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シリーズ盤外戦術
盤外戦術その7 矢倉さんの悩み
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矢倉さんが女流棋士を目指し始めてから、二ヶ月ほど日数が経った。
僕が矢倉さんの様子がおかしいことに気がついたのは、そのころだった。
どういえばいいのかはわからないけど、ため息の数が増えたり、どこか物憂げな表情を見せるようになった。
そういう矢倉さんの雰囲気もそれはそれで独特の空気を醸し出していて、素敵だなとは思うものの。矢倉さんには笑っていてほしいとは思う。
だから思い切って矢倉さんに話をしてみようと思った。
矢倉さんは部活に出る時間はかなり減っていた。今日も矢倉さんは部活には出ないようだ。ただ先輩達も今日は部活には参加しないみたいなので、僕も思いきってさぼることにする。
「矢倉さん、一緒に帰りませんか」
「あ、美濃くん。今日は部活は?」
「さぼりです。今日は先輩達もみんなでないみたいなので、たまには僕も休もうかなって」
「そうなんですね。悪い人ですね」
くすくすと笑みを漏らしている矢倉さんが、でもすぐにどこかいつものような力強さがないことに気がつく。
「矢倉さん、最近何か悩んでいますよね」
おもいきって僕は口にしてみる。
矢倉さんは少しだけ顔を伏せると、ためいきをひとつもらしていた。
「美濃くんには隠し事は出来ませんね」
矢倉さんはすぐにそれをみとめて、どこか切なげに笑う。
「もしかして研修会うまくいっていないんですか?」
矢倉さんの悩みで思いつくのは、やっぱりそこだと思う。
正直僕には研修会がどういうものなのかはわからない。どれくらいの猛者がいるのかもわからない。だけど矢倉さんでも勝てないほどの人がそんなにいるものだろうか。
最近僕はプロ棋士や女流棋士の試合や、実況動画をみたりすることもある。もちろんそれらの人の考えは、僕なんかでは及びもつかないくらいすごい手を繰り出してくる。
だけど矢倉さんだってそれに負けていないと思う。矢倉さんの指す手は、いつも僕の想像を超えてきていた。いくら研修会がすごい人の集まりだといっても、矢倉さんだって負けていないと思う。
「そう……ですね」
ただ矢倉さんはためらいがちに肯定していた。
「強い人がいてぜんぜん勝てないとか?」
僕が思うよりも、研修会はすごいのだろうか。
そう思うものの、矢倉さんはゆっくりと首を振るう。
「……こんなこといったら怒られるかもしれませんけど、今まで対戦してきた方でこの人には勝てないと思うほどの人はいませんでした。……むしろ逆なんです」
矢倉さんは僕から少しだけ顔をそらして、それからもういちどため息をもらす。
「実は私はもうB1クラスにあがっていて、このままB2クラスに落ちずに規定対局数を満たせば女流棋士になること自体は出来るんです」
矢倉さんの言葉に僕はむしろ驚きを隠せない。
確か女流棋士になる条件はB1クラスにあがることだったと思う。つまり矢倉さんはすでに女流棋士になる条件自体はクリアしてしまったようだ。
ただ矢倉さんの場合にはまだ入会してから日が浅いため、ある程度の対局をこなすまでの間はB1をキープしなければならない。
「いままで三十二局対局してきて、負けたのは一度だけです。ですからこのままいけるなら、今月中には条件を満たせると思います」
矢倉さんは誇るべき内容を、でもむしろどこか悲しげな声でつぶやくように答えていた。
「でも……。私はいままでずっと道場や部活でしか将棋を指していませんでした。だから知らなかったんです。将棋を指すことで、あんなに苦しんでいる人がいるって」
矢倉さんは少しずつ僕の話を始めていた。
そしてその言葉で何となく矢倉さんが何に悩んでいるのか、僕にも察することができた。
「私は一回だけ負けました。でも力負けしたというよりも、自滅したっていった方がいいかもしれません。相手はこの対局で負ければ降級確定という試合だったのですけど、途中で泣き出してしまって」
矢倉さんが話し始めたのは、おおむね予想通りの内容だった。
「勝ち残れればまだチャンスがある。でも負ければ年齢的に女流棋士への夢が絶たれる。そんな試合でした。私が勝つということは相手が負けるってこと。それはわかっていたんです。でも泣かれてしまって、それで気が動転してしまいました」
矢倉さんは優しい。とても優しい。それは一人の人間としてみた時には、美徳であると思う。でも勝負の世界の中では、それは時に足かせになる。そういうことなのだろう。
「それで負けるような私は、この先女流棋士になったとしてやっているのかなって。心配になったんです」
矢倉さんは自分が勝つことで相手の夢を絶ってしまうという現実に耐えきれなかった。だから負けてしまった。
でも女流棋士になれば、それは当たり前の話になる。それでも勝つのがプロになるということだ。
「正直、私が負けてしまった彼女からしてみれば贅沢な話なんだと思います。でも私はこのまま女流棋士になっていいのかなって、それが心配なんです。いざという時に勝てない。それじゃあプロになる意味がないですから」
矢倉さんはだから迷っているのだろう。
将棋の世界は強さがすべての世界だ。でも単純に棋力が強ければやっていけるという訳でもないだろう。プロとしての心の強さも試される。
矢倉さんは自分にその強さがあるかどうか。それが心配になっているのだろう。
正直アマチュアの中でも弱い方である僕からは遠い話だ。僕にアドバイス出来ることなんて何もないだろう。
それでも、僕は『矢倉さんの彼氏』として彼女を支えたいと思う。
だから僕は矢倉さんの手をとった。
「これから地元の道場ですよね。僕も一緒にいっちゃいけませんか?」
矢倉さんは僕の提案に驚いたようにして顔を上げる。
「え?」
「正直僕に出来ることなんて何もありません。僕の強さで矢倉さんにしてあげられることなんて何も。でも一緒に将棋を指すことなら出来ます。道場なら一般の人も入れますよね。だから矢倉さんの近くで将棋を指せたらなって。……すみません。でも冷静に考えたら邪魔ですよね」
思いつきでいってしまったことに後悔しつつ、僕は顔を真っ赤に染める。
結局のところ僕が矢倉さんのそばにいたかっただけかもしれない。
「……いえ。かまいません。美濃くんが近くにいてくれるなら、心強いです」
矢倉さんは少しだけ照れたようにはにかんで、そして手をつないだまま歩き始める。
でも矢倉さんの手が震えていることに、僕は気がついていた。
僕が矢倉さんの様子がおかしいことに気がついたのは、そのころだった。
どういえばいいのかはわからないけど、ため息の数が増えたり、どこか物憂げな表情を見せるようになった。
そういう矢倉さんの雰囲気もそれはそれで独特の空気を醸し出していて、素敵だなとは思うものの。矢倉さんには笑っていてほしいとは思う。
だから思い切って矢倉さんに話をしてみようと思った。
矢倉さんは部活に出る時間はかなり減っていた。今日も矢倉さんは部活には出ないようだ。ただ先輩達も今日は部活には参加しないみたいなので、僕も思いきってさぼることにする。
「矢倉さん、一緒に帰りませんか」
「あ、美濃くん。今日は部活は?」
「さぼりです。今日は先輩達もみんなでないみたいなので、たまには僕も休もうかなって」
「そうなんですね。悪い人ですね」
くすくすと笑みを漏らしている矢倉さんが、でもすぐにどこかいつものような力強さがないことに気がつく。
「矢倉さん、最近何か悩んでいますよね」
おもいきって僕は口にしてみる。
矢倉さんは少しだけ顔を伏せると、ためいきをひとつもらしていた。
「美濃くんには隠し事は出来ませんね」
矢倉さんはすぐにそれをみとめて、どこか切なげに笑う。
「もしかして研修会うまくいっていないんですか?」
矢倉さんの悩みで思いつくのは、やっぱりそこだと思う。
正直僕には研修会がどういうものなのかはわからない。どれくらいの猛者がいるのかもわからない。だけど矢倉さんでも勝てないほどの人がそんなにいるものだろうか。
最近僕はプロ棋士や女流棋士の試合や、実況動画をみたりすることもある。もちろんそれらの人の考えは、僕なんかでは及びもつかないくらいすごい手を繰り出してくる。
だけど矢倉さんだってそれに負けていないと思う。矢倉さんの指す手は、いつも僕の想像を超えてきていた。いくら研修会がすごい人の集まりだといっても、矢倉さんだって負けていないと思う。
「そう……ですね」
ただ矢倉さんはためらいがちに肯定していた。
「強い人がいてぜんぜん勝てないとか?」
僕が思うよりも、研修会はすごいのだろうか。
そう思うものの、矢倉さんはゆっくりと首を振るう。
「……こんなこといったら怒られるかもしれませんけど、今まで対戦してきた方でこの人には勝てないと思うほどの人はいませんでした。……むしろ逆なんです」
矢倉さんは僕から少しだけ顔をそらして、それからもういちどため息をもらす。
「実は私はもうB1クラスにあがっていて、このままB2クラスに落ちずに規定対局数を満たせば女流棋士になること自体は出来るんです」
矢倉さんの言葉に僕はむしろ驚きを隠せない。
確か女流棋士になる条件はB1クラスにあがることだったと思う。つまり矢倉さんはすでに女流棋士になる条件自体はクリアしてしまったようだ。
ただ矢倉さんの場合にはまだ入会してから日が浅いため、ある程度の対局をこなすまでの間はB1をキープしなければならない。
「いままで三十二局対局してきて、負けたのは一度だけです。ですからこのままいけるなら、今月中には条件を満たせると思います」
矢倉さんは誇るべき内容を、でもむしろどこか悲しげな声でつぶやくように答えていた。
「でも……。私はいままでずっと道場や部活でしか将棋を指していませんでした。だから知らなかったんです。将棋を指すことで、あんなに苦しんでいる人がいるって」
矢倉さんは少しずつ僕の話を始めていた。
そしてその言葉で何となく矢倉さんが何に悩んでいるのか、僕にも察することができた。
「私は一回だけ負けました。でも力負けしたというよりも、自滅したっていった方がいいかもしれません。相手はこの対局で負ければ降級確定という試合だったのですけど、途中で泣き出してしまって」
矢倉さんが話し始めたのは、おおむね予想通りの内容だった。
「勝ち残れればまだチャンスがある。でも負ければ年齢的に女流棋士への夢が絶たれる。そんな試合でした。私が勝つということは相手が負けるってこと。それはわかっていたんです。でも泣かれてしまって、それで気が動転してしまいました」
矢倉さんは優しい。とても優しい。それは一人の人間としてみた時には、美徳であると思う。でも勝負の世界の中では、それは時に足かせになる。そういうことなのだろう。
「それで負けるような私は、この先女流棋士になったとしてやっているのかなって。心配になったんです」
矢倉さんは自分が勝つことで相手の夢を絶ってしまうという現実に耐えきれなかった。だから負けてしまった。
でも女流棋士になれば、それは当たり前の話になる。それでも勝つのがプロになるということだ。
「正直、私が負けてしまった彼女からしてみれば贅沢な話なんだと思います。でも私はこのまま女流棋士になっていいのかなって、それが心配なんです。いざという時に勝てない。それじゃあプロになる意味がないですから」
矢倉さんはだから迷っているのだろう。
将棋の世界は強さがすべての世界だ。でも単純に棋力が強ければやっていけるという訳でもないだろう。プロとしての心の強さも試される。
矢倉さんは自分にその強さがあるかどうか。それが心配になっているのだろう。
正直アマチュアの中でも弱い方である僕からは遠い話だ。僕にアドバイス出来ることなんて何もないだろう。
それでも、僕は『矢倉さんの彼氏』として彼女を支えたいと思う。
だから僕は矢倉さんの手をとった。
「これから地元の道場ですよね。僕も一緒にいっちゃいけませんか?」
矢倉さんは僕の提案に驚いたようにして顔を上げる。
「え?」
「正直僕に出来ることなんて何もありません。僕の強さで矢倉さんにしてあげられることなんて何も。でも一緒に将棋を指すことなら出来ます。道場なら一般の人も入れますよね。だから矢倉さんの近くで将棋を指せたらなって。……すみません。でも冷静に考えたら邪魔ですよね」
思いつきでいってしまったことに後悔しつつ、僕は顔を真っ赤に染める。
結局のところ僕が矢倉さんのそばにいたかっただけかもしれない。
「……いえ。かまいません。美濃くんが近くにいてくれるなら、心強いです」
矢倉さんは少しだけ照れたようにはにかんで、そして手をつないだまま歩き始める。
でも矢倉さんの手が震えていることに、僕は気がついていた。
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