三十六日間の忘れ物

香澄 翔

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五.想いは突然に

39.手を離さないで

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 僕とひなたは二人で外を歩いていた。

 今日も日差しは強い。しかしその光が今は心地よかった。真夏の空気の中で、クーラーの涼しさよりも、自然の熱の方がずっといいと思ったのは、この瞬間が初めてかもしれない。

 僕とひなたは住宅街の中で、お互いに手をつないで歩いていた。
 ゆっくりと少しずつ。いつもの僕よりも、たぶん半分以下、もしかしたら十分の一くらいの速度だったかもしれない。亀が歩くようゆっくりと進んでいた。

「お願いだから、絶対に手を離さないでね」

 部屋から外に出る時、ひなたは怯えた顔で真剣にそう僕に願った。
 自分の家の階段ですら、おっかなびっくりと歩いていた。一段一段の安全を確かめるように、身体を震わせながら歩いていた。

 ひなたの部屋にいる時に、何度かひなたがトイレに行ったことはあった。だけどここまでおびえていただなんて知らなかった。なかなか戻ってこないひなたに、女性のお手洗いは長いものだからと思っていたけれど、そんな事ではなかったんだ。

 僕はひなたが部屋の外に出た後の振る舞いを見た事がなかった。自分の家の中ですら、こんなにも怖がっている事を知らなかった。そんなひなたにとって、外に出るなんて事は何よりも恐ろしい事なのかもしれない。

 ひなたの手は震えていた。だから手をつないだ事への喜びよりも、僕が支えてあげなくちゃいけないという使命感の方がずっと強かった。

 ひなたの足には特に問題はない。だから歩く事は普通に出来るだろう。
 でも音の無い世界はひなたをずっと苛んでいるのだろう。歌の好きなひなただからこそ世界の音にも敏感で、きっとこうなる前は数々の音が聞こえてきていただろう。僕が聞き落としているような、様々な音をひなたは聞き分けてきたのだと思う。

 だからこそひなたにとって、音の無い世界は今までと完全に様子をかえていて、まるで知らない世界に飛ばされたような衝撃を与えているのだろう。

 だから僕は手を離さないようにしようと思う。ひなたを守るためなんて大仰な事は言えないけれど、これは僕にしか出来ない事だから。

 部屋から出て外にいくんだと聞いたひなたの母親は驚きを隠せなかった。
 そして何度も何度もありがとうと言いながら僕に頭を下げた。だけど本当は僕はひなたを傷つけて悲しませてしまった。だからお礼を言われるような立場ではなかった。

 母親はひなたを強く抱きしめて、それから「いってらっしゃい」と泣き笑いながらひなたを送り出していた。
 それだけでもひなたの母親がひなたをどれだけ愛してるか、僕にも痛いほどにわかる。だけど一緒に行くとは言わなかった。

 きっと僕を信じてくれているのだろう。だから僕はそれに応えたい。
 そしてひなたの音を絶対に取り戻してみせる。

 ひなたと一緒にいるようになって、初めて気がついた事が沢山あった。この世界には数え切れないほど、様々な音が鳴り響いていること。その音を今まで全く気に止めずに生きてきていたこと。
 ひなたが鳥のさえずりを告げて、風の音に耳をかたむけて、波の奏でるリズムで歌を歌った。それがどれだけかけがえのないものなのか、ひなたは僕に教えてくれた。

 ひなたを握る手に、思わず力が入る。
 ひなたはそれに少し驚いた様子を見せたけれど、でも少しだけ笑ってくれた。

 外を歩くことはひなたにとってはかなりの負担になっているようで、少し肩で息をしているように思えた。ときおり辛そうな顔を浮かべる事もあったけれど、それでもひなたは僕に向けて笑顔をふりまいていた。それが何より嬉しかった。

 目的地までは少し距離がある。とはいえバスで一駅くらいで、普段ならバスにのるような場所ではない。だけど今日はそうする事も考えた。その方が安全だし、ひなたも怯えずに済むかもしれないと思った。

 それでも僕は歩く事を選んだ。この夏の町中に溢れる音に、少しでも触れていて欲しいと思った。
 ほとんど言葉を交わさずに、それでもつないだ手だけは離さないで歩く。

 話しかけたとしてもひなたには伝わらない事もあるけれど、それよりも気まずさとうれしさとが同居してどんな言葉を掛ければ良いかわからなかった。そしてそれ以上に町の音を聴いて欲しいと思った。

 つないだ手からはひなたの温度が伝わってくる。夏の暑さもあって汗もつたわってくるけれど、二人の心も少しだけつながったような気もしていた。

 かなりの時間がかかったけれど、何とかいつもの海辺の公園までたどり着いた。
 潮風が心地よく感じた。さすがに夏休み中だけあって、いつもよりも人が多い。たくさんの親子連れが、浜辺で水遊びをしている様子も見られた。

「ついた、ね」

 ひなたはつぶやくように告げる。だけどその声には確かにうれしさがにじみ出していて、それだけでもここに連れてきた甲斐があったとも思う。

「うん。ついた」

 僕はうなづいて、それからノートを探そうとしてはたと気がつく。手をつないだままでは文字を書くことも出来ない。だけどつないだ手を離す事はためらわれて、ひなたへと情けない顔を向けていたと思う。

 ひなたははっきりと笑顔を浮かべて、それから海の方をじっと見つめて、それから大きく息を吸い込んでいた。

「やっほーっ!」

 もう張り裂けんばかり大きな声でひなたは叫ぶ。
 近くにいた人達がみんなこちらを見ていた。たくさんの視線に僕は顔が熱くなるのを感じていた。

 だけどひなたはそんなことは気にせずに、堂々とした様子でにこやかに笑っている。

 ああ、そうだ。これがひなただ。周りのことなんて気にせずに、自分のしたいことをする。大好きなものに、とことんまでまっすくに向かう。僕はそんなひなたに惹かれていたんだ。

 視線を集めていた事については、恥ずかしくてたまらない。だけどそれ以上に僕は嬉しかった。ひなたが戻ってきたことが何よりも嬉しくてたまらなかった。

 いつものひなたが戻ってきていた。いたずらで、突拍子もなくて、だけどいつも笑っていたひなた。
 ずっとおびえているかのように道を歩いていたひなた。震えていたひなた。だけどこの海浜公園についたと同時に、急速にひなたを取り戻していた。

 それだけたくさんの想いがここには残っていたからだろう。ひなたにとってはきっと思い出深い場所。
 僕とひなたが出会った特別な場所だ。
 だから僕にとっても想い出深い場所。
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