実は違う、一人で頑張っても何も変わらない。だから自分がどう生きようと放っておいてくれと。
しかしこの発言でディケーレはターセを失うことになりました。血気盛んなターセは、一人でも世界は変えられる、自分はそんな人間になるんだ、と啖呵を切って、当時できたばかりの子どもたちの理想郷アウディ市に行ってしまったのです。そこは子どもたちが大人の干渉を受けずに自由に学び、自由に未来を創造できると謳っていました。そして実際ターセは、ヘリコプターを使って町に絵を描くアーティストになりました。
「でもお父さんの言っていたことは正しかった。一人で世界を変えるのはものすごく大変なこと。特に芸術は政治と違って具体的でもないし、いくら平和を訴えても伝わるかは見る人次第。現に私の育った町でも戦争が起きてしまった」
ターセはしょんぼりと言いました。しかしディケーレ老人は力強く娘の手を握りました。平和を唱え続けることこそ尊く、お前を誇りに思うよ、と。すると突然、エレンが叫びました。
「みんなで証明しようよ。小さな力でも、人によってはナンセンスなことでも世界を変えられるってことを!」
戦場の真っ只中、緑の衣を纏ったディケーレ老人は「ウィデ市立病院」と書かれた拡声器のスイッチを入れました。音量の調整が合わず、キーンという嫌な音が一瞬鳴り響きましたが、老人は慌ててつまみを直すと、改めて子どもたちに語りかけました。
「これは失礼。えーと何から言うんだったかな。あぁ、そうだ。わしはディケーレ・パックス。見ての通りの年寄だ。しかしその分、君たちが知らないことも知っている。どうかひとつ、この老いぼれの話に耳を貸してくれないかね」
ディケーレが名乗ると、腕が痺れかけていたほとんどの子どもたちは、待ってましたとばかりに武器を下ろしました。しかし一部の「大人っぽい」子どもたちは武器を構えたまま、大人は口を出すなとか、混乱に乗じて占領する気だとか罵声を浴びせました。するとヘリコプターから出てきたターセが、お父さんの拡声器を奪いました。
「そういう態度なら王様にはこう報告するわ。やっぱり子どもたちだけでやっていくのは無理だから、大人が見てやらないとダメですって」
王様という単語を聞いたとたん、あれほど過激だった子どもたちは、ぱっと口をつぐみました。どうやらディケーレ老人を王様の使者だと思い込んだようです。
拡声器を父親に返したターセは、子どもたちから見えない方の目でウィンクしました。すると、老人はまるでカチンコが鳴って急変する俳優のように、たっぷりとアドリブを交えながら見事な演説を始めました。さすがは元議員。往事を彷彿とさせる、その堂々たるパフォーマンスに聴衆は酔いしれました。
「親愛なるウィデ、アウディの市民諸君。君たちが両都市を委ねられたのは、様々な柵に縛られ、頭の固くなった大人たちとは一線を画した子どもたちのユートピアを手に入れるためだ。しかし最近の君たちときたらどうだ。自由や創造的文化を謳歌するどころか、破壊を繰り返すばかり。そもそもなぜこんなことになってしまったんだろう」
すると子どもたちは銘々自分の信じる大義を口にしました。いつも見られているというような些細な思い込みから、争い合っているうちに階段から落ちたという事件性のあるものまで、理由は実に多種多様です。しかしあっちの子が線をはみ出して家を建てられたと主張すれば、こっちの子は先に侵入したのは向こうだと言い、馬鹿にされたと怒りをあらわにする子がいれば、あいつは僕をひがんでいると言う子が現れるといった具合に、問題解決の手がかりを探すどころか、かえって事態はとっちらかりました。さらに、ある女の子の発言は決裂を決定的なものにしました。
「アウディのやつらは、ウィデの黄色いウサギ像の千里耳を折ったのよ」
ウィデの中でも年長の、眉の濃いおかっぱの女の子が分かりやすく顔を歪めると、普段は温厚そうな、アウディの博士少年は負けじと言い返しました。
「そっちこそアウディの宇宙の瞳を盗んだじゃないか。おかげで青いフクロウは目くらになってしまったんだ!」
聞けば、双方が被害を受けたのは、それぞれの市のシンボル像でした。長い耳のついたウィデ市の黄色いウサギは、子どものどんな小さな声も聞き逃さない都市になろうという思いが込められた銅像で、他方アウディの青いフクロウは、宇宙を閉じ込めたような珍しい鉱石を目に持つモニュメントで、これは宇宙のように広い視野を持ち続けようという市民の願いを表したものでした。しかしそんな美しい思いが込められた作品を巡ってこんな諍いが起きたのでは、ウサギもフクロウもその耳目を覆いたくなるに違いありません。そしてそれはディケーレ氏も同じでした。
「やめい! やめ、やめ!」
拡声器の音が割れるほどの大声をディケーレ氏が出すと、子どもたちはやっと口をつぐみました。
「両市の象徴に起きたことは大変残念に思う。しかし証拠がない以上相手を犯人だと決めつけてはならないし、むしろ同じ悲しみを分つ者として、手を差し伸べるくらいの気概を持ってほしいものじゃ。かといって疑心暗鬼になっている君たちが、それで仲直りできるとも思えん。形だけの和平を結んで、すぐに戦争を再開した連中を沢山見てきたからな。そういうわけで、わしは双方納得がいくまで戦ってほしいと思っておる。全力を尽くした結果なら誰も文句は言わないからな」
ディケーレ老人はそういうと拡声器を置いて、地声で語りはじめました。
「ルールは簡単。より強い武器を出した方が勝ち。しかし武器は相手に向けて使うのではなく、捨てるために出す。より強い武器を手放す方が、勇気がいるからな。トランプ同様、より強いカードを出した方が勝ちというわけだ」
ディケーレ老人がこういうと、場内は一気にざわつきました。せっかく開発した武器を放棄しろだって? 相手が裏切ったらやられてしまうではないか、と。しかし賢しらな子どもたちが躊躇する中、一番小さな女の子が元気よく手を挙げました。
「私、これを出すわ。だって全然楽しくないんだもの」
女の子はゴムの力で玉を飛ばすパチンコを差し出しました。するとディケーレは代わりに風船をあげました。どうせ空に飛ばすなら、落っこちなくてキレイな方がいいだろうから、と。
赤い風船をもらった女の子がスキップしながら去ると、ヘリコプターのまわりには子どもたちが殺到しました。子どもたちは先ほどまできつく握っていた武器をいとも簡単に投げ捨て、ヘリコプターに積まれたおもちゃに我も我もと手を伸ばしてきたのです。
おかげで最初はのんびり構えていたエレンたちは、急遽おもちゃのバケツリレーをすることになりました。弓矢を差し出した子にはヴァイオリンを、剣を捨てた子にはホッピングを、ウォーターガンを出した子にはシャボン玉を。軍を指揮する警笛にはピロピロ笛を贈り、盾にはスケートボードをあげました。
用意したおもちゃが底をつく頃には、ヘリコプターの前には武器の山が出来上がっていました。最初の女の子が放棄したパチンコのような子どもだましの武器から、病院でエレンを襲った子ども用手榴弾のような殺傷能力のある武器(ちなみに彼は野球のボールとグローブをもらいました)、はたまた大人が戦争で使いそうな、言うのもおぞましい巨大兵器の試作品までありました。
この試作品を持ってきたのは、先ほど青いフクロウ像について発言した少年博士でしたが、彼は、大きな目をしたロボットが主人公のマンガを受け取ると、こういうのを作りたいと笑顔を見せました。
さていよいよヘリコプターがすっからかんになると、ターセはおもちゃが行き渡らなかった子どもたちに大きな刷毛を渡しました。
「好きな色を好きなだけ、好きなところに!」
絵の具のたっぷり入った大きなバケツが並べられると、子どもたちの目はきらきら輝きました。
町はあっという間に様変わりしました。家も車も洋服もカンバスになったいま、刷毛を持つ子も持たない子も、絵の具を思い思いに走らせて、町に虹の雨が降ったみたい。ついさっきまで青と黄色にきっちり塗り分けられていたとは、とても信じられません。
しかし絵の具が塗り替えたのは、目に見えるものだけではありません。ウィデとアウディの子どもたちが一緒に遊ぶ様子がそこかしこで見られましたし、可愛いフラッフィはもちろん、普段は格好つけのリンでさえ、子どもたちと本気で絵の具のつけ合いっこをしています。
それにエレンも少し変わりました。前はレネのことで頭がいっぱいだったのに、街角でバケツをひっくり返したレネが、身体を虹色にして跳ね回っているのを見ても、ニカと博士少年と軍曹とキャッチボールをする方が大事に思えたのです。色が変わっただけでこんなに打ち解けられるなんてカメレオンみたい!
エレンは思わず、ターセに目で合図を送りました。するとターセもそうでしょう、という風に微笑みました。色と形と笑い声が溢れる美しい午後のことでした。
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トランプ男と呼ばれている切札勝が、トランプゲームに例えて次々と問題を解決していく【トランプ男】シリーズも大人気!
人気者になるために、ウソばかりついて周りの人を誘導し、すべて自分のものにしようとするウソヒコをガチヒコが止める【嘘つきは、嘘治の始まり】というホラーサスペンスミステリー小説
かつて聖女は悪女と呼ばれていた
朔雲みう (さくもみう)
児童書・童話
「別に計算していたわけではないのよ」
この聖女、悪女よりもタチが悪い!?
悪魔の力で聖女に成り代わった悪女は、思い知ることになる。聖女がいかに優秀であったのかを――!!
聖女が華麗にざまぁします♪
※ エブリスタさんの妄コン『変身』にて、大賞をいただきました……!!✨
※ 悪女視点と聖女視点があります。
※ 表紙絵は親友の朝美智晴さまに描いていただきました♪
14歳で定年ってマジ!? 世界を変えた少年漫画家、再起のノート
谷川 雅
児童書・童話
この世界、子どもがエリート。
“スーパーチャイルド制度”によって、能力のピークは12歳。
そして14歳で、まさかの《定年》。
6歳の星野幸弘は、将来の夢「世界を笑顔にする漫画家」を目指して全力疾走する。
だけど、定年まで残された時間はわずか8年……!
――そして14歳。夢は叶わぬまま、制度に押し流されるように“退場”を迎える。
だが、そんな幸弘の前に現れたのは、
「まちがえた人間」のノートが集まる、不思議な図書室だった。
これは、間違えたままじゃ終われなかった少年たちの“再スタート”の物語。
描けなかった物語の“つづき”は、きっと君の手の中にある。
生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
25匹の魚と猫と
ねこ沢ふたよ
児童書・童話
コメディです。
短編です。
暴虐無人の猫に一泡吹かせようと、水槽のメダカとグッピーが考えます。
何も考えずに笑って下さい
※クラムボンは笑いません
25周年おめでとうございます。
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