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17話・私と彼の守り方の話
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「イク!」
「っ」
パニックになった頭に浮かんだのは一人の名前。たった数日前に知り合った男の人。こいつと同じ、男。お父さん以外の男性。
祈るように、願うように、その名前を口にした。小さく、小さく。きっと目の前の男にも届かないほど小さな声で、呼んだ、のに。
答えて、くれた。
ぼろり、と涙が溢れてきて、目を見開いたレイスに抱きつく。
そっと頭の後ろに回された手。レイスの薄緑色のシャツを握り締める手は震えていたけど、震えを抑えることは出来なかった。
「なぁに、お前、こいつの彼氏? 相手は選んだほうがいいんじゃねぇの」
げひた笑い声が響く。ひび割れてとどく、粗野な声。レイスとは全然違う。同じ男だと思えない。気持ち悪い、声。
「うるさい」
一瞬、それが、誰の声か分からなかった。
目を見開いて、涙がぼろりとこぼれたせいで鮮明な視界でレイスを見る。
レイスは、怒って、いた。
目に怒りを灯して、私じゃないところを、見ていた。視線の先を追う。男がいる。小学校からずっと、私を縛り続けた、忌まわしい男。
レイスのめらめらと燃える瞳に晒されて、臆ついている。……こんな、風に。
びくつく、男だったのか、と。驚いた。
記憶の中の男は、いつだってガキ大将で。いっつも取り巻きがいて、みんないつもこいつの顔色を伺っていた。こいつに逆らえば、次は自分が虐めの対象だと、みんなわかっていたから。……だれも、私を、助けてくれなかった、のに。
母親がいない、という。『異物』だった私は、虐めのターゲットに最適で、生贄に、ちょうどよかったから。
だれもが、見ないふりをしていたのに。担任の先生だって、見てみぬふりだった、のに。
「は。なん、だよ。一丁前に、」
「だまれといった」
男の言葉をさえぎって、レイスの低い声が通る。ここ数日一緒にいた私には、全然見せなかった一面だ。
こんな風に、怨嗟に燃える声音を、私は知らない。こんな風に、憎悪に苛立つ瞳を、私は知らない。
ひくっと男が喉を鳴らした。無理もない、と思った。それだけ、いまのレイスは怖い。私だって、頭と腰に手が回っていなかったら、きっと腰を抜かしていた。私に触れるレイスの手はいつもみたいに優しかったけれど、体温はいつも通りだったけれど、その声が、瞳が、相手の男への憎しみに煮えたぎっていた。
「れ、いす」
からからに渇いた喉で。それでもどうにか名前を押し出す。
とめなければ、と漠然と思った。
放置してはいけないと、脳裏が警鐘を鳴らした。
本音を、言えば。
あんな男、どうなってもいいけれど。むしろ、消えてくれるなら、気持ちいいほどだけど。
レイスが、そのために。汚名をきるのは嫌だった。レイスには、いつもみたいに、目をキラキラさせて、にこにこ笑っていて欲しかった。
くいっと、服を引っ張る。レイスが私を見る。その瞳に憎悪の色はない。それを向けられなかったことに安堵する。
小さく息を吐き出した私に、にこりと、怖いほど綺麗な笑みを、浮かべて。
「ちょっと、まってて」
そんな風に、いわれても。
全然安心なんて出来ない。
また、男に向けて。憎悪を宿した瞳を向けたレイスに、どうしていいのかわからない。先ほどとは別の意味でパニックになった脳裏に、落ち着いた声が届いた。
「なんの騒ぎですか」
それは、司書さんの声だった。落ち着いた女性の声が響いて、空間を燃やしていた見えない何かがすこし、落ち着く。
「幾月さん、どうしたの?」
「あ、その、え、っと」
レイスの腕にかばわれている私を見て、ただならぬ事を感じたのか、声音が険しくなる。問われても、私はとうてい目の前でびくつく男をかばう気にはなれなかったし、むしろどういえばレイスは悪くないのだと伝えられるのだろうと、頭の中は、そればかりで。
だから、混乱する頭に、冷えた声音が届いたとき、そのいつもの声との温度差に反応に遅れてしまった。
「あの男が、彼女にちょっかいをかけていたもので。お騒がせして、申しわけありません」
「な、俺は!」
憤慨した声が聞こえた。だけど、もうだれも男の言葉に耳を貸さない。彼が世界の中心だったときとは、違うのだ。違うのだと、理解できた。
「そう。幾月さん、今日はもう帰りなさい」
「は、い」
「まてよ、俺は!」
いたわる声音に、恐縮して頭を下げる。相変わらずレイスの腕の中だったけれど、ちらりとレイスを見上げても離してくれる気配はなかった。
喚く男に、絶対零度のまなざしが向けられる。レイスと司書の人。二人の視線を受けて、男がぐっと息を呑む。
そのまま、私はレイスに守られるように腰を引かれて、その場を後にした。
ずっと見返してやりたいと思っていた男だった。だけど、とてもいい気分だとは、思えなかった。
* * *
気まずい帰り道。
バスは使わなかった。元々歩ける距離ではあったし、行きにレイスが帰りはゆっくりと景色を見ながら歩いて帰りたいといっていた。
レイスに手を引かれて歩く。バスから見た景色しか覚えていないはずなのに、その足取りに迷いはなかった。そして、道は間違っていないから、私も何もいえない。
自由な左手で、胸元を押さえる。
どくどくと、嫌な緊張感から、うるさかった。でも、不思議だった。
いつだって、あの男を見た後は過呼吸になっていたから、過呼吸にならない自分が不思議だった。
それは、とてもいいことなのだろうけれど。レイスのおかげ、なのだろうけれど。
「ねぇ、レイス」
そっと口を開く。なにも考えてはいなかった。ただ、このままではいけないと思った。
前を歩くレイスの表情は分からない。顔が見えない。少し足が速い。いつも私に合わせてくれていた歩調が、今日は違う。
「レイス、あの」
レイスの、足が止まった。
隣に並ぶ。レイスの顔はやっぱり見えない。みせてくれない。そっと、レイスの手を両手で握った。道端だったけれど。そんなこと気にならなかった。
「ありがとう、レイス。すごく、嬉しかった」
この胸に抱いた感情を、どう伝えれば正解だろう。
いつだって、ただ嵐が過ぎるのを待つように。気まぐれな支配者が飽きるのを体を小さくして待っているしか出来なかった。お母さんの事を馬鹿にされても言い返せない。勇気もなかった。私は無力だった。
でもきっと。これからは。
立ち向かって、いける。レイスがいなくなっても。きっと、大丈夫。
真っ向から、やりあうのは難しくても。今日をけじめにして、苛められていた過去に向き合えると思えた。そして、それはとてつもない進歩だと思った。
「……しい」
「え?」
ぽつりと、小さな声でこぼれた言葉を拾うことが出来なくて。
尋ね返した私に、レイスは震える声で言葉を繰り返してくれた。
「悔しい……! どうしてっ、イクが! そんな、風に……っ!」
少しだけ、レイスが振り返ってくれた。レイスの目には、涙があった。
初めて見る、レイスの涙だった。唖然とする私の前で、レイスはぐいっと涙を乱暴に拭って、私の両手を包み込んだ。
今日の青空より綺麗な瞳が、もう憎悪も何もない目が、私を真っ直ぐに射抜く。
「俺がっ、守るから!」
ああ。
その言葉があれば。
生きていけると、過信ではなく、そう思った。
「っ」
パニックになった頭に浮かんだのは一人の名前。たった数日前に知り合った男の人。こいつと同じ、男。お父さん以外の男性。
祈るように、願うように、その名前を口にした。小さく、小さく。きっと目の前の男にも届かないほど小さな声で、呼んだ、のに。
答えて、くれた。
ぼろり、と涙が溢れてきて、目を見開いたレイスに抱きつく。
そっと頭の後ろに回された手。レイスの薄緑色のシャツを握り締める手は震えていたけど、震えを抑えることは出来なかった。
「なぁに、お前、こいつの彼氏? 相手は選んだほうがいいんじゃねぇの」
げひた笑い声が響く。ひび割れてとどく、粗野な声。レイスとは全然違う。同じ男だと思えない。気持ち悪い、声。
「うるさい」
一瞬、それが、誰の声か分からなかった。
目を見開いて、涙がぼろりとこぼれたせいで鮮明な視界でレイスを見る。
レイスは、怒って、いた。
目に怒りを灯して、私じゃないところを、見ていた。視線の先を追う。男がいる。小学校からずっと、私を縛り続けた、忌まわしい男。
レイスのめらめらと燃える瞳に晒されて、臆ついている。……こんな、風に。
びくつく、男だったのか、と。驚いた。
記憶の中の男は、いつだってガキ大将で。いっつも取り巻きがいて、みんないつもこいつの顔色を伺っていた。こいつに逆らえば、次は自分が虐めの対象だと、みんなわかっていたから。……だれも、私を、助けてくれなかった、のに。
母親がいない、という。『異物』だった私は、虐めのターゲットに最適で、生贄に、ちょうどよかったから。
だれもが、見ないふりをしていたのに。担任の先生だって、見てみぬふりだった、のに。
「は。なん、だよ。一丁前に、」
「だまれといった」
男の言葉をさえぎって、レイスの低い声が通る。ここ数日一緒にいた私には、全然見せなかった一面だ。
こんな風に、怨嗟に燃える声音を、私は知らない。こんな風に、憎悪に苛立つ瞳を、私は知らない。
ひくっと男が喉を鳴らした。無理もない、と思った。それだけ、いまのレイスは怖い。私だって、頭と腰に手が回っていなかったら、きっと腰を抜かしていた。私に触れるレイスの手はいつもみたいに優しかったけれど、体温はいつも通りだったけれど、その声が、瞳が、相手の男への憎しみに煮えたぎっていた。
「れ、いす」
からからに渇いた喉で。それでもどうにか名前を押し出す。
とめなければ、と漠然と思った。
放置してはいけないと、脳裏が警鐘を鳴らした。
本音を、言えば。
あんな男、どうなってもいいけれど。むしろ、消えてくれるなら、気持ちいいほどだけど。
レイスが、そのために。汚名をきるのは嫌だった。レイスには、いつもみたいに、目をキラキラさせて、にこにこ笑っていて欲しかった。
くいっと、服を引っ張る。レイスが私を見る。その瞳に憎悪の色はない。それを向けられなかったことに安堵する。
小さく息を吐き出した私に、にこりと、怖いほど綺麗な笑みを、浮かべて。
「ちょっと、まってて」
そんな風に、いわれても。
全然安心なんて出来ない。
また、男に向けて。憎悪を宿した瞳を向けたレイスに、どうしていいのかわからない。先ほどとは別の意味でパニックになった脳裏に、落ち着いた声が届いた。
「なんの騒ぎですか」
それは、司書さんの声だった。落ち着いた女性の声が響いて、空間を燃やしていた見えない何かがすこし、落ち着く。
「幾月さん、どうしたの?」
「あ、その、え、っと」
レイスの腕にかばわれている私を見て、ただならぬ事を感じたのか、声音が険しくなる。問われても、私はとうてい目の前でびくつく男をかばう気にはなれなかったし、むしろどういえばレイスは悪くないのだと伝えられるのだろうと、頭の中は、そればかりで。
だから、混乱する頭に、冷えた声音が届いたとき、そのいつもの声との温度差に反応に遅れてしまった。
「あの男が、彼女にちょっかいをかけていたもので。お騒がせして、申しわけありません」
「な、俺は!」
憤慨した声が聞こえた。だけど、もうだれも男の言葉に耳を貸さない。彼が世界の中心だったときとは、違うのだ。違うのだと、理解できた。
「そう。幾月さん、今日はもう帰りなさい」
「は、い」
「まてよ、俺は!」
いたわる声音に、恐縮して頭を下げる。相変わらずレイスの腕の中だったけれど、ちらりとレイスを見上げても離してくれる気配はなかった。
喚く男に、絶対零度のまなざしが向けられる。レイスと司書の人。二人の視線を受けて、男がぐっと息を呑む。
そのまま、私はレイスに守られるように腰を引かれて、その場を後にした。
ずっと見返してやりたいと思っていた男だった。だけど、とてもいい気分だとは、思えなかった。
* * *
気まずい帰り道。
バスは使わなかった。元々歩ける距離ではあったし、行きにレイスが帰りはゆっくりと景色を見ながら歩いて帰りたいといっていた。
レイスに手を引かれて歩く。バスから見た景色しか覚えていないはずなのに、その足取りに迷いはなかった。そして、道は間違っていないから、私も何もいえない。
自由な左手で、胸元を押さえる。
どくどくと、嫌な緊張感から、うるさかった。でも、不思議だった。
いつだって、あの男を見た後は過呼吸になっていたから、過呼吸にならない自分が不思議だった。
それは、とてもいいことなのだろうけれど。レイスのおかげ、なのだろうけれど。
「ねぇ、レイス」
そっと口を開く。なにも考えてはいなかった。ただ、このままではいけないと思った。
前を歩くレイスの表情は分からない。顔が見えない。少し足が速い。いつも私に合わせてくれていた歩調が、今日は違う。
「レイス、あの」
レイスの、足が止まった。
隣に並ぶ。レイスの顔はやっぱり見えない。みせてくれない。そっと、レイスの手を両手で握った。道端だったけれど。そんなこと気にならなかった。
「ありがとう、レイス。すごく、嬉しかった」
この胸に抱いた感情を、どう伝えれば正解だろう。
いつだって、ただ嵐が過ぎるのを待つように。気まぐれな支配者が飽きるのを体を小さくして待っているしか出来なかった。お母さんの事を馬鹿にされても言い返せない。勇気もなかった。私は無力だった。
でもきっと。これからは。
立ち向かって、いける。レイスがいなくなっても。きっと、大丈夫。
真っ向から、やりあうのは難しくても。今日をけじめにして、苛められていた過去に向き合えると思えた。そして、それはとてつもない進歩だと思った。
「……しい」
「え?」
ぽつりと、小さな声でこぼれた言葉を拾うことが出来なくて。
尋ね返した私に、レイスは震える声で言葉を繰り返してくれた。
「悔しい……! どうしてっ、イクが! そんな、風に……っ!」
少しだけ、レイスが振り返ってくれた。レイスの目には、涙があった。
初めて見る、レイスの涙だった。唖然とする私の前で、レイスはぐいっと涙を乱暴に拭って、私の両手を包み込んだ。
今日の青空より綺麗な瞳が、もう憎悪も何もない目が、私を真っ直ぐに射抜く。
「俺がっ、守るから!」
ああ。
その言葉があれば。
生きていけると、過信ではなく、そう思った。
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