キングの怒り

皆中明

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清水田学園のキング

温田見厚

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 新学期初日という日であるとはいえ、それは清水田学園のいつも通りの朝の光景だった。
 しかし、それはある騒ぎをきっかけに一変することになる。

 生徒が校庭に見当たらなくなったことを確認し、市岡と才見が職員室へと戻ろうとしていたところへ、一人の女子生徒が近づいて来た。酷く慌てた様子で、どこか思い詰めたような表情をしている。

「先生!」

 教室から走って来たのだろうか、息を切らしているその生徒は、市岡の着古したスーツの袖を掴んで肩で息をしている。絶対に離すものかという気迫を感じたのか、市岡は一瞬顔を強張らせた。

「ど、どうかしましたか?」

「あの、あつしが……温田見ぬくたみくんがまだ登校してません。いつも誰よりも早く教室に入るんです。それなのに、まだ来てません。校庭で見かけませんでしたか?」

 普段なら誰よりも早く登校しているはずの、真面目で知られている温田見厚ぬくたみあつしという生徒が登校して来ないと言って、クラスメイトで元恋人でもある小野結梨おのゆうりが市岡の体を揺さぶるほどの勢いで騒いでいた。

「ちょ、ちょっと落ち着きましょうか。えっと、温田見くんね……。いや、僕は見かけてないよ。才見先生は?」

「温田見くんって、三組の温田見くんですか? いえ、見ていませんけれど……」

 外泊していない限り、生徒は全員職員の前を通って登校する事になるこの学校で、朝から行方が分からなくなる事など、あり得ないことだ。

 閉鎖された空間では、この程度の事でも大問題扱いになる。この学園は、とにかく教師が自分の評価を気にする者ばかりいる。面倒ごとは、他人に押し付けてでも早々に解決したいと思っている者が殆どだろう。

 ちょうどそこへ、騒ぎを聞きつけた教頭が市岡のもとへとやって来た。市岡はその姿を見ると、反射的に目を逸らす。これから自分に言われる言葉に予想がついているからだ。

「市岡くん、その件で始業式前にちょっとお願いしたいんだが。寮の方を見て来てくれないか。寮監が寮棟内を探してくれているから、君は校舎から寮棟までの登校ルートを見て来てくれ」

 面倒ごとは必ずと言っていいほど市岡が引き受ける事になっている。命じてくるのはいつも教頭だ。

「——はい、わかりました。温田見くんがサボるなんて事は無いでしょうから、何かあったのかもしれませんね。すぐに行って参ります」

 挨拶を繰り返して掠れていた声を絞り出し、教頭へそう答えると、市岡はすぐに踵を返した。素直に指示に従う彼に向かって、教頭は侮蔑の表情を浮かべながらふんと鼻を鳴らす。

「役に立たないのだから、雑務くらいするんだな」

 ドタバタと走る不器用な背中に向かって、そう吐き捨てる。周囲はそれを耳にしても、誰もとやかくいう事はない。それは、教頭を恐れているからではない。実際に市岡が彼らの足を引っ張ることが多いからだ。

 市岡は教育熱心な教師だ。三十分以上立ちっぱなして生徒に声をかけ続け、ようやく座れるかと思った矢先に仕事を押し付けられたとしても、それを文句ひとつ言わずにやり遂げるような実直な男でもある。
 
「温田見くーん。授業始まっちゃうよー」

 上司からの覚えは決してめでたく無い市岡も、こののんびりとした口調と穏やかな人柄で、生徒には絶大な人気を誇る。そんな彼は、やる気と押しの弱さに漬け込まれてしまい、今年度も三年生の学年主任を押し付けられていた。

 人気があっても担任を持たせるには心許ないということで、数年前から担任は持たせられていない。しかし、学年主任という立場上、三年生の生徒と関わる機会はそれなりにあって、温田見がどういう生徒なのかは、市岡もよく知っていた。

 温田見厚は間違っても無断欠席するようなタイプでは無いし、そもそもこの学校で無断欠席をしても、寮にいればすぐにバレてしまう。

 届も無しに外出などしようものなら即停学になってしまうため、大学部へ進むであろう三年生の彼がそんな愚行を働くとは到底思えなかった。

——おそらく病欠の連絡を入れ忘れているのだろう。

 それが市岡の見立てだった。

「温田見くーん」

 それでも探せと言われたからには、ポーズだとしても捜索のフリくらいはしなくてはならない。市岡は、校舎と寮棟を繋ぐ通路を通り、第二寮と第三寮の間にある通路へと入った。

 そして、第三寮の最奥にある時計塔へと向かう。校内でサボっている生徒がいるとすれば、時計塔にいることが定番だからだ。

「あー、出来ればここには近づきたく無いんだけどなあ……。教頭先生もわかってて僕に頼んでるよね、きっと……」

 そう独言ながらも、なんとか中へ入ろうと階段室のドアノブへ手をかけた。あまり良い思い出の無いこの場所へ立ち入ることを考えると、手が彼の意思を無視して小刻みに震える。

 それでもここに生徒がいるのであれば、その安全を確保しないといけない。そう思って覚悟を決め、その扉を開けようとした。

 その時、ふと目の端に紺色の物体が転がっているのが目に入った。

「カバンだ。教科書、参考書と……。あ、温田見くんのものだ」

 始業式である今日は、授業は行われない。寮も目と鼻の先にあるにも関わらず、しっかりと勉強道具を持って来ているあたりは、優等生である温田見らしい。

 しかし、そんな真面目な彼が、なぜカバンをこんな所に放ったままにしているのだろうかと市岡は訝しんだ。

 そして、そのカバンを脇に抱えた時だった。

 無人の第三寮の建物の向こう側、隣接する職員用の駐車場との間にある通路の方に、大きな影が動いていくのが見えた。しかし、その場所には影を落とすようなものは何もない。

「なんだ、あの影……」

 そう呟いて顔を上げた。
 そして、市岡はがらんとした空き部屋のガラス窓の向こう側に、ゆらりと何かが揺れるのを見つけた。さらにはその側に見えたものに、驚愕して手にしていたカバンを思わず落とし、叫び声を上げてしまう。

「ぬっ、温田見くんっ!」

 屋上にいたのであろう彼の姿が、そこからすうっと降って来た。その全貌が市岡の目に映った時、彼は戦慄を覚えた。

「あっ……そんなっ!」

 飛び降りる温田見の側にいたもの。それは、その彼に手を差し伸べて微笑む「時計塔の千夜」だった。

 千夜に誘い込まれるように落ちて行くその表情は、心の底から幸せそうに笑っている。まるでそうすることに一欠片の迷いもないかのような、まっすぐな喜びを秘めた目をしていた。

 三階建とはいえ、屋上だ。そこから落ちれば無事ではいられないことくらい、温田見にはわかるだろう。それなのに、そうしたくて堪らないといった表情で、彼は落ちていったのだ。
 
 ラグビーをしていた温田見の大きな体が、腕を伸ばして千夜の手を取ろうとするかのように、何もない空間へと伸びていた。

 ちょうど体育館側から昇った朝日に時計塔が照らされ始める時刻で、温田見と千夜の姿はまるで何かの絵画を見ているような幻想的な雰囲気を醸し出していた。

 市岡は、迂闊にも一瞬その美しさに目を奪われてしまった。言葉を発することも出来ずに、ただ二人を見ていたのだ。自分が立っている入り口とは反対、三階の部屋の窓から一階の部屋の窓に至るまで、ただ眺めてしまった。

 そして、そのままゆっくりと落下していく温田見を見ているだけの自分に気がついた頃には、絶望した彼は目を覆ってしゃがみ込むことしか出来なくなっていた。

「わあああああ!」

 温田見は、そのまま通路の上へと落ちた。第三寮と駐車場の間の通路は、舗装されていない。土の上に落ちた人間が叩きつけられる音は鈍く重く、それが耳に届くとともに市岡は総毛だった。

「お、落ちた? 落ちたよね、今……。温田見くん……温田見くんがっ……」

 震える体もそのままに、市岡はただ独言ることしか出来ない。落ちて行く二人を見た頭は、混乱を極めていた。

「どうしよう、い、行かないと。ちゃんと確認……。でも……」

 本来の市岡の性格ならば、おそらく死に物狂いで駆け寄って、何かしらの声かけをしようとするだろう。
 だが、彼にはそれは出来なかった。必死に足を動かそうとしても、その場を動くことができずにいた。

「並木くん……」

 そこにあの「時計塔の千夜」がからんでいる、それが市岡にとっては何よりも大きな問題だった。
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