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7章 峡谷の異変
85 夜明けが露わにしたもの
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「だったらどうして日本人みたいな名前なんですか?」
「ああ。」
伊吹がわらった。
うれしそうな笑顔だった。
「ぼくら使は修行をかさねて昇段するときに、黒帯と一緒に新しい名前をもらうんだよ。いままでとはちがう新しい人生のはじまりの印だ。ぼくの名前は枢先生に選んでいただいた。」
「へえー。」
解は首をかしげた。
「じゃあ、本当の、ええと、生まれたときからの名前はべつなんですか。」
「そうだよ。一人前の使になるとそっちの名前は滅多に使わないね。」
そっちの名前を聞いてみたい気もしたが、解はそれを口にだしてたずねるのはやめた。
なんとなくだ。
それから解は、解を抱えて飛んだ天流衆がもう一人いたことを思いだした。
トウィードの話をすると伊吹が顔を輝かせた。
「そりゃすごい、さすがアシファット族の長だね。」
トウィードのことを、解は考えた。
解が閉じこめられたあいだ彼もおなじだったとしたら、あのせっかちな男にとってはずいぶん苦痛だったことだろう。
四ツ谷枢はいまごろトウィードに会っているのだろうか。
それにタン。
あの怠け者はどうしているのだろう。
なんとなく話がとぎれた。
一行はだまって飛びつづけた。
解はふと意識がゆるみ、次の瞬間にハッとなった。
伊吹がほほえんだ。
「解くん、そのまま眠れるなら少しでも眠るといい。」
「でも。」
「起きていても眠っても僕らが君の手を引くのに使う力はおなじだから、大丈夫。」
「でもぼくだけ眠るのは悪いです。」
花連が短く、
「子どもは寝る時間。」
と言った。
なんだよ、と解は思った。
花連さんだって未成年じゃないか、と一瞬思って、しかしそのまま黙りこんだ。
決めつけるような花連の声はそっけなかったが、ほんの少しだけ解への気づかいを含んでいた。
そう、ほんの少しだけ。
なにしろ解はあの狭い室に閉じこめられているあいだ子どもでいることを考慮されなかったのだ。
解自身だって忘れていたほどだ。
この瞬間だけ解は子どもにもどった。
花連がもどした。
花連のそっけない気づかいが解を包み、そのおかげでまるでなにかに吸いこまれるようにして解の意識はふたたびゆるんでいった。
解が目覚めたとき、空は深い暗闇からすみれのような色へ変わりはじめたところだった。
夏のはじめの夜明けだ。目を上へ向けるとまだ星が見えた。
解はあたりを見まわした。
景色はぼんやりとした影に見えたが、それでもモノのかたちくらいは判別できた。
閉じこめられて見慣れたツキクサ大峡谷よりも川幅が狭い。
峡谷の断崖と断崖が接近している。
解は川を見おろした。
よく澄んだ水が流れているが、ところどころ川肌が露出している。
水が少ないのだ。
解が目覚めたことに気づいたのか、伊吹が声をかけた。
「おはよう解くん。いまシャジン峡谷までの道のりの半分くらいまで来たよ。」
解は顔に風が強くあたるのに気づいた。
会堂を出てすぐ、眠る前よりもずっと速いスピードで飛んでいるのだ。
解は伊吹を見あげた。
それに気づいたためか伊吹が解を見おろした。
スピードはそのままだ。
「ついさっき日方というおなじ北流の四使から、また伝話貝で連絡があったんだ。ぼくらはいそいだほうがいいということになった。」
「なにがあったんですか?」
「日方がバローをつかまえて話を聞くことができた。バローは、いやバローに限らずアシファット族はトウィード族長をとりもどすために集合しているわけじゃない。」
「なにがあったんですか?」
解はおなじ質問をくり返した。
伊吹がそれにこたえようとしたとき、解は、ハッと顔を前に向けた。
ドオオーン、と低い音がした。
その音は長く響いた。
解は集中して耳をすませた。
しばらくしてまたおなじ音がした。
伊吹が怪訝な顔をした。
「あれはなんの音だろう。変だな、ツキクサ大峡谷からシャジン峡谷までのあいだに人が住む町はないはずだけど。」
解は進む先を見つめた。
「あそこ!」
花連が短く言った。
いつものそっけなさよりもずっとするどさを含んだ、斬りつけるような声だ。
解は花連の視線の先を見た。
花連のいる側、右側の断崖の進行方向を。
空が白みはじめた。それにつれて視界が効くようになった。
断崖の上でなにかが動いている。
その動くもののまわりに小さな影がたくさん飛びまわっている。
解は目をこらした。
そして小さな影は、遠く離れた距離のために小さく見えるだけであることに気づいた。
それは人影だった。
たくさんの天流衆が飛んでいる。
「アシファット族だ。」
伊吹がつぶやいた。
「あれは――。」
そのとき断崖の上からなにかが落下した。
人よりずっと大きい。そのなにかは断崖を転げおちてゆっくりと川底に向かった。
解は目を丸くした。
「岩?」
人の大きさと比較するとずいぶん大きな岩だ。
人が小さく見え、その反対に岩が大きく見えるために、解の目にはその両方が変に見えたほどだ。
コバルトブルーの岩。
断崖をかたちづくる岩石だ。
そんな大岩がときどき断崖にぶつかり、はずみで青い岩石が削れて砂礫となり、それらがぜんぶ一緒に落ちていく。
ドオオーン、と音がした。
あれは大岩が川底に衝突する音だったのだ。
「ああ。」
伊吹がわらった。
うれしそうな笑顔だった。
「ぼくら使は修行をかさねて昇段するときに、黒帯と一緒に新しい名前をもらうんだよ。いままでとはちがう新しい人生のはじまりの印だ。ぼくの名前は枢先生に選んでいただいた。」
「へえー。」
解は首をかしげた。
「じゃあ、本当の、ええと、生まれたときからの名前はべつなんですか。」
「そうだよ。一人前の使になるとそっちの名前は滅多に使わないね。」
そっちの名前を聞いてみたい気もしたが、解はそれを口にだしてたずねるのはやめた。
なんとなくだ。
それから解は、解を抱えて飛んだ天流衆がもう一人いたことを思いだした。
トウィードの話をすると伊吹が顔を輝かせた。
「そりゃすごい、さすがアシファット族の長だね。」
トウィードのことを、解は考えた。
解が閉じこめられたあいだ彼もおなじだったとしたら、あのせっかちな男にとってはずいぶん苦痛だったことだろう。
四ツ谷枢はいまごろトウィードに会っているのだろうか。
それにタン。
あの怠け者はどうしているのだろう。
なんとなく話がとぎれた。
一行はだまって飛びつづけた。
解はふと意識がゆるみ、次の瞬間にハッとなった。
伊吹がほほえんだ。
「解くん、そのまま眠れるなら少しでも眠るといい。」
「でも。」
「起きていても眠っても僕らが君の手を引くのに使う力はおなじだから、大丈夫。」
「でもぼくだけ眠るのは悪いです。」
花連が短く、
「子どもは寝る時間。」
と言った。
なんだよ、と解は思った。
花連さんだって未成年じゃないか、と一瞬思って、しかしそのまま黙りこんだ。
決めつけるような花連の声はそっけなかったが、ほんの少しだけ解への気づかいを含んでいた。
そう、ほんの少しだけ。
なにしろ解はあの狭い室に閉じこめられているあいだ子どもでいることを考慮されなかったのだ。
解自身だって忘れていたほどだ。
この瞬間だけ解は子どもにもどった。
花連がもどした。
花連のそっけない気づかいが解を包み、そのおかげでまるでなにかに吸いこまれるようにして解の意識はふたたびゆるんでいった。
解が目覚めたとき、空は深い暗闇からすみれのような色へ変わりはじめたところだった。
夏のはじめの夜明けだ。目を上へ向けるとまだ星が見えた。
解はあたりを見まわした。
景色はぼんやりとした影に見えたが、それでもモノのかたちくらいは判別できた。
閉じこめられて見慣れたツキクサ大峡谷よりも川幅が狭い。
峡谷の断崖と断崖が接近している。
解は川を見おろした。
よく澄んだ水が流れているが、ところどころ川肌が露出している。
水が少ないのだ。
解が目覚めたことに気づいたのか、伊吹が声をかけた。
「おはよう解くん。いまシャジン峡谷までの道のりの半分くらいまで来たよ。」
解は顔に風が強くあたるのに気づいた。
会堂を出てすぐ、眠る前よりもずっと速いスピードで飛んでいるのだ。
解は伊吹を見あげた。
それに気づいたためか伊吹が解を見おろした。
スピードはそのままだ。
「ついさっき日方というおなじ北流の四使から、また伝話貝で連絡があったんだ。ぼくらはいそいだほうがいいということになった。」
「なにがあったんですか?」
「日方がバローをつかまえて話を聞くことができた。バローは、いやバローに限らずアシファット族はトウィード族長をとりもどすために集合しているわけじゃない。」
「なにがあったんですか?」
解はおなじ質問をくり返した。
伊吹がそれにこたえようとしたとき、解は、ハッと顔を前に向けた。
ドオオーン、と低い音がした。
その音は長く響いた。
解は集中して耳をすませた。
しばらくしてまたおなじ音がした。
伊吹が怪訝な顔をした。
「あれはなんの音だろう。変だな、ツキクサ大峡谷からシャジン峡谷までのあいだに人が住む町はないはずだけど。」
解は進む先を見つめた。
「あそこ!」
花連が短く言った。
いつものそっけなさよりもずっとするどさを含んだ、斬りつけるような声だ。
解は花連の視線の先を見た。
花連のいる側、右側の断崖の進行方向を。
空が白みはじめた。それにつれて視界が効くようになった。
断崖の上でなにかが動いている。
その動くもののまわりに小さな影がたくさん飛びまわっている。
解は目をこらした。
そして小さな影は、遠く離れた距離のために小さく見えるだけであることに気づいた。
それは人影だった。
たくさんの天流衆が飛んでいる。
「アシファット族だ。」
伊吹がつぶやいた。
「あれは――。」
そのとき断崖の上からなにかが落下した。
人よりずっと大きい。そのなにかは断崖を転げおちてゆっくりと川底に向かった。
解は目を丸くした。
「岩?」
人の大きさと比較するとずいぶん大きな岩だ。
人が小さく見え、その反対に岩が大きく見えるために、解の目にはその両方が変に見えたほどだ。
コバルトブルーの岩。
断崖をかたちづくる岩石だ。
そんな大岩がときどき断崖にぶつかり、はずみで青い岩石が削れて砂礫となり、それらがぜんぶ一緒に落ちていく。
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あれは大岩が川底に衝突する音だったのだ。
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