人生和歌集 -風ー(1)

多谷昇太

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海を渡る風

命をだまき繰り返し…

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そこには(確か)レストランとは別にいまひとつの小屋のような建物がありモレーノという名のウエイターがそこで寮住いをしていたのである。因みにさきほどのフレディとドリスも私たちと同じフロアにそれぞれ一室を与えられて住んでいたのだった。夫人はさらに6坪ほどの広さのある別の一室に案内しそこに設置してあるシャワーや洗濯機、乾燥機などを指し示してから、今度はプライベートエリアを出てレストラン入口横にある男子トイレに私たちを連れて行くと、収納庫にあるモップや掃除機などを見せて「トイレ掃除も仕事のひとつ」である旨を告げた。「ソー(so)、こういったところね。じゃ荷物(リュックサック)を片付けてからレストランに上がって来てちょうだい」と云い残して2Fへと上がって行った。私たちは部屋に戻ってリュックのヒモを解く。「ベッド、どっち使う?」尋ねる私に「どっちでもええよ。それにしてもよかったのう。ええ?おい。こんな部屋宛がわれて、主人や奥さんもよさそうな人やったし、万事叶った叶ったやろ?」と松山が微笑みながら云う。それへ「ああ…(それもこれもすべてあんたのお陰だよ)」と()内は今さらのように思えて云えなかったが上気したように赤らむ私の表情ですべてが通じただろう。一瞬でも走馬灯のようにフランクフルトのこと(当アルファポリス内の拙著「1974年フランクフルトの別れ」をご参照ください)や、仕事を求めて寒空のもとヨーロッパ中を彷徨った光景が目に浮かんだ。ああ、やっといま、こうして仕事をつかんだのだった。〝生きれる〟のだ…。

空蝉の命をだまき繰り返し生きれることを直に喜ぶ

ややあって2Fに上がって行くとハイジ奥様が待っていてフロアの給仕人たちを集め私たち2人を紹介してくれる。男3人、ウエルナーとモレーノとポールだった。年はいずれも35~40才くらいに見受けられる。背の高いウエルナーと筋肉質で容体(がたい)のいいモレーノ、そして太っちょのポール3人はそれぞれウエイター服を身に纏っている。他にもう1人テリスという名のウエイトレス(ウエルナーの彼女)がいるのだったが今日は休みだった。ウエルナーとは姓でありモレーノとポールがファーストネームを名乗ったのに対し彼は違っていた。それをすばやく悟った松山が「ええか。あのウエルナーを呼ぶ時は〝あ〟を付けるんやで」と教えてくれたのは我々が部屋に下がってからのことである。スイス語で〝ア・ウエルナー〟と呼べば〝ウエルナーさん〟になるのだった。要はこのウエルナーが気安く俺のファーストネームを呼んでくれるなということだが、その辺は鷹揚に見えて本当に細かいことに気が付く松山氏であることだった。
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