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7章 峡谷の異変
84 シャジン峡谷へ
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四ツ谷枢が指示を出した。
「ではシャジン峡谷へ行きなさい。そこで日方と合流してバローの話を聞くんだ。クラブリー、お前は私と一緒に来なさい。」
伊吹がたずねた。
「枢先生はどちらへ?」
「トウィード殿に会う。」
「亜陸兵がトウィード殿を見はっているはずです。連中、大人しく会わせてくれますかね?」
「非常事態だ。こちらの都合を優先させてもらう。」
その言葉に、伊吹がちらっとクラブリーを見た。
「クラブリー、ぼくと交替しないか?」
大男が歯を剥いてわらってみせた。
「おことわりしますだ、伊吹さん。せっかく習ったブドーの技をためしてみるチャンスだからね。」
伊吹は解の手を引くのと反対側の、片側だけで肩をすくめてみせた。
一行は二手にわかれた。
花連と伊吹は解の手を引いたまま、会堂の壁から二メートルばかり離れたところを下へ向かって飛んだ。
会堂の下にある家々の近くをさらに下り、やがて川のそばまで達して、そこから今度は前に向かって進みはじめた。
風が解の顔に吹きつけた。
なまぬるい風だ。
伊吹がつぶやいた。
「ここまで近づけば水音がするね。」
解は下を見た。
暗くて視界がきかないが、たしかに水の流れる音が聞こえた。
それに会堂のなかより空気を冷たく感じた。
水のそばでは高いところより気温が低いようだった。
伊吹が彼自身に問いかけるようにつぶやきをつづけた。
「川の流れが急に減ったんだ。上流に放牧民が集まってきていることと関係があるのかな。」
「行けばわかる。」
花連が短くこたえた。
解はあることを思いだした。
「花連さんはぼくとはじめて会ったときは揚骨を持っていたんですか?」
「持ってた。」
「だったらどうしてあの大きい雑夙を相手にするのに飛ばなかったんですか? 飛んだほうがあいつより高い位置につけたし、そのほうが倒しやすかったんじゃないですか?」
「宙に浮いたままじゃ、力しか使えないから。」
「へ?」
「重力。」
解は目をぱちくりさせた。
「重力?」
伊吹がおもしろそうな声で説明した。
「合気道の投げ技は筋肉じゃなくて重力を利用するんだよ。だから地面に足をつけたほうがだんぜん技が効くんだ。」
「はあ、合気道。」
解はつぶやいた。
花連が習得し、解の目の前であの大きな雑夙を倒したのがどういう武道か、これでわかった。
解も合気道という言葉を聞いたことくらいならあるが、どんな武道なのかさっぱりわからなかった。
花連が不機嫌そうに言った。
「説明するのも面倒。合気道が日本刀を振る動きを基本にしているとか、自分の力を使わないとか、入身投げとか一教とか、日本人でもみんな知らないんだもの。解くんだって知らなかったでしょう。」
どうも花連はこの話のときだけ口数を増やすのをいとわないようだ。
「えーと、はい。ごめんなさい。」
解はつい謝った。
花連はフイっと前を向いた。
「それに揚骨を使うと弱るから。」
「え? 弱る?」
「筋肉。」
花連の言葉がまた短いものにもどってしまった。
伊吹が苦笑した。
「あのね解くん、ぼくら天流衆も地面に足をつけることならできる。ただし地に足をつけたとたんに襲ってくる重力に、ふつうの天流衆は耐えられないんだ。たいていは一歩進むことも無理なんだよ。血流が頭から下へ向かって目まいを起こすし失神する場合もある。年とって足腰が弱った人は地に足をつけるだけで骨折する。」
トウィードにも似たようなことを言われたな、と解は思いだした。
「ええと、はい。」
「ぼくたち天流衆が地徒人から武道をとりいれたのは、一つには鍛錬の方法を体系的に知りたかったからだ。天流衆がいちばんはじめに武道家の地徒人を迎えいれたのはもう百五十年くらい昔のことだよ。大地が引く力に耐える身体を手に入れ、歩くことを可能にするために。」
「はい。」
「でも君たち地徒人はぼくらが何年も鍛錬してようやく可能にする地歩を当たり前にできる。つまり、はじめから重力に耐えて生きている。」
「そうなのかな。」
「揚骨を使って飛べば便利だけど、せっかく生まれ持った大地の力への耐久性が弱くなってしまう。だから枢先生も花連も揚骨をなるべく使わないんだよ。」
「ああ、そうなんですね。」
飛ぶということはとても便利そうに見えるけど、便利なだけではないのだ。
解はそう理解した。
伊吹がニコッとわらった。
「ぼくはこれでも北流に入門して十年だ。ずっと鍛えてきたし、それに君よりぼくのほうが背は高いけど、もし二人で力比べをしたらいい勝負だと思うよ。ぼくは君より軽い。骨も肉も軽いんだ。」
解はさきほどの出会いを思いだした。
「でも、さっき伊吹さんは揚骨を持つ前のぼくを抱えて飛びました。」
「それができるようになるまで十年かかるんだってば。」
ふと解は、伊吹の名前を知ってからずっとふしぎに感じたことを、きいてみた。
「あのー、伊吹さんは天流衆ですよね? 日本人じゃないんですよね?」
「ではシャジン峡谷へ行きなさい。そこで日方と合流してバローの話を聞くんだ。クラブリー、お前は私と一緒に来なさい。」
伊吹がたずねた。
「枢先生はどちらへ?」
「トウィード殿に会う。」
「亜陸兵がトウィード殿を見はっているはずです。連中、大人しく会わせてくれますかね?」
「非常事態だ。こちらの都合を優先させてもらう。」
その言葉に、伊吹がちらっとクラブリーを見た。
「クラブリー、ぼくと交替しないか?」
大男が歯を剥いてわらってみせた。
「おことわりしますだ、伊吹さん。せっかく習ったブドーの技をためしてみるチャンスだからね。」
伊吹は解の手を引くのと反対側の、片側だけで肩をすくめてみせた。
一行は二手にわかれた。
花連と伊吹は解の手を引いたまま、会堂の壁から二メートルばかり離れたところを下へ向かって飛んだ。
会堂の下にある家々の近くをさらに下り、やがて川のそばまで達して、そこから今度は前に向かって進みはじめた。
風が解の顔に吹きつけた。
なまぬるい風だ。
伊吹がつぶやいた。
「ここまで近づけば水音がするね。」
解は下を見た。
暗くて視界がきかないが、たしかに水の流れる音が聞こえた。
それに会堂のなかより空気を冷たく感じた。
水のそばでは高いところより気温が低いようだった。
伊吹が彼自身に問いかけるようにつぶやきをつづけた。
「川の流れが急に減ったんだ。上流に放牧民が集まってきていることと関係があるのかな。」
「行けばわかる。」
花連が短くこたえた。
解はあることを思いだした。
「花連さんはぼくとはじめて会ったときは揚骨を持っていたんですか?」
「持ってた。」
「だったらどうしてあの大きい雑夙を相手にするのに飛ばなかったんですか? 飛んだほうがあいつより高い位置につけたし、そのほうが倒しやすかったんじゃないですか?」
「宙に浮いたままじゃ、力しか使えないから。」
「へ?」
「重力。」
解は目をぱちくりさせた。
「重力?」
伊吹がおもしろそうな声で説明した。
「合気道の投げ技は筋肉じゃなくて重力を利用するんだよ。だから地面に足をつけたほうがだんぜん技が効くんだ。」
「はあ、合気道。」
解はつぶやいた。
花連が習得し、解の目の前であの大きな雑夙を倒したのがどういう武道か、これでわかった。
解も合気道という言葉を聞いたことくらいならあるが、どんな武道なのかさっぱりわからなかった。
花連が不機嫌そうに言った。
「説明するのも面倒。合気道が日本刀を振る動きを基本にしているとか、自分の力を使わないとか、入身投げとか一教とか、日本人でもみんな知らないんだもの。解くんだって知らなかったでしょう。」
どうも花連はこの話のときだけ口数を増やすのをいとわないようだ。
「えーと、はい。ごめんなさい。」
解はつい謝った。
花連はフイっと前を向いた。
「それに揚骨を使うと弱るから。」
「え? 弱る?」
「筋肉。」
花連の言葉がまた短いものにもどってしまった。
伊吹が苦笑した。
「あのね解くん、ぼくら天流衆も地面に足をつけることならできる。ただし地に足をつけたとたんに襲ってくる重力に、ふつうの天流衆は耐えられないんだ。たいていは一歩進むことも無理なんだよ。血流が頭から下へ向かって目まいを起こすし失神する場合もある。年とって足腰が弱った人は地に足をつけるだけで骨折する。」
トウィードにも似たようなことを言われたな、と解は思いだした。
「ええと、はい。」
「ぼくたち天流衆が地徒人から武道をとりいれたのは、一つには鍛錬の方法を体系的に知りたかったからだ。天流衆がいちばんはじめに武道家の地徒人を迎えいれたのはもう百五十年くらい昔のことだよ。大地が引く力に耐える身体を手に入れ、歩くことを可能にするために。」
「はい。」
「でも君たち地徒人はぼくらが何年も鍛錬してようやく可能にする地歩を当たり前にできる。つまり、はじめから重力に耐えて生きている。」
「そうなのかな。」
「揚骨を使って飛べば便利だけど、せっかく生まれ持った大地の力への耐久性が弱くなってしまう。だから枢先生も花連も揚骨をなるべく使わないんだよ。」
「ああ、そうなんですね。」
飛ぶということはとても便利そうに見えるけど、便利なだけではないのだ。
解はそう理解した。
伊吹がニコッとわらった。
「ぼくはこれでも北流に入門して十年だ。ずっと鍛えてきたし、それに君よりぼくのほうが背は高いけど、もし二人で力比べをしたらいい勝負だと思うよ。ぼくは君より軽い。骨も肉も軽いんだ。」
解はさきほどの出会いを思いだした。
「でも、さっき伊吹さんは揚骨を持つ前のぼくを抱えて飛びました。」
「それができるようになるまで十年かかるんだってば。」
ふと解は、伊吹の名前を知ってからずっとふしぎに感じたことを、きいてみた。
「あのー、伊吹さんは天流衆ですよね? 日本人じゃないんですよね?」
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