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2話

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 八月の終わり、一週間後に行われる学園の入学式の為、ファブリツィオは学園の寮へ戻っていた。

 学園には寮があり、王侯貴族、平民出身の全ての生徒が学園寮に入寮している。 しかし、学園寮は男女合わせても四百人弱しか入寮できない。 五百人弱が通っている学園では、寮の部屋が足りていない。 故に、あぶれた生徒たちは学園の外。 学園都市の中央地区にある宿舎街には、学園が用意した三棟のアパートがある。 主に百人弱の平民出身の生徒がアパートで暮らしている。

 ◇

 学園にある寮は、コの字型で建てられている。 縦の建物の四階は、王族と公爵家の子息が使用している。 八部屋が並んでいる一室がファブリツィオの部屋だ。 二か月弱ぶりに戻って来た寮の自室でソファーに腰かけ、柔らかいクッションへ身を沈める。

 一週間後に迫った入学式の進行を確認する為、鞄に入れていた書類を取り出して広げた。 入学式の書類を眺めながら、心の中は先日の事で頭がいっぱいになっていた。 ファブリツィオの視線が『生徒会長の挨拶』に注がれる。

 生徒会長の挨拶か……面倒くさいな。 挨拶文を考えるのも面倒だ。

 「殿下、何を考えているか分かっていますよ。 面倒くさいなんて思わず、しっかりと務めて下さい」
 「……っ分かっているよ、ちゃんとするから」
 「お夕食までお時間もありますし、お茶でも淹れましょうか?」
 「ああ、頼む。 俺は挨拶文を考える」
 「はい、承知致しました」

 万年筆を握り、メモ用紙をひっかく音が居間に響く。 暫くすると、居間に設置されている簡易キッチンからピエトロが淹れる紅茶の香りが漂う。 学園の寮は、階によって部屋の間取りが異なる。
 四階・三階は一人部屋、二階が二人部屋、一階が三人部屋だ。 二階は伯爵家と子爵家、一階が男爵家と平民出身の生徒が使っている。

 一人部屋には、使用人部屋が付いており、ピエトロはファブリツィオが学園に居る時は、使用人部屋で待機している。 ファブリツィオの部屋は、簡易キッチン付きの居間と寝室、衣装部屋にバス・トイレ・使用人部屋がある一人部屋だ。

 ローテーブルの上へ邪魔にならない様、紅茶カップが静かに置かれる。

 「どうぞ、殿下」
 「ありがとう」

 うん、ピエトロの紅茶はやっぱり美味しいな。 ちゃんと紅茶の香りが立っている。 ん? なんだ? もの凄く視線を感じるぞっ。 ピエトロ……そんなにじっと見られたら、書きにくいだろうっ。

 「な、なんだ? もしかして、文章がおかしいか?」
 「いえ、問題ないですよ。 ただ、学園も始まりましたし、今後どうするのか、ちゃんと考えられたのかと思いまして」

 ピエトロ、いつも直球だな。 カーティアとの事は諦める、というか、始まってもいないけどな。 ただ想いを打ち明けなかっただけだ。 いや、前でよかったのか……何にしてもきっと、兄上の最後通告だろうっ。 分かってるよ、ピエトロの言いたい事はヴァレリアの事だろうっ。

 「……ヴァレリアの事か?」
 「はい、他にどなたが居ると?」
 「……っ」
 「殿下」
 「ちゃんと考えているよ」

 そう言えば、最近はヴァレリアと話をしてないな。 学園に入ってからは特にだ。 ヴァレリアは俺の初恋なんだよな。 初めての恋に夢中で、俺から婚約者にしてくれと父上に言ったんだったっ。

 ファブリツィオがヴァレリアと出逢ったのは、七歳の頃だった。 『婚約者ってどんな子だろう? 可愛い子だといいな』、とファブリツィオは無邪気に考えていた。

 六つの棟を繋げた六角形をしたアルカンジェリ城。 右下の棟は大舞踏会が開かれる大広間や王への謁見の間、要人を迎える応接間がある。 ファブリツィオは幾つかある応接間の一室へ向かっていた。

 婚約者候補の令嬢へ会いに行くのだ。 本日、婚約者をファブリツィオが気に入れば、婚約が成立する。 応接間へ続く廊下を歩いていると、不意に廊下から見える中庭で、挙動不審な様子で歩いている少女を見かけた。

 あれ? あの子何をしているんだろう? 不安そうな表情してる? あ、もしかしなくても迷子かっ! 城は広いものな。 僕でも迷うし、よしっ!

 「ピエトロ」
 「はい、どうされました、殿下」
 「少しだけ、寄り道する」
 「はっ?! 殿下っ、何を言っているんですっ?! 今からご令嬢と顔合わせなのですよっ!」
 「分かっているっ! 後で行くからっ」

 ファブリツィオはピエトロの制止する声を無視して中庭を目指し、駆け出して行った。 背後から追いかけて来るまだ声変わりする前の高いピエトロの声は、徐々に小さくなっていった。 ファブリツィオは中庭に一歩、足を踏み入れる。 中庭で不安げにしていた少女は、大広間の入り口まで来ていた。

 「君どうしたの? もしかして迷子かな?」
 「えっ……」

 青銀の髪が振り返る拍子に、力の反動で靡く。 日差しに反射した青銀の髪は、とても煌めいていた。 涙目で不安に揺れる琥珀の瞳から目が逸らせず、全ての動作がスローモーションの様にファブリツィオの碧眼に映し出された。 目の前の少女に見惚れ、暫く動けないでいた。

 「あ、えと……私、お父様と来たんですけど……中庭に見惚れていたら、お父様と逸れてしまってっ……」
 「君のお父上は城に何の用で来たんだ?」
 
 声も可愛いっ! そうか、父親に連れられて城に来たのかっ! あ、もしかして、彼女が僕の婚約者候補っ?! 絶対にそうだ。 やったっ! こんなに可愛い子なら、もの凄く嬉しいっ!!

 「あ、お父様がお仕事で、伯爵様とお会いになるそうで。 私はお城の図書館を見てみたいと思っていて、無理を言って連れて来てもらったのです」

 父親の仕事という言葉に衝撃を受け、ファブリツィオの頭上に岩が落ちて来た。

 ち、違うのかっ?! 絶対にそうだと思ったんだけどっ……。 もの凄くショックだっ!

 「そ、そうか。 お父上は何処でお仕事を?」
 「……財務の方に御用があると言っておりました」
 「財務か、なら、政務棟だな。 じゃ、僕がっ」
 「殿下っ!!」

 げっ、ピエトロっ!! 追いついて来たのかっ! むぅ、どうする? ピエトロは僕が彼女を案内するって聞いたら、絶対に反対するだろうなっ。 うっ、もの凄く怒っているなっ。

 「殿下、行き成り走り出して、どうされたんです? 早く応接間に行かれませんと、お客様をお待たせしては申し訳ありませんよ」
 「分かっている」
 「殿下、こちらのご令嬢は……」
 「で、殿下……?」

 青銀の髪と琥珀色の瞳の美少女は、『殿下』という言葉に反応し、ファブリツィオとピエトロの顔を交互に見つめた。 ファブリツィオが王子だと理解すると、口を上下に動かし、声にならない息を吐き出した。 血の気を引いた美少女にファブリツィオは笑って優しい声を掛ける。

 「気にしなくていいよ。 僕なんて、第三王子だしね。 スペアでもないし、気楽なもんだよ。 それよりも迷子なんだよね? 僕が案内してあげるよ」

 ん? なんだ、二人とも顔が青くなってるぞっ、本当の事だろう。 僕なんて、居ても居なくてもどっちでもいい位置なんだし。

 「……殿下、七歳児が言う言葉ではありませんっ」
 「でも、本当の事だろう?」
 「……っ」
 「で、殿下とは知らずに不躾な振る舞いを致しましたっ」

 青銀の髪の美少女が慌てて深々と頭を下げて謝罪をしてきた。

 えっ?! 君こそ七歳児じゃないぞっ?! 何だ、その深々とした頭の下げ方はっ?! 膝とおでこが引っ付くんじゃないかっ?! えぇぇ、そんな状態で震えないでぇ……もの凄く悪い事をしてるみたいじゃないかっ。 痛っ! 何、ピエトロっ、わき腹に肘鉄、食らわせないでよっ。
 
 隣で立っているピエトロがそっと耳元で囁く『殿下、彼女はストラーネオ侯爵令嬢です。 顔を上げさせてあげて下さい。 お客様も待たせているのです、ゆっくりと話している時間はありません』と、ピエトロに言われ、事態に気づく。

 周囲の人々、城に仕えている者たちが、ファブリツィオたちを興味深そうに遠目で見ている。

 「あ、ストラーネオ侯爵令嬢。 顔を上げてくれ」
 「はいっ」
 「ぼ、私は怒ってはいない。 道に迷ったのなら、城の者に案内をさせよう」

 本当は僕がしたいけどっ! 僕も客人を待たせているし、仕方ないっ。 誰かに頼むか。

 「誰か、ご令嬢のお父上が訪れている財務所へ、ストラーネオ侯爵令嬢を案内してやってくれ」

 ファブリツィオの指示に、直ぐに近くに居た侍従が駆け寄り、ストラーネオ侯爵令嬢を連れて行った。 侍従に連れられて行く少女の背中をファブリツィオはじっと眺めていた。 ピエトロに促され、大広間の棟へ歩き出したファブリツィオの背中を、少女も後ろ髪を惹かれる様に振り返って見つめていた事には気づかなかった。

 「えっ?! ストラーネオ侯爵令嬢は兄上の婚約者候補なの?」
 「はい、そうですよ。 知らなかったんですか?」
 「……うん」

 六つある城の棟、右上の棟は側室が暮らしている棟で、母親である側妃と第二王子であるオラツィオと一緒に暮らしている。 最上階の六階が側妃の部屋、五階が第二王子の部屋、そして、四階がファブリツィオの部屋だった。 三階は食堂や客室、応接室がある。 二階・一階が使用人部屋と厨房があった。 ファブリツィオは自室の居間で、初恋の君が兄の婚約者候補だと知らされた。

 そっかっ……。 兄上の婚約者候補なんだっ。 あ、ピエトロの顔が沈んでる、僕以上に……。 僕の気持ち筒抜けなのかっ。 いや、止めてっ、うんうんって頷くのっ!

 「マウリツィオ殿下も彼女の事は気に入っている様ですから、お二人の邪魔をしては駄目ですよ」
 「あ、兄上が?」
 「はい」

 なるほど、釘を刺す為に教えてくれたのか。 言われなくても、邪魔はしないよっ!

 邪魔はしないと決めたが、ファブリツィオはヴァレリアの事が忘れられなかった。 ヴァレリアが兄へ会いに来ていると聞くと、密かに隠れてヴァレリアを見に行っていた。 同じ年とは思えない程、ヴァレリアの所作はとても綺麗で、ファブリツィオはいつも見惚れていた。

 「ファブリツィオ、また、兄上の婚約者候補を覗き見しているのか。 そんな植え込みに隠れて……尻が隠れてないぞっ……。 これぞ、頭かくして尻隠さずだなっ」
 「オラツィオ兄上っ!」
 「しっ! 静かにしろっ……兄上が気づくだろう」
 「あっ!」
 「そうだ、そうやって口を塞いでいろ。 全く、気が済んだら帰るぞ。 母上が心配している」

 ファブリツィオは自分の口を塞いでいたので、同じ母を持つオラツィオに高速で頷いた。 母の側妃は、ファブリツィオが第一王子の妃候補であるヴァレリアを奪うのではないかと、心配しているのだ。

 もしかしなくても、僕の気持ちって城中の皆にバレてるっ?! マウリツィオ兄上からヴァレリアを奪う気はないけど……。 それはそれで、もの凄く恥ずかしいっ!

 「二人とも、そんなところで何をしているんだい?」

 マウリツィオ兄上っ! 見つかってはいけない人に、見つかってしまったっ! どうしようっ……。

 「あのっ……」

 オラツィオ兄上、諦めた様に溜息を吐かないで下さいっ! 僕を助けてっ! あ、今、舌打ちしたっ!

 「ファブリツィオ様っ」
 「あ、ヴぁ」

 不味いっ、名前を呼び捨てにするところだった。 心の中では、ずっとヴァレリアってい呼んでいたからっ! 流石に兄上の婚約者候補を呼び捨てにするのは駄目だっ!

 「ストラーネオ侯爵令嬢、久しぶりだね、元気にしていた?」
 「はい、お久しぶりです。 あの節はとてもお世話になりました」
 「もう、迷子になったりしていない?」
 「はい、今は侍女が一緒に来てくれますので」
 「そっか……」

 七歳とは思えない淑女の礼を完璧に決めるヴァレリアに見惚れ、眉尻を下げて微笑みかけるヴァレリアを見て、ファブリツィオの胸が痛くなった。 二人の間には誰にも入れない様な空気が流れていた。

 ◇

 はぁ~っ、どうしたらいいんだろう。 あの時の悲しそうな笑みが忘れられないっ……。

 「やぁ、ファブリツィオ。 君も図書館で自習かい?」
 「マウリツィオ兄上……。 はいっ」

 もしかしなくても前に座る? あ、自然に向かいに座られてしまったっ……。 しかも、とてもいい笑顔だし、目の奥が笑ってないけど……。

 三歳年上のマウリツィオは、御年10歳だ。 マウリツィオは、10歳とは思えない程、聡明で優秀、ファブリツィオと同じ年には実務を行っていた。
 
 「ねぇ、ファブリツィオは婚約者を決めていないそうだね」
 「えと、はい、そうです」
 「それは、ヴァレリア嬢が好きだからかい?」
 「……っ」

 静かな図書館で二人の間に暫し、沈黙が落ちる。 周囲の人は第一王子と第三王子が二人っきりで話している事に、興味深々で遠巻きに見ていたが、王太子の黒い笑みに退散を余儀なくされていた。

 膝の上へ置いた拳を強く握りしめる。 そして、意を決して兄である第一王子を見た。

 「私はヴァレリア嬢の事が好きです。 だから、他の令嬢は要りません」
 
 兄上? 何で、嬉しそうに笑ってるの?

 「そう、なら、君は誓えるかい? 彼女の事を最後まで守り切ると」
 「えっ、どういう意味ですか?」
 「彼女の家は少し、ややこしくてね。 今のストラーネオ侯爵はとても横暴で暴力的だし、野心、溢れる御仁だ。 彼女を王太子妃にしたがっているから、躾の為だと、彼女にはとても厳しいんだ。 王家としてもそんな外戚は要らないしね。 でも、私はヴァレリアの事を捨て置けない」

 そんな話、全く知らなかったっ! あの悲しそうな笑みはもしかして、つらく当たられていて、辛かったからとか?

 「ふふっ、ファブリツィオは意外と鈍感なんだね」
 「え……鈍感? そんな事は初めて言われましたっ」
 「恋愛には鈍感って事だよ。 あの時、ヴァレリアの気持ちが沈んだのは、ファブリツィオにファミリーネームで呼ばれたからだよ」
 「あ、あの時は仕方なくって言うか……。 兄上の前では、じゃなくても影でも名前呼びは駄目でっ」
 「うんそうだね。 ちゃんとけじめをつけないと、周囲からヴァレリアがふしだらな令嬢だと思われるからね」
 「……はい」
 「でもね、分かっていても心は違うんだよ。 今のファブリツィオみたいにね」
 
 今の僕みたいに……。

 「もし、ファブリツィオがヴァレリアを守れると誓うなら、私はヴァレリアを婚約者候補から外す」
 「兄上っ?!」
 「覚悟が決まったら、私に報告してくれる? 直ぐにでも候補から外すから。 いいかい? ヴァレリアの祖父には生半可な気持ちでは勝てないよ」
 「兄上……僕はっ」
 「直ぐに返事はしなくていい。 気持ちが固まったら教えてくれ」

 マウリツィオは手を上げて図書館を出て行った。 ファブリツィオは何が起こったのか分からず、暫し図書館で呆然としていた。
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