多重人格社(株)

Z姫

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創業1日目/新入社員『真締 眼鏡』

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 水を飲んだ。

 これでもかと大量の氷をぶち込まれた100均のプラスチックグラス。
 説明するまでもないが、中の水はひっじょーに冷たい。

 朦朧とした意識は一瞬で引き戻され、表面に生じた結露が手のひらの熱までも一瞬で奪い去る。
 喉を過ぎる冷たい液体が、エリクサーの様に俺を蘇らせた。歯茎がジンジンと痺れる。
 思わず、ぷはぁとため息が漏れた。

「大丈夫ですか?」
 と言う青年の問いかけに対し「ああ、助かったよ」と笑顔で答える俺。
 彼に指示されるまま手渡したグラスに、再び水が注がれる。

「あ、ありがと」
 青年は再びこちらにコップを差し出してくる。
 彼は黒いブレザーに黒縁メガネを掛けた、いかにも『真面目』を絵にかいた様な人物。
 きちんとアイロンの掛けられた白いシャツ、裾は勿論丁寧にしまわれており、パリッとした襟が誠実さを主張していた。

 紳士な青年に、熱中症の看護をされる俺。
 傍から見れば一見平穏な風景にも見えるだろうが、俺からすれば奇妙極まりなかった。

「……で、アナタはどちら様なんでしょーか?」
 理由は簡単、俺の質問こそが答えだ。

 あまりにも自然体、まるで宿主であるかのような悠然とした表情で、畳の上に鎮座するこの青年だが。
 俺は彼とはあまり親しくない……と言うより一度も面識が無かった。

 縁の薄れた旧友、及びクラスメイトという訳でもない。
 引きこもって半年ほどでクラスメイトや先生は会いに来なくなったし、来るなら来るで事前に連絡がある。
 そもそもスーパーとコンビニのレジの人を除けば、俺はここ一年程誰とも会話をしていないのだ。
 いや、見栄を張らせてもらうならばツイッターで二週間前に一度挨拶をしているが。


 そこで青年はメガネをクイッと指先で上げる。
「なるほど」
 自信満々そうな表情だが、一体何が『なるほど(納得)』だと言うんだろう。
 それからしばらく無言が続いた。

 ――えっなに、これ俺から何か話すべきなの?
 と奇妙な汗が背中に流れ始めた所で、青年が口を開く。

「えっとなんでしょう、これは私の方から何か話すべきなのでしょうか?」
「ええ! いや、そりゃそうだろ!? ってかその困惑した顔やめろよ。俺からすればお前の存在が困惑に値するんだよ」

 思わず敬語が解けて、荒い素の口調に戻る。
「で、アンタは一体誰なんだ」
「なるほど、申し遅れました。すぐる様はどうやら母君から話をお聞きしておられないのですね。ならば改めて自己紹介をさせて頂きます」

 え、と思わず声が漏れた。

 優とは俺の名前である。
 玄関の表札には『若宮』としか書かれていない筈なのに、何故彼は本名を知っているのだろうか。

 そんな俺の疑問に気づかぬまま、青年は正座をといて、すっと立ち上がる。
「私はアナタの母上から使命を受けてやって来ました『真締 眼鏡まじめ めがね』と申します」
 そう言い終わると、奴は『以後お見知りおきを』と右手を差し出してきた。

 いやいや、ちょっと待て。
 ウチの母親は俺が幼稚園児の頃に既に亡くなってるんだが、一体全体こいつはどういう了見なのだろうか。
 そこで目の前の存在が非常に異質なそれに見えてきた。
 危ない宗教団体、それとも頭のねじが数本抜けた奇人、詐欺師、はたまた殺人鬼かもしれない。

 青年はいまだに何やら喋っていたが、もはや耳に入らない。

 間違いなく逃げるべきだ。
 貴重品を掴んだら玄関へダッシュ、裸足でドアから飛び出す。
 暫く離れたら警察を呼ぼう。交番でもいいし、携帯電話は既に腕の中だ。
 よし、これでイメージトレーニングは十分。

 幸い通帳のまとまったリュックがすぐそばにある。
 リュックを掴む、立ち上がる。よしいける!

「……!!」
 そこで足が攣った。
「おやおや、大丈夫ですか?」
 痛みにのたうち回りながら、振り返ると黒い影が迫りくる。
「では、優さま。いきましょうか」

『逝きましょう』だなんて言ってやがる。
 マズイマズイマズイ! こ、殺される!!

 そこで肩に手が触れた。
 歯を食いしばって思わず目を瞑る。
 待て待て待て待て待て……!!

 しかし一向に痛みは訪れない。

「"いきましょう"。学校へ」

 ーーーーーーへ?

 投げかけられた言葉は通学を促すそれであった。
 速い話が『いきましょう』とは、あの世にではなく、学校に、という事であった。

 つまり彼は殺人鬼でも狂人でも何でもない。
 学校関係者なのだろう。言うなれば狂人ならぬ教人だ。

 ・制服を着ている。
 ・フルネームを知っている。
 ・『学校へ行こう』

 どう考えてもウチの高校の生徒である。
 こんなことすら分からなかった辺り、どうやら熱中症はまだ続いていたらしい。

 俺は呟いた。
「なるほど」と。
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