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第一章 すべてのはじまり

地下室での出会い-1

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 「北村さん。今日はこの案件をまとめてくれたら定時で上がってもらっていいから……」

 「わかりました。これは明日で間に合うんですか?」

 「うん。間に合うよ」

 「わかりました。そうさせて頂きます」

 ここは氷室商事の子会社、氷室文化財団。氷室グループの文化事業をまとめている会社だ。私はそこの会計部秘書をしている四年目のOLだ。

  氷室グループは文化活動を支援している。今は主に美術品を所蔵する美術館や博物館などだ。

 最近は日本のアニメーションなどにも支援をしようと考えているのだ。日本と海外の架け橋になるのがこの会社のポリシーらしい。

 私は、たまたま学生時代にこの会社が支援していた美術館でアルバイトをしていた。それがきっかけでここへ入社を希望したのだ。

 ただ、私は理系で数学専攻だったので数字を見られるところならどこでも良かった。会計部がいいと入社前面接で言ったら希望通り配属になった。

 会計士ではなかったが、数字を見て入力したりするのが大好きだったので、皆が呆れるほど生き生きと仕事をしていた。

 それで何故か役員の畑中専務の秘書にどうだと言われて、どうして私なんですか、と部長に聞いたら、大抵のことは君なら答えられそうだからと言われてしまった。

 会計部のことは大分知り尽くしたところだったので、まあいいかと何も考えず受けてしまった。でも、秘書になってから、大好きな数字から遠ざかり少し後悔している。

 まあ、上司の畑中専務は私にとっては良い上司。私はまだ秘書になって一年だけど、本当に不慣れなのに叱ることもせず私が逃げ出さないように優しくしてくれる。

 専務が部屋から出て、外出の今日午後はゆったり出来る。あと三時間二十五分。私の時間だ。

 そうだ、重要書類を段ボールにわけておかないといけなかった。時間が結局いつも足りなくてなかなかできない。

 今日こそ、専務が外出されている時にこそ片付けよう。あと、二時間でやろうっと。

 タイマーかけちゃおう。ああ、数字が減っていく……見ているだけで楽しい。自分でもかなり変わっていると認識してる。

 頼まれていた案件をまとめ終わり、ようやくファイルを片付けはじめた。

 今日は外出先からこのまま直帰すると先ほど専務から連絡があった。タイマーをかける意味がなくなってしまった。でも分刻みのタイマーを見ているだけで幸せ。

 私は腕まくりをしてから、ロッカーへ戻り、ハイヒールを通勤時につかっているローヒールの靴に替えると、早速溶解予定の書類を段ボールにうつしていく。

 二箱、いや、もう少し残りがあるから頑張ろうとやっていたら、気づいいたらすでに十九時を回っていた。そういえば、タイマーを止めて、かけ直したんだった。

 こういうのって集中すると時間を忘れてしまう。よく、家でも大掃除をすると時間を忘れるのと一緒だ。

 カートを取りに行って、見たことのない男性を見た。誰だろう?ここは一応会計部フロア。知らない人はいない。

 所属役員はその部のすぐ近くにガラス張りの部屋があり、そこが役員室。フロア内にも必ず席がある。

 部長と話している背の高い人。よれよれのスーツに黒縁眼鏡。髪もぼさぼさ。見るからに少しオタクっぽい。

 私が会計部のカートを取りに行ったとき横を通ったら、一瞬目が合った。エレベーターホールのほうへ行ってしまった。

 鋭い目。見た目と中身が違う人?

 ちょっとびっくりした。一応お辞儀をしながら通り過ぎる。

 「ああ、北村さん。まだいたの?今日は専務昼から外出だったのに。ご苦労さんだね」

 部長がにこやかに声をかけてくれた。

 「はい。専務がいないときしか出来ないこともあるので、ちょっと夢中になってたら遅くなりました。さっき、フロアを出て行った男性がいましたが、誰ですか?」

 「ああ、彼は明日から応援で入ることになった鈴木賢人君だ。北村さん、彼は関連会社にいるんだけど、会計士の資格も持っていてね。頼んで監査前に入ってもらったんだ」

 「すごいですね。それは助かりますね、部長」

 部長は嬉しそうに笑った。

 「そうだろ?決算のときも彼にいてもらえたら、僕は相当楽できそうだよ」

 私はもう一度頭を下げてそこを後にした。

 地下へ行こうとしたら、電話がかかってきたので対応していたら遅くなってしまった。

 急いでカートを引いてエレベーターに乗ると地下へ降りた。

 地下の溶解する書類をまとめておいている部屋へ入る。ここは、鍵が必要。

 秘書は皆持たされてるが、各部署は部長から許可証をもらって借りてくるしかない。重要書類も多いので、事前に申請や許可がないとここには入れない。

 新人さんが荷物運びとして使われていることもあるが、彼らはここの意味をあまり知らない。働いているうちに、ここへ来られる人は限られてくる。

 最近この部屋から重要書類を盗まれた事件があってからというもの、警戒して保管方法を変更した。特にここの扱いに気をつけるように役員から秘書宛に通達が来ているのだ。

 あれ?ドアが少し開いている。誰かいるのかな?

 きちんと閉めればロックされる仕組みだ。それにきちんと閉めるように最近は通達がされている。

 重みで勝手に閉まるドアと勘違いしている人がいるが、このドアは押してきちんと閉めないとロックがかからない。途中で離すとこういうふうになるのだ。

 ということは、ここのことをあまり知らない人が中にいるという証拠なのだ。新人さんかな?

 それにしては時間が遅いし、誰だろう?警戒して静かにドアを開けた。

 中からこそこそと話す声がする。え?何?電気も付いてない。でも非常灯のようなものがあって歩くことは出来る。

 これは入らない方がいいかもと第六感がピピッときた。私は荷物を外に置いたまま、ドアを閉めようとしたらはっきりした声が聞こえた。

「いや、まずいよ。これを全部捨てて何かあったときに俺らのせいにされたら困る。一応、部長印があるやつだけ取っておこうぜ」

「前回の契約も他より五千万以上は余計な経費で計上してる。関係する請求書と領収書はどれだ?部長は気付いてないらしいから、とりあえず探してそれだけここに入れて隠しておこう」

 何?何なの?ボソボソと話しているのを他に聞かれたり、私の存在がばれるとまずいと思ったので、とりあえずカートを外のドアから見えないところへ引いて隠した。

 そして、私はまた部屋のドアをそっと開けて、身を中へ滑らせて声のする方へゆっくり歩いて行った。

 靴を変えてきたのが正解だった。音がしない。

「よし、これでいいだろう」

「おい、間違えて捨てないように何か書いておいた方がいいんじゃないか」

「そうだな。これは廃棄しないことって書いておけばいいか。とにかく隠そう」

 ガサガサ音がする。これは絶対やばい案件だ。不正らしき金額を耳にしてこのままではいられない。

 会計部魂で正義感からこの発言の主がだれか確認しようと思い、前へ出ようとした。

 すると大きな手で口を押さえられて、目の前に黒縁眼鏡のボサボサ頭の会計部のフロアですれ違ったあの人が現れた。

 さっき部長が話していた、明日から入る会計士の人だ。人差し指を口の前に立てて『しーっ!』と私に言っている。

 私は驚いたがとりあえずこっくりうなずいた。すると彼は私の口の前の手を離して、しゃがむようにジェスチャーで示した。ふたりで息をのみながらしゃがむと彼が匍匐前進するのでついて行く。

 目の前にはワイシャツ姿の男性ふたりの背中が見えた。ひとりは取り出したファイルを他の箱へ入れて、もうひとりは段ボールの蓋をガムテープで留めている。

 ふたりは仕事が終わるとそろって立ち上がり、出口へ向かっていく。

「おい、鍵しなかったのか?」

「お前知らないのか?ここオートロックなんだよ。外からは鍵がないと開かないけど、うちからは開けられるんだ」

「へえ。そうだったんだ」

「これだから、ずっと営業だったお前はいいよな。ここに荷物運ぶのとかやったことないんだろ?デスクワークの部署は一年目絶対ここで仕事してる」

 そう言いながら二人は出て行った。

 私はふたりの顔が見たくて立ち上がりたかったのに、彼に手を握られて立ち上がれなかった。私達は二人そろって大きなため息をついた。

 お互いで顔を見合わせる。すごい至近距離だった。びっくりした。彼も急いで私の手を離して立ち上がった。


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