時世時節~ときよじせつ~

氷室ユリ

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 夕陽を背に全力で森へと向かう。次第にキハラの思考が聞こえなくなって行く。
 やがてそれは完全に消え、前方にはおぞましい邪気の渦が色濃く漂い出す。

 それにしても、今度は一体どこの鬼だ?本当に朝霧ユイはモンスターに好かれる性質たちのようだ!かくいう俺も、彼女を忘れられないモンスターの一人だが……。
 そんな事を思いつつ、見覚えのある巣の前に辿り着いた。それは木々の盛り方といい、例の節分の鬼の巣に良く似ていた。

「おい!身分違いのママゴトはもうやめるんだ。朝霧ユイを引き渡せ!」

 中から現れた奴は、またしてもグロテスクな容姿をしていた。それも三匹いる。この俺でさえ、ここの瘴気のせいで気分が悪くなる。ユイが心配だ。
「お前らに引き渡す気がなくても、力づくで返して貰うがね」
 こう言いながら巣の中へ足を踏み入れる。

 鬼共がそれを阻止しようと飛びかかって来るが、それを交わしながら、さらに中へ入って行く。その一番奥で、ユイは大きな籠に閉じ込められていた。

 彼女の姿を目にした自分が、想像以上に心湧き立っている事に気づいた。この数ヶ月、朝霧ユイの事を忘れようとしたができなかった。その理由が、今分かった。

「ユイ、大丈夫か?」
 声をかけても反応はない。薄っすらと目を開けているように見えるのだが……。
「ユイ?聞こえるか」
 近づこうとした俺を鬼達が激しく攻撃する。
 ムダだ、バカ共め!お前らの爪や歯ではヴァンパイアの体を傷つける事はできない。

「煩わしい……消えろ!」
 たったの一撃で巣に大穴が開き、三匹とも外に吹っ飛んだ。

「すぐにここから離れよう」
 籠を破壊してユイを抱き上げ、様子を窺う。
 開いていた目は固く閉ざされてしまった。非常に顔色が悪い。唇が紫色になっている。
 ユイに触れる温度のない俺の手が、冷たさを感じている。
「まずいな……」
 キハラの元へ運ぶ時間も惜しい。今ここで救命処置をしなければ。

 そこへ、復活した鬼達がまたも飛びかかって来る。

「お前らに付き合っている時間はないんだよ!」
 容易に鬼共を縛りつけると、一瞬でユイを外へと運び出す。振り返りざま巣に向けて火を放った。
 今回は彼女に見られずに済んだ。このおぞましい光景は、もう二度と見せたくない。

 やや離れた場所まで移動して、彼女の体を横たえる。

「ユイ、どうか、死なないでくれ……!」
 ボロボロになった衣服の上から、自分のジャケットを掛けてやりながら、意識を集中させて心拍や血流の状態を確認する。軒並み低下中だ。このままでは危険だ。
「ユイ!眠るな、起きろ……目を覚ますんだ。気をしっかり持て!」

 吹雪の中で死の眠りに誘われるかのように、ユイはどんどん意識を沈めて行く。

「ユイ……!」
 眠り姫には愛のキスが必要だ。途方に暮れて、医者らしからぬそんな事を考えた。
 俺はほとんど無意識に、ユイの唇に自分の凍るような唇を近づける。とんだ茶番だ!こんな行為で何が生まれるというのだ?むしろ死の接吻ではないのか!

 遣る瀬無い気持ちになり唇を離すと、呼吸が戻ったのか、俺の顔に吐息がかかった。

「ユイ!俺の声が聞こえるか?目を開けてくれ」
 呼吸は戻ったが反応はない。鬼の瘴気を消す薬などない。本人の精神力頼みだ。
 意識が混濁している様子のユイに、気つけの意味を込めて一本注射した。ひと際感じて貰えるよう、上腕側面の筋肉部分に針を深く刺す。

「……あ!ああ、痛、……っ」
「ユイ!ああ、良かった、意識が戻ったな」
 早速反応してくれるとは思わなかった。嬉しくなってユイを抱きしめる。
「……しん、どう、先生?」
 未だぼんやりはしていたが、ユイが口を開いた。掠れる声が俺の名を呼ぶ。
「ああ、新堂だ。もう大丈夫だよ」

 やや体を離し、安心させるべく微笑む。「寒くないか?」
 ユイはまた目を閉じた。力なく俺に体を預けたまま動かない。顔色も悪いままだ。
「キハラさんが心配してる。すぐに帰ろう」
 取りあえず意識は戻った。早急にこんな場所から離れよう。腕に抱えたユイを再び抱き直して立ち上がる。

 もうすっかり日が暮れてしまった。取り急ぎキハラの待つ場所へと向かった。


 暗がりの山中で、キハラはイラ立ちを隠す事もなく右往左往していた。
「約束は破ってないよな?」腕の中で目を閉じたままのユイに話しかける。怪我を負っていない事が何よりの救いだ。

 山中に停車している白ベンツの横に、静かに着地する。
「待たせたな。連れ戻して来た」

「遅い!いつまで待たせる?待ちくたびれたぞ!」車のボンネットを叩きながら言う。
「申し訳ない。何しろ今回は三匹もいてね……。そんな事より、まだ夜明け前だ。約束は守っただろう?」
「無責任野郎の分際で口答えするな。ユイは無事なんだろうな?」
「鬼の瘴気に当たりすぎた。体力がかなり消耗しているが、命に別状はない」

 ユイの様子を仕切りに確認していたキハラが、左上腕部に当てた手に注目しているのが分かった。
「おい、そこ、ケガしてるんじゃないのか?見せろ!」
「ああ。そこは注射針を刺した場所だ」
 答えると、キハラは無言になった。心の声を聞いてみるとしよう。
――こいつめ、まだ注射嫌いは継続中か!昔も散々わめいてたな……。

 どうやら誤解は解けたらしい。彼女の注射嫌いは有名のようだ。やれやれ!

「ううん……。寒いよ……」
「ユイ、気がついたか。寒いか、済まない。今降ろすよ」
 会話を聞いていたキハラが、車の後部席ドアを開けて促す。「早く乗せろ」
「ありがとうございます」

 車内は暖かかった。微かに煙草の匂いが漂っている。

「さあ、楽な姿勢でいなさい。これでいいか?」
 まだ体の自由が利かない様子の彼女に尋ねる。
「それより、……ここが痛い」注射を打った部位を擦りながら訴えて来る。
「まだ痛いか?しょうがないな……」
 押さえた手を退かし、念のためその部分を確認する。皮膚組織に特に異常はない。
「何もなってない。大丈夫だ」面倒になって言い放つ。

 キハラが車内を覗き込んで言う。「で、ユイは家に帰せる状態か?」
「ここまで脱力しているのは不自然だ。せめて一晩様子を見たい」
「分かった。母君に連絡を入れる」
 機転の利く男だ。テキパキと判断して事を進めてくれるのでとても助かる。

〝もしもしキハラです。渋滞が酷く、どこかで一泊して朝に戻ります。ご心配なく〟
〝……ああ、ユイお嬢さんは疲れて熟睡中ですので……はい、かしこまりました〟

 やや離れた場所で電話するキハラの声が聞こえた。上手く取り繕ってくれたらしい。

 キハラはすぐに戻って来て、運転席に乗り込みエンジンをかけた。
「どこかお前達の泊まれる部屋を探そう。俺は車で寝る」
「ああ。そうしてくれると助かる」
 早くユイをきちんとした場所で休ませてやりたい。俺だけでなくキハラもそう思っているのだろう。タイヤを鳴かせながら峠を下る様子を見ているだけで分かる。

 今の彼の頭の中に怒りはない。ただいつものように、ユイへの強烈な執着があるのみ。
 今ならば言える。俺だって負けないくらい、朝霧ユイの事を想っていると。

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