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復讐の果てに訪れたのは(4)
しおりを挟む願望が見せた、ただの夢かもしれない。はじめはそう思ったけれど、〝ただの夢〟として片づけるには感覚がはっきりしすぎている。
白く輝く空間は、グウェンダルが一度も訪れたことがないような、美しく澄み渡った幻想的な場所だった。天国というものは、意外とこんなふうに何もない場所なのかもしれない。ぼんやりとそう感じた。
身体は漂うようにふわふわと浮いており、天も地もあやふやだ。
その中で、その男神だけが地に足をつけて立っている。
ニルスだとすぐにわかったのは、毎日神殿に通って彫像を眺めていたおかげだろう。白い布をまとっただけの均整のとれた肉体は、戦の神と呼ばれるに相応しい堂々たる出で立ちだ。人間離れした神々しい顔立ちは、美しいという言葉すら陳腐に思わせるほど超越していた。
彼は眉を顰めてこちらをじっと見ている。
掌にすっぽり収まるくらいの大きさの球体を、胸の中に大事そうに抱いている姿が印象的だった。戦の神らしく武器を持っていたならそれらしいと納得しただろうけれど、この姿は違和感を生じる。
ガラスのような繊細な見た目の球体は、中でもやもやと黒いものが渦巻いていた。その靄をずっと見ていると感情が引きずられる感覚がして、突き刺すような痛みが胸を苦しめる。
それでも、グウェンダルはその球体が不思議と恋しくてたまらないような気持ちになった。
「――夫婦共々しつこいな」
低い声は、とげとげしい言葉のわりに柔らかな響きを持っていた。
「彼女の心は私がもらったのだ」
ニルスは、黒い球体をぎゅっと掌で覆い隠す。
「……それがメリーティアの心なのですか?」
「そうだ。傷ついて、傷ついて、こんなに穢れてしまった」
ニルスが撫でると靄は一瞬晴れるものの、すぐに球体全体を再び黒く覆い尽くす。
「傷ついて……」
「だから私がこうして癒やしているのだ」
「……っメリーティアの心を返してはいただけませんか? 彼女は私の幸福を願っていました。彼女がいなければ、私は幸福になどなれないのです! 私がメリーティアを癒やすとお約束します。彼女を幸せにすると誓います、どうか」
「人の力では癒やせない。表面上はどうにか繕えても、メリーティアは生涯苦しむだろう」
「私が共に苦しみます。私が共に抱えます」
「――――」
ニルスは球体の中の靄が揺らぐのを見て、目を細める。そのまなざしに込められた温もりは父のようでもあり、友や恋人のようでもあった。
ニルスがおもむろに球体に触れると、ガラスのように見えたはずの表面に指先が沈む。まるで水の中に指を入れているような波紋が広がった。
黒い靄の奥を探るようにしたあと、球体の中から指を引き抜く。
ニルスの親指と人差し指につままれていたのは、真珠くらいの大きさの光り輝く〝何か〟だった。
「…………それは?」
「私が癒やした心のひとかけらだ」
ニルスがその『心のひとかけら』にふーっと息を吹きかけると、それは蝶の姿になってひらひらと飛んでいってしまう。
グウェンダルは慌ててそのあとを追いかけた。
「メリーティアの心はたしかに私がもらった。だが、これから芽生える心までは私の知ったところではない。……お前のしつこい祈りはもう懲り懲りだ」
グウェンダルは必死で走った。ふわふわと浮いているような空間では手足が上手く動かせないが、とにかくがむしゃらに走った。
蝶にもう少しで手が届きそうになり、ぐっと腕を伸ばす――
――そこで目が覚め、グウェンダルは飛び起きた。
「ただの夢だったのか……?」
絶望感がじんわりと襲ってくる。
それでももしかしたら、という希望が捨てられない。祈るような気持ちで隣で眠っているはずのメリーティアを見ると、その胸に光り輝く蝶がとまっていた。
「……っ!」
急いで手を伸ばすが、まるでメリーティアに溶け込むようにして瞬きのうちに消えてしまった。掛け布をめくってみてもそこにはもう何もなく、夢幻だったのかとグウェンダルは落胆する。
何とはなしに、蝶がとまっていたはずの胸に手を当てた。相変わらず心臓は脈打っていて、一安心する。けれどあの夢が抱かせた希望は、いざ現実に戻されると、グウェンダルの疲弊しきった心を引き裂くにはじゅうぶんだった。
やせ細った手を握り、彼女の胸に額を押しつける。
「…………メリーティア……っ」
そのとき、かすかに手を握り返されるような反応があった。
グウェンダルは勢いよく身体を起こし、メリーティアを見下ろす。眠っていたはずの彼女の眉がわずかに寄り、半開きになった唇から小さなうめき声が漏れた気がした。
「メリーティア? メリーティア……!」
あの夢は、やはりただの夢ではなかったのだ。ニルスがメリーティアの『心のひとかけら』だと言ったあの蝶も、決して幻などではなかった。
グウェンダルが必死で呼びかけるとメリーティアの睫毛が震え、やがて億劫そうに瞼を開く。
虚空を見つめてばかりだった瞳が、今はしっかりとグウェンダルを見ているのがわかった。
「メリーティア、戻ってきたのか? 私がわかるか?」
震えそうになる声でさらに呼びかけ続けると、メリーティアはまだぼうっとした様子でグウェンダルを見つめる。
「…………あなたは、……だれ?」
「――!」
約二年ぶりに声を聞いた。
しかし感動で打ち震える間もなく、掠れた声で紡がれた残酷な言葉にグウェンダルは息を詰める。
怯むグウェンダルへ、メリーティアが両手を伸ばしてきた。筋肉の衰えた腕は、少し上げるだけでも一苦労のようだ。そろそろと伸ばされる手に近づくと、頬を包み込まれる。
彼女が自分の意思で動くところを見るのはとてもひさしぶりで、先ほどの言葉など大したことがないように思えた。もし本当にメリーティアがグウェンダルを覚えていないとしても、彼女の心が戻ってきた奇跡に比べると非常に些末なことだ。
されるがまま、柔らかい指先に顔を撫で回される。
メリーティアは、なぜか無邪気な笑顔を浮かべていた。子どもの頃によく見せたような、愛らしい無垢な笑みだ。記憶をなくしても、メリーティアの心はたしかにここにある。
「……あなた、最初は怖そうな人だと思ったけれど……すごくかっこいいのね」
起き抜けの力のない声なのに、この状況にそぐわない言葉のせいか、はっきりとグウェンダルの耳に届いた。
メリーティアはグウェンダルの顔を両手で包み込んで、花が綻ぶように笑っている。
「なまえは、なんていうの?」
「グウェンダル……グウェンダル・ホールトンだ」
メリーティアは確かめるようにその名を何度か呟いたあと、恥ずかしそうに頬を赤らめた。一度睫毛を伏せたあと、そっと窺うように見上げてくる。
「どうしましょう……わたし、あなたに恋をしてしまいそうだわ」
「――っ、メリーティア」
それは、遠い昔にも言われた覚えがあるかわいい告白だった。
記憶がなくてもいい。自分のことを覚えていなくてもいい。また一から始めればいいのだ。メリーティアがまたグウェンダルに恋をしてくれたように。
「してもいいぞ。私は君をとっくに愛しているから」
笑みを浮かべたグウェンダルの目から、涙が一筋こぼれていく。
メリーティアは驚いた様子を見せたあと、うれしそうに目尻を下げた。
◇◇◇
心を取り戻したメリーティアは、まずは筋力と体力の回復に努めなければならなかった。ほぼ二年を寝たきりで過ごしたせいで、身体はひどく衰えている。それでも彼女のたゆまぬ努力とグウェンダルの献身的な支えもあり、半月もすればひとりで歩けるまでに回復した。
時が流れるにつれてだんだんと記憶も取り戻していき、自分のことやグウェンダルのことも思い出していった――が、メリーティアの記憶は婚約をした頃でぷつりと途切れていた。それ以降のことは、どれだけ時間が過ぎても思い出す様子はなかった。
きっと、ニルスが持っていたあの球体に閉じ込められたままなのだろう。
ニルスは、メリーティアがその記憶を取り戻す必要はないと考えているのだ。つらかった気持ちも、苦しみも、彼女を傷つけるものすべてを自分が持っていくことにしたに違いない。あの神はメリーティアを大事に思っているようだったから、また長い時間をかけてあの黒い靄を癒やすのだろう。
グウェンダルもそれでいいと判断し、無理に記憶を呼び起こさせるようなことはしなかった。
メリーティアが復讐を決意した惨たらしい出来事も、復讐をするうえで心をすり減らしたあの日々のことも、忘れたままでいるほうがいいのだ。
無邪気に笑っているメリーティアを見ていると、そう強く思わされる。
メリーティアがすっかり元気になった頃に、彼女の家族が会いに来てくれた。
ユージーンの治めるヴェドニア帝国は平穏そのもので、一連の騒動はすでに風化しているらしい。帝国に戻ることも提案されたが、メリーティアは聖国ハイネで暮らすことを選んだ。
彼女の希望で居住地区をニルスの神殿がある場所に移し、やがてグウェンダルは試験を受けて戦の神の聖騎士となった。
ニルス神の加護のもと、ふたりは四男二女の子宝に恵まれ、生涯幸せに暮らしたのだった。
おわり
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